表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/23

【7・しちじょうき】

 校舎裏では、夜と水銀灯の光が混ざって、物の輪郭が辛うじて見える程度だった。

 その中では一階の廊下と、四階までの階段の窓だけが、ぼんやりと白く光っていた。

 階段から横に廊下を目で辿っていって、すぐに見つけた。

 見てしまった……天の川が、校舎の真上に落ちて来て、目の前で途切れているのと。

 窓から顔を出した大鳥警護が、先端を輪にしたホースを窓から投げ出しているのと。

 どちらに注目すればいいのだろう。

 大鳥警護は釣りの要領でホースを動かして、校舎の外壁を探っていた。おれが居る事に気付いているのか、いないのか、その手付きは真剣そのものだ。その行動の意図は、すぐに答えが見つかった。ちょうど三階と四階の間、三階の天井に近い辺りに核の青い光が浮いている。

 それは踊り場と同じ高さ、というのは後付けで、窓から吊った首の高さだ。

 だとしたら。だとしたら、どういう事だ。

 四枚目というのは、ただ距離を示していただけ、だったのかもしれない。

 合わせ鏡とはこちら側に、踊り場に出て来る為の、もしくは踊り場に居る人間を捕まえる為の門でしかなく、それを『よつかがみ』という名前にする事自体が、子供達を誘き出す罠だったのかもしれない。それはずっと窓の外に居て、誰かが来るのをずっと待っていたのだ。

 校舎の真下に視線を落とし、花でも供えられていないかと目で探してしまった。

 湿った土は暗闇で尚も暗く、ほぼ何色もしていない暗闇の一部でしかなかった。

 何も無い……そうか、弱らせる前に死んだら、そもそも核を食らう事が出来ないか。

 頭上では、ホースの輪が空中の何かを捉えている。

「真下に」落ち着いた声が、遮る物の無い空間を降って来た。「受け止めてくれないか」

 ホースを片腕に巻いて、大鳥警護が慎重に引っ張っている。窓のサッシの所で、何かの重さが掛かってホースが薄く潰れていた。そこから屋内にも、屋外にも張り詰めたホースは今にも真っ二つに断裂してしまいそうだ。それでもゆっくりと、徐々に、徐々にホースが屋内に手繰り寄せられて、遂にその輪に手が届きそうになった瞬間、ホースの先端が跳ね上がった。

 青白い塊を括り付けた輪が窓枠の上部に当たり、垂れ下がり、室内に引き摺り込まれた。

 大鳥警護が窓から真下を覗き込んでいた。焦りが彼の顔形を縮めたかのようだった。

 廊下に引っ込んで足元で素早く何かを済ますと、再び顔を出しながら地上に何かを放り投げて来た。角が生え、目と、口のような線が入っただけの塊が、切断面から赤黒い粘液をまき散らして地面に転がった。手で何か合図をしている、……上に上がって来い、と。そして大鳥警護は窓枠に足を掛けて、上った。下りた、というか落ちた。窓の外に向かって、彼は躊躇いもなく飛び降りて、彼は……空中で消えてしまった。そこはちょうど天の川の終端だった。

 下りて、来ないのか。じゃあおれが上がって行かないと、いけないのか。

 薄い隙間から差し込むように、どこからか呻き声が聴こえる。

 そちらを見ると、恐らく『よつかがみ』の本体の頭部が、赤黒い泡を吹きながら右に左に転がっていた。不倒翁、いや何に例えようとそれは悪趣味な言い換えだ。妖魔の切り離された首が悶えている。つまりそれは、生きている。本体は、本体じゃない。核を持っている本体はまだ廊下にあるはずなのだ。大鳥警護はおれにその核を食えと伝えていたんじゃないのか。

 つまり、自分が消える事を承知で、おれに後始末を任せたんじゃないのか。

 何故かって、そんなのは当然、消えた丸田川を助けに行く為に。

 何処かって、それが何処かまでは、分からないけど。

 揺れる青白い頭部を見ていると、その光景は薄ら寒く、酩酊感が押し寄せる。

 動こうという意思すらも無くなる。長く息を吐いて、おれは深呼吸を続けた。重たい瞼を擦ると、痛みを感じるほどになって、ようやく目が開いた。肩が震えて、悪寒は首筋に抜けていった。動こうという意思すらも無くなる。動きたくないという意思が自身から生じている。

