第19話 書かれていない一致
日が差すより早く、レアが扉を叩いた。
音は二回。間を置いてから三回目。
合図としての意味はない。ただの癖。
けれど、今日はその“ただの癖”が、少しだけ別のものに聞こえた。
リリアは答えず、扉の前まで歩く。
その距離が、やけに遠く感じられた。
扉を開けると、レアの手に便箋があった。
「届いていました。……床の上に、滑り込むように」
名はなかった。封もなかった。
それでも、いつものそれとは違っていた。
紙質が厚い。端が切りっぱなしではない。
リリアは受け取って、すぐには開かなかった。
紙の温度が、指に移るまで待った。
開いたとき、視線が先に意味を追うよりも早く、
文字の配置が記憶のどこかと一致した。
──“あなたが何もしていないことを、私は知っている”
それは肯定でも否定でもない。
それなのに、“理解されてしまった”ような不快感が指の裏に残る。
「……これ、“応答”だわ」
リリアは言葉にした。
けれど誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。
手紙の文面はそれだけだった。
だが、最後の一行の位置。余白の広さ。文字の角度。
どれも、彼女が昨日“意図的に歪めたもの”と酷似していた。
「レア、昨日わたしが書こうとしてやめた文章、……覚えてる?」
「“私がそれを知らないことを、あなたは知らない”」
「それよ。……あれ、“書かれてないまま”だったのに」
返ってきた。
そのとき初めて、彼女は“記録される”という行為の意味を、少しだけ見誤っていたことに気づく。
レアが沈黙のまま、紙を受け取って手袋越しに持った。
指が紙の端をなぞる。滑りが悪い。
インクではない何かが、表面をかすかに染めていた。
「……これ、“書かれた”んじゃなく、“転写”された可能性があります」
「つまり?」
「あなたの部屋で書かれた痕跡を、“誰かが拾って”、そのまま別の紙に写した」
リリアは頷かない。ただ、視線を横に流す。
昨日使ったペンが、机の端に斜めに置かれている。
それに触れる前から、芯の乾いた匂いが鼻腔に残る。
墨の匂いではなかった。筆記のあとの“発熱”に似た残り香。
「……私、“声に出してなかった”よね。あれ」
「はい。誰にも聞かれていません」
「じゃあ、“読まれた”のは、圧痕。筆圧。書きかけの痕跡」
「あるいは、“書こうとした気配”そのものを」
そう言いながら、レアは紙を閉じた。
重さが、変わっている。
文字数は少ないのに、読み終わった後の重みが、妙にある。
「これは、反応じゃない。……“同調”に近い」
「誘導ではなく、迎合でもない。“同じように考えていた者”の動き」
リリアは一歩引いて、椅子の背に手をかける。
視線がずれる。焦点が合わない。
そのとき、机の奥で何かが音を立てた。
金属がわずかにぶつかったような、軽い響き。
彼女は机を引いた。引き出しの奥に、コインが一枚だけ置かれていた。
古い王家の紋章。けれど、表面が摩耗している。
“見覚えがあるようで、ない”。
「……私、これを“落とした”記憶がない」
「記憶されていた“もの”が、勝手に移動したように見える」
「あるいは、誰かが“私の記憶通りに並べ直してくれた”」
その言葉を言い終えたあと、リリアの中で何かが音を立てずに外れた。
自分の動きが、誰かに記録されている。
その前提の中に、“記録者がこちらの動きと同期している”という気配が混じったとき──
それはもう、観察ではない。
“模倣”に近い。
それが、どこか、怖かった。
レアはそっと紙とコインを机の上に並べた。
その配置には何の意図もないはずなのに、リリアの目には“見せるための配置”に映った。
「これ、誰かに“見せたい”って思って置いたように感じるのは、……私だけ?」
「いえ。あまりに“整いすぎて”いる」
「整いすぎたものは、見せかけの反対語じゃない。
本当に“偶然が働かない場所”にしか、ああはならない」
窓の外で鳥が鳴いた。ひと声だけ。
季節にそぐわない音だった。
誰かが、先に音を置いていったような感覚。
リリアは椅子を離れ、部屋を一周する。
壁、書棚、隅に置かれた花の皿。
そのすべてが“昨日と同じ位置にある”のに、距離感だけが変わっていた。
足音を変えてみる。
一度だけ、踵を強く打ちつける。
響く。だが反響が深すぎる。
部屋のどこかが、吸音しているような感覚。
「……記録されるための行動って、こんなにも“自分がずれる”のね」
「逆に、誰かを記録しようとしたことは?」
リリアは首を振った。
でも、その動きがやけに重たく感じた。
「記録者が“理解者”であるとは限らない。
むしろ、“似ているだけ”で近づいてくる方が、危うい」
「共鳴、ではなく、同調。
……追いかけた足音が、いつのまにか隣を歩いている状態です」
リリアは机に戻り、ペンを取った。
しかし、紙に触れることはなかった。
「もし、今、私が何かを書くとして。
それを、向こうが“予測していたとしたら”──それはもう、手遅れってことかも」
沈黙。
空気が冷える。
彼女は紙を置き、指を拭った。
インクは出ていなかった。けれど、匂いだけが残った。
“書かないこと”が、最も伝達になるという状況。
そこまで踏み込んできた相手は、もはや“敵”ではなかった。
“共犯者”に近い。
それが、どこかに、笑っているような気がした。




