第10話 仮面にひびを
王宮の庭園には、涼しげな噴水の音が響いていた。
午後の紅茶の時間。
しかし、今日その席には“招待状”などなかった。
リリアは自ら歩いてきた。あえて、妹が好むこの場所へ。
セシリアは、先に来ていた。
白と金のドレス。完璧にまとめられた髪。
その微笑には、まるで“何も知らない妹”の顔が貼りついていた。
「姉さま。めずらしいですね、この時間に」
「偶然、通りかかったの」
「そう……でしたのね」
穏やかな声。だが、その目は笑っていなかった。
「最近、“王宮で何か噂が立っている”と、風の便りで聞きましたの」
「どんな噂?」
「姉さまが……“もう一度、王妃候補に戻るのでは”という」
リリアは、カップに紅茶を注いだ。
「“戻る”つもりはないわ。私は、もともとそこにいた」
セシリアの指が、スプーンの柄を握りしめた。
その指の白さだけが、感情を物語っていた。
「ご冗談を」
「冗談に聞こえた?」
「……姉さまが、あの席にふさわしいと、いまでも?」
「あなたはふさわしいと思ってるの?」
庭園に、静かな沈黙が落ちた。
風がカップの表面をゆらし、光の輪を作る。
どちらが本物の“聖女”かなど、そんなものは最初から決まっていなかった。
「私には、応援してくださる方がたくさんいます」
「それは、あなたの笑顔を信じているだけ。
あなたの“本音”を知ってる人は、どれくらいいるのかしら?」
セシリアの笑みが、ほんの一瞬だけ、ひび割れた。
「本音、ですか?」
セシリアはカップを置いた。
その所作は、あまりに滑らかで──だからこそ、どこか不自然だった。
「姉さまは、私の中に“何か”を見ようとしているのですね」
「ええ。見えるから」
「でも、それはきっと……姉さまの中にあるものなのでは?」
「違うわ。私の中にあるのは、“壊された記憶”。
あなたの中にあるのは、“誰かを壊すための信念”」
セシリアの微笑が、ほんの少し引きつった。
けれど、崩れはしなかった。
「そんなふうに思われていたなんて……悲しいですわ」
「私は、あなたが“悲しいと思っている顔”が、どうしてそんなに綺麗なのかが悲しい」
リリアの声は冷たくなかった。
むしろ、どこか優しかった。
「誰かに“信じてほしい”って思ったことは、なかったの?」
「……あります。ずっと。でも、叶いませんでした」
「それは、私に向けた気持ちだった?」
「……姉さまには、全部“完璧”でいてほしかったんです」
「なぜ?」
「完璧な人を、落とす瞬間だけが、
この世界で私が“正しい”と証明できる唯一の場所だったから」
リリアの呼吸が浅くなる。
「それが、“姉妹”としての愛?」
「愛ではありません。これは、私の願いです」
淡く笑ったセシリアの目は、どこか壊れていた。
「ねえ、姉さま。
この国で、“一番綺麗に壊れる人”って、誰だと思いますか?」
その問いに、リリアは答えなかった。
答えなくても、もう“答え”はそこにあった。
リリアはカップを置き、席を立った。
「そろそろ、戻るわ」
「そうですか。……またお話、しましょうね」
「ええ、そうね。次は、“お互いに仮面を外したうえで”」
セシリアは笑ったままだった。
そのまま一礼し、リリアを見送る。
リリアの背中を見つめるその瞳には、愛しさも憎しみもなかった。
ただ、空洞のような“希求”だけが残っていた。
廊下に出たところで、レアが静かに迎える。
「……お疲れさまでした」
「ううん、疲れたというより、削られたって感じ」
リリアは軽く息を吐いた。
「彼女の中には、もう“誰かを愛したかった痕跡”しか残っていない」
「それでも、見たのですね?」
「ええ。彼女の笑顔の奥に、“泣きたかった少女”がいた気がしたから」
リリアは足を止める。
「でも、私は彼女を赦さない。
その手で“私を壊した”ことを、忘れさせるつもりもない」
「それでも、情を残されたのですね」
「情じゃない。ただ……」
リリアは少しだけ空を見上げる。
「私は今、“誰かを信じる側”に戻りたくなったの」
「……それは、とても“リリア様らしい”ですね」
微かに微笑んだレアの横顔を見ながら、リリアは歩き出す。
崩すために近づいたはずの妹との距離。
それが、逆に自分の“孤独”を照らしたことに、リリアはまだ気づいていなかった。
その足音の先で、次の一手がすでに用意されている。
“仮面を剥がす”だけでは足りない。
今度は──“仮面の奥にあるもの”を、白日の下に晒す時が来る。