 この欺瞞に抗う事が出来ない。

 頭部に近づいて、それを片足で踏み付けた。靴底が滑って頭部が地面を転がった。追い掛けて、手で掴むと練り物のような感触に指が食い込んで、砂塵となって散ってしまった。さて、こんな事をしている場合ではない。妖魔の事は知らないけど、知らない事は何でも言える。

 頭なんて、いくつも生えて来るのかもしれない、とか。

 頭の有無は、重要な要素ではないのかもしれない、とか。

 急に焦りを感じたせいか、まだ浮ついた頭で窓枠、配水管、雨樋などの起伏を目で辿っていた。その順路は生々しく目の前を通過していって、気が付くと地上からは見えないはずの四階の廊下が目の前にあった。青い核の光が落ちていて、そこに青白い肉塊が横たわっている。

 まだ生きているそれは、青白い手足を突っ張らせて、踊り場の方へ逃れようとしている。

 その背中に手を突っ込むと核はおれの手の中にあって、青白い肉塊は動かなくなってしまった。さて、食えるけど……。とりあえずラムネのケースに入れておいた。窓の外には、光の粒が集まった天の川の終端があって、光の道筋が空に向かって伸びている。それどころか、四階まで上って来る間に一度か二度は足を掛けたような気もする。しかし天の川の中心には星々が無限に散らばっているだけで、そこに丸田川明日夏は居ないし、大鳥警護も居なかった。

 彼は下に飛び降りたのだから、居るとしたら、下なのか。

 窓の下では天の川が途切れて、何の光も届かない暗黒が口を広げていた。

 ちょうど黒い袋のファスナーを開いて、妖魔の体内を覗いたような光景だ。

 そこに行けばいいのか、そこ以外の何処かに行かないといけないのか。せめてロープの一本でも垂れていないかと見ても、暗黒には暗黒しかない。ホースを校舎に固定して、底まで届くだろうか。底には足場になるような場所や、壁や床などはなく、ただ陰陽のマークのように絡み合う二つの渦だけが光っていて、おれは吸い寄せられるようにその中へ飛び込んでいた。


 階段、と思った時には、その段の一つに足が引っ掛かって体が前に旋回していた。

 おれが転がり落ち始めた階段は、無限に続くと思われて、代わりに落下は終わった。

 十段、二十段……数えようもない。体感で、主に痛みと回転数で、大体の段数を測ろうとしたけど、人生で一番長かった階段の印象を思い出すより前に、おれは再び虚空に投げ出されていた。体に当たる風は生臭くて、生暖かく、時間を経る毎にそれが妙に優しく纏わりついて、ある一点で空気が完全に静止すると、唐突に現れた壁がおれの全身を押さえ付けて、その上におれは横たわっているようだった。感覚で言えば、それは落下というよりも上昇だった。

 手を付いた地面は湿っていて、固く締まった繊維のような奇妙な弾力があった。

 人肌、というには分厚く、その層を掘り進めたら、それこそ、……それこそ何だ。

 手の平を見ると、闇の中の手は、さらさらの透明な粘液で濡れて表面が光っていた。

 ようやく立ち上がって、辺りを見回してみる。

 ぶつけた肘と肩と側頭部と、腰と膝と両手足が、脈打つような痛みを訴えている。

 手で押さえると痛みが和らぐようで、しかしその為に動いた手がヒリヒリと泣いた。

 やる事が他にないから、ただ痛みに触れている。周囲には何もない何かが広がっていた。地面は赤黒い弾力で、遠くまで見渡すと所々に指や関節を曲げたような起伏があって、高い場所は岩山のようになっていた。遠くには、高台の辺りに林立するビル群や街並みが見えた。

