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【5・やざえもん】

「あいつは誰だ?」大鳥の息は上がっている。「知ってる奴か……妖魔か?」

 おれは首を振るしかない。「知らない、今来た」名前すら聞いていないのだ。

 左手首を揉みながら、彼女は一人で袋小路の奥に向かっている。

 後ろからは、四角い襟を縁取る白いラインが見えた。縦と横に一本ずつ、角のところで交差していて、その内側に校章のような、所属の分からない記章があった。六芒星は、様々な意味があって、恐らく彼女は陰陽や五行とは関係がないようだけど、おれも詳しくは知らない。

 その堂々たる足取りよりも、翻った裾が彼女の動作を柔らかく、また固くも見せた。

 そして黒い袋の手前、五メートルくらいの所で彼女は足を止めた。

 不意に遅い不安に駆られて、おれは二つ目の袋の方に目を向けた。

 彼女が前方に手を翳した。袋のファスナーが開いた。何かが空中を走り抜けた。

 袋でも、彼女でもない、その左手にだけ注目していたから、気付いた。

 その左手が切り離され、袋に向かって地面をずるずると引き摺られていたのだ。

 左腕を翳したまま、彼女は「やざえもん」と言って、更に一歩踏み出した。

 腕の断面で何かが蠢いていた。

 さすがに肩で隠れて見えないのを、大鳥が横に動いて覗き込もうとしたたけど、きっとろくでもない物に違いないので、おれは興味を抱かなかった。何かは分からない、何になったかは今分かった。それは新しい左手で、数秒後には再び地面を引き摺られて、それも黒い袋の中に取り込まれていた。彼女の右手は下に垂らしたままだ。その手首が地面にぽとりと落ちた。

 瞬く間に全身がバラバラになって、彼女は袋の中に取り込まれていた。

「ああぁ、もう……」困り果て、おれは大鳥に聞いた。「あれって何が出てるの?」

「俺が知るかよ。ハンマー伸ばして威嚇してみたらいきなり腕ごと持ってかれたんだ」

「なんか、物を投げてみるとか、すれば良かったんじゃ」

 その左腕に関して言えば、ただ壁の後ろに隠したように、画角の端から見切れてしまったように、袖と一緒に無くなっているだけで、断面からは血の一滴も流れていなかった。初めは庇っていたのを、彼も段々と面倒臭がって、投げ出したままで袋の脇に腰を下ろした。それでも姿勢が変わる時に、不意にバランスを崩したりして、無い手を無い壁で支えようとした。

 無い代わりになぜかおれの服の裾が掴まれていた。

 たまたま近くに立っていただけなのに。「伸びるからやめろって。掴むなって」

「しょうがねえだろ」と言いながら、彼が服の裾を捲った。「下どうなってん……」

 反射的に、おれは裾を押さえていた。「だああぁ! やめろ、やーめぇ……ったく」

 パンツじゃないはずだ。スパッツは、見られても大丈夫だっただろうか。

 同性に見られる方が、どういう感情でそれを拒めばいいのか、分からなくて困る。

 人が慌てている横で、大鳥は服の中を見向きもしないで、黒い袋を覗き込んでいる。と思ったら、いきなり右手を突っ込んで、中から肉片を取り出した。子供の、腿だろうか、輪切りにされた部品を一つずつ並べていって、そこに小さな山が出来た。「他に何も無いようだが」

 おれは、咄嗟に大鳥の肩を突き飛ばして、目の端では袋の中を見ていた。

 核が、一つ。

 青く揺らめく火のような物が真ん中に落ちていた。食われる、と思ったのだ。大鳥が人間だから、そしておれは、それが見えるし、食えるはずなのだ。方法は知らないし、知ろうとも思わないけど、きっと難しい事じゃないのだろう。「あっぶねえな」と大鳥が呟いた。彼は片手で体を支える事が出来ずに地面を転がっていた。とにかく袋から遠ざけて、代わりにおれは袋の中に手を付いていた。底には、布だか革だかの、のっぺりとした生地を挟んで地面の感触があると思い、待ち構えた。手を引かれる、ような感覚に、自らの体重がそれを後押しした。

