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【9・はしりがめ】

 まだ窓の外は薄暗く、時刻は五時八分で、おれは床に横たわっていて、目が覚めた。

 毛布とタオルケットは互い違いになって、角の部分を腹に掛け、長辺に足を絡ませて、体のほとんどは外に出ていた。肌寒いというほどでもなく、くしゃみが出そうになった。鼻の奥の裏に、ちりちりする感覚に息を止めて耐えながら、ベッドの上を覗いてみると、なぜか丸田川が俯せに寝転んでいて、交わした腕の上に頭を載せ、彼女は浅く短い寝息を立てていた。

 ずれた掛け布団の下、タンクトップの襟元、ショートヘアの毛先。

 項から肩に掛けて、電線を張ったように筋張っていて固そうなその表面は、セラミックの包丁のようにつるつるしていた。彫刻という物を実際に見たことはない。だけど写真や映像で見たそれらと同じくらいには、肌の表面に弾性が感じられた。おれの目が、ほんの微風で押し潰されるくらいに弱っているだけかもしれない。暗い所に目を凝らしてみると、脇の下にはホクロが二つ並んで、胸は哀れなほど押し潰されていた。マットレスと、どちらが先だろう。

 全て終わってしまった後のような、冷たい緊張感におれは息を潜めてしまった。

 浅く短い寝息が聞こえる。

 手の平を床に押し付けて、ゆっくりと近付いてみる。

 後ろ暗い高揚感が腹を濡らし、おぞましい寒気が背筋を這い登ってくる。

 マットレスに、おれは触れた事があるし、その感触は知っている……はずなのに、今はその感触にさえ異様な関心を覚えている。どちらが先で、後かなんて関係ないのだ。ベッドの脇に膝をついて、ほとんど息を止めたまま、その隙間がどちらかを確かめようとしていた。

 手を伸ばす。脇の下から差し込んで、どちらかが沈み、どちらかに押し返された。

 指を食い込ませる。意外なほどにすんなりと、力が伝わり、形は変わらなかった。

「やめてね」声が、あまりにも低い所から現れ、打ちのめされる声だった。

 手を引く事も出来ない。止めようと思っても、指は軽く開いたり、閉じたり、動きを止められる場所を探そうとしている。「あ、いや。まだ寝てるのかと思って」答えながら、自分が何を答えているのかも分からなかった。「手、離してもいいですか」やっと、そう聞いた。

 丸田川が顔をこちらに向ける。「そんなに触りたかった?」

「そんなには……いや、その。前は、そうだったかもしれないんですけど」

 喪失感、があった。

 元々そういうものを想像する時は、自分の体の中心に、それを押し上げる感覚が痛いほどに明らかに現れていた。そうするべきとか、そうしなければならないとか思わせるような、悲痛な感覚に全身を支配されていたのだ。もはやそれは精神的にも自らの支柱となっていた。

 思い返してみれば、そうだったのだ。しかしすぐに思い出す事が出来なかった。

 何をそんなに渇望していたのか、今の自分には分からなかった。

「男の人だったら撃ってたかもしれないよ、西ちゃんじゃなくて」

 体を浮かせた丸田川の胸と、シーツのどちらに手を残すべきか、考える前に手が押し退けられて、おれは自分の手を力任せに引き寄せた。「西ちゃん……でいいのかな、昔は太ってたんだね。玄関の写真」横向きになって、彼女は顎まで布団を上げた。「手、どうかした?」

「なんか、なんでもないです」

「そう。なんだまだ五時か、もう少し寝てていいよ?」

 と言うが早いか、すぐに寝息が聴こえて来たと思ったら、また急に彼女が言った。「っていうか西ちゃんどうして床で寝てたの?」たぶん丸田川に追い出されたからだ。追い落とされたというか、床でいい、という丸田川の発言を信じた結果がこれだ。どこかの時点で布団を剥ぎ取られ、ベッドから引っ張り出され、床に落ちた瞬間があったのだろう。「ちょっと奥に詰めてください」などと自分の寝床に対して下手に出ながら、おれは布団の中に潜り込んだ。

