【6・よつかがみ】
日暮れ前に仕事を上がり、家に帰るとまだ空は明るく、祖母はどこかに出掛けていた。
部屋に戻ろうとした所で静かなノックの音が鳴った。静かに、しかし古い引き戸の立てる音はどうしたって騒がしい。磨りガラスの向こうには黒い人影が立っていて、その薄気味悪い姿に対して、奥に引っ込もうかという邪心と、向こうから見えているのかという、これもまた邪心が過った。長引けば長引くほど、何か不都合があるかと言えば、意外とそうでもない。
踵を擦り合わせ、ゆっくりと靴を脱ぎ始めたところで、その人影が振り返った。
「今帰って来たはずなので、たぶん荷物を置いてるか、お風呂に入ったのかもしれません」
女の人の、か細い声が聴こえた。
丸田川明日夏だとして、もう一人は大鳥以外の誰だろう。
彼が隻腕で現れる可能性もあるか、だとしたらさすがに嫌味が過ぎるけど。
「いえ。彼はわりと協力的な方なので、こっちも穏便に接するべきだと思います」このまま居座られても、家の裏手に回られて、勝手に家の中に入られても面倒なので、仕方なく靴を履き直して玄関に下りた。錠を上げ、引き戸を上げると、丸田川がおれを見下ろして微笑んだ。
陰気そうな表情に、何かを吸い取られそうだ。「西ちゃん、久しぶり」
「今度は何ですか」つい警戒を固めてしまう。「この前の件はどうなったんですか?」
「『ふくろづめ』なら一応片付いたけど、大変だったのよ」一瞬おれの顔を見て、彼女は早口で語り始めた。「人を近付けないようにして、なっがいロープでゆっくり引っ張って、郊外の広い場所まで持って行って、クレーンとか色々機械使って、最後は『ことりばこ』でね」
「片付いたなら良かったです。それで今日は」
「次の妖魔」と指を立て、勝手にもう一本立った。「それで今日、別の手伝いの人が」
彼女が横を向くと、生け垣の傍に核の青い光が浮いていて、そこには痩せた中年の男が立っていた。男の身長は高くも低くもなく、細いというよりは引き締まった体をしていた。額が少し広く、伸びた黒髪の下には、暗い顔が温和そうな表情を浮かべていた。手を後ろに組み、暗がりに力なく佇んでいるように見えて、しかし姿勢だけは竹を通したように綺麗だった。
そして魔人会、もしくは極楽商会の一員であるらしく、彼も黒いスーツ姿だった。
「大鳥警護さん。私達の先輩。警護さん、この人が妖魔に襲われた元人間の」
「あ、ふうん」欠伸が漏れたような声が返って来た。「そうですか。分かりました」
「っていう人」丸田川が呆れたような顔をして言った。
「大鳥ってあの、大鳥……なんだっけ前一緒に居た」
「大鳥校歌。の叔父さんだって。仲はあんまり良くないけどね」
その当人はもう他人事みたいな顔をして、家の庭をつまらなそうに眺めている。
「大鳥は、腕はどうなった? 左腕なんか無くなってたけど」
「そういうのは後で話すから、早く準備して。時間ないのよ」
どこに、と問い返すまでもなく、玄関の中へ背中を押し込まれた。まだ行くとも言っていないのに、おれは丸田川が見ている前で、まだ上がり框に置いてあったカバンから、何か必要そうな物を漁るフリをしなければならなかった。何の準備をすれば妖魔退治の役に立つのか。分からないし、分かってても、そんな物をおれは持ち歩いていない。拳銃も、鋸剣も、核も。
ビンは部屋に置いてある。核はずっとビンの中に残っている。
あれがあるなら、まだ『ふくろづめ』が生きている、という訳ではないらしい。
「こんな何度も何度も呼び出すくらいならずっと魔人会で拘束しといたらいいんじゃ?」
「人型は特にね、制御できるわけじゃないし、協力して貰えるだけでも御の字ってわけ」
靴の先で床を叩き、西ちゃんも拘束されたくはないでしょ、と丸田川が言った。
拘束もだし、何度も何度も……まあいいけど、おれは立ち上がって言った。
「着替えもしたいし、カバン部屋に置いて来てもいいかな」
「よくない。どうせ街の方には行かないから、そのままで大丈夫」