 その先に地平線はなく、赤黒い大地はどこまでも、本当にどこまでも続いていた。

 あとは、見上げると空の中心に二つの渦の陰陽がある。

 そして光は無く、だから何で何を見ているのかは、自分でもよく分からなかった。

 とりあえず街に向かって歩いてみる事にした。

 地面に道路とそれ以外の区別はなく、進路を遮る物は滅多にないけど、その道程は決して快適とは言えなかった。実際に歩いてみて、その湿った感触で気付いた。昇降口でわざわざ靴を拾っておいたのに、四階の廊下に置いて来てしまったようなのだ。つまりロープ代わりの靴紐も無いわけだ。穴になった場所を避け、通り過ぎてから振り返ってみた。小高くなった場所に立ち、その上から周囲を見渡してみた。自分がどこから来たのかも分からなくなっていた。

 どこへ行くのかも分からなくなっていた。

 それを見つけたのは、泥濘を押し流すような汚らしい川の土手に着いた時だ。

 生物か、構造物か、何でもいい。

 とにかく見下ろした河川敷に、明らかに地面から独立した何かが立っていた。二メートルから三メートル近い高さがある人型の像で、なぜか地面と同じような素材で出来ていた。今ならそれが何か分かる気がする。触れてみると赤黒くて、弾力があって、固く締まった繊維の感触は肉そのものだ。両脚を折って屈み、両腕で何かを抱え、その腕の中は空っぽだ。きっと抜け出したのだろう、という事は、それは生き物である可能性が高く、サイズはちょうど……、

 背後で泥を叩くような音が鳴って、赤黒い影がおれの体に覆い被さる。

 そうだ、人間が一人、収まるくらいの空間がそこにあった。だったら、そいつは人間を捕らえて、その人間に逃げられたのだ。振り返るのと、その腕がおれの体を締め付けるのは、ほとんど同時だった。人型の像がおれを見下ろしている。腕は横倒しになった電柱のようで、体が潰れそうなほどの重さを感じた。爪を、出さないと。指が動き、肘から下は動くだろうか。

 この肉のような塊を砂に変える事は出来るだろうか。

 自身の骨を肉体から這い出そうとするような、徒労を全身に強いられた。

 何十秒も、何分も動かない場所に力を入れる事は、やがてそれ自体が苦痛となり、強迫となった。狭所恐怖症……、一度も経験した事のないそれは、拘束された経験がないという意味でしかない。もしかしたら、自分はそれを耐えられないのではないか。耐えられないと、どうなるだろう。焦りが、余計に無駄な力を入れようとする。まだ爪はどこにも触れていない。

『・・・・・』

 声が聴こえた気がした。途端に拘束が緩み、おれは素早く腕を抜け出した。

 今度は手首を掴まれる。

 黒い人影が滑るように動いて、おれの手を引いたまま、葦の茂みに飛び込んだ。

 妙に乾いていて、表面は硬くて、薄くて丈夫で細い板状の物が生えている。それが身長よりも高く伸びた所を見た事はないのだけど、触れた感触からして葦の茂みではなく、たぶん人間の爪のような物が密集した茂みなのだ。爪にしては特有の臭いや、まして根元に指などは生えていない。ただ、気紛れに一本、指に挟んで押してみれば、簡単に折れ曲がってしまった。

 あるいは葦のように。どちらでも同じ事だ。

 前を歩いていた男は足を止め、爪を掻き分けながら近づいてきた。

「なぜ追って来た」大鳥警護は懐から短刀を取り出し、柄を右手で覆った。

「さっきのあれは何?」矛先が逸れないかと、期待して尋ねた。「あれも妖魔?」

「さあ、……だろう、それも。状況は?」

「あ、廊下に居た『よつかがみ』らしい妖魔の核が、えーっと、ここに」ポケットから取り出すと、少しはみ出たような状態で、青い核の光がラムネのケースに収まっていた。手渡そうとしたら、彼にやんわりと拒まれた。「一応、動かなくはなったので、解決したはずだけど」

「あっちは、だが……まあ、仕方がない。それは持っていてくれ」

「それで、どうするんですか?」

「奴らに見つかったら拘束される。そのまま空に連れて行かれるようだ」

「連れて、行かれたんですか?」

「途中で抜け出した」と言って彼が短刀を見せてきた。「鰻太刀流に『身一つ』という言葉がある。どんな狭所でも閉所でも、体が収まる空間があるなら刀が抜けるという、まあ、ただの与太話だ」珍しく長広舌を振るいそうだと思ったが、急に口を噤んで歩き出してしまった。


