第2話 仮面の微笑
王太子からのお茶会の誘いは、あまりに唐突だった。
「ご機嫌いかがでしょうか、リリア様。お体の快復を祝し、ささやかな茶会を開きたく存じます」
美しい筆跡で綴られた手紙の文面は、何ひとつ変わっていなかった。
──あの日と、まるで同じだった。
記憶が疼いた。
この手紙を受け取ったのは、あの時も春の終わり頃だった。リリアは断れずに出席し、その場で婚約解消を突きつけられたのだ。
理由は、妹セシリアへの王子の“純粋な愛”。
「……まったく。冗談みたいね」
手紙をたたむ手に、無意識のうちに力がこもる。
戻ってきた時間は残酷なほど忠実に、同じ脚本をなぞろうとしていた。
「リリア様、お召し物はいかがなさいますか?」
レアが静かに尋ねる。
いつも通りの柔らかい声音。だがその問いかけは、過去に存在しなかったものだった。
「……選んで。あなたの目で」
「はい、かしこまりました」
そう言ってレアが並べたドレスの中に、リリアは見覚えのない一着を見つけた。
淡い藍色。どこか“影”を思わせる深さ。
おそらく、前の人生では選ばなかった色だ。
「それにするわ」
リリアがそう言うと、レアは一瞬だけ何かを感じ取ったようにまばたいた。けれど、やはり何も言わなかった。
鏡の前に立つと、そこには見慣れた顔が映っていた。
ただ一つ違っていたのは、その瞳に浮かぶ“薄い怒り”だった。
「今日は、遊びに行くわけじゃない」
あの日のように、ただ傷つけられるための舞台にはしない。
今度は違う。
今度こそ、自分で物語を動かす番だ。
王宮の茶会の庭は、相変わらず過剰なほど整っていた。
剪定された白薔薇のアーチ。選び抜かれた陶器と金細工のティーセット。香り高い紅茶に浮かぶのは、花びらに見立てた氷菓子。
すべてが“優雅なもてなし”であることを証明するために用意されている。
けれどリリアは知っていた。
この庭は、ただの見世物小屋にすぎない。
王子が“愛した令嬢”を誰にするか、選別するための舞台だった。
「リリア。ご無事で何よりです」
声の主は、王太子ユリアン。
相変わらずの整った顔と、抑揚の少ない話し方。けれどその笑顔の裏にある“計算”を、今のリリアは見逃さなかった。
「ご招待、ありがとうございます。お心遣いに感謝いたしますわ」
完璧な笑顔で応じながらも、腹の底では冷めきった感情が渦巻いていた。
──この人は、この場所で、わたしを見捨てた。
それが真実だった。
「……それにしても、今日はもう一人、嬉しいお客様がいらっしゃるのです」
ユリアンが言った瞬間、足音が近づく。
リリアの視線が、ゆっくりと音の方へ向かう。
「お姉さま……お久しぶりです」
セシリアがいた。
白いドレス。緩やかな巻き髪。季節に合わせた藤色の宝石。
そして、誰もが愛さずにはいられない“笑顔”。
リリアの肺が、一瞬だけ動きを止めた。
──この笑顔が、人を殺す。
前の人生で、何人の人間がこの微笑に騙されたか。
セシリアは決して嘘をつかない。ただ、真実を隠すだけだった。
「体調はいかがですか? ずっと心配しておりましたのよ」
その言葉の裏には、何一つ“心配”などなかった。
リリアは知っている。
この妹は、最初から“王子の寵愛を得る”ために、姉を切り捨てることを厭わなかった。
「ありがとう。……あなたのおかげで、こうして立ち直ることができましたわ」
リリアの口元に、ゆるやかな弧が浮かぶ。
それは、仮面の返礼。
そして、復讐の始まりだった。
ティーカップの縁に、薄く口紅の跡が残った。
ユリアンは紅茶を口にしながら、リリアとセシリアを交互に見ていた。
その目は、獲物を見定める狩人のものだ。
だが前世のリリアは、それに気づかなかった。
ユリアンの無関心そうな仕草に、好意を探しては自分を欺いていた。
今の彼女には、もう幻想は必要ない。
「……ところで、リリア。お聞きしたいことがあるのです」
「なんでしょう、殿下」
「先日、お父上の屋敷での失神の件。何か思い出されましたか?」
来た、とリリアは思った。
この問いは、表向きは心配の仮面をかぶっている。
だが実際には、前世と同じく“精神不安定”のレッテルを貼る導入線。
その先には、社会的排除と婚約破棄が待っている。
リリアはカップを置き、ゆっくりと口を開いた。
「申し訳ありません、殿下。……そのときの記憶は、いまだに朧げでして」
ユリアンの眉が、わずかに動いた。
セシリアが、ほんの一瞬、視線を逸らした。
その動作を、リリアは見逃さない。
(なるほど……"それ"が鍵、というわけね)
記憶の片隅に残る断片――あの日、部屋にいたのは本当に父だけだったのか?
何かを嗅がされたような気がした。あのときの眠気と、今の体の怠さは似ている。
セシリアの笑顔の下に、何があるのか。
リリアの脳裏に、小さな仮説が芽吹いた。
「殿下。私、しばらく王都に滞在することにいたします」
その言葉に、二人の顔が同時に動いた。
王子の目が僅かに見開かれ、妹のまつげがわずかに震える。
「なにか、目的でも?」
「いえ。ただ……まだ、終わっていない気がして」
笑顔のままそう告げたリリアの声は、柔らかく、けれど芯があった。
──この場所で、あの日を塗り替える。
自分を裁いた者たちの手のひらの中で、もう一度、駒として生きてやる。
そして、順番に壊していく。
薔薇の棘は、いまだ隠されたまま。
でももう、彼女は抜かない。
刺すために、咲かせるのだ。