 すぐに気が付いて、目の前に青い光が無い事を確かめると、七時半を過ぎていた。

 部屋の中は温かく、眠りに落ちたばかりだから、少し汗を掻いていた。

 ベッドから出て、丸田川の姿を探した。一階に下りる事にした。丸田川は黒いジャケットを羽織って、タブレットでニュースを読んでいた。「これ落とすのに朝から一時間くらい歩いちゃったよ」顔を上げずにそう言うと、スラックスのポケットに手を入れた。そういえば、と彼女は言った。「戻って来た時、玄関に張り紙がしてあったんだけど、これって西ちゃんがやったんじゃないよね」そう言って折り畳まれた白い紙をテーブルに置いて、片手で広げた。

 一回だけ。もう二回、おれが折り目を広げてみると、黒い筆文字が見えた。

『再戦/はしりがめ/六月二十八日・午前一時まで/残り〇回』

 と書いてあった。「あ、マッチメイカー」

「やっぱりこれがそうなんだ。この『はしりがめ』が相手の妖魔って事?」

「知ってるんですか?」

「どうだろう。退治した事はないと思うよ?」

「してたらたぶん書かれてないと思うけど、これ、残り〇回っていうのは」

「残りが無いって事じゃないの?」冷めたスープを啜りながら、丸田川が適当に答えた。

 朝食は昨晩の残りに、保存食の缶詰をいくつかテーブルに積み上げてあった。台所から勝手に出してきたらしい。果物も、煮豆も、馬肉も、パンも、チーズもあった。白桃の缶詰を取って、おれは丸田川の向かいの椅子に座った。ワイシャツの、胸元に、もう何も感じない。何も期待していない。そう感じると、何か寂しい感じがする。「あ、それから。そういえば」

 タブレットに目を落としたまま、彼女は言った。

「駄天子異聞録っていう本があるんだけど」それから、彼女はおれを見て、テーブルの下を覗き込もうとした。「掛けてあったセーラー服でいいんじゃないの、寝る時の服……要するに天狗とか天使とか妖精とか、そういう伝承って根本で似通っててね、連れ去り、神隠し、取り替えみたいな事がよくあるんだけど、昨日見た七縄鬼も、同じ感じなのかなって思ったのよ」

 ほとんど粘液のような果肉が、口の中でしゃりしゃりと音を立てる。「どういう事?」

 彼女は言った。「別に、ただ似てるなって思っただけなんだけどね」


 西島秋奈の身長は百六十センチメートルだった。

 制服だから、もう少し大きめに作ってあるけど、まあでも今のおれとは誤差の範囲だ。

 言ってみれば形見みたいな物だけど、大事に取っておく物でもないので、元来の用途の通りに冠婚葬祭や、勉強や運動や外食や掃除などにも軽率に使ってもいいかもしれない。一度だけ袖を通した事もある。動き難い事もないし、暑いとか寒いとか、肌が痒くなるとかいう事もなかった。それでも使う気が起きないのは、元の姿での制服姿を見せられなかったからだ。

 分かってる、そんなのは気分の問題だ。

 その後の太った姿を見られなかったのと同じくらい無関係な話だ。

 でも他人から面と向かって言われて、思いのほか自分は何か感化されていたらしく、出掛ける際にうっかり着て行こうとしてしまった。危ない所だった。むしろ今日は蒸し暑いし、激しく動くだろうし、まして冠婚葬祭でもないのに、余計な意味を持たせたりしてはいけない。

 そんなわけで、キュロットに肩出しのカットソーという格好だ。

 お下がりは何でも、片っ端から汚れても破れてもいい服だった。助手席を倒して窓を開けたまま、もう一時間近く揺られている。頭が重苦しく、暗い気持ちになっていた。顔に当たる風も、他人の吐息が紛れ込んだように湿っていて生暖かく、あるいは自分から漏れた酩酊感を吸い直しているような気分だった。窓の外の風景は、曇天の下に青々と茂る木々と、ひたすら蛇行し続ける道路しか見えなかったけど、そのうえ体を起こしてまで見たい物は無かった。

「もうすぐ着くからね」と丸田川が言った。もう十一回目だった。

 今朝、ニュースを見終え、新しいニュースのダウンロードが完了すると、丸田川はすぐに準備を始めた。ソファに斜めに腰掛けて眺めているおれの目の前で、片付けをし、お菓子をポケットに入れ、銃の手入れをし、次の瞬間には「行くよ」とだけ言っておれの手首を掴んだ。

