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【8・ぼどうがが】

 ハイビームが照らす道路は淡い黄色と真っ暗闇のまだら模様だ。

 俺たちは数秒後に辿り着く場所を見続け、その光の中には永遠に入る事が出来ない。

 ガードレールと、その次は茂みが不意に現れ、代わりに道は向こうに消えている。

 緩いカーブか、長い長い直線が来ると、その形は路面の反射板で判別するしかない。

 丸田川はハンドルから左手を離し、尻の下に突っ込んで、引っ張り出したガムの包み紙を一枚二枚三枚と片手で器用に剥いて口に入れた。コーヒーの匂いと、口を開かなくても、頬を通して聞こえる咀嚼音がエンジン音にも負けずに車内に残った。「今どこ走ってるんだっけ」と彼女は言った。地図は後部座席にあって、おれが膝の上で開いたままにしてあるのだけど、それを見るまでもなく、車は道を真っ直ぐ、南東に向かって走り続ければいいはずだった。

「ずっと道なりだけど。県道にぶつかったら右で、坂を上がったら今度は国道を左」

「ねえ、暗いのに地図見えてるの? 適当な事言ってたらこの子が帰れないよ」

「見えるけど。しばらくは真っ直ぐって自分で言ったんじゃないですか?」

 その子は、助手席で猿のように縮こまって、ひたすらフロントガラスを睨んでいた。

 名前は塚本琉歌。

 彼女は伊草町の外れに住んでいる中学生で、その夜、母親が家から飛び出したのを追い掛けて近所を捜索している間に、いきなり穴に落ちたのだ。気付いたら一人きりで、彼女は赤黒い大地に横たわっていた。「しょうがないから歩いてたら、あの人が、……その前にあの、鬼みたいなのに捕まって、連れてかれそうになって、それを助けて貰ったけど、それからずっと引きずられてて、やっと丸田川さんとかに」と、聞くまでもない事を一通り彼女は説明した。

 助けて貰った、と言うわりには、戻って来る時もずっと神人真冬香に警戒していた。

 冥府に残って人を探すのだと聞いた時には、こっそりと胸を撫で下ろしてもいた。

「それは言ったよ」と丸田川が言って、クラクションを短く二度、叩いた。

 助手席の塚本が肩を震わせた。

「でも西ちゃんだったら一人でも歩いて帰れる距離だったと思うけど」

「こんな時間に? こっちは無理やり連れ出されて冥府まで行かされたのに」

「報酬なら出るよ。『よつかがみ』の退治が確認されればね。核も、よかったの?」

「おれはいらないので」と答えると、なぜか塚本が振り返っている。

 暗闇に目を凝らして、ぼんやりと浮かび上がるおれの肩や顎のラインを見ているようだ。

「どうしたの」と丸田川が訊くと、塚本が首を振り、窓側の暗闇に顔を向けてしまった。

 もう少し速度が緩ければ、彼女は窓を下げて暗闇に頭を突っ込んでいた可能性もあった。

「いや……それで前のやつも持ってって欲しいんですけど。『ふくろづめ』の時の」

 たぶん塚本は何も見ていなかっただろう。

 おれが居る辺りに視線を彷徨わせて、不意に外から差し込んだ光に、驚いた様子で目を見開いていただけだ。本当に何も知らない、ただの中学生の女の子だった。おれだってまだ冥府に行ったという事実が呑み込めたわけじゃない。「はいはい、それも社長に言っとくね」丸田川の適当な返事を聞いて、おれも窓の外に目を向けると、ちょうど廃病院が近づいてきた。

 左右から挟み込む雑木林が不意に途切れ、灰色の病棟が宵闇を背景に浮かび上がる。

 赤黒くもなく、揺らめいてもいないし、過剰に冷やされてもいなかった。

 やや湿り気を帯びた外気に、爽快な微風が吹いて来るくらいだ。その辺りに小さな青い光が浮かんでいた。「あっ……、ここか」と何にも触れない言葉を漏らし、おれは前の二人の様子を窺った。不審に思われたようだ。不審に思われただけだった。「あと何分くらいですか」