自分の姿を見下ろすと、肩が出るくらい襟が広がったシャツに、タンクトップと、デニムのショートパンツだった。これは二日目だったか、洗い立ての二枚目だったか、同じ格好で同じ場所にばかり通っているから、見た目に関する感覚が麻痺している。街の方に限らない、戦闘が起こる場所にも、これでは行けない。「手伝うのに、そのスーツ支給されないんですか」
「これは極楽商会のだからね。西ちゃんに合うサイズがあるかも分からないよ」
「少しくらい大きくてもいいけど」二人で玄関から出ると、門の前に黒い軽自動車が停まっていた。運転席には大鳥警護、助手席には大きい工具のような物や、武器になりそうな物が積まれていて、丸田川が左から後部座席に座ったので、おれは右側の後部ドアから乗り込んだ。
木人町を北に出て、廃線に沿って西に進むと、蔦だらけの陸橋を潜って横道に入った。
「近所の小学校からの依頼でね」と言って、丸田川が飴の包装紙を剥いた。
車は剥がれかけた道路を辿って、鬱蒼と木の生い茂る緑の斜面の中を、足先で地面を探るように慎重な速度で走っていった。両脇に建っている家は廃屋ばかりで、崩落した二階部分が道に迫り出している。たまに車が通るのだろう。段差を踏んだり、瓦礫を押し退けたりするまでもなく、車一台分の道幅は常に確保されていた。更に横道に入ると、緑は更に深くなり、斜面の勾配は上がって行った。その辺りでは、高く聳える木立に視界を遮られる。葉と葉の間には湿った闇が染み込み、空と森の境目は不明瞭で、落ちた日の上に灰色の幕が下りていた。
茂みの奥に緑色のフェンスが見えて来ると、手前の道路脇に砂利が敷かれていた。
そこへハンドルを切って、いきなりブレーキが鳴くと、エンジンが切られた。
ちょうど正面に、森に身を隠すようにコンクリートの四角い建造物が建っていた。
「着いたよ」と言って、丸田川がゴミをまとめて袋に詰めた。「近かったね」
大鳥警護が車を降りる。おれもドアを開けて、最後に丸田川が出て来た。
ハイビームの中で青黒く佇んでいた校舎も、中に入れば無機質な蛍光灯と、どこまでもは続かない緑の廊下の寒々しい光景に、一抹の懐かしさを抱かない事もなかった。施設なんて、どこも同じような物なのだ。昇降口から職員室に向かって、ちょうど照明が点灯していて、最後の廊下は他の場所より薄暗い代わりに、引き違い戸の小窓からは皓々と光が漏れていた。
丸田川がドアの前に立ったので、おれはその脇に立って後ろを振り返った。
大鳥警護が階段を上がって来る間、スリッパの足音はまるで聴こえなかった。
「失礼します」と言って丸田川がドアを開けた。「魔人会から来ました」
二教室をぶち抜いた広さの職員室には教職員が一人しか残っていなかった。
濃い眉毛に、大きな目が粗野な印象を与える、その教職員は碁川佑児と名乗った。
碁川教諭は、ナイロンのジャンパーに、色の落ち切ったジーンズを穿いて、靴下の上に健康サンダルを履いていた。色の入った眼鏡の奥から、丸田川と、おれに対して訝しむような視線を向けた後、読んでいた本を閉じてキャスター付きの椅子と共に大鳥警護に向き直った。
「ここは以前、確か半年ほど前にも」と丸田川が口を開くと、手で遮られた。
本の背表紙には『乳隠入門』という題名と、読めない著者名が書かれている。
「はい。緊急性の高い物は確かに調査をお願いして、問題は解決した。……んですが」
と言いながら彼は椅子を引いて、机の引き出しを開けて何かを探し始めた。
「そういうのは、下からがいい」大鳥警護が口を挟んだ時、既に三段目の引き出しで、フラッシュメモリや短くなった鉛筆や、同じようなサイズのドライバーなどが音を立てて引っ掻き回されていた。「泥棒の作法だが」と付け足し、眠たげな目が探し物を眺めている。碁川教諭は一度、その視線を見上げて、何か居心地悪そうに丸田川の方へ訴えかける表情を見せた。
机の上にあるんじゃないか、と思い、横から覗き込んで尋ねる。「あの本って」
「えっちな本じゃないよ。創世神話の解説本。作者は、あれ……なんだっけな」