 その時こっちはまだ何の準備もしていなかったのにだ。

 五分で済ませた。

 早朝の定時連絡によれば、翅を持つ妖魔の名前は『ぼどうがが』だと伝えられた。

 今現在そいつはおれの祖母、西島筒美を連れて、幾都里村の渓谷に逃げ込んでいる。

「現場にはもう着いてるって」丸田川は信号が倒壊した交差点で一時停止をし、左右に何の確認もしないで再び車を発進させた。左手の谷間に小さな橋が架かっていて、欄干は乗り捨てられた車両に曲げられ、下の方を覗き込むと、川面にも一台か二台の車のバンパーが突き出ていた。「極楽商会以外にも、……どこだったかな、たぶん他の妖魔も居るから、西ちゃんはする事ないかもだけど。それでね、もうこの辺りから外出禁止区域になってるはずなんだけど」

「人居ないですね」

「西ちゃんが何も見えてないんだったらいいけど」

「え、ああ、核も見えないですね。あれって壁とかあるともう見えないですけど」

「そう。でも他の妖魔が寄って来る可能性はあるから、周りには注意しておいてね」

 道の右手は家や何かの商店が建っているけど、すぐ先が深い傾斜に落ちているようで、所々にある隙間からは、対岸の傾斜に生い茂っている林の緑が見えていた。左手は緩い傾斜が上がっていて、こちらは少し高い所まで疎らに民家が建っているだけだった。渓谷を切り通した隘路と、道沿いに集まった集落は、それ自体が地の果てのような寒々しい光景だった。少し背もたれを上げて、深く座り直した。ふと、民家と民家の間から、何かが動いた。「あっ……」

 声が漏れると同時に、飛び出した人影と、衝突の音は、車のボンネットに乗り上げた。

 長身の男の、メガネを掛けた、浅黒い顔が見えた。

 成人の男に圧し掛かられるような衝撃が車を揺らした。

 車は緩いカーブを右に抜けて、やっとブレーキが踏まれた。

 前方に放り出された人物を冷たい目で見下ろしながら、丸田川が車を後退させた。

「あの、人轢いたみたいですけど」何を他に聞けばいいか分からないまま、おれは運転席の横顔を見上げて、いきなり左に押し付けられた。タイヤが足下で唸っている。十一時十五分、わずかに右へ切られたハンドルは、その先に倒れていた男のすぐ脇を間一髪ですり抜けた。

 再び急ブレーキで車が停まると、丸田川がシートベルトを外しながら車外に飛び出した。

 数メートル先に、銃口に付いた消音器の狙いを付けていた。

 男の方は地面に蹲ったまま、地面を蹴って、起き上がろうとしているのか、前に転がろうとしているのか分からない、夏の虫のような動きを繰り返していた。訳の分からない呻き声は、アスファルトで唾液と砂利が混じり、音にすらもならなくなる。血は出ていない。服の下がどうなっているかは分からない。ただ、土気色の肌に脂汗が浮いて、苦痛が伝わって来る。

「西ちゃん」と丸田川が静かに言った。「これはどっち?」

「分からないですけど、なんかもう、死にそうじゃないですか」

「じゃあ死ぬ前に核だけでも食っておかないとだ。……幾都里の人ですか?」

 男が顔を横に向けた。腹を押さえている両腕を地面に立てて、体を起こそうとした。

 やっと起き上がると、片腕は折れ、もう片方は根元から縦に裂けて、その中から無数の触手が伸びていた。丸田川が左手で俺を制した。触手は単なる骨のように白く、小指よりも細い物が束になっていて、先端の方には細かい爪が何本も生えていた。彼がシャツを捲り上げると、腹は臓物に沿って赤黒く腫れ上がっていた。すると触手が、その胴体に巻き付いた。拘束するように、あるいは抱擁するように。そして引っ張ると、爪が無数の、微細な傷を付けた。

