第14話 掌に残るもの
窓の鍵が、わずかにずれていた。
開けた記憶はない。閉め忘れた記憶もない。
だが、確かに鍵のかみ合わせが半分だけずれていた。
音はしなかった。風もない。
それでも、そこに“誰かの指”が触れた可能性があった。
リリアは鍵を戻す。指先に、乾いた金属の匂いがついた。
これは、視線ではない。“介入”だ。
直接手を入れることで、静かに“宣戦”の意図が残されていた。
書簡でも告げず、言葉でもなく、ただ物理的に痕跡を置いていく者。
名前もなく、署名もなく。
それでも、彼らは自分たちの存在を告げる。
午後、レアが扉の外から声をかける。
「……政務室より、ナグレイ氏の使者が。今朝未明に発たれたとの報告です」
「どこへ?」
「明かされておりません。“王宮以外の場所で動く”とだけ伝言が残されていたそうです」
「連絡を断ってきたのね。……これ以上は巻き込まれるな、と」
リリアは椅子に座ったまま、脚を組み直す。
椅子の脚が床をかすかに引っ掻いた。
「いいのよ。私は、“道具”じゃない。
私を動かす者がいるなら、私は“動かされたまま”では終わらない」
その言葉は、独白ではなく、扉の向こうの誰かに届くような調子だった。
「この国は、誰かの“指”によって均衡を保っている。
でもその指が今、少しずつ力を失っている」
「私たちは?」
レアの声が小さく返る。
「私たちは、その掌の内側にいる。
でも、いつか掌ごと裏返す。それまでは、“動いているふり”を続ける」
カップの中の紅茶が、時間と共に味を失っていくように、
情報も、人も、“見えた頃には意味を失っている”。
だから、彼女は触れずに、ただ手のひらに残る感触だけを確かめた。
“それ”が誰の体温だったかは、まだ知らなくていい。
屋敷の中庭に出ると、風が乾いていた。
湿り気のない空気が、石畳の隙間に積もった砂をまるごと巻き上げていく。
目を細めると、誰もいないはずの空間に、何かの余韻だけが留まっていた。
リリアは歩く。
目的があるわけではなかった。
けれど、動かないでいることのほうが、なぜか“見つかりやすい”気がしていた。
視線が後ろに伸びてくる。
風の向きとは合わない。砂埃の巻き上がり方も、服の擦れる音も。
すべてが、“自分を中心に回っている”ような不快さがあった。
視界の端に、影が触れる。
だが振り返るほどの確証はない。
庭の隅に、古びた石柱がある。
かつての噴水跡だ。
今は水も止まり、苔が薄くまとわりついている。
その苔の上に、小さな白い紙がひとつ、貼りついていた。
拾わない。
リリアはそのまま通り過ぎる。
けれど、数歩先で足を止める。
そして振り返る。
風が紙をめくり上げるように揺らす。
──見ろ、とでも言うように。
彼女は戻って紙を取る。
裏には何も書かれていなかった。
ただ、指先に触れたとき、紙の端が妙に濡れていた。
雨ではない。
朝露とも違う。
人の手の温度が、ほんの数分前にあったはずの“痕跡”がそこにあった。
「……メッセージ、じゃない」
つぶやいた声は、誰にも届かない。
これは、意思ではない。“意図の断片”だ。
誰かが、言葉で告げることをやめた。
誰かが、“指で伝えること”に切り替えた。
その選択が、何より不気味だった。
意図を語らない者ほど、強い。
リリアは紙を丸めず、そっとポケットに収めた。
それは、後で“誰かに返す”ための、印のようだった。
午後になって、セシリアが屋敷を訪れた。
予定にはなかった。
告げられた理由は「たまたま近くに来たので、顔を見に」という簡単なものだった。
だが、簡単すぎた。
リリアは客間に通された妹の前に立つ。
淡い黄緑のドレス。季節を先取りした装い。
笑顔も、相変わらずよくできていた。
「お久しぶりですわ、姉さま。
お変わりなく、お元気そうで」
「元気、という定義は人によって違うけれど。
少なくとも、今の私は“壊れていない”わ」
「まぁ……」
セシリアの笑顔に、ひびは入らない。
けれど、その歯の裏側にある温度だけが、わずかに変わった気がした。
「何か、届け物?」
「いえ、ただ……風の噂で。姉さまが“また王宮に関わる動きをしている”と聞いて、少し気になりまして」
「風は風よ。何かを見てきたわけじゃない。
でも、風の通り道があるなら、誰かが“開けている”のかもしれないわね」
「誰が、ですか?」
「……それは、あなたが気にすることじゃない」
沈黙。
それは短かったが、濃かった。
テーブルの上に、セシリアが置いた小さな包みがあった。
「これ、差し入れです。いつも召し上がっていたお菓子。……忘れていないと、思いますけれど」
「ありがとう。でも、今日は甘いものの気分じゃない」
セシリアは微笑んだまま頷いた。
「そのかわり、苦いものには慣れていますわね、姉さまは」
リリアはその一言に、返さなかった。
包みは開けずに残された。
客間を出たあと、妹の足音は静かだった。
けれど、その最後の一歩だけが、不自然に重かった。
それが、感情なのか。
それとも、計算なのか。
リリアはわからなかった。
ただひとつ、“誰か”がその会話を記録しているような気配だけが、まだ室内に漂っていた。
彼女は何も言わずに、扉に手をかけた。
そのとき、レアがすれ違いざまに一言だけ囁く。
「……指の跡が、包み紙の裏に残っていました」
リリアは頷いた。
言葉では伝えられない何かが、掌の中に残されていた。




