第12話 静かな罠のかけ方
その手紙に返事は書かなかった。
誰かが“名乗らずに声をかけてくる”ということ自体が、罠である可能性が高すぎた。
けれど、黙ってやり過ごすには、手紙の最後に記された言葉があまりにも――形を持ちすぎていた。
──「裏切られたのは、あなただけではありません」
語尾も、助詞の置き方も、声にならないものが書かれていた。
それをリリアは、書き手の感情とは切り離して読もうとした。
書いたのが誰であっても、そこに“復讐心”や“警告”や“誘導”が混じっていれば、判断を誤らせる。
だから彼女は、手紙に反応せず、かわりに“反応する者を炙り出す”ことを選んだ。
方法は単純だった。
セシリアの側近──かつて妹が常に傍に置いていた侍女のひとりに、あえて“知られて困るような行動”を見せる。
レアを通じて、内務庁の記録閲覧室に“彼女の名義でないまま”出入りする。
部外者には意味不明な記録群。それでも、意図的に“彼女に関係ある言葉”だけを選んで置き去りにする。
それを誰が拾うか。それを、誰が報告に走るか。
ただの情報収集ではない。
これは、“反応を見るための行為”だった。
リリアは、屋敷の応接間でひとつずつ準備を整えていた。
「……レア。先に入室しておいて。私はあとから追う。足音は立てずに。誰が扉に触れるか見ていて」
「承知しました」
レアは一礼し、何も言わずに部屋を出る。
視線も、呼吸も変えない。
この沈黙が、リリアにとっては一番の味方だった。
筆記具を持ったまま、机に腰かける。
視線だけをわずかに逸らすと、扉の隅の影がやや濃くなっていた。
──見ている。
まだ、こちらを“伺っている”段階だ。
この部屋の出入りを確認するだけなら、正式な伝達手段を使うはず。
なのに、その手前で“覗く”という行為が発生しているということは。
誰かが、“裏の連絡”をもって動いている。
ふと、紅茶の香りが鼻腔を満たした。
空になったカップの奥で、香りだけが強くなっていくようだった。
香りは姿を持たない。けれど、痕跡にはなる。
この罠も、そうであればいい。
誰の手にもつかめない。けれど、たしかに誰かの中に“残ってしまう”。
その種の仕掛け方だけが、リリアのような人間に許された手だった。
リリアは図書室を抜け、廊下の端にある応接室の外側へと歩を進めた。
レアはすでに中にいるはずだったが、彼女はあえて扉の前で足を止めた。
時間を測る。
一、二、三。
扉の向こうで、わずかに何かの衣擦れの音がした。
わざと軽くノックをする。レアが開ける。
その動作の中で、視線を背後へ走らせると、廊下の突き当たり──壁の影、かすかな動き。
影そのものが、引くのではなく、揺れる。
(いた)
リリアは何も言わずに部屋へ入る。
「お待たせ。……動いたわね」
「ええ。足音は一人分。背格好は女性。
服装は宮廷の給仕と似ていましたが、階級紋章が見えませんでした」
「なら、正式な監視ではない。……誰かの“私的な目”ね」
リリアは椅子に座ると、机の上の冊子を手に取る。
「セシリアではない。“あの子”は自分の目で確認しない。
常に、他人に“見させる”」
「では、どなたが?」
「……彼女の後ろにいる者。“味方”と見せかけて、彼女すら見下ろす位置にいる何か」
リリアはページをめくりながら、指先の湿りを拭う。
紙が指にまとわりつくと、記憶の断片がくっついてきたように感じる。
あの頃も、この部屋で同じ動作をしたことがあった。
でも、あの時は誰も見ていなかった。
今は違う。“外”に視線がある。
「……レア、あなたならどう仕掛ける?」
「誘導ではなく、放置を使います」
「理由は?」
「拾わせることで“関与したという記憶”を残すよりも、拾うかどうか迷わせる方が、罪は深く残るからです」
リリアは口元をわずかに歪めた。
「あなた、やっぱり“演者”ね」
「お褒めと受け取ります」
言葉の端にだけ、微かな笑いが混じった気がした。
だが、リリアは確かめなかった。
確認してしまえば、それはもう“仕掛け”ではなくなるから。
「仕掛けは、“気づかれなかった”くらいで丁度いいのよ。
人は、明らかに落ちてる針より、床にある異物の方が怖いの」
沈黙のあと、レアが小さく言う。
「この館のどこかで、“誰かの耳”が生きているようです。
私たちの動きが伝わるのが早すぎる」
「……内通者ね」
リリアの目が、ゆっくりと一点を見つめる。
扉の蝶番。
誰も触れていないのに、そこだけが僅かに濡れていた。
濡れている。
乾いたはずの扉の金属部分。そこに浮いた水の粒は、誰かの手か、布の端か。
この部屋の中ではない。“外”にいた者の気配が、残っている。
リリアは言葉を飲み込んだまま、立ち上がった。
椅子の脚がわずかに軋む。
それだけで、レアが背筋を伸ばす。
「まだ部屋にいるかもしれない」
「廊下に出ますか?」
「出ない。──ここで、次の一手を打つ」
リリアは扉の前に立ち、蝶番を指でなぞった。
指先にぬるさと冷たさが入り混じる。
それが、明確な証拠だった。
誰かが“見て”いる。
ただ、まだ“名乗っていない”。
彼女はそのまま扉を開けた。
廊下には、誰もいなかった。
けれど、空気が妙に乱れていた。
風の通らない回廊に、風音が残っている。
人が歩いたあとだけに残る空白。
声に出さない呼吸が、どこかに吸い込まれていった感覚。
リリアは視線を一度、廊下の奥へと向けた。
何もいない。
それでも、“何かあった”という感覚だけが、服の裾に引っかかっていた。
戻ってきたレアが、小さく囁いた。
「屋敷の名簿を精査します。“出入りの自由”を与えられている者の一覧を」
「……お願い。あと、政務室にも連絡を。“あの人”なら、気づいているかもしれない」
「ルゼル・ナグレイですね」
「ええ。……政務室に通じるものが、王宮にしかいないとは思えない」
レアが去ったあと、リリアは扉を閉じる。
その音はゆっくりと鳴った。
音の終わりとともに、彼女は机に戻り、手帳を開いた。
何も書かれていないページに、一本だけ線を引く。
真ん中から左下へ。何の意味もないように見える線。
けれど、リリアにとってはこれが“仕掛け”だった。
これを見て、何かを思い出す者がいるなら──その者こそ、鍵を握っている。
「次は、“向こうから”名乗ってくる番」
罠はすでに敷かれている。
静かに、気づかれないように。
けれど確実に、誰かの足元へと迫っていた。