「知らないよ、この辺こんな遅い時間に走った事ないんだから」

「あともう十五分くらいで、着くと思います。車だったら」

「そうなの」と丸田川が助手席を見た。「じゃあもうすぐだよ」

 座席を横にずれて道の反対側を見ると、住宅地の方にも青い光が見えた。

 さすがに、声を漏らしはしないけど、唯々それはうんざりする光景だった。

 高台の向こう、家々の屋根が連なる辺りの、空が青く光っていた。近いのではなく、遠くてしかも大きかったのだ。これまでの経験から、分かる事は何もない、とはいえ妖魔としての実感から思い付いた事があって、食らった量によって核が大きくなる可能性はあった。じゃあ一体、そこまで大きくするのに何個の核を食らったのか、つまり何人の人間と、妖魔が犠牲になったのか。でなければ、望むべくもないけど、でなければ、ただの青い照明だったのか。

 見間違えるかどうか以前に、前の二人は核の青い光自体が見えていない。

 不安になるくらいなら、二人に聞けば良かったのだ。

 空が青く光っていないか、核の青い光が見えないか、と。

 聞かなかったのは、そういう事だ。気のせいだった、かもしれない。

「別々に、送れば良かったんじゃないかな。こんなに時間掛かるんだったら」

 それは出発前にも言った事だ。車を持ってきた高本小舟と共に羽毛市から学校に戻ると、碁川教諭はポリ袋に詰めた『よつかがみ』の頭部と胴体を魔人会に引き渡して、さっさと学校を閉めて帰ってしまった。大鳥警護は残って作業をした後、車で会社に戻ると言うので、丸田川がおれと塚本を車で送る事になった。じゃあ、その作業中に高本小舟が車で送ってくれれば良かったんじゃないか、と今更気付いたって遅いのだ。ここで降りて歩いて帰るよりは、伊草町まで塚本を送り届けて、そこから車で戻って来る方が、もしかしたら早いかもしれない。

 それで万事解決とはならないけれど。

 揺れに身を任せていると、それが心地よいと錯覚してくる。酔いを感じないのは、それを不快と思わない理由がどこかにあるからだ。外気が触れない、暗くて外が見えない、空腹でも満腹でもない、それだけでもいい。そこから不快だと思うべき理由を見つけてはいけない。

「なんか音楽流そうか」丸田川がMDを拾って、カーステレオにセットした。


 材木町が近づいてきた時、その違和感の輪郭が金具で補強されたように濃くなった。

 もはや他の何でもない形になったからこそ、避けがたい恐怖や、嫌悪を逸らす余裕が無くなってしまった。向き合わなければならない。その場所から。その建物、その自宅から、逃げ続ける事は出来ない。「丸田川さん」おれは背後から彼女に呼びかける。「ここで停めて」

「え、まだ着いてないけど。どこに……どこでもいい?」

 そう聞く前から彼女は素早くステアリングを回し、住宅地の路肩に車を寄せた。

 サイドブレーキを引っ張り上げ、真っ暗な後部座席を振り返って、それから彼女はルームライトを灯した。「トイレ?」と尋ねる丸田川の顔が大きく見えた。目の奥に光の粒が、ゴロゴロと入り込んだような異物感に襲われる。おれは固く目を閉じた。「あ、眩しかった?」

 俯いて目を開くと、淡く黄色い自分の膝は、だらしなく横に開かれていた。

 深く座り直し、窓の外を見た。「あれが……いや。核みたいな光が見えるんですけど」

「え、ほんと。どこに?」丸田川が頭を屈めて窓の外を覗き込んだ。

「どこにというか、もうすぐそこに」和菓子屋の曲がり角からも、青い光が、屋根の向こうに見えていた。その一画にある四、五軒の民家が巨大な青い炎に飲み込まれ、その光は周辺の民家を青く……照らしはしなかった。夜空の星のように、太陽の穴のように。核の青い光だけが地表にある暗闇の上に孤独な点を打ち込んでいる。「あの辺まで全部、青く覆われてて」