 大鳥の向こうで、三つ目の袋が、民家の塀に引っ掛かっていた。……どうして。

 大鳥にそれを伝える余裕もない。

 おれの体は前に傾いて、頭の方が低くなって、ようやく落ちていると気付いた。

 どこへって、どこでもない、奈落の闇に落ちているだけだ。

 頭上にはファスナーを開いた紡錘形の空が光っていた。それは閉じかけた瞼のように柔らかくて、形のはっきりしない不思議な輪郭だった。日曜日の、正午過ぎ、憎たらしいほどに快晴だった。距離感の掴めない不気味な空の青さと、核の青い光がおれの目の前に浮いていた。

 見上げているおれは、いつの間にか落下を終えて、その場所に静止していた。

 手を伸ばすと、空には届かないが、手の中に核があった。

 青い炎が揺らめいている、小さな塊、あるいは核としか言いようのない物だ。

 何気なく頭上を見上げると、空の瞼が閉じていて、どこにも出口が見当たらなかった。

 そういえば、ここはどこだろう。黒い袋の中だとしたら、そこは成人の男性がちょうど収まるサイズで、男児のガキだったら結構余裕があって、おれはその中間くらいの背格好だから、少し居心地が悪い程度で済むだろう。試しに両手を広げてみると、何も触れなかった。手を上げて、飛んでみても。前に出して、歩き回ってみても、黒い空間だけが無限に広がっていた。足が踏んでいる場所に手をやっても、掘る以前に、地面に触れたという感触さえ無いのだ。

 核自体が存在しているという青い光がおれの唯一の目印になった。

 手も、周囲の何も照らされない、そこに持っていると分かるだけだ。

 そんな物は核が無くても分かる。投げてみたら、どこまで行くか、どこで止まるか、調べられるかもしれない。けどそれは望みを懸けるほどの事じゃない。考えながらも、とぼとぼと足を進めて、どこかに辿り着くのを待っていた。それもただファスナーから遠ざかっているだけかもしれなかった。意味もなく回って、8の字なんかを描いていると足が何かに当たった。

 自分の踝同士がぶつかったのか、いや……あり得ない、当たったのは外側の踝だった。

 足元には何も見えない。

 足の側面で探ってみると、何かが当たる。蹴って、追い掛ける毎に、その間隔が徐々に近づいて、方向も分かるようになった。どうやら転がっているようだ。遂に触れた時、まず鋭い鼻梁と眼窩の縁が指に触れて、その生ぬるさと、吸い付くような滑らかさは、人の顔だった。

 人の、生首だった。

 これがもし目に見えていたら、こんな物に触れ……捨てる事も出来なかっただろう。

 手根骨の辺りにさわさわと触れる物がある。温かく、湿ったそれは、言葉だった。

 最初は髪を引っ掴もうと思ったけど、あまり気味が良くないので、片手と、核を持った方の手首で挟んで持ち上げた。耳元に近付けると、舌と、歯と、唇で微かな声が鳴っている。「首の断面の所、自分じゃ上手く開けられねえから、代わりに指を突っ込んでくれませんか?」

 カチューシャの女の子の、生首が喋っているのか……そうか。そういう事もあるか。

「こっちを手伝ってくれるんじゃなかったのかよ」

 と返しはするけど、結局おれも打開策が無いから、彼女に従うしかなかった。

 気道か食道か、触れた先に粘り気を感じ、その感触が生々しく手の平を包んだ。

 滴り落ちる液体は生臭く、すぐに生き物の腐敗したような匂いが立ち上ってきた。


 もしその色が見えるなら、きっと濁った黄白色をしているはずだ。

 雑菌と。血球と。その他種々の組織液は、人と妖魔で内容が異なる可能性がある。

 そんな回りくどい言い方をする必要はない。膿、と。その一言だけで、彼女の首の断面から流れている物の正体は正確に伝えられる。悪臭を放つ粘液、今やそれは彼女の首の断面を、おれの膝と膝の間を、無限に広がる空間を汚していて、想像も付かない量の液体が、どこまでも流れ続けている。恐ろしいのは、生首がまるで章魚のように暴れ出した事で、うねりながら伸びる触手はやがて彼女の首になり、肩になり、腕になり、乳房になり、胴体になり、下半身は二本の脚に分かれ、恐らく漆黒のボディスーツを纏った全身が首の下に出来上がっていた。

 胸の真ん中に大きな青い炎が燃えて、彼女の存在だけを力強く主張している。

 彼女はおれの肩に掴まって、よろめきながら立ち上がると、長く細く息を吐いた。

「こんなしょーもない手間掛けさせて、一回戦のくせに結構やりますね、あの妖魔は」

「でも核が七つあるし、あの妖魔……確か『ふくろつめ』って名前だけど」……一回戦?

