【3・めんぼっこ】
ビルの周囲はキープアウトテープで封鎖されていたけど、今やそれは、密林の一部を囲っているに過ぎなかった。茶色と緑色に、黄色では、ほとんど目立ちもしない。そして警護に当たっていた警官達の姿はなく、代わりに幹の太い樹木が、彼らが配備されていた位置に生えているだけだった。それを部下や同僚だと思える者がどこに居るだろう。きっとそいつも植物に違いない。だから彼らはお互いを仲間だと信じて、背中を預け合っていたのかもしれない。
そう考えれば街中を侵すように成長した木々の群れを頼もしくも思えて来るだろう。
ファン氏が部下に命じた。「西島信久を連れてビル内を偵察、もう一人は外で待機だ」
「はい、私が社長を警護します」すると真っ先に宣言したのは丸田川明日夏の方だった。
そんなわけで、おれは大鳥と一緒に、草で覆われたビルに潜入する事になった。
青々とした葉が堆積した床を、ほとんど音もなく歩いていく大鳥は、近くにあるドアを薄く開けては中を覗き込んでいった。と思うと、急に中に入って木柄のスレッジハンマーを引き摺って戻って来た。「お前も、武器が必要なら適当に見繕え」そう言って柄を肩に乗せる。
体が仰け反り、咄嗟に声が出る。「おわっ、ぶねえ……ちょっと、近いって」
勢いよく振り上げられた大槌の先端は、確実におれの鼻を掠めようとしていた。
「お前が近いんだ」大鳥が言って、キャップを深く被り直した。「何か見えないか?」
「何も、……あの」大槌を持っていない側に回って、おれも彼の後を追って歩き出した。「その『ひるまぼう』だっけ、見た目の特徴とか教えて貰っても?」通路の脇の階段は、横幅が狭いので上るのに一人ずつ進むしかなかった。大鳥の後ろに三段の間を空けてから、おれも階段を上って行くと、大鳥は踊り場に立ち止まって、おれの事を煙たそうに見下ろしていた。
大槌を持ち替えてポケットを弄り、大鳥はおれの前に一葉の写真を差し出した。
「中継カメラの映像を切り抜いたものだけど、雰囲気は分かる」そう言って写真を手放してしまうと、彼は上階と下階を交互に見ながら、周りを見る余裕のないおれの代わりに周囲を警戒し始めた。写真には、泥濘を縦に吊り上げたような、そこに頭と両手が生えて、頭部には目と口のような穴が開いた、人形のような物が映っていた。それが壁から這い出して、近くに居る制服の警官に手を伸ばしているのだ。薄暗い廊下で、素早い手の動きは焦点がぶれていた。
「出入口のない部屋に閉じ込められた人間は、そこで弱るまで放置されて、食われる」
「壁壊して助ければいいんじゃないの?」
「そいつは明るい場所には出て来ない。捕まえた人間を、他の人間を誘い込む餌にする」
逆に部屋自体が崩落するような徹底的な破壊を行ったところで、捕まった仲間に危険が及ぶだけだろう。室内の状況は、元はどうだったかは知らないけど、その妖魔の影響下でどうなったかも分からないのだ。案外、もう助け出せないように建物と捕まった人間が同化しているかもしれない。「それって、今もこの同じ見た目なのか。もしかして、おれみたいに人間の」
「人の真似をしたり、それこそ肉を纏って擬態するような奴は居るが、そいつは違う」
どうして、と聞き返す間もなく、彼は当然だという口調で先を続けた。
「壁に潜って移動するからだ。人の肉体では、少なくともまだそれは出来ないらしい」
彼の手が目の前に現れ、次に「もう返せ」と言われる前に、おれはすぐに写真を置いた。
「上に居る……居た痕跡がある」と言って、彼は階段に足を掛けた。なぜ分かるのか、聞く余裕もないまま、おれは上階に青い人魂が無いかと目で探ってみた。案外それは、火そのものを見るのと変わらない。たとえば外に置いて来たファン氏や、丸田川や指揮官も、壁を一枚隔てただけでほとんど見えなくなった。まして壁の、中に居る物が、見えるわけがないのだ。
二階に上がると、痕跡とは何か、すぐに明らかになった。
まず大鳥が足を止めた。二段、一段と彼に迫るにつれて、おれも前に進むのを諦めざるを得なかった。二階には何も無かった。廊下はいきなり分厚い壁に阻まれていて、一階にあったような、奥に伸びている通路も、各部屋に入る為のドアも、見当たらないのだ。壁の向こうにはあるのかもしれないけど、どうやって確かめればいい。「そのハンマーで、壊せないの?」
「時間が掛かるな。こんな狭い場所じゃ。お前が壁の向こうを見れたら楽なんだが」