「それって妖魔が見える、ってわけじゃないのね?」

「そう。あの、核って核を食らうと大きくなる、みたいな事って」

「実際見たわけじゃないけど、強い弱いは分かってたみたい……『ことりばこ』はね」

「じゃあ、そういう事だと思うんですけど、どうするんですか?」

「騒ぎにはなってないし、少し近づいて様子見てみてからでもいいかも……行くね?」

「ちょっと待って」と言う暇もなく、丸田川は再び車を発進させて、おれが指し示した方向に進行方向を変えていた。また少し進んでから、やっぱり引き返して、核の光の中心を探して右往左往する間に、車は当初の目的地……つまり、おれの自宅に近づいているようだった。

「本当にこっちで合ってるの?」丸田川がそれとなく聞いてきた。「まだ見える?」

 また近づき、また離れて、車は明らかに自宅を中心にした螺旋を描いている。

 あるいは自宅だけを、意図的に避けている。「はい。ずっとあそこに」

「でももう、……もしかして、それって西ちゃんの家?」

 なんて答えればいいだろう、……自宅の、隣とか、裏の家かもしれないなんて。

「そう、かも。たぶん」石畳の路地に入って、車はライトを落として徐行し始めた。

「孫があんなんなっちゃって」見慣れた街の風景が暗闇に閉ざされている。「子供も残せるか分かんないし」その中でも自宅の塀と、門の位置だけは見なくても分かった。「秋奈と幸太さんに申し訳ないよ」見たところで、巨大な青い炎に包まれている事は、すぐに分かった。

 家が燃えているのではなく、核の青い炎は、家とは関係なく揺らめいている。

「ウチに居るみたいです。そこ、おれんちだから」

 車を停め、シートベルトを外しながら、丸田川が言った。「見てくる。……来る?」

「いや、えーっと。一応、あの。行った方がいいんですか?」

「居ても居なくても、なんとかする。確認するだけだし、近くに公衆電話ってある?」

「大角デパートの周りに、あの……向こうにある。見えますか?」

「位置は確認してある、けど遠いな」丸田川が車から降りたので、おれも道に降り立って、彼女の横に立った。「さっきの番号は分かる? 緊急回線。**7から始めて、まあ魔人会のどこにでもいいんだけど、何かあったら西ちゃんが連絡してね」先に歩き出した丸田川の後に続いて、三軒目、二軒目、そして自宅の門に差し掛かった時、おれは彼女を呼び止めていた。

「あの、……大丈夫ですか」

 振り返った丸田川の表情は青く塗り潰され、ただの陽炎と化していた。「なにが?」

「いや、何もないならいいけど」ただ大きく見えるというだけで、その炎に触れるとか、取り込まれるとかいう事は無いらしい。立ち止まっているのも変なので「気を付けて」とだけ言っておいて、おれも門を潜った。庭に入ると、丸田川が小径から二階の、おれの部屋の窓を見上げていた。窓は開いていた。「あそこに何か」と聞こうとすると、即座に聞き返された。

「西ちゃんの方が分かるでしょ、何か見えない?」

「何か……」核の光……中心に小さな光源がある。まるで星座の始点のように、二つの点が窓から飛び出して、夜空に並んで浮いていた。しかし星よりも近く、それは背景の夜空よりも素早く頭上を横切り始めた。いきなり肩に腕が載った。黒い物が空に向けて突き出される。

「な、なに」それは拳銃だった。「もしかして、あれ妖魔」

「たぶんそう、それと、女の人。おばあさんが捕まってる」

 銃把が鋭い平面で形作られ、銃身は先に行くほど窄まり、その先端には紙を丸めたような細い筒が装着されていた。横目で見ると、丸田川の手は震えていた。空では二つの核が徐々に遠ざかっていて、離れるほど、その輪郭がはっきりと現れ始めた。小さな頭、小さな手、二本の脚は空中でふらふらと、そして頭に二対四枚の大きな羽が生えている。「音うるさいかも」

「待って、あれウチの、おばあちゃんかもしれない」

「分かってる。このままじゃ逃げられるから、だから」

「待って」思わず腕を掴み上げて、おれは丸田川を正面から阻んでいた。

 彼女はまだ空を見上げていた。「ああ、もう。見えないや。ねえ今どこ?」二つの核の光が空の中にあって、その内のどちらかは、太陽と見間違えそうな青い炎に包まれている。口を開きかけた瞬間、おれは息継ぎをして、ゆっくりと吐き出して、おれは丸田川に向き直った。

