第15話 濁点の置き場所
包み紙の裏に、指の跡があった。
レアがそう告げたとき、リリアは反応しなかった。
うなずきもせず、驚きもせず、ただ指をひとつ動かした。
皮膚の内側がざわつく感覚。
何かが触れたわけではない。だが、内部が“揺らがされた”確信だけがある。
手渡されたのは菓子だった。だが、それは物体としての意味しか持っていない。
問題は“渡したこと”ではなく、“渡した形”だった。
「跡は……新しい?」
「はい。包み直された形跡があります。
上包みは二重、下は一重。内側の紙だけが折れ方に“癖”が残っていました」
リリアは指先を拭った。
何もついていない。だが、感触だけが残る。
セシリアの意図は読めなかった。
渡したものは甘い菓子。けれど、言葉の奥には苦みがあった。
どちらが本物か、判別する術がない。
だからこそ、彼女は“次の行動”ではなく“次の反応”を先に予測しようとした。
部屋に戻り、椅子に腰かけたまま、包みを見つめる。
そこにあるのは、ただの贈り物。
だが、“無害であることを強調する何か”は、時として最も有害に変わる。
それは毒か。
それともただの、記憶か。
「調べて」
「はい。毒物の検出、成分分析、香料も含めて」
「でも、違うかもしれない。
これは“体に効く”ものじゃなく、“心に効かせる”仕掛けかもしれない」
「では、どう判断を?」
「“効いたら負け”」
言い切った声に、わずかにひびが入る。
それをレアは拾わない。音として、だけ流す。
「私は“疑うことでしか生きてこなかった”。
でもそれを、“見透かされる”なら……この戦いは不利になる」
「感情の揺れを、読ませないと?」
「そう。“確信”より、“混乱”を返す方が強い」
リリアはそう言って、自分の声に微かな濁りを感じた。
午後、王宮から伝令が届いた。
表向きは「定例会合に関する連絡」。
だが、封筒の重みが違った。厚紙ではなく、やや柔らかい。
開けると、中には一通の案内状とともに──別紙が挟まれていた。
墨がにじんでいた。
明らかに、わざと“読みにくく”されていた。
「……読ませる気があるのか、ないのか」
呟きながらリリアは目を凝らす。
文字は整っていた。けれど、ところどころ“濁点”の位置が曖昧だった。
「濁らせたのは、意味か、音か」
誰が書いたかはわからない。
けれどその筆跡には、強い“編集”がかかっている。
まるで、自分の中の“曖昧さ”だけを切り取って人に渡したような文章。
「読み解かせる気はない。……読み違えさせる気だ」
リリアは息を吐いた。
これは挑戦だ。内容ではない。“認識の差”を試すためだけの罠。
紙に指を這わせてみる。
インクの盛り上がりに、僅かな筆圧の偏り。
それが、“一語だけ”他と違う。
──“お前の中にあるものは、私の中にあった”
誰かが、過去に何かを失った。
そして、その“喪失”を伝えることで、リリアの動揺を誘っている。
過去を共有しているという暗示。
だが、それを明示することは避けている。
「……本当に、“伝えたい”わけじゃないのね」
声に出すと、逆に少しだけ楽になった。
これは会話ではない。
意思のやりとりでもない。
ただ、言葉の形をした“錯視”だ。
「どうするか……」
リリアは紙を畳まず、そのまま窓辺へと運ぶ。
光に透かすと、紙の繊維の奥に何かの“跡”が浮き上がった。
別の紙の写し。
別の、誰かの手の圧力。
メッセージは、“重ねられている”。
それに気づいたとき、指の先がかすかに冷えた。
紙の奥に浮いた文字は、すぐには読めなかった。
筆圧の軌跡がうすぼんやりと滲んでいて、言葉としては成立していない。
けれど、そこに“手の動き”があったことだけは確かだった。
誰かがこの紙の上に、別の何かを“書いた”のだ。
それを写し取るかのように、今の紙がある。
これは、書簡というより“カーボン”だった。
わざわざ重ねて送ってきた理由は、ただひとつ。
──“見つけさせたかった”。
だが、何を。
リリアは紙を置き、視線を机の端に落とす。
そこに、一冊の手帳があった。
何の変哲もない。だが、昨日までは“そこになかった”物。
ページをめくる。最初の数枚は空白。
中ほどに、見覚えのない文字列があった。
すべて、過去の記録。
数年前の、王宮の食事会や政務官の移動日時、文官の休暇届。
一見無意味な情報。けれど、日付だけが揃っていた。
“リリアが、孤立していた時期”ばかり。
あの春。
王子と妹が距離を詰め、父が何も言わず、政務室からも返答がなかったあの期間。
──誰かが、記録していた。
リリアの“周囲”の動きを。
本人ではなく、その“輪郭”を。
手帳を閉じたとき、レアがそっと扉を叩いた。
「……何か、見つかりましたか?」
「ええ。たぶん、今になって“置かれた”ものだけど。
中身は、“過去”の話ばかり」
「それは、罠ですか?」
「罠ではない。“観察”ね。
それも、記録を蓄積するためじゃなく、“再生”するためのもの」
誰かが、私の物語を“もう一度読もうとしている”。
それが、怖かった。
でも、同時に──何かが始まる予感にも似ていた。
名もなく、形もなく、ただ指の圧だけで届いた文字列。
そこに込められていたのは、声ではなく、ただの“在ったという証明”だった。