「そこどいて」大鳥が壁に触れないように下がって来るのと入れ替わりで、おれは二階の通路の入り際に立った。分厚い壁は、軽く叩いてみても全く音が響かなかった。何か見えないだろうかと、目を凝らしてみても、分からない。脳内に一階の構造を思い描きながら、その方向が合っているかも、分からない。集中していると、鼻の脇と、眉の間の皮膚が突っ張った。
ちょっとした息や、物が動く様子が皮膚に触れて、そこが妙にむずむずする。
「なんだそのヒゲは。猫みたいだな」と大鳥が言った。
手で触れてみると、柔らかい針のような物が顔に生えていた。
「知らない。何も見えないし」と腹立ち紛れに壁を殴った。痛いのは手だけで、抉れた壁の断面に擦れて、皮膚が切れたようだった。さらさらと砂が舞って、足元で音を立てた。手にも砂が付いていて、壁には小さな拳大の穴が開いていた。もう一度、穴の縁に手を掛けてみる。
朽ちた木材に触れるように、力を加えられたそれは、音を立てて崩れていった。
「お前、その壁。そのまま向こうまで通せるか」
「出来るかもしれないけど」もう、なぜなのかを考えるのはやめにした。
一メートル半の厚さを掘り進んだ先に、不意に四角く欠けた空間にぶつかった。
入り口を広げて、引き返すと、大鳥がスレッジハンマーとフラッシュライトを持って、砂にまみれながら穴を潜って行った。「お前も来い」と穴が言った。その空間は四角く、縦横が五メートルはありそうで、一階から突き上げた樹木のせいで窮屈だけど、天井に突き抜けていった樹木のおかげで微かに光が差していた。そして中央に泥のような色の人形が落ちていた。
その質感は泥と言う以外になく、異様に固くて、ざらざらの表面は乾いていた。
靴の先で突っつきながら、聞いた。「それが『ひるまぼう』……、の死体?」
「核は、見えるのか?」
「無い。空っぽだけど」と聞くや否や、大鳥はそれに手を触れた。「妖魔って死ぬの?」
「物質としては死なない。弱らせる事は出来るが、核を奪われなければそれ自体が消える事はない」大鳥は口の中に手を突っ込んだり、人形を裏返したりして、本当にそれが妖魔なのかを確かめていた。「あとは意外と、別の核を入れても妖魔が復活するわけではないらしい」
「……じゃあ妖魔って、結局なに?」
「そういう現象だ」大鳥は人形を放り出した。「それが核を持つと動き出すんだ」
立ち上がると、彼は部屋の壁を照らしながら、ゆっくりと周り始めた。「核が何なのかは、まだ分かってないからな。俺も社長も、それを直接見たわけじゃない。むしろお前の方が詳しいんじゃないのか、なあ」大鳥がおれにライトを向けた。「噛まれた、って言ったよな」
「そう。首の所に噛まれた痕があって、たぶんそれでこういう、なったんだけど」
「そのまま核を奪われたわけじゃなくてか?」
「その妖魔、最初は別の妖魔、なんか頭が大きくて虫みたいなやつに襲われてて」六本の肢と二対四枚の羽を手で表すと、何かふさふさした物が顔の横にあって、要するに耳の先の、少し先が手に触れた。「だから、その時は見えてなかったけど、たぶん核は奪われた後だった」
「だったら……単純にそいつが特別だったのか、それともお前がか?」
「眩しいんだけどさっきから。……なに、なりたいのか、妖魔に?」
「さあな、一応だ。それにまだ、こいつがなぜ死んだのかを……」
『せっかく遊んでやったのに、どうして。どうして。どうして。どうして。どうして……』
なぜかは、考えるまでもない。そんな事が出来るのは、妖魔以外に居ないからだ。
「逃げろ」と叫んだのは大鳥で、そして彼は真っ先に穴に潜って行った。
しかしその鼠のような素早さを思えば、彼が先に逃げて行った事で、おれは一も二もなく逃げやすくなった。砂だらけの穴を這い出ると共に、おれは空を掴んでいた。階段を、激しく落ちていくビルの天井や壁面に対して、とにかく頭を守りながら、おれは転がっていた。不思議と床の位置だけは頭の片隅に見えていて、そこに手が触れた瞬間、全身を捻って着地した。
肩や腰や腕が痛むけど、立ち上がる事は出来たし、動かない部位は一つもなかった。
暗い穴を見上げて、ほんの一瞬だけ何かを待ってみる、穴の縁に蔦が伸びて来た。
心残りは、その声の正体が何かを確かめもせずに、逃げてよかったのかという事だ。
まあ、偵察と言われただけで、しかもおれはその付き添いだ。
大鳥は既に一階にも居なかった。通路を走り抜けながら、一度だけでも背後を振り返りたいという欲求を抑え込んで、おれも木の幹の隙間から屋外に躍り出た。鬱蒼とした密林を駆け回り、急いで人の姿を探した。黒いスーツ、ファン氏が立っている。丸田川も一緒だった。
走り寄ると、二人は一本の木に向かって何か相談をしているようだった。
ファン氏がおれに気付いた。「一人か、どうしたんだ」