「読みますか」と碁川教諭が言い、最下段に手を掛けて止まった。「おっと、そうだそうだ、教頭に貸したんだった。コピーを取りたいとかで、……コピーでも?」答えを待たずに彼は立ち上がって、一つの川を見下ろす位置にあるデスクまで歩いて行って、フォルダを開いた。
戻って来た碁川教諭は、白い紙を手に持っていた。「校舎の中でこれが」
こう書いてある。『一回戦/ぼどうがが/六月二十日・午前一時まで/残り二回』
「ああ、マッチメイカー」と丸田川が言った。「学校に直接通達が来たんですね」
「ええ、どうも妖魔を狙う妖魔が出るらしく、学校の周辺で目撃情報がありまして」
大鳥警護の手から渡って来た紙は、丸田川の手から碁川教諭に返された。
「学校の七不思議というものをご存知ですか」碁川教諭は机の上の物を腕で除けて、白い紙を折り、折り、折り畳んだ。小さくなった紙を見ながら、彼は頭の中で言葉を洗い直した。「こういう場所には付いて回るもので、その中の一つに『よつかがみ』と呼ばれている怪談があるんです。新校舎の東階段、三階の踊り場で、左右の壁に鏡を合わせると、ちょうど四枚目に映った鏡の中に昔この学校で命を落とした児童の姿が映り込んでいる、という話なんですが」
「つまり危険性は無いと判断した怪談が、実は妖魔に狙われている妖魔の可能性が?」
「そうです」丸田川の問いに、碁川教諭が答える。「そうではないかという話に」
「実際に命を落とした子供は?」大鳥警護が尋ねる。
「残念ながら、それに近い事は記録に残っていまして」
「記録があるなら見せて頂いても?」
「ありますよ。ええと、どこだったかな」彼が隣の机に紙を置いた時、嫌な予感がした。
碁川教諭は除けたばかりの書類やファイルを開いたり閉じたりし、また引き出しに手を掛けて、おれの予想通りに再び彼が最上段から探し始めた所へ、横から丸田川が指を差しながら尋ねた。「上の、このクリアファイルは……」碁川教諭が顔を上げて、上から覗き込んだ。
手に取ってみると確かに古い新聞記事の切り抜きが挟み込まれていた。
「あったあった。これが当時の記事です」しかし手放した途端、彼はまたクリアファイルが置かれていた辺りの書類を適当に寄せてしまって、戻す場所が無くなってしまった。「実際そういう、死んだ人の霊というか、怨念が妖魔として現れる、なんて事があるんですか」そうだとしたら、何か自らの身に降り掛かる不都合があるかのように、彼は恐る恐る誰かに尋ねた。
「この子が妖魔に襲われた可能性もあるし、人が妖魔になるケースも無くはないので」
丸田川の説明が終わると、一同は僅かな沈黙を並べて、大鳥警護がその後を継いだ。
「声や体の一部を利用される事もある。……まあ、特に子供は」
子供の声を思い出して、それが『ことりばこ』の話だと、おれはすぐに気付いた。
最初に会った時は、今は何も入っていないと、あれはきっと誤魔化されていたのだ。
「それ以降の犠牲者は?」大鳥警護が尋ねる。
「今の所特には」碁川教諭が答える。「小等部、中等部と、一般部の教室も二階までで間に合ってしまうので、三階より上の階は、クラブ活動か芸術科目でしか使用していません。それでも休み時間などに勝手に上がってしまえば、教職員がそれを完全に把握しておく事は難しいもので。実は一度だけ、児童が何人か集まって、合わせ鏡をやったと事後報告を受けました」
「その時は何か影響は?」大鳥警護が尋ねる。
「昼間で、鏡もこんな小さい物だったので、その時は何もありませんでした」碁川教諭は四本の指を合わせた輪を空中に残したまま、少し暗い表情になって、遠くにある職員室の掛け時計に目を向けた。「それでも子供から興味を奪う事は出来ません。だから解決しない事には」
「分かりました。ただ解決自体は、あんまり噂として広まるものではないですけど」
「構いません。他の六つの噂のように、それが何でもなくなれば。現場にはこれから?」
「はい。場所は分かります。その鏡ですが、壁に掛けられたままになってますか?」
丸田川が聞き返すと、碁川教諭が少し考えて答えた。「鏡は現場に用意してあります」