 血は流れない、代わりに傷の周りが半球形に盛り上がり、捻れて、光り始めた。

「螺髪?」丸田川が呟き、ゆっくりと銃口を下ろした。「攻撃はして来ないね」

 そのうち半球が萎み始め、ケガも無くなって、最後に右腕がぴったりと閉じた。

 男は俯せに倒れ、その格好で「ねみぃ……マジか」とだけ言って、動かなくなった。


 男は菊池大地、あるいは『たちやげん』と名乗った。

「気が付いたら地面が肉で出来てるみたいな変な暗い場所に居てさあ」と言って、彼はそのおぞましさを思い、後部座席で身震いをした。「俺とあと二人居たんだけど、とりあえずわけが分かんないから歩いてたら、変な奴に会ったんだよ。火傷か何か知らないけど、顔全体が爛れててね、スーツにハットを被ったキザな奴、そいつしかも動物の死体なんか持ってんのよ」

 逆立てた髪は短く、メガネかと思えばレンズには薄く色が入っていた。

 派手な色のパーカーに、ジーンズを穿いて、靴はバスケットシューズだ。

「その男と何があったんですか?」と運転席の丸田川が聞いた。

 すると男は嫌な高さのよく通る声で、重大な事のように語った。「確か『むじんぼう』って言ってたかな、そいつが案内するって言ってしばらく一緒に歩いていたら、いきなり変なでかいマネキンに捕まって、でそいつが、助かりたかったら協力しろ、って言って来たんだよ」

「したんですか?」交差点で車が徐行し、カーブを抜けると瓦礫が道を塞いでいた。

 丸田川がカーブミラーを見上げ、リアウィンドウを振り返った。「迂回しないとだ」

 男も背後を見て、丸田川と目を合わせながら訊ねた。「ていうかどこ行くわけ?」

「外出禁止区域。で、あなた達はその男に協力したんですか?」

「それはしないと助からないじゃない」彼は不服そうに答え、丸田川から貰った飴の包み紙を手で弄んだ。飴自体はすぐに口に入れて、真っ先に噛み砕いてしまったのだ。「なんとか下ろして貰ったんだけどね、そいつが言うには、これから色んな奴と戦って、勝って貰わないといけないんだって。格闘技か何かだと思ったら、違うのよ。妖魔同士が戦ってるんだって」

「マッチメイカーと呼ばれる存在が、勝手に日程を送り付けて来ます、西ちゃん」と投げて寄越して来た張り紙を、おれは後部座席の男に手渡した。……持って、来てたのか。「あなたの体の異変、右腕から生えた触手は、恐らく妖魔じゃないかと思うんですが、違いますか?」

「そう、そうなのよ。お前らはこれから妖魔になるんだ、って言われて」

「三人とも、ですか?」

「それから、青い炎みたいな物が見えるようになって……、そうだ、あんたらも」彼が座席から体を浮かせ、座席の間から覗き込んできた。「それって何なの。もしかして、妖魔の魂みたいなのが見えるようになったって事? だとしたら、俺、俺にも同じ物があるんだけど」

「人間にもあります。生き物全ての、核です。妖魔はそれを見分けるんです」

「なるほどね。虫には無かったけどな。鳥も……人間はあるんだ。妖魔も?」

「妖魔になったって言いましたけど、その方法は?」

「知らないよ、気付いたらこうなってただけ。それでこれよ」と彼が言って、背後で紙が乾いた音を立てた。「これみたいな紙があったのよ」彼らの物にはこう書いてあった。『四回戦/ぼどうがが/六月二十七日・午前一時まで/残り二回』と、同じ物が三枚、彼らにも配られたのだ。「その三枚は、三人で一つ分だって言われて、そのままどこかに行っちゃってさあ」

「『むじんぼう』がですか?」

「みんな。あとの二人も。まだ近くに居ると思うけど」

「その二人の名前って分かります?」

「岸田と坂井だって。って言っても知り合いじゃないよ」

「あ、できれば妖魔の方の名前を」

「え、っと『たちのわき』と『たちやませ』だったかな」と彼が言った。「あいつ……『むじんぼう』が、一つを三つに分けたから、名前もわざわざ新しいのを考えてみたんだって言ってた。どっちがどっちだったかは忘れちゃったけど、全部タチから始まるのは覚えてるよ」

