第21話 名前のない推論
紙は返ってこなかった。
前夜、彼女が意図のないふりをして残した一枚。
書かれていない、ただ四隅にわずかな圧をつけただけの白紙。
朝になっても机の上にはなく、床にも落ちていなかった。
引き出しを開けたが、乱された様子はなかった。
リリアは椅子に座ったまま、窓の隙間から吹き込む空気を感じ取ろうとした。
風はないのに、部屋の温度が昨日より低い。
「レア、紙は?」
「確認しました。……戻されていません」
リリアはそれ以上、言葉を足さなかった。
返ってこなかったという事実は、“意図を受け取らなかった”のか、
あるいは、“受け取ったうえで返す必要を感じなかった”のか。
どちらでもよかった。
大事なのは、それが“見られていなかった痕跡”ではないこと。
机の上に置いたままにしていたペンが、
昨日と逆向きに回されていた。
その程度の“ズレ”に気づくのは、自分が過敏すぎるせいかもしれなかった。
けれど、それは誰かの“読み”の中に先に置かれていたような感覚だった。
「……もう、観察されることを演じるのは、限界かもね」
レアは何も答えなかった。
ただ、扉のほうへ一度だけ視線を投げた。
リリアはその沈黙を見逃さなかった。
視線が動くということは、そこに“誰かが見ていることを知っている”ということ。
自分が書かなかった一文が、別の誰かの書き出しになっている。
そんな感覚が、背中の内側をなぞっていく。
記録とは、誰かが読まれるために置いたものではない。
──それが“読まれている”と気づいた瞬間から、意味が生まれてしまうだけ。
ペンを取る。
けれど、インクは使わない。
今日は、“字を書くふりすらしない”。
空白のまま、視線だけを、誰かに預けてみる。
午前の応接間は、椅子の角度さえ記憶と異なっていた。
リリアは扉を開けた瞬間に、それを理解した。
誰かが昨日と同じ配置に戻したつもりで、微かにずれた。
正確ではない。
だが、それが「自分ではない誰かの手による整頓」であることだけは確かだった。
彼女は椅子を直さなかった。
ずれたまま、そこに腰を下ろす。
カップは空。茶葉の匂いも消えている。
それでも、その場に“昨日のように振る舞うこと”で誰かの記憶に触れようとする。
「……あなたが“これ”を読んでるなら、そろそろ返事がほしい」
独り言ではなかった。
けれど、返事は来ない。
空気が密になっただけだった。
リリアは懐から紙片を一枚取り出す。
昨日折った白紙ではない。今朝、意図的に形を整えた、“誰かが開きたくなる紙”。
中には何も書いていない。だが、折り目の位置が微妙に傾いている。
受け取った者が“意味を読み取ろうとした瞬間”、そこに意味が宿る。
机の端に置いた。わざと半分だけはみ出させる。
風が吹けば落ちる。誰かが触れれば残る。
それは“痕”を残すためだけの配置だった。
「レア、……今日、誰か訪ねてくる予定は?」
「公式にはありません。ただ、書簡が一通、届いています」
差し出された封筒は、見慣れたものでなかった。
封蝋が使われておらず、折り目の数が多い。
封を切ると、紙のにおいがした。
湿り気が抜けきっておらず、どこか肌に貼りつく感覚が残る。
文面は、無名だった。
──“あなたが“私”だと思っているものは、ただの予測です”
リリアは読み終える前に紙を伏せた。
何も答えたくなかった。
それでも、その言葉が“自分の出した問い”に対する“それなりの返事”であることだけは、わかってしまった。
紙を伏せたあと、リリアはすぐには動かなかった。
何かを読んだ直後に行動すること──
それは「読まれたことを受け入れた」という痕になる。
だから、しばらく動かない。
指先だけをわずかに沈め、紙の端を滑らせて机の隅へ送る。
レアは何も言わなかった。
ただ視線が一度だけ、扉の方へ逸れた。
誰かがこちらを見ているのか。
それとも、自分たちの“見せる動き”が、今、誰かに届いたのか。
リリアは席を立つ。
「今日の午後、庭に出る。……整備が終わっていない方のほうへ」
それは、決定ではなく予告だった。
聞いていた者だけが、先に用意できる行動。
「それ、“誰か”に伝わると思っているのですか?」
「ううん。……“誰かが伝わったと思う”なら、それでいい」
扉を開けて出ていく。
誰にも言わなかったが、歩数を三歩増やした。
いつもより右に一歩寄る。階段の降り口で足音を一つ強く打つ。
“記録者がいる”という前提の下で、自分の輪郭を揺らす。
植え込みの陰で止まる。
草がわずかに踏まれていた。けれど、それは昨日のものかもしれなかった。
確証はない。だが、記憶には引っかかる。
“昨日のわたし”が、そこを通った可能性はない。
ならば、それは“誰かが昨日の私を模倣した痕”か──
リリアは立ち止まったまま、足元を見た。
地面の乾いた粒が、かすかに偏っていた。
その偏りに意味を感じる自分自身が、すでに“誰かに読まれている”ように思えた。
視線を上げる。
木陰の中で、何かが動いた気がした。
それが生き物か、風か、ただの錯覚かは分からない。
だが、その“不確かさ”こそが、次の手が届く場所のはずだった。
この日、リリアは“問いに対する返答”を明確に受け取ったわけではなかった。
けれど彼女の中で、“名前のない推論”がひとつ、形を持ち始めていた。