碁川教諭は相好を崩し、現場に行きたくなかったのだろう、椅子に深く身を預けた。
原初の頃、一つの場所に反転が起こり、そこに混沌が生まれた。
それまでは万物に区別はなく、世界は一つの静止、一つの虚無だった。
水のように混沌は満ち、波のように混沌が立つので、それは乳海と呼ばれた。
乳海は濃淡を変え、軽重を変えて、高低を変えたが、依然としてそれは混沌だった。
やがて乳海に二つの渦が生まれる。
一つ目の渦の名は封ら環と言い、その渦を通すと混沌は五つの物質となった。
二つ目の渦の名は括る環と言い、その渦を通して混沌は四つの現象となった。
物質と現象は世界の存在と非存在を分かち、星々を生み出し、生命を生み出した。
存在する世界において、括る環は土と水によって形作られ、封ら環は火と嵐によって循環している。自らを創造し、現出する神として、それらは人々から崇められるようになった。しかし非存在である乳海においては、それらは二つの渦の奥で、一つの混沌に過ぎなかった。
「っていうのが乳隠・序章ね」丸田川は動物型のチョコレートを◯み砕き、唾液に濡れたプラスチックの棒を口から引き抜いた。「初めに光あれと言って天の沼矛でかき混ぜた、っていうのとあんまり変わらないけど、創世神話としては結構古い方だから、近い感じなのかもね」
三階の廊下で、丸田川が立ち止まっておれの方を振り返っている。
薄暗い踊り場に向かって、階段を上っている大鳥警護の黒い後ろ姿が見えるけど、その足音は聴こえない。スリッパは足に吸い付いたように、草鞋のように全く音を立てないのだ。プラスチックの棒をポケットに落とした丸田川は、反対のポケットから、ブリスターパックに詰められたマーブルチョコを取り出し、二つ三つを手の平に出した。「一個あげようか?」
「あ、じゃあ一個だけ」と答えると、やっと彼女が手をこちらに差し出して来る。
一個、濃い朱色のチョコレートを口に入れ、しばらく舐めている。
「それでね、古いものだからやっぱり、客人神が信仰の基盤になってるの」
一段目に足を掛けたまま、彼女は足を進めるのを躊躇していた。「海の向こうから来るとされる英雄神、羽の生えた蛇なんかは、暁の明星、宵の明星の神格で……どっちも金星の事なんだけど、金星って神格化される事が多くてね。それこそヴィーナスも、香香背男も、ルシファーもそうなんだけど、その二面性とか、天から追放された事なんか、特に乳隠入門で語られる創世神話と共通点が多い……で、なんだっけ」彼女は手に溜めたチョコレートを頬張った。
「触りだけ聞ければ、って思ってたんですけど」
彼女の頬の内側で物の砕ける音が湿っぽく響いている。
「私も触りしか知らないし、そんなに詳しいわけじゃないけど」
「充分詳しいと思うけど、そういうのって誰に聞いたんですか」
「家族家族」彼女はまた銀紙をぷちぷちと破り始める。「それと日曜日に勉強会があって」
「どんな家族だったんですか?」
「普通の家よ」手元を見ながら、彼女がつまらなそうに言った。「実家はね、四階建てで屋上があって、離れもあって、車も二台持ってて、庭に豚と鶏が居て、先が尖ってる塀で周りを囲まれた家だったんだけど、お城みたい……そんなじゃないか、まあ広くて良い家だったな」
と、言ったところで、丸田川は急に黙り込むと、ふと寂しげな顔で遠くを見上げた。
踊り場の奥の壁、高い所に小さな窓があって、その向こうは黒い闇で満たされていた。
窓の縁には埃が溜まっている、臭いがした。「何かあったんですか?」
「強盗が入ってね」一つ、青いのを摘んで食べた。「父親がそれを撃ったのよ」
もう一つ、緑色のを。茶色のを。黄色のを。
「私は強盗の死体を見て、それから近くの山に死体を埋めに行くのを手伝った」
飲み込むと、小さな咳をしてから、彼女はもう一つだけ口に含んだ。