「小せえのばっかりね」その指がおれの肩に食い込んだ。痛い、ってほどでもなかった。ただおれの体が逆に支えを失って倒れそうになっただけだ。「たぶん本体を分けて逃げる為でしょうね。核だってもう、それ以外はバラバラに散らばってんだろうし、あの黒い袋、探せば他にもいっぱいあるんじゃねえかな。なんか、みっともねえ力の使い方だって思いませんか」

 頭上から聞こえるのもあって、その声は、か細いのになぜか威圧的だった。

 だからって、立ち上がる気にはなれなかった。おれの膝と膝の間には、未だに粘度の高い液体がこびり付いている。風もない、空気すらも無いようなので、実際に指で触って確かめるしかなく、鼻に近付けると腐臭がして、舐める……なんて事はしない。指を立てたまま、辺りを探して回って、女の子の膝の裏に辿り着いた。「何してんですか、勝手に人の脚使って」

 空気はないはずなのに、溜め息は漏れるし、それでも言葉を交わしている。

「自分が出した物だろう。その恰好って、何?」

「デビルスキン、筋電式多層迷彩防護服ですが」

「キンデン? 近畿電鉄ってまだあったかな?」

 女の子が手の中で何か弄っている。「周囲の環境を記憶して、色や質感を簡易的に再現する事が出来るってんだけど、もっぱら肉体の方の変化を隠す為に使われてますね」はっきりと存在しないはずの音を聴いた。果肉が潰れるより少し軽い音は、足元のどこかに広がって、動こうとしたおれの靴の先を誑かすように滑らせていた。「そこ、離れていた方がいいですよ」

「な、何してんだ」

「ここを血と膿でいっぱいにすりゃあそのうち吐き出されると思ったんです」

「おれらを?」暗闇、女の子が無言で頷いた。「どこに」

「さあ。核さえ食えりゃいいから、あとは袋に分けて出すんじゃないですか」

 バラバラになったガキも。

 もう一つ、塀の所に引っ掛かっていたのも、……あれは降って来たのだろうか。

 それとも這って来たのだろうか。

 たまに手を振ったり、立ち位置を変えたりしている。地面も無いのでそれが溜まってる実感もないけど「いっぱいにするって、どのくらい?」目の前を通過する時には、生臭さが一緒に通るので、それが流れ続けているのだと分かる。その下に手を差し出して、わざわざ確かめたくはない。考えたくもない。「いっぱいになったら、おれらはどこに居ればいいんだ?」

「どこも何も、戻されなきゃずっと膿の中に浸かってんじゃねえかな」

「へえ……。あと名前教えて貰ってもいいかな? あ、西島信久だけど」

「名乗んなくてもいいけど。名前は神人真冬香。灰土竜。やざえもん。お好きなように」

「好き嫌いも特に無いけど、それは結局何なんだよ」

「何かって言われてもな、ミハエルの遣いってのはさすがに知らねえわけないですよね」

 分からない。

「中東の英雄にして冥府の罪人、ミハエルの事は?」意外そうな声は縦横無尽に弾んで、その内のいくつかは、おれの頬を打ちそうな勢いがあった。彼女が近づいてくる。青い炎が背を屈め、垂れ落ちた髪がおれの鼻先に触れた。「大災害よりも前、人類で初めて冥府からの帰還を果たしたとされる軍人ですよ。ミハエルが築き上げた前線では、今も地球と冥府の戦いが繰り広げられている」息さえ止まる、冷酷な十秒間が過ぎた。「知らねえって顔してますね」