 心なしか安堵したような表情に思えるのは、おれの気のせいだろうか。

「西ちゃん」と言って、彼女は目を細めて笑った。「おヒゲが、伸びてるね」

 鼻の下に手を添えられ、頬に向かって左右に撫でられると、銃身が冷たかった。


 夕食は根菜の煮物、残り物の唐揚げと、インスタントのワカメスープだ。

 皿は薄くて、白い陶器がうっすら黄色っぽく染まっているようにも見える。

 茶碗に盛られた米粒は一つ一つが細長く、少し乾いたような固い食感は、後から流し込む汁物さえも味気なく感じさせる。飲み物は緑茶か麦茶だ。水は必ず一度は沸騰させる。サラダにはソース。それから残り物の漬物。残り物の乾物。残り物の、様々な食品がタッパーに詰めて並べてあった。二人分には多いけど、何人もが、何日も生活するには心許ない量の食事がダイニングテーブルに用意されていて、そのまま、誰にも手を付けられずに冷たくなっていた。

 おれは椅子に浅く座って、目の前の箸を摘んだり、擦り合わせたり、転がしていた。

 その様子を眺めていても何も面白くなかった。

 食事をする気力も無くて、麦茶を一口、啜ってからは何も口にしていない。

 箸をまともに掴める気もしない。

 胃が重いし、喉が閊えるし、舌が何も感じない。息苦しくなってようやく口を開くと、乾ききった舌に触れる空気が鉄のように冷たく、乾いていた。喉が痛む、……痛めばいいと思う、思えるくらいに走り出したくなっている。廊下に続くドアを振り返って、夜の重さが室内に雪崩れ込んで来そうな不安を覚えた。『**7』について考えると、嘘みたいに離れた場所の事が頭に浮かんで、脳の、たった今そうしようと思った部分を手で掴んだみたいに気が遠くなった。丸田川は連絡をしているだろうか。誰に、そして何をかは、聞くまでは分からない。

 聞くまで考える気はない。

 家の中のどこにも祖母の姿は無かった。

 翅のある妖魔が小柄な人影を攫っていった。

 これでは何も知らないのと一緒だ。

 逆手に握った箸の先端が唐揚げに突き刺さって、冷えた脂の感触が手に伝わった。

 刺さった物を外すのさえ億劫で、おれは皿の上に箸を揃えて投げ出してしまった。

 この家は広すぎる。西島秋奈と西島幸太が居なくなったのは二十一年前の事で、つまり最後の大災害の時からずっと、おれは祖母と二人だけで暮らしていた。母の最も新しい写真の年齢は既におれよりも年下で、それはほとんど下着姿の寝起きの瞬間を不意に撮られたものだ。その前は、三人で遊びに行った時、その前は、おれが初めて大きなケガをした時の写真だ。

 この家の中のどこかにアルバムがあって、そのページはまだ半分も埋まっていない。

 廊下に通じるドアを振り返る。何かが蠢く気配に肩が震え、身構えると黒い人影が室内に滑り込んで来る。「一応、連絡して来たよ」と言いながら、丸田川がおれの隣の椅子に腰を下ろした。「明日にでも動き出すと思う、行った場所が分かればね。ただ、夜中は隠れてる可能性もあるから、……本当はね。西ちゃんに追わせろって言われたんだけど、無理だよね」

 横から覗きこもうとしてくる視線が嫌になって、丸田川から顔を背ける。

 振り絞って、ようやく声が出た。「いや、出来るんだったら」

「いいって。ご飯食べて、今日は寝よう。色々あって疲れたでしょ?」

「でも、ばあちゃんが」

「たぶん、無事じゃ、ないかな」急にもごもごと篭ったような声で喋り始めたので、もしやと思って見ると、彼女は箸が刺さった唐揚げを勝手に食べ始めていた。思い出したように上衣を脱いで膝に置くと、肩に掛けていたベルトを外して、丸めてホルスターの下に置いた。テーブルの上に拳銃が置かれている。肝心な部分は見えないけど、細い筒が下に突き出ている。