「銃には触らせて貰えなかった。一度もね」丸田川が二段目に足を掛けると、その先におれの目が動いて、鏡を設置している大鳥警護を見つけた。「分解して整備する時も。飼ってる動物を屠殺する時も。空き瓶で試し撃ちをする時でさえも。私はね、十七歳になるまで、動物が増えたり減ったりする理由も知らないで、気が付いたら食卓に並んでるお肉を食べてたのよ」
「おれは、近所の年寄りと罠やってて。大抵は食えない鼠とかだけど」
「それに、あのお店でもやってたんじゃないの? いっぱい使うもんね」
難しい事を言い当てたような、彼女の確信的な声の調子が少し怖くなった。
初めて極楽商会の人達が店に来た時、彼女は入り口の脇に立って、怯えたような顔をしていた気がする。もちろん動物が犠牲になっている事を思い、静かに涙を流していたわけじゃないだろう。彼女はいつも、自分が手を下す瞬間を想像し、期待に震えているのかもしれない。
いきなり店員が殴り付けられた事に引いていただけかもしれない。
「ほとんどは冷凍で仕入れてるから。たまに何の肉か分からないのもある」
「お客さんにそんな事言っていいの?」少し笑って、彼女は少し溜め息を漏らした。
歩き出した彼女の後を追って、おれ達は踊り場の手前に立った。
その真ん中には、ちょうど二枚の鏡が向かい合っていて、だから入りたくないのだ。
鏡は縦が二メートル、横は一メートルも無いくらいで、ちょうど人の全身が収まるサイズだった。角度調整の出来る脚が付いているので、服屋か、写真屋でなら見かける事もあるだろうけど、学校であれば、武道場か、被服室にさえ置かれていないかもしれない。しかし今はそれが階段の踊り場に置かれていて、鏡の中を覗き込めば、同じ鏡が見えるようになっている。
それこそ、背後から迫って来る子供を警戒する為に、わざわざ置かれたようでもある。
「じゃあ、まあ……」大鳥警護は右の鏡の横に立って、位置を調節していた。「始めるなら、始められるが」彼はおれと丸田川を交互に見て、どちらが中に入るのかを、二人で決めるのを待っているようだ。やるはずがない、と思いながら横を見ると、ゆっくりと手が上がった。
「私が行きます」丸田川は力強く宣言し、膨らんだポケットからゴミを掴み出した。
上階と下階の仕切りの伸びた先、ちょうど踊り場の中心に彼女は立った。
正面の鏡を見て、横に避けながら背後の鏡を見て、彼女は大鳥警護に報告した。
「特に異常はないみたいです」丸田川が上の階段に足を掛けている大鳥警護を見て言った。おれは両手一杯のゴミを必死に包み込みながら、丸田川の様子を窺っていた。彼女は両手を胸の前で交わし、肩を縮めながら自分の二の腕を摩った。「ちょっと肌寒いかもしれません」
「ふうん、まあ……こんな時間にもなればな」
「あの、危なそうだったらすぐに逃げてください」とおれは言った。「じゃないとまた」
その先を言おうとして、おれは無意識の内に大鳥警護に目をやっていた。丸田川が視線に気付くと、大鳥警護とおれの目が合って、ゴミが手汗でじっとりと湿り、冷たくなった。「この前の大鳥くんみたいに、腕の一本や二本無くなっちゃったら困るからね」と彼女が続けた。
「あれは、おれを守る為に」だっただろうか、確か。「不注意とかじゃなくて」
「まあ、あいつは、まだ十九だ。考えが甘い所もある」大鳥警護が言った。
「え、大鳥って十九なのか。十個も下だったのか、あいつ」
おれの反応を見て、丸田川が薄く笑った。「そうだよ。だから西ちゃんの……あれ、下だっけ? 中身いくつだっけ? 西ちゃんって確かおじさんだったよね」おれは二十八と答え、少しだけ待ってみたけど、丸田川はおれの見た目に対して何も言って来なかった。あいつが十九だからってそれが何なんだ、むしろ若くして腕を失った事は、それはかわいそうだけど。
「新しい腕が付くまでまだあと何日か動けないしね、大鳥くん」
丸田川は自分の左腕を撫でながら、強張ったような指の動きを見せている。
「って、え……新しいのくっつくんだ?」