「顔、見えてないだろ。冥府ってなんだよ、あの世とか、そういう話か」

「いいえ。この世にあって、七縄境とか、単に縛る場とか呼ばれている場所です」

「聞いた事ないな」

「日本でも二十一年前の大災害の時に入り口が何個か、……おっと」と、言った。口から声が洩れただけだ。何かを避けたりしたんじゃない。彼女はおれの隣に立ったまま、たぶん自分の手でも見下ろしているようだった。「膿の一部が外に持ち出されてます。だいぶ苦しんでるみたいだから、このまま頑張って垂れ流し続けてりゃ、そのうち外に出して貰えそうですね」

「ここって、何なんだ? いや袋の中なのは分かってんだけど」

「問題は、袋から、どこまで繋がってんのか。冥府の一部……にしては匂いが違いますね」

「こんなに生臭いのに匂いなんて分かるのか。……冥府って結構生臭いのか?」

「あんまり。というか女の子に生臭えとか言うもんじゃ……あなたも女の子か、西島信久」

「いや。どっちでもない。前は男だったんだけど、なんか妖魔になったらしい」

「……西島信久、もしかして顔が爛れた男に会った事があるんじゃねえかと思いますが?」

「ないよ、そんな……そんな奴。どんな奴だよ」

「会ったら殺しといてください」買い物を頼むように、軽い口調で彼女が言った。


 目の前でファスナーが開かれると、睡魔で張り付く瞼のように柔らかい輪郭が現れた。

 細く切り取られた青空の重さに、両目が押し潰れそうになる。

 その縁には細かい金属の乱杭歯が鈍く光っていて、不可逆な物のように曲がりくねった形に沿って、生暖かい空気がおれの肌を冷酷に撫でた。手足が重かった。持ち上げると、何かに引っ張られるような感覚が、手の先から脇の下に伝わって来た。ぽたり、ぽたりと滴るのは黄白色の粘液だ。空気が生臭かった。おれはゆっくりと体を起こして、自分が仰向けになっていた事に気付いた。耐え難い重さに体を押さえ付けられ、おれはアスファルトに肘を付いた。

 地面があった。

 地面を蹴って、大鳥が慌てて後退って行くのが見えた。

「お前、戻って来れたのか」と彼は数歩先で言った。「良かった。ケガは無いか?」

「なんで離れるんだよ」と言いながら、その理由は分かっている。黒い袋から上半身を出した状態で、おれは地面に這い出ようと足を、足を、足を、足を……底がない。底なし沼と違うのは沈んでは行かない事で、おれはずっとそこで足を動かしていた。「ちょっと引っ張って」

 露骨に嫌そうな、臭がっていそうな顔をしながら、大鳥が渋々と頷いた。

 産道というよりは大腸、というよりは肥溜めから這い出るような感覚だろうか。

 わざわざ手を拭いてから、それを片手で掴まれて、少しずつ少しずつ引っ張られる。

 地面に転がると、体の下が粘ついて気持ち悪かった。大鳥がペットボトルを持って来て、空間がうねるような光景に、顔を打たれると途端に爽快な冷たさを感じる。「お前、臭すぎるからどこかでちゃんと洗い流した方がいいぞ」空のペットボトルを振りながら大鳥が言った。

「そんな事より、感染症とかの方が心配だけど」

 顔を拭いながら、ゆっくりと体を起こして、路地の周囲に目を向ける。

 黒い袋がいくつもあって、どれも半ばほどまでファスナーが開いていた。

「お前より十分くらい前に、さっき居たあいつが袋から出て来て帰って行った」

「神人真冬香……あのセーラー服の子だったら、そう言ってた」

「制服は着ていなかったが、なんかウェットスーツみたいな恰好をしていたな」

「その人で合ってるけど」謎のボディスーツの話は、いいか別に。

 入念に手を流した後、大鳥が近づいて来て、おれの横、一メートルくらい先に腰を下ろしていた。手には白い紙を持っていた。「これを探しに来たらしい」と言って、彼が差し出して来たのは、路地の奥にあった張り紙のようだった。受け取ると、触れた周辺が黄色く湿った。

