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第1話 灰の春

 灰の香りがする春だった。


 崩れかけた礼拝堂の奥で、女はひとり膝を折っていた。火の気はない。雨に濡れた瓦礫の間から、夜の冷気が骨をなぞるように吹き抜けていく。


 そこに在るのは、かつて「公爵令嬢リリア=ヴェルニエル」と呼ばれていた人間の、燃えかすだった。


 口をきく者は、もういない。忠義を誓った者も、姉妹と呼んだ者も、愛を囁いた王子も。すべてが、彼女の罪の証人となって立ち会ったのだ。処刑台で膝を砕かれる音とともに、「彼女の物語」はあっけなく閉じられた。


 ──はずだった。


 しかし彼女は、まだここにいる。


 礼拝堂の大理石がざらりと音を立てた。


 膝を折った姿勢のまま、リリアはゆっくりと顔を上げる。その額から滴る赤が、乾いた床に散っていった。


 時間が、ほどけていた。


 世界はもう一度、最悪の春をなぞろうとしていた。


 ──あの春。


 妹が婚約の座を攫い、王子がリリアの「不敬罪」を糾弾し、父がそれを肯定した、あの季節。


「……笑っていなさい。今のうちに」


 かすれた声で、リリアは独りごちる。


 壁の向こうで、誰かの笑い声がする。22歳の彼女がいた時代、すべてが壊れる直前の“過去”に、身体は戻っていた。


 髪に手を差し入れると、あの頃と同じ絹の手触りが返ってくる。鏡もいらない。何年もかけて整えた自分を、忘れるはずがなかった。


 あの日。

 白いドレスを着た妹が、祝福を浴びながら、リリアの横を通り過ぎたあの日。

 リリアは口元を拭うようにして立ち上がった。小さく、小さく震えていた。


 これは救済ではない。

 これは、神が用意した最後の罰だ。


「……なら、壊させてもらうわ。あたしの手で」


 嘘と美徳で塗り固められた聖女の顔を、ひとつずつ、剥がしていく。

 声に出すと、喉が震えた。懐かしい音が、自分の中から戻ってきた気がした。


 そのとき、扉の向こうでノックの音がした。


「……リリア様? お目覚めになられましたか」


 柔らかな声だった。女の声。感情の輪郭は浅く、けれどどこか祈るような温度が混じっていた。


 扉の向こうの気配に、リリアはひとつだけ息を吸った。


「レア……なの?」


 そう名を呼んだ瞬間、記憶がひやりとした。


 侍女のレア=フォルシェは、記録にも、記憶にも、名を刻むような存在ではなかった。けれど、常に側にいた。

 声を荒げたことも、背中を押したこともない。

 それでも、彼女はずっと、何かを――いや、誰より深くリリアという存在を見ていた気がする。


 そして彼女は、今もそこにいた。


「お湯をお持ちしました。……お身体をお拭きください。長く横になっておられましたので」


「……入って」


 その言葉と同時に扉が開き、静かな足音が近づく。リリアが顔を向けた先に、変わらぬ姿のレアがいた。

 控えめな黒衣。まとめられた髪。伏せられた瞳の奥に、過去も未来も映さないような冷たさがある。


 だがその無表情は、どこか安心を誘った。


「ずっと、眠っておられました。三日目です。……呼吸が浅く、体温も低く、まるで」


 まるで、死んでいたかのように。

 その言葉を、レアは言わなかった。


「……あなたは、変わっていないのね」


「はい?」


「いいえ。なんでもないわ」


 レアは言葉の意味を問わず、ただ頷いた。


 リリアはしばらく黙っていた。立ち上がると、自分の脚がどこか別の時間に置き去りにされたような違和感がある。

 見慣れたはずの部屋が、どこか遠い。

 指先でカーテンの布地を摘みながら、彼女は窓の向こうの景色を見た。


 変わっていない。

 いや、これが“変わる前”なのだ。


 あの日々が繰り返されようとしている。

 あの裏切りと断罪と、沈黙と――妹の、あの完璧な笑顔までも。


「三日も、眠っていたの」


「はい。……お医者様もお呼びしましたが、“心の疲労です”と」


 心。そう、心が、砕けていた。

 だから今、ここにいる。


 リリアはゆっくりと座り直し、レアの持ってきた湯気立つ水盆に手を浸した。

 ぬるい。けれど、悪くない。


「レア」


「はい」


「……もしも、何かを選び直せるとしたら。あなたは、同じ道を辿ると思う?」


 一拍の沈黙ののち、レアは応えた。


「リリア様がどのような道を歩まれても、私はきっと、それに遅れないように歩くだけです」


「……変なことを訊いたわね」


「ええ、少しだけ」


 ふっと、リリアは微笑んだ。

 こんなふうに笑うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


 午後の陽が、窓辺に縁を落とす。


 レアは何も言わずに、そっと湯盆を片づけると、ドアの前で一礼して出ていった。リリアはその背中を見送る。

 扉が閉まる瞬間、振り返ったレアの目に、一瞬だけ迷いが宿っていた気がした。


 ……記憶はない。けれど、勘が残っている。

 それは、リリアのほうも同じだった。


 彼女がこの部屋で初めて目を覚ましたのは、22歳の春。婚約が発表される一週間前、妹の“祝福された婚姻”があらゆる報道紙を飾る直前だった。

 すべてが決まっていて、誰も疑ってなどいなかった。


 リリアだけが、何も知らずにいたのだ。


 だが、今度は違う。


「記憶が残っているなら……利用しない手はないわね」


 足音を殺して、執務机に歩み寄る。

 引き出しにあるはずの書簡、日記、妹からの手紙。すべてが存在していた。

 これは夢でも幻でもない。

 過去そのものだ。


 ──妹、セシリア=ヴェルニエル。


 あの“聖女”の仮面をかぶった少女が、王子の信頼を一身に集め、リリアを断罪の舞台に押し上げた。

 白いドレスと涙の芝居で、すべての人々の同情を手に入れた“妹”。


「……まずは、婚約の件」


 最も大きな鍵は、王子との“婚約破棄”である。

 リリアが不敬罪を問われるのはその直後。つまり、真相を探るには、まず“今”動かなければならない。


 彼女は日記帳を手に取り、最初のページを開いた。

 書かれているのは、きっちりと整った筆跡。

 かつてのリリアが記した、規則正しく、真面目で、誠実な日々。


「……こんなふうに生きていたんだっけ、私」


 愚直だった。

 誠実さが過ぎて、疑うことを知らなかった。

 だから、失った。


 すべてを。


「──もう騙されない。誰の声にも、誰の涙にも」


 自分のために、生きる。

 自分の手で、真実を暴く。


 そのとき、扉がもう一度叩かれた。


「リリア様、王太子殿下からお使いが。……お茶会のお誘いとのことです」


 リリアは、ふっと息を吸った。


 始まった。

 運命の再演が、静かに、確かに──


 幕を開けた。

お読みいただき、ありがとうございました。


リリアが辿りなおす過去と、その先にあるものを、ゆっくり描いていけたらと思います。


次回もよろしくお願いいたします。

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