「じゃないとあんな……うぅん?」おれがまだ、くっつく、という言葉の意味を飲み込めない内に、丸田川がいきなり右の鏡に向かって駆け出した。真正面から自分の顔を覗き込んで、それから彼女は頭を逸らして奥の鏡を覗き込んだ。大鳥警護が既に歩き出していたので、おれも丸田川の後ろに回って同じ鏡の前に立った。合わせ鏡は、まず対面の鏡が見える。その鏡の中に、また最初の鏡が見える。離れている分、鏡の全体が収まる代わりに、その反射する面積は小さくなる。どうしてこんなに距離があるのかと思えば、それは往復の分の距離だからだ。
鏡の中の、鏡の中の、鏡の中の、鏡の中に居る丸田川の、肩に何かが取り憑いている。
服を着ていない、小さな子供のような姿だった。
息が止まるよりも長く海中を漂って来たかのように体の全体が青白かった。
その胸の真ん中に核の青い光が見える。
顔は目と口のあった所にカッターナイフを滑らせたような細い線があった。
手足の先は指がくっついて一つの塊と化していた。同じ、と思われる物が、額の右上の所にも生えていた。角か、手かはまだ分からない。両腕を首の前に交わし、それは丸田川の背中にぶら下がっていた。丸田川が体を揺すっても、全然落ちる気配がない。「大鳥さん」と丸田川が呼んだ。呼んだようだった。遠くから声が聴こえた。そして彼女は左右に目を動かした。
鏡の中の、中の、中の、中の丸田川が首に取り付いた腕を掴んでいた。
青白く、膨らんで、湿っぽく、冷たそうな細い腕を、そしておれの目の前の丸田川は首元の何もない空間を指で包んで、何かを剥がそうとしていた。「一旦鏡の前から外れろ」と大鳥警護が冷静な声で言った。そして丸田川の腕を掴もうとして、彼の手は空を逸れてしまった。
しかし「はい」と遠くから声が聴こえ、丸田川が鏡と鏡の間から飛び退いた。
その瞬間に彼女の姿は見えなくなった。
「いつの間に入れ替わっていたんだ」静かな声が耳に触れた。大鳥警護が右の鏡にべたべた触れながら、ふとおれに気付いて、言った。「四枚目の鏡、そこが『よつかがみ』の支配している領域だとして。だが、いや……ずっと話していた。君、何か変化に気付かなかった?」
「寒いって言ってたけど」それだけ思い出したけど、他に何と答えればいい。
「その前にゴミを受け渡した。そこが、じゃあ境目か。この壁の向こうは何が?」
「何も無いんじゃ……、階段って普通廊下から飛び出してて、あってもトイレとか」
大鳥警護は鏡から離れた。おれを避けて、飛ぶように階段を駆け上がると、四階からおれを見下ろし、間を置いて視線を少し下げた。「何か、ロープ代わりになる物を」と言って、彼が見ていた物は、おれに息苦しさを感じさせる原因で、思わず両腕で胸元を庇ってしまった。
意識しないと、でも忘れるストラップの締め付けや、ワイヤーの硬さを感じる。
「ない、です」声を絞り出すと、胸郭の僅かな動きさえ、その形状を明らかにする。
「スリッパか、君も」と彼が言った。「そう、なら……掃除用のホースか、消火栓か」
違った、のか。「あ、あの、何をするんですか?」
「何を……まあ、そう。君は下で待っていてくれるか」そう言って、今度こそ廊下に向かって走り出してしまった。鏡の中では同じく四階に向かって引き摺られる丸田川の足先が、階段に引っ掛かっている様子だけが微かに見えた。鏡に取り込んでしまってからは、小さな子供が腕力だけで運んでいるのだとすれば、大した脅威にも感じれらなかった。しかし、今のおれの足も、四つ目の鏡の中のおれの足も、丸田川に触れたり、踏んだという感覚さえ無いのだ。
下で、というのは建物の下という事で、つまり外に出て、窓の下に回るわけだ。
やっと状況を察したおれは、二段飛ばしで階段を下り始めた。
最近、足元が覚束ないほどではないけど、あんまり急ぐ事をしなかったのに、五段でも、十段でも柔らかく着地する事が出来た。いつの間にかスリッパが脱げていた。その方が走りやすいし、床の冷たさも、まして固さも気にはならなかった。ゴミは、三階の教室に投げ込んでおいたので、お菓子の持ち込みが可なら、週明けにでも誰かがゴミ箱に捨ててくれるだろう。
職員室の前を静かに通り抜け、昇降口でスニーカーを拾って、裸足のまま飛び出した。