『一回戦/らいちょう/六月十四日・午前一時まで/残り二回』

「明日までか」

「マッチメイカーだ」と大鳥が言った。「妖魔同士を戦わせている。こんな、自発的に動き回れない妖魔にまで通達が来るらしい。よほど暇なのか、それとも」彼が紙の上の方を摘んでおれから引っ手繰った。「追い詰められているのか。『らいちょう』か、お前知ってるか?」

「聞いた事ない。というか、退治される前の妖魔の事なんて普通聞かない」

「だが偶然出会えば、人がそれを話題にする。そうやって妖魔は人々の心に潜り込むんだ」

 もう一度、周りを見る。何度見たって変わらない、口を開けた黒い袋があって、どれも口を開けて、中に溜まった膿の汁から悪臭を放っている。溢れ出る事もないし、闇の中に飲み込まれる事もない。少なくとも、ファスナーを閉めないといけないのだろうけど、それをする力も残っていないようだ。「ところで『ふくろつめ』の本体は、どの袋か、分かってるの?」

「遠くに逃げたようだと、神人真冬香? あの女が言っていた。何者なんだ、あいつは?」

「ミハエルの遣いだって。あと『やざえもん』で、灰土竜とかも言ってた」

「なんだ、妖魔って事か?」

「妖魔っぽかったけど、人の恰好してたから妖魔かどうかは見分けられなかった」

「まあ、その為に人に擬態するんだ。それを簡単に見分けられたら意味ないからな」

「そんなんで戦ってるの、無茶じゃないか」

「だから大抵は犠牲者が出てからじゃないと動けないんだ。ただ人に擬態するくらいなら、かえって交渉の余地もある。お前みたいにな。狂言で妖魔を名乗るような奴も、始末しても問題はない、それで死ぬほど痛めつけて肉体的に死ななかったら妖魔だった、という事もある」

 そんな戦い方は、無茶苦茶じゃないか。「問題ないのか」

「誰にも証明できないからな、言った分は自分でツケを払えって事だ」

 少なくとも「おれは……」言ってないし、それで得をしたわけでもない。

 少しずつ体が慣れ始めて、それが重力だと気付いたけど、どうでもいいと思いながらおれは立ち上がった。右手には青く光る核を持っていた。あれ、……持って来ちゃったのか。それはずっと指を丸めた手の中にあって、握っているという感覚はないけど、離す事は出来そうになかった。食らう、とは。口元に近付けるのも恐ろしく、胸の辺りに手が動いたくらいだ。

「あと核があるんだけど。いくつかあった内の、一個だけ。取れたから」

 右手を差し出すと、彼はそれを見ずに言った。「そうか。食えばいいんじゃないか」

「なんか、やだから、持ってって欲しい」彼の手に押し付けようとすると、彼が拒絶する前にそもそも手に触れる事もなく、その辺りをふわふわ漂っていた。心なしか、光が淡く、形が歪になっている気がした。赤血球が、壊れるとこんな感じだろうか。本で見た知識によれば、肉を食べると汚れ、野菜を食べると綺麗になる、と。野菜嫌いの子供達はみんな知っていた。

 そんな方便で食わされる野菜を好きになるわけもない。

 普段流すわけでもない血の良し悪しなんて気にもしない。

「なんか、ビンにでも詰めとけよ。……ちょっと探して来るから」

 おとなしく入っているとも思えなかったが、素のまま持ち歩くよりはいい。

 近所の二、三軒の玄関を叩き、窓を割って侵入した大鳥が、大きなジャムの空き瓶を持ってきた。本人曰く洗ったらしいビンの内側には、固くなった血痰のようなものがこびり付いていた。核を入れて、蓋を閉めてから、振ってみる。漏れるような事はなかった。「大丈夫そうなら、あとで社長にでも渡せ」と大鳥が言ったが、特に何か把握しているようでもなかった。

 まあ、所有者が封じ込めたという事実が重要なのかもしれない。

「さて、とりあえず」大鳥が立ち上がり、体を反らした。「逃げた奴を捜さないとな」

「逃げたのはおれのせいじゃないぞ」とはいえ、捕まえられそうではあったのだ。

 役に立てるかとかは置いといて、なんとなく悔しい思いも隅っこにある。

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