第17話 揺らぐ影との対話
午前の光は部屋の奥まで届かない。
それが理由ではないのに、リリアは机の隅に置かれた帳面を見ようとしなかった。
昨日までに読んだはずの言葉たちが、どこか別のものに書き換わっている気がしていた。
レアが紅茶を置く。音は鳴らなかった。
湯気がひと筋、布の縁をなぞっていた。
「……もう一冊、届いています」
「どこに?」
「昨日と同じ引き出しの、さらに下。……底板の裏側に貼られていました」
リリアは立ち上がらない。指先が机をたどる。
帳面の背が少しだけ削れていた。手の跡ではなかった。たぶん、何か硬いもので押された痕。
「誰かが、“書く”ためではなく、“渡す”ためにここを使ってる」
そう口に出したのに、声には重さがなかった。
重さを持たせるには、言葉が足りなかった。
「私の知らない“私”が、ここにいたみたい」
レアは何も問わなかった。
リリアは指で紙の端を探る。今朝は少し、ざらついていた。
インクの乗りが悪い。けれど、文字は読めた。
──“あなたの歩幅は、決まった段差で乱れる”
彼女は、知らなかった。
そんな癖を誰かが見ていたことも、それを文字にされたことも。
それだけで、骨の内側がかすかに軋んだ気がした。
帳面を閉じる手が、途中で止まった。
ページの間に、紙とは違う質感が挟まっていた。
薄い。けれど、繊維が混じっていない。皮だった。
動物のものではない。植物でもない。
正体はわからなかったが、それは明らかに“紙ではないものに記された記憶”だった。
そこには文字はなかった。
あるのは、細い擦り傷のような跡。
誰かが爪の先でなぞったような、線。
読み取れない。
だが、触れると、指の内側がざらついた。
何かを思い出すのではなく、何かを忘れさせられるような質感。
「レア、これ……読める?」
「“読む”対象かどうかすら、判別が難しいです。
意図的に“意味”を外しているような配置です」
「意味のないものが、ここにあるはずがない」
リリアは視線を落としたまま、扉の方へ意識を向けた。
静かだった。
だからこそ、扉の隙間から風が入っていることに気づいた。
「……閉まってたわよね?」
「はい。私が確認しました」
リリアは立ち上がる。
廊下には誰もいなかった。
けれど、扉の縁にだけ、細い線が残っていた。
帳面の中の線と、似ていた。
誰かが、記録したものと、置いていったもの。
それが、同じ“手”によるものなら──
「この部屋、見られてる」
誰かが観察しているわけではない。
誰かが、ここに“視線の記録”を埋めている。
そのことに気づいた瞬間、空気が、少しだけ変わった気がした。
空気の層が、一枚、めくれたような気がした。
リリアは扉を閉めなかった。音を立てず、ただ隙間を保ったまま、背を向ける。
何も入ってこないはずの空間に、なぜか“奥行き”が増えたようだった。
机に戻ると、レアが既に帳面を包み直していた。
彼女の動作は正確で、痕跡を消すことに迷いがない。
その様子を見ながら、リリアは言葉を選ぶことをやめた。
「……どこまで、知られてると思う?」
「“動き”ではなく、“揺れ”を見られている気がします」
「つまり、“何をしたか”じゃない。“どう動いたか”」
レアは頷かない。ただ、紙の束を引き出しに戻した。
「揺れを読まれるって、なによりもやっかい」
リリアは椅子に座ったまま、両手を重ねた。
その手のひらの間に、温度の差があった。片方だけが少し冷たい。
観察されている。それだけで、行動が歪む。
意図しない揺れが、自分の言葉を先回りする。
でも──それなら、どうすれば。
「“読ませない”んじゃなくて、“読ませたくなるもの”にすればいいのかも」
その言葉は誰に向けたものでもなかった。
けれど、レアの呼吸がほんの一拍だけ、間を変えた気がした。
「……誘導、ですか?」
「違う。もっと雑に。
“書きたくなるような私”を置いてみるの」
彼女は立ち上がる。歩きながら、視線は一度も止まらない。
何をするのかは決めていなかった。
ただ、自分の“輪郭”をズラす必要だけは、はっきりとあった。
背中でレアが動く気配を感じながら、リリアは扉の前に立つ。
その隙間から抜けた風が、首筋を撫でていった。
何者かの記録に、自分の“ずれた線”を残すために──
彼女は歩き出した。