 土手を離れてから、まだ五分も経っていないだろう。

「あの、これ。どうするんですか?」

 頭の悪そうな質問ばかり相手に投げ付けているなと自分でも思った。

 しかし人型の像に拘束されている状態で、他に出来る事はない。大鳥警護は冷静で、一定の距離を保ったまま、迂闊に近づいて来る事はない。しかし離れる事も出来ない。赤黒い平原に人を置き去ってしまえば、二度と会えなくなるかもしれないからだ。「抜け出せないか」と問われ、おれは首を振って無理だと答えた。少し考えて「抜け出してみろ」と彼が言った。

 横倒しになった電柱に抱かれているように、全身が重く窮屈だった。

 そして別の声がまた聴こえているのだけど、何を言っているかは分からない。

『・・・・・・・』

 ただその問いに対する答えが自分の中にあるのだけは知っている。

『・・・・・・・』

 人型の像が語り掛けているようでもある。人型なのだから当然、頭部があって、顔も付いていて、そこには大きな穴が一つだけ開いていた。頭には角が二本、……三、四、いや、あるいは髪かもしれない物がいくつも生えていて、まるで人のようだとも、鬼のようだとも言い切れなかった。藻掻き、藻掻き、やっと動かせるようになった手で、その像を引っ掻いてみた。

 何も起こらなかった。

 なるほど。じゃあ、どうしようか。

 右に左に位置を変えている大鳥警護の姿が時折、腕の隙間に見え隠れしている。

 何か隙を探っているようでも、何かしている風を装っているだけのようでもある。

 先に変化があったのは人型の像の方だ。

 像が、浮いていた。

 地面が遠ざかっている。

 像の腕の中は、空中でも全く揺れを感じなかった。首を伸ばして地面を覗き込むと、像の足の下に赤黒い帯が伸びていて、それが像を押し上げているのではなく、むしろ像が吊り下げられているようだ。遥か地上では大鳥警護が後退りながら頭上を見上げていた。彼は両手を下ろし、警戒心を解いていて、背後から近づいて来る存在にも気づかない。しかしおれには核の青い光が見えていた。声を、掛けなければ「後ろに、誰かが」と思っても、声が出なかった。

 しかし黒い点は大鳥警護の脇を擦り抜け、後ろに引き摺っていた塊を放り出した。

 そして地面から生えている赤黒い帯を掴んで、引っこ抜いた。

 一瞬の内に、その加速はおれに危険を感じさせるほどに達した。

 おれと人型の像は落下していた。

 人型の像に引っ張られているような感覚だ。地面が近づいている。大鳥警護と、もう一人……神人真冬香の姿が見えたと思うと、人型の像は地面に立っていて、その腕の中に拘束されたままの、おれも地面に立っていた。大鳥警護は放り出された塊の方に掛かり切っていて、おれは自分で身を捩って抜け出さなければならなかった。空っぽになった腕でも、人型の像は虚空を抱き続けている。「よくあんな危ねえ所から助かりましたね」と神人真冬香が言った。

 また紺のセーラー服に、下は指先も足先も覆う強化繊維の黒いボディスーツだ。

 頭には赤いカチューシャを着けている。蒼白な顔をしていて、左手からは触手が何本も伸びていて、何か、そこに絡め取られた大きな物体が、背後に引き摺られていた。よく見ると、黒い毛の生えた塊が手前にあって、折り畳まれた肘や膝が触手の隙間から出っ張っていた。

 それだけで人間だと思うのは早計だろうけど人間のようだった。

「いや、お前が助けてくれたから、じゃないのか?」

「だったら、お礼の一つでも言うのが先じゃねえのかなって思いますね」

「あ、あぃざーっす。で、ここは?」と周囲に目を向ける。視線を戻すと、神人真冬香は真正面からおれの事を見つめていた。口は開かない。どうやら、おれの方から答えが出るのを待っているようだった。その間に触手に包まれた誰かが何度か、身動ぎで何かを訴えていた。

