第18話 記録を乱す手
午前の陽は強すぎず、廊下の石の温度をほどよく鈍くしていた。
リリアは靴音をわざとばらつかせながら、館の北翼を歩いていた。
等間隔で並ぶ窓の、五つ目の前で立ち止まる。
視線を落とすと、床に髪の毛が一本落ちていた。
色は、彼女のものに似ていた。けれど、違った。
わずかに波打ちすぎている。
拾わずに、足の甲で動かす。
誰かが、それをどう記録するか。
それが今、彼女が“見る”かわりに選んだ行動だった。
「レア、三分後に扉を開けて。誰もいないふりをして」
「了解しました」
部屋へ戻ると、窓を全開にした。
風が、書類の角をめくる音を作る。
意味のない動きに、意味をつけてくるのは他人の仕事だと、リリアは知っていた。
彼女は机の前に立ち、ペンを持ち上げる。
インクにはつけない。ただ、紙の上で、筆先を滑らせる。
線ではなく、圧だけを残す。
ペンの痕は、紙に傷をつけるほどではなかった。
だが、その圧はきっと、誰かの目には“何かを書こうとしてやめた痕跡”になる。
机を離れ、隅のキャビネットをわざと乱雑に閉めた。
反響音が大きく、誰かの意識を引っ張る。
音を追ってくる者がいるなら──その耳は、既に罠にかかっている。
レアが小さくノックをする。
リリアは答えず、ただ背中を少しだけゆるめた。
読まれることを前提に動くということ。
それは、自分の輪郭を誰かに“任せる”ということ。
だがその輪郭に、あえて“ズレ”を混ぜることもまた、戦い方のひとつだった。
紙の上に、ペンの跡が残ったまま、インクの匂いだけが部屋に漂っていた。
扉を開けたレアは、わざと視線を走らせた。
誰もいない部屋を見て、少しだけ目を見開いたふりをする。
それは演技というには雑だった。
だが、雑な動作ほど、“目撃されやすい”。
彼女は何も言わずにそのまま後ずさり、音を立てずに扉を閉めた。
それで充分だった。
リリアは隣室にいた。
背を壁につけ、呼吸を浅くしていた。
誰に向けた緊張か、自分でもわからなかった。
けれど、扉の木目の内側から、空気の層がわずかに動いた気がした。
「……たぶん、誰かが“確かめに来てる”」
レアが頷くのは見えなかったが、気配が肯定していた。
彼女は部屋に戻り、椅子に座る。
倒れていたペン立てが、机の端に寄っていた。
誰かが触れたのかもしれない。
あるいは、自分が忘れていたのかもしれない。
ただ、それを“自分のせいだ”と思うことすら、既に操作の中にある気がした。
「リリア様。……一つだけ申し上げても?」
「どうぞ」
「あなたが“何かを仕掛けたと見せる”ことで、仕掛ける必要のあった者が“動かなくなる”可能性があります」
それはつまり、こうだ。
罠を張ったと知れれば、獲物はそこを通らない。
通らないことで、自分の動きが止まる。
「……それでも、誰かは動いてしまう。
“自分は獲物じゃない”と思ってる人が、いちばん動く」
その言葉の裏に、誰の顔も浮かばなかった。
だが、手のひらだけが少しだけ熱くなっていた。
紙の上の圧痕を、誰かが読むとき。
そこに何が書かれていたのかではなく、
──なぜ書かなかったか、が問われる。
それを想像する者がいる限り、記録は歪む。
その歪みこそが、リリアの唯一の武器だった。
夜になって、窓の外で音がした。
風ではなかった。木の葉が擦れるのとも違う。
何か硬いものが、壁に一度だけ当たって、止まったような音。
リリアはランプを消した。
部屋の中は暗くなったが、外の光の層が窓の輪郭を残していた。
そこに誰かの影は映らなかった。
でも、音の残り香のようなものが、壁の向こう側に引っかかっている。
彼女はゆっくり立ち上がる。
扉を開ける前に、椅子を戻した。
引き出しもひとつ開けたままにしておいた。
“記録されるため”の小さな乱れ。
廊下には誰もいない。
でも、壁の装飾がわずかに斜めに傾いていた。
昨日は、真っ直ぐだったはず。
それがどうでもいいことだと分かっていても、今日は気になった。
レアが背後で立っていた。
何も言わないまま、気配だけを残して。
「記録って、不思議ね。
“何をしたか”は自分で分かっていても、“どう見えたか”は他人の中にしか存在しない」
「だからこそ、観察されることは支配に近いのです」
リリアは頷いた。
視線は窓の下、敷石の影に落ちていた何かに留まっていた。
それは、小さな紙片だった。
風で飛ばされたのか、それとも“そこに置かれた”のか。
拾い上げると、何も書かれていなかった。
だが、紙の中央にだけ、圧の痕跡があった。
言葉ではない。線でもない。
ただの“凹み”。
誰かが、何かを書こうとして、やめた証拠。
リリアはその紙を折りたたみ、ポケットに入れた。
何も書かれていないものほど、後から意味を持ちはじめる。
それが記録というものだと、最近ようやく分かってきた。
この日から、リリアは自分の動きを、
“誰かがどう書き残すか”を前提に組み立てるようになる。
記録されるためではなく、
──記録を乱すために。




