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第13話 回路の外から

 朝、リリアは予定より早く目が覚めた。


 夢を見たような気もしたが、何が出てきたのかは指先にも残っていない。

 ただ、体の奥に泥のような重さが張りついていた。

 どこかが“異常”だと告げているのに、視覚には映らない。


 レアが扉を二度、軽く叩いた。


「……起きています」


「おはようございます。お手紙が一通」


 昨夜のうちに届いたらしい。

 封筒の縁がわずかに湿っていた。朝露のせいか、あるいは運ばれてくるまでに何かがあったのか。


 文字はなかった。差出人の名も、宛名も。

 それでも、リリアは扉を閉める前に一度だけ廊下を振り返った。


 誰もいない。

 でも、空気が揺れていた。

 空間に“何かが通ったあとの濃度”が残っている。


 机に戻り、封を切る。

 中には、薄い紙が一枚。文字は少ない。


 ──“書庫の第二閲覧室。西側の壁。今日の午後三時。”


 それだけだった。

 ただの文でも、日時でもなかった。“仕掛けた者にしか伝わらない合図”のようだった。


「レア」


「はい」


「時間をずらして、同じ場所に“別の目的”で入れるように根回しを。誰にも疑われないかたちで」


「承知しました。……危険は?」


「ある。けれど、これは“待っている”だけでは得られない」


 紙を火にくべる。灰が舞う。その動きに、どこか“まばたき”を感じた。


 反応が返ってきた。だが正面ではない。

 リリアが敷いた道筋の、“わずかに外側”から。


 その歪みが、ある種の“賢さ”を語っていた。

 直接動かない。それは、明確な“策”だ。


 今度の相手は、“読み合いの手前”で姿を隠す。

 だからこそ、追わなくてはならない。


 第二閲覧室は、王宮書庫の中でも忘れられたような場所にある。


 誰もが第一閲覧室で用が済む。貴族の系譜、王令の改定記録、献上品目録。

 第二に置かれるのは、そのどれでもない。曖昧で、断片的で、名のない記録たち。

 “不要な真実”が、ただの紙の重なりとして眠っている場所だった。


 午後三時。

 リリアは予定より十分早く扉を開けた。

 誰かがいる気配はなかった。

 だが、光が揺れていた。

 窓の外からではない。部屋そのものが“揺らされている”ような感覚。


 西側の壁──そこには、背の低い棚が並んでいた。

 資料に番号が振られていない。それ自体が、ここが“公式”ではないという証だ。


 彼女は棚に手を置く。木目のざらつきが指の腹をかすめた。

 そのまま指を滑らせていくと、途中で“継ぎ目”の感触が変わる。

 板ではなく、貼り直された紙。裏打ちの素材が違う。


 そこにだけ、異物感があった。


 引き出すわけではない。

 ただ、そこにだけ“文章”が書かれていた。


 紙ではなく、壁そのものに。

 細く、薄く、爪の先ほどの筆致で──


 ──“私たちは、同じ場所を知らない”


 リリアはそれを声に出さなかった。

 読んだだけ。意味はわからなかった。

 けれど、それが“誰かからの返答”であることだけは確かだった。


 彼女は棚の裏側に視線を滑らせる。

 そこに、一冊だけ“背表紙のない本”があった。


 無記名。無装丁。

 それでも、誰かが“置いた”もの。


 開くと、最初のページにだけ記述があった。


 ──“誰が鍵を握っているのか、まだ誰も知らない。

 だが、鍵はすでに回り始めている。”


 それは宣言ではなかった。

 予言でも、告白でもない。

 ただの“独白”だった。


 なのに、その一文が指の中に残る。

 言葉の重さではなく、“出どころの不明さ”だけが、確かな痕跡を残した。


 部屋を出たのは、それから二十数分後だった。


 閲覧記録には何も残らない。そもそも“閲覧”とは呼べない行為だった。

 リリアは本の痕跡を残さぬように戻し、棚に触れた指を拭ってから部屋を後にした。


 廊下に出たとき、誰かとすれ違う。


 名も知らない下級官吏。

 目は伏せられていて、足取りは急いでいた。

 だが、その視線がふとリリアの肩を掠めたように思えた。


 気のせいかもしれなかった。

 だが、そうではない可能性だけが、肌の上に残った。


 屋敷に戻ると、レアがすぐに応接室へと案内した。

 机の上には、新たな報告書が置かれていた。


「先ほど、政務室から写しが届きました。“情報操作に関与した可能性のある文官リスト”の一部です」


「……思っていたより、早い動きね」


「いえ、“早すぎる”のです。

 これは、まるで“先回りされていた”ような反応です」


 リリアは報告書を開きながら、目を細める。


 その中に、見覚えのある名がひとつあった。


 ──キリア・ベナルト。


 かつて、妹セシリアが密かに面談を繰り返していたとされる小姓上がりの文官。

 階級は低い。だが、王子の側近に一時期連なったことがある。


「“彼”が関与していたとしたら、私たちの計算がずれるわ」


「逆に、“彼”が表に出てきたということは──」


「──もう、仕掛けが始まってるということ」


 視線を落としたまま、リリアは紅茶に口をつけた。

 ぬるい。だが、その苦みがちょうどよかった。


「レア」


「はい」


「この先は、もう“情報を巡る戦争”じゃない。

 “意志の速度”の問題よ。

 誰が早く疑い、誰が先に見抜くか。その差で、生き残りが決まる」


「承知しました」


 リリアは空になったカップを手放し、窓の外を見た。


 空が晴れているのに、空気は澄んでいなかった。

 まるで、誰かが“嘘の青”を引き伸ばしていたようだった。


 まだ見えない誰かが、別の“回路”を通じて彼女の歩みを測っている。


 その存在は姿を見せないまま、既に“鍵”を回し始めていた。


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