「だから。前に言ってた、七縄境ってのがここの事ですよ」

「ああ、冥府。で、えーっと」聞いてたほど、血や膿の臭いはしない。「あの像は」

「七縄境の七縄鬼ですね」神人真冬香が腰の辺りを叩くと、像は少しずつ崩れ、赤黒い地面に溶けだしていった。「末那環王の手下で、人を吊るす悪鬼です。無理難題を吹っ掛けて、答えられねえ人を連れ去るんですけど、どこかは知らねえから、そこは聞かないでください」

「じゃあ……」いや、吹っ掛けられた覚えもないけど、いいや。「それは」

「たまに人が迷い込むから、戻れねえ人の為にわざわざ見回りに来てやってんですよ」

「ああ、そうなんだ。……帰り方知ってるのか?」

「その辺の穴からすぐ戻りゃいいのに、むしろなんでこんな所うろついてんですか?」

 穴というと、確かに赤黒い地面は所々が激しく起伏していたけど、その突起部分に何か意味があるとは思えなかったように、その陥没部分も、ただ低くなっているだけだと思っていたのだ。ちょうど近くには穴はなかった。人型の像が一体だけ。呆れたような顔で、彼女が左手の触手を振り払い、中に収まっていた女の子を放り出すと、腰の辺りを蹴って仰向かせた。

 彼女がその近くに屈むと、開いた膝に沿って、広がったスカートが地面に付いた。

「西ちゃん」先に気が付いたらしい丸田川がふらふらと歩み寄って来る。「大丈夫?」

 足元が覚束ないようで、恐る恐る手を前に差し出し、何かを掴みたがっていた。

「そっちこそだけど。あ、この人は」

「知ってる。いきなり捕まって、ずっと引き摺られてたのよ。あれが」と言って、七縄鬼の方に目をやると、その向こうで大鳥警護が周辺を歩き回っていた。「私も鬼に連れてかれそうになったから。あの鬼って、人が居ると出て来るんだって。そのうち消えるみたいだけど」

「退魔師を名乗ってるわりには、情けねえ事ばっかり言うんですね」

 丸田川が眉を顰めた。「いや、私達は妖魔を退治する為に活動してて」

「それも間違ってねえけど、元々魔人会は冥府の鬼と戦う鬼狩り部隊ですよ」


「それって違うものなの?」と丸田川が聞いた。

 同じなら、確かに分ける必要はないけど、違うものなのか。

「なぜ彼らが退魔師と名乗ってんのかですけど」と神人真冬香は言った。「魔人会は過去に冥府を訪れてんですよ。で、意気揚々と踏み込んでおいて、末那環王にあっさりと敗北して逃げ帰ってからは、代わりに地上で妖魔を狩って鬱憤を晴らしてるっていうだけの話ですよ」

 丸田川は何も言えなくなって、大鳥警護と、おれを交互に見ていた。

 服の袖を掴まれる。伸びて、手首が締め付けられるのが見なくても分かる。

 おれは、とにかく単語を拾って投げ返した。「その、マナカンって何なんだ」

「冥府を統治する十二の王の内、それらを束ねる王の中の王です」

 右手に捕まっていた方の女の子が両手で目を擦った。その様子を横目で見ながら、神人真冬香は女の子から二歩三歩と距離を取った。「乳隠入門によれば、七つの死に等しい名前とされています。あんなもんは誰も真に受けねえとは思いますけど、……起きたなら行きますか」

「ああ、……え、どこに」

「王の宮殿。せっかく来たんだから見てったらどうですか。すぐ近所なんで」

 丸田川が駈け寄って、女の子を優しく抱き起した。その手助けにさえ、女の子は肩を震わせて、不安そうに相手の顔を見上げた。女の子は毛布みたいな生地のパーカーとショーパンを合わせた寝間着みたいな恰好で、全身がしっとりと湿っていた。髪は肩に届く長さで、ゴムで括られて、右肩に丸い尻尾を垂らしている。「あの、すいませ……ここどこなんですか?」