「一つを三つ?」

「なんか、戦意のない妖魔を不死状態にして、人間を取り込ませるんだって」

「……本当にそんな事を言ったんですか?」

「確かそんな……不死状態は確実。仮死状態じゃないのかって聞いたからさ」

「でも不死状態だったと」丸田川は方向指示器を出さずに、車を路肩に寄せて停めた。

 谷間の道の途中で、まだ魔人会や警察や、妖魔の姿は見当たらない。しかし、道の少し先にガードレールがあって、その上に赤いボディスーツを纏った人物が足を置いて、しゃがみ込んでいた。「なに、着いたの?」と男が聞いて、フロントガラスを覗き込んだ。「すげえ、あれって五行隊じゃん、そうでしょ。初めて見たわ」更に明るい声になって、彼は一瞬、ドアを開けて近づいて行きそうになった。それが急に冷めた表情になり、丸田川に「なに?」とだけ訊ねて、ゆっくりとシートに体を預けた。その胸元に向けた銃口が、左に寄れと指し示した。

 片手で銃を構えたまま、丸田川が冷静な声音で言った。

「あいつらは、妖魔と見れば見境なく襲う可能性があります」

「別に何かするつもりはないし、ぶっちゃけ俺人間に見えねえ?」

「この子も」と言われるのはいいけど、銃口で指されると心臓がびっくりする。「妖魔には見えないでしょう」そう言うと彼女は静かにドアを開けて、車外に降り立った。そしてドアの隙間から覗き込んで来た。「そこに居てください。動かないで。西ちゃんは降りるんだよ」

 湿っぽい曇天の下の空気は重く、肌にまとわり付いて来るようだ。

 丸田川が先に近づいて行くので、おれも後を追った。すると突然横から「どうしようか、何もなく通して貰えるか」などと呟く声が聴こえ、丸田川は足を止めていた。一歩先に出て、どうするのかと尋ねようとして振り返ると、彼女の背後には何か透明な物が揺らめいていた。

 それは黒い軽自動車を包むように、うねりながら、対岸の斜面に向かって伸びている。


 左の前輪が浮いた瞬間、後部座席の男は逃げようとも身を守ろうともせずに、助手席側の窓を覗き込もうとして、腰を浮かせていたようだった。彼の身は背もたれに叩き付けられ、右の後部ドアに叩き付けられる。まだ、脱出、出来るのではないかと思いながら、眺めていた。

 軽自動車は横倒しになったまま空中を駈け出した。

 透明な、道が出来ていたのではなく、それは透明な腕だったのだ。

 鶴瓶を引くように離れていく軽自動車の先に、透明に揺らめく帯が微かに見え、その逆端は対岸の斜面を覆う林の中に隠れている。「ちょっと! 待ってウチの車……」追い縋ろうとしたのも四歩、五歩くらいまでで、丸田川はガードレールに遮られる前に、自ら足を止めてしまった。「あぁ、壊れるって絶対」梢を払いながら、車は斜面に落ち、車体は半分以上が木陰の闇に同化した。丸田川は溜め息を吐き、背筋を伸ばして、さっさと踵を返してしまった。

「ここからは歩きだね、西ちゃん大丈夫? あと……三十分くらいだけど」

「それはいいけど、あの、……あれは」

 と指差した先には、赤いボディスーツを纏い、素顔の上に炎のようなバイザーとマスクを装備した男が居た。蹲踞のように、ヤンキーのように、白い小さな鉄柱の上に座り込み、左手に持った双眼鏡のような物で対岸の斜面を探っている。「あーあー、しょーがねえなあ」と彼は投げやりに響く声で言った。「敵が三体、四体も居て一人で対処できるわけねえんだよな」

 情熱の赤は、リーダーの色だろう、その名前は恐らくレッドフレイム。

 彼は「そこだな」と呟くと、双眼鏡を下ろして、右手を顔の前に伸ばした。

 四指を丸め、人差し指と親指で輪を作って、ちょうど対岸を覗き込めるように。

 した。その瞬間に彼のバイザーから手に向かって橙色が噴き上がった。おれの体を遮る物があった。丸田川が片腕で制しながら、上衣の内側にある拳銃に手を触れていた。目から手に走り抜けて、炎は消える。何が起こったのか分からないが、その前に丸田川がおれを呼んだ。