「それも四十口径ってやつですか?」と聞いた。

「そんなわけ、これは三十二口径だよ。全然前のよりも小さいでしょ」

 ホルスター越しに手で叩いて、それから彼女は煮物を器用に箸で切り取った。

「そういえば前のって、持ってないんですか」

「さすがに返さないわけにはいかないしね。でもちょっともったいなかったな」

 おれの茶碗を取って白米を掻き込むと、丸田川はホルスターから拳銃を抜いた。

 右の頬を膨らませたまま、彼女は側面にある刻印を読み、彼女は早口で語り出した。

「これ女豹っていう愛称があって、南米の方で作られたのかな……そうだそうだ、たぶん」

「この露出したバレルがね、チップアップでこう、上がって。直接弾の装填が出来るのよ」

「スライドを引かなくても。だから力の弱い女性でも扱い易い、って言われてるんだけど」

「ダブルアクションでトリガーが重くて、ここ、マズルにサプレッサー用のネジがあって」

「だから、前の方が重くて取り回し難さはあるけど、小さい物だしそこは仕方ないのよね」

 彼女はわざわざ弾倉を抜いて、天井に向かって空撃ちまで始めた。

 撃針を撞く音は鋭く、短くて、うっかり聞き漏らしてしまいそうだ。

 一通りの分解と組み立てを終えると、彼女は銃を両手で支えたまま、その銃口をおれの方に向けてきた。「あぶないって」と言って仰け反ると、引き金を軸に拳銃をくるりと回して、銃把が目の前に差し出された。手に持ってみれば、それは意外なほどに軽かった。狙いを付けるのには心許ないくらいだ。「こんなもんなんですね。武器じゃないみたいな感じがする」

「うん。お風呂ってもう沸いてる?」

「灯油なんで、いつもは入る前に。あの、水は溜まってると思うんですけど」

「じゃあやっとくね」両手をテーブルに置いて、丸田川が立ち上がった。「西ちゃんも少しは何か食べないとダメだよ」彼女はドアを出て玄関の方に向かい、それから浴室の方に向かって歩いていった。部屋に誰も居なくなると、全てが一瞬で凍り付いたように静かになった。すると頭の奥の方から耳に向かって、水が潰れるような高い音が鳴り始め、それは消えない。


 ニュース映像はどれも、数日以内にダウンロードしたものだ。

 昨日、一昨日辺りのニュースはまだ祖母も視聴していなかったようで、未視聴フォルダにまとめて放り込まれていた。再生すると、少女型のアバターが原稿を読み上げる。その背後には資料や字幕が表示され、全体に明るい画面は、不必要な色彩や図柄で埋め尽くされていた。

 最初のニュースは象の行進だった。

 象、と言っても近くに密林はなく、当然そこに象も住んでいない若人町の住宅街で、数十頭もの灰色の動物が突如現れて、そこにあった家屋や、放置車両や、標識などを踏み荒らしていった。そして夕方になると象は現れた時と同じように一瞬で姿を消した。町内の数十世帯が被害に遭い、若人町では現在、政治団体である『弁天乱会』が、その復興に当たっている。

 少なくとも現在、魔人会からは妖魔に関する何の声明も出されていない。

 これが一番マシなニュースで、あとは妖魔の出没や被害に関する情報や、新薬や、海外情勢に関するニュースが淡々と続いた。来週には消えてしまう遠い世界の出来事は、おれの目の前を走馬灯のように流れていった。覚えておきたいと思うものは一つもないのに、知らないままで居られるほどに、図太くは過ごせなかった。知る必要は無い、と知っておきたかった。

 無気力症が全国で流行していた。

 この頃、普段通りに動き、話し、生きている身近な人間を、以前とは違うように感じるという相談が相次いでいると警察庁から発表があった。相談は複数の地域で集中し、警察が念の為に調査を行ったところ、特に変わった点は見られなかった為、相談者に通院が勧められた。

 五行隊が新隊員を募集していた。

 ボルドーマンの長いインタビューを眺めていると、ソファの背後のガラス戸が開いて、温かい空気と共に丸田川が入って来た。タンクトップに、ハーフパンツと、肩にタオルを掛けたままの格好で、彼女は引っ繰り返す勢いでソファの反対側に腰を落とし、足を投げ出した。