 消え入りそうな細い声に、丸田川は鼻先に触れそうな距離まで耳を寄せていた。

「あー、のねえ。そんな遠い所じゃないよ。これから帰るところだから。歩ける?」

「はい、あっ」よろけた女の子を丸田川が支え、二人は三脚のように立った。

「大丈夫大丈夫、ゆっくりでいいから。あの、案内して貰えるかな?」

「どっちに?」と神人真冬香が聞き返した。

 大鳥警護が戻って来て言った。「すぐに帰るべきだ」

 おれは探るように尋ねた。「王の宮殿って、近いのか?」

 丸田川が首を振った。「とりあえず休める所ってないかな?」

「全て同時に叶えようと思えば叶いますね」と神人真冬香が答えた。「ここでなら」

 どこに向かうのだとしても、先頭に立って歩き出した神人真冬香に従うしかないのだ。

 そうかと思えば、ふと立ち止まって足元を確かめると、彼女はいきなり片膝を立てた格好で座り込み、そのまま地面に耳が付くまで伏せた。伸ばした右手が爆ぜる、ように見えた。数本の触手が絡み合いながら、滝が落ちるように一直線に走り出した。すると今度は、それが勢いよく吸い寄せられ、その先端には小さな石像を絡め取っていた。奇妙な石像だ。地面に立たされたそれは、両脚を曲げて横に開き、その腹部の大きく裂けた穴を両手で横に広げていた。

「ミハエルの帰還以降、人類は冥府のあちこちに魔除けの石像を設置しました」

「それってお地蔵様、みたいな事?」

 丸田川が尋ねた横で、女の子は石像の悪趣味な外観に眉を顰めて、顔を背けた。

「そうですね。この辺は少ねえけど、そのせいでみんなして捕まってたんですかね?」

「聞かれても。いや急にこんな所に来させられてあんなのが居たら捕まるだろ普通は」

「目的地までは、あとどれくらいだ?」と大鳥警護が聞いた。

「どれくらいも何も、もう見えてるあれですけど」

「あそこって結構高台に見えるけど、時間掛かるんじゃないのか」とおれも聞いた。

「あ、いや。ずっと平地です」立ち上がった神人真冬香は、伸ばした人間の腕の先に、人差し指を寝かせてから、それを片目で睨んだ。「まだ気付かねえのも大概ですけど、ここって球体の内側ですからね。大体、水平に五キロ先を見たら目線の高さに地面が来るくらいです」

「つまり、……地球の、裏側か?」大鳥警護も片目で遠景を見つめた。

「そうかもしれないし、違うのかもしれない」曖昧な返答をし、再び歩き出した神人真冬香の後に、全員が黙って従った。遠くに見えていた街並みは、近づく気配は微塵もないのに、その位置が下がっているように見えてきた。林立するビルの外観も、徐々に鮮明になった。その全体像は赤黒い建築物の集合体だ。巨大なドームが分裂したと思えば、排気管が脳味噌のように這い回り、曲面と平面が空に向かって交差し、レールの支柱がそれらを取り囲み、何十棟も犇めき合った高層ビルは、それらを結んでいる歩廊によって、巨大なジャングルジムかメンガーのスポンジのように複雑に絡み合っていた。そして全ての建物の表面に、無数の白いウロコ状の物体が張り付いていた。それが何なのか、分かる気がしたし、分かりたくもなかった。

 更に近づいて、おれは白い物体の正体を「室外機だ」と何気なく呟いていた。

 誰も何も反応しない……、それは見た通りの答えだったからだ。

 無数の室外機が巨大で複雑な建造物の全ての表面を隙間なく埋めているのだ。

 冷房効率など全く考えていなかった。それこそ並べる事自体を目的としているような、妄執的で、強迫的な量がそこにあった。心なしか、排気の熱によって全体が陽炎に揺られているようにさえ見えた。「あれは十二の王の内、波留農羅環が統治している『寒冷の館』です」神人真冬香が忌々しげに語った。彼女は歩調を緩め、おれらの前にゆっくりと進み出た。「膿と血の辺土で、生きすぎてしまった生物を保存する為だけに作られた、惨めな博物館ですよ」

 飾られた事があるかのように言うのなら、彼女は当然逃げ出した事もあるのだろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