「向こう、燃えてる」と彼女は言った。

 対岸の、斜面を覆う、林の一部が丸く燃えていた。

 縦に長く、楕円に近い形に伸びた炎は若々しい青葉を焼き、枝に火を点して、瞬時に面積を広げていった。その中に黒い軽自動車が現れ、直後それは爆発した。近くを人影が走り去っていった。「これで逃がしちまったんなら、こっちはもう単独で身動きしようがねえなあ」

「あの……」丸田川が前に出る。「こ、ここで何をしてる?」

「ああ?」赤い男が立ち上がり、首だけ捻って丸田川を見た。「山狩りだろ?」

「今朝新たな妖魔が確認されました、この近くで。警戒レベル2以上の」

「おい、そんな物騒な物は出すな。このスーツ、穴が空いたら困るじゃないか」

「魔人会と警察が現場周辺の道を封鎖しています。検問も、敷かれていたはず……」

「うるせえなあ、しがらみがよ」赤い男がガードレールから飛び降りた。「ボルドーマンが言ってたよ……『ぼどうがが』だな。こちらの標的は別にあるから手は出さない、が。だったらお互いにスルーしておくべきじゃねえかなあ、どう言やあ分かって貰えるんだろうなあ」

「あの、車を持ち上げた奴?」

「それも含めて三人居る、だろ?」

 赤い男が右手を持ち上げる。丸田川が拳銃を構えた。「おいおい」と赤い男が言った。「あんたらの武器所持もお目溢しあっての事だろうが。ちゃんと申請して、許可が下りた相手なのか、俺は」左手も持ち上げ、彼は両手を丸田川に見せていた。「勝手に熱くなってんなよ」

「あの三人もこちらで処理します」

「一人でか? それとも、そいつを使ってか? それ以上の人員が割けるのか?」

 丸田川が何も答えずに、ゆっくりと左に一歩、動いた。赤い男が黒いスーツに隠れた。

 赤い男が空を見上げ、頭を振った。「さっきのは『かまいたち』だな」と彼は言った。「一人が転ばせ、一人は傷を作り、一人は薬を塗るわけだ。触れるだけで何でも治す怪異か……確かに味方に引き入れれば心強いが、お前、車で轢いてたな、そんな奴が仲間になるか?」

「でもこのまま野放しにするよりは、私達が」

「その片割れを殺したり、分断させてでもか」話を遮られ、気圧された丸田川は半歩ほど後退った。「だが三人組というのが気に入らない。ボルドーマンは、それ自体が何かのスイッチになると考えた。残った二名に力が引き継がれるとか、死んだ仲間を生き返らせるとかな」

 丸田川は、すぐには返答出来なかった。考えている。相手の言葉を検討し、自分達にとって有用な情報は無いかと探ってしまっている。その逡巡を、誰も咎めなかった。赤い男は体を揺らし、対岸の方へ視線を向けながら、ただ待っていた。彼の様子を窺い、何も言わないのを確かめてから、丸田川が探るように問い掛けた。「だったら、どうだって言うんです?」

「さあな、このままイタチごっこに追い回され続けるのかもしれねえな」

「倒せる算段があるんじゃ、ないんですか」

「知らねえよ。そういうのはボルドーマンの仕事だ」赤い男が言った。「なんだ、あれば協力でも申し出たのか。だったらそいつを差し出すべきだな。我々は、そういう訳のわからん類の物と……」不意に、彼があらぬ方向を見上げる。丸田川も同じ方向を見て、おれに何か言おうとしていた。破裂音の向こうに、全ては掻き消された。その音なのか、自分の体を貫いた衝撃なのか、分からない。悪寒そして、熱感がある、その場所が真っ先に叫び始め、それが痛みだと気付くと左胸が痛み始めた。傷でも何でもない、もっと大きくて、果てしない物のような感覚だった。おれは地面に倒れていて、足に力が入らないようだ。吐き気と、冷や汗が押し寄せて、その度に左胸の奥が疼いた。「お前、星川町に居たな、……魔人会に協力していた」

「西ちゃん!」丸田川の声は、揺れながら何度も反響しているように聞こえる。

 そちらには黄色いボディスーツの男が立っていて、リボルバー拳銃を構えていた。

「お前もだ、銃を捨てろ」軽やかな音が地面を滑る。「あの帽子の男は居ないんだな」

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