 石鹸の匂いが周囲を漂い、異性の肌の匂いと混ざる……いや、同性か、異種族か。

「西ちゃんそれ……、体操着?」と彼女はおれのシャツの裾を見ながら言った。

「寝る時に着る服がまだ買ってなくて」

 足の付け根に食い込むゴムが気になって、こっそりと指を掛けて引っ張った。

 火照った体でそのまま、ソファに座っていたので、背中や尻は少し汗ばんでいる。

「上もシャツ一枚で?」と今度は覗き込んで来る。

 反対側に体を避けた。「だから、寝る時の服が」

「それでもいいけど。まだ寝ないの? 五行隊……入ろうと思ってる?」

「妖魔は、たぶん入れなくて、前会った時も退治されそうになったんですけど」

「それは大変だね。ねえ、この家ってドライヤー……電気って、使っても大丈夫かな」

「あとは寝るだけだし、明日も晴れそうなら」蓄電池は部屋の隅に五つ、隙間を空けて並べてあって、太い配線が窓の外に繋がっていた。ソーラーパネルは、まだベランダに出ているだろうか。本当は、夜中は家の中に入れておいた方がいい。天気が悪い日も、外に出したままにする意味はない。丸田川は蓄電池を見ていた。「足りなそうだったら、無理には使わないよ」

 タオルで髪を乱暴に拭う様子を、しばらく横から薄目で眺めていた。

 ニュースを見終えたので、テレビの電源を落とし、丸田川の方に足が行かないように、ソファの上で横になった。「部屋に戻って寝ればいいのに」と言って、丸田川がおれの右足を退かした。床に手を伸ばし、彼女はなぜかアーモンド入りチョコレートの紙箱を持っていた。

「まだ寝ないので」

「眠そうな顔して」呆れた声が返って来る。「そんなに丸くなって、猫じゃないんだから……体痛くならない?」丸田川はタオルを肩に掛け、おれの背中の辺りに手を置いて、ソファを沈ませた。「おヒゲもう無いのね。そうだ、さっきお風呂場、スゴい毛だらけだったけど」

 両手を枕にしたまま、おれは離れていく丸田川の方に目を向けた。

 フィルムを剥いている。「一個食べる?」と言われ、おれは首を振る。

「さっき歯磨いたから」

「そう。その服、体操服、ほぼパンツじゃん。あっ……パンツはみ出てるよ」

 裾を抓まれたらしい、尻か、腿の辺りに触れた指が冷たくて、おれは即座に手を払い除けていた。「自分でやるからいい」指の感覚だけで生地の間を探り、裾をいっぱいに伸ばした。おれだって、メーカーロゴのタグの下に『西島』という刺繍が無ければ、これをズボンだとは思わなかっただろうし、まだそんなに思っていない。「丸田川さんはどこで寝るんですか?」

「適当にここで……、西ちゃんが一人で寝られないなら一緒の部屋で寝てもいいけど」

 それなら同じ部屋でもいい。

 客用の布団を抱えた丸田川が先に階段を上り、ドアの前に立っておれを振り返った。よく見ると、ホルスターに収まった拳銃と、予備の弾倉を二つ握り締めていた。おれはドアを開けて明かりを……ふと、窓が気になった。「どうしたの、何か見られたくない物でもあった?」

 何を失ったのかも分からない、この喪失感を説明する事は難しい。

 足の力が抜け、おれは床に座り込んでいて、まだ窓辺を睨み付けていた。

 真っ先に確認する物でも、眠る時に大事に抱える物でもない。何か見られたくない物でもない。今の今まで忘れていた。忘れていた事さえ忘れていた。窓は開け放たれていて、まず外に落ちてはいないかと心配するべきで、そんなはずはなかった。外では見なかったからだ。

 ちょうど幅が合っていたから、窓の縁に空き瓶を置いていた。

 その空き瓶には核が入っていた。「どうしたの、何か嫌な事でも思い出した?」左肩に置かれた手の熱も白々しい。彼女はきっと左手を空けて、右手には拳銃を持っている。嫌な事は、ちょうど今思い付いただけだ。空に逃げていった核は、大きい物と小さい物の二つで、その内の一つは翅のある妖魔。もう一つは、祖母か空き瓶か、どちらか一つでしかあり得ない。

 祖母であればいい、どちらかを残す意味があるとしたら、祖母であるはずだ。

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