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第11話 名もない視線

 指先が、硝子の縁をなぞっていた。


 音は鳴らない。すべてが、鳴らないように抑えられている。

 カップの底に、紅茶の色だけが沈んでいた。ぬるくなって久しい。


 レアが差し出した菓子は、まだひとつも手をつけていない。

 そのことを、リリアは自分で気づいたときには、もう口を動かすタイミングを失っていた。


「──今日の予定は?」


「お応えしてよろしい範囲では、書簡が二通。

 政務室からのものと、もうひとつは……差出人不明です」


「不明?」


「筆跡も印もありません。封だけが丁寧に結ばれておりました」


 リリアは目を伏せた。

 そのまま、カップを持ち上げる。縁に触れたとたん、液体のぬるさが指先に伝わった。


 時間をおいたものの味がした。

 人の言葉と同じで、“少し遅れたもの”は、どこか薄くなる。


「……読まないと、ね」


「かしこまりました。開封は?」


「私がする」


 封を割ると、紙の匂いが立ちのぼった。

 インクの香りがしない。書き手が何を使ったのか、よくわからない。


 一行目は、名も、宛てもなかった。

 ただ、こんな文字が並んでいた。


 ──“知っています。あなたが、もう一度始めようとしていること”


 リリアは視線を走らせた。

 走らせて、止まった。


 書き手の癖があった。なめらかに繋がる“し”のかたち。

 手紙を書き慣れている筆致。女のもの。


 ただ、誰のものかは思い出せなかった。


 最後の一文だけが、妙に鮮明だった。


 ──“裏切られたのは、あなただけではありません”


 手紙を置いたリリアは、何も言わずに立ち上がった。


 レアが動こうとしたが、リリアは軽く手を上げて制した。

 そのまま、窓際に移動する。カーテンの隙間から差し込む光は、くすんだ灰色。

 季節の移ろいを正確に示すには、少し濁りが足りなかった。


 彼女は窓枠に指をかけた。冷たい。

 いつもよりも、その冷たさが骨の奥まで届いてくるようだった。


「誰なのか、見当は?」


「……三人くらい。全員、死んでいるか、いなくなっているか、いまだに笑っているか、のどれか」


 レアは頷いた。

 いつもと同じ沈黙。だが、その奥にあるものは、リリアにとってもう“風景”ではなかった。


「この手紙、写しを取っておいて。インクを調べられる?」


「試みます。……ただ、“残らない”ように調整された気配があります」


「そう、でしょうね」


 手紙は捨てられる前提で書かれていた。

 だからこそ、そこには“切実さ”があった。──それも、ひどく未完成な。


「……私以外にも、何かを始めようとしていた人がいるの?」


 誰に聞かせたわけでもないその声に、レアは答えなかった。

 答えないことで、“否定していない”ことだけが残る。


 視線を戻すと、カップの中の紅茶がすっかり沈黙していた。


 もう温度はなかった。

 飲む理由も、失くなっていた。


 彼女は視線をテーブルから外すと、再び椅子に戻った。

 やや浅く腰かける。身体が落ち着かない感覚を抱いたまま。


 誰かが、“リリア”という物語の端を、別の場所で握っている。

 そう思った瞬間、背中に小さな汗が滲んだ


 夜、書簡の断片が火にくべられる音がした。


 灰は静かに壺の底へ積もっていった。

 焦げる紙の匂いが、リリアの喉の奥に残る。

 濡れた煙草のような、雨に打たれた石灰のような、記憶に結びつかない匂いだった。


 誰が書いたのか。それよりも──

 なぜ“今”なのか。


 タイミングが妙だった。

 王子との面談を終え、政務室の手先たちがざわつき始めたこの瞬間に。


「……見ていたのかもしれない。全部」


 声は喉の奥で折れた。


 リリアは書き損じたメモ帳を取り出し、そこに一行だけ書いた。

 筆圧は浅い。インクの乗りも悪い。


 ──“なぜ私に?”。


 紙を破らずに、もう一度、その行を見つめた。

 文字の形が、どこか幼く見えた。


 そのまま筆記具を閉じ、机を離れる。


 部屋の扉に手をかけたとき、かすかな音がした。

 呼吸ではない。衣擦れとも違う。


 気配が、廊下の先に残っていた。


 誰かがいたのか、それとも、そう思いたかっただけなのか。

 確かめるには遅すぎた。


 リリアは扉を静かに閉じた。

 音を立てなかった。


 部屋に戻っても、何も増えていない。何も消えていない。


 けれど、何かが“視られている”感覚だけが、まだそこに残っていた。


 ──名もない視線が、この世界のどこかから、彼女に向かっている。

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