「そっちこそ、なんでビルから離れて、何してるんですか」
「かわいいお耳だね」と丸田川が言って、おれの耳を引っ張った。
ファン氏がその木の幹を指差した。「助けた方がいいかを考えていたんだ」
折れ曲がった大小の枝に抱え込まれて、指揮官が虚の中に閉じ込められていた。
腕を交わしたような枝の形は、まるで人形を我が子のように守る幼い女児のようで、指揮官はその中で諦めたような顔をして、ぐったりと身を投げ出していた。「警護に当たっていた警官を探している内に」ファン氏が手近な木を指して言った。「木に埋まっているんじゃないかという話になった。見てみろよ、コップツリーだ、名前は知らんが、それとも人面樹とでも呼べばいいか。それで周りの木を調べていたら、この男がうっかり捕まって、この有り様だ」
「十人は居たんだ」と指揮官が言った。「本当に、昨日の倍以上が犠牲になったのか」
「ああ、だがこれは『ひるまぼう』とは別の妖魔だ。お前の落ち度じゃない」
『いっぱいクる、キだ。キがいっぱい、モリがいっぱい、ぜんぶヨウマなんだ』
「うるさい。核はどこだ。お前がそれを食うんだぞ」
『ずっとトオく、トオくてよくミえない、あ、あ、あそこだ。あそこにあるよ』
ファン氏はウェストポーチから一辺が十センチメートルほどの黒い立方体を取り出した。
その仕掛箱は、光を全く反射しない不気味な表面にいくつも亀裂や断面を表すと、音を立てて複雑に形を変えていった。各面毎に色が違えば知育玩具にも見えただろう。しかし、それはただ黒くて、際限なく形を変える謎の立体でしかなく、その全貌は一向に見えなかった。
「大鳥はどうした」一際長く伸びた部分を手で押さえながら彼が言った。
「逃げる途中ではぐれたというか」
「逃げる、何からだ。ビルの中で『ひるまぼう』を見つけたのか?」
「別の、たぶんこの木の妖魔が居た、っぽくて。暗くてよく見えなかったけど」
「何にせよ無事で良かった。大鳥も無事だろう。恐らく『ひるまぼう』は食われたな」
「ビルの中に『ひるまぼう』の死体が」
「そうか。丸田川」と言われる前に、丸田川が指揮官の脇に近づいて、太い枝の隙間から差し入れた手で彼の胸元を探っていた。ジャケットの内側から出てきたのは、太く角張ったシルエットの自動拳銃だ。彼女はマガジンを抜いて、目を細めた。「よ、四十口径って……」すぐに気を取り直し、マガジンを戻して素早くスライドを引くと、その銃口を指揮官に向けた。
「な、何してんの……」などと尋ねつつ、おれは丸田川の背後に避けていた。
「このままだと妖魔に取り込まれちゃうから。本人も分かってるはずだよ?」
「ま、待て。すぐに出る、出るから」しかし指揮官の手や足がどれだけ動いても、それは拘束する必要のない部分にゆとりがあるというだけで、彼の胴体をがっちりと固める太い二本の枝は、付け入る隙間を与えてはくれなかった。「手伝っては、くれないのか」次第に気力が萎えていった指揮官は、縋るような目を我々に向けたまま、遂に手足の動きを止めてしまった。
「手伝うったって……道具がないと」そうだ、おれの手は、見ると鋭い鉤爪が伸びていた。
丸田川の前に出て、撃ってくれるなと視線を向けながら、おれは枝に縋り付いた。引っ掻いて、引っ掻いて、少しずつ表面が削れて行くのを見て急速に違和感が膨れ上がった。そもそもビルの壁はどうして崩れたのだろう。おれの手……首が締まる。フードを引っ張られたのだと思った時には、解放されている。おれは地面に引き倒されて梢に覆われた空を見ていた。
咳が出る。
濃い緑色の幕があり、暗い灰色の穴から湿った空気が落ちて来そうだった。
気が滅入る。
気が滅入ると言えば、その顔だ、気に入らない顔が見えた。
指揮官の遥か頭上の木の幹に張り付いた、それは木彫りの仮面だ。
笑っているような弓形の目に、吊り上がった口の奥まで真っ暗闇だった。
声は『十一人目が、もうすぐ。もうすぐ。もうすぐ。もうすぐ』そこから聴こえた。
「西ちゃん、立って」丸田川がおれの手を掴んだ。「ここから離れるよ」掴んで、走り出してもまだ背後に銃口を向けたまま、彼女は指揮官を撃つべきか、仮面を撃つべきなのか、迷いに迷った挙句、結局引き金を引く事はなかった。おれ達は褐色の警官が立っていた所へ向かっているはずだった。前を走るファン氏の背中は何度も木立に隠れて見えなくなった。そこは密林でもあり、街中でもあるのだ。それこそ標識や、建物を見ながら進めば、とりあえず迷う事はないけど、ずっと遭難しているようなものなのだ。そろそろ見覚えのある建物の並びや看板を目にするようになった、と同時に緑が益々深くなり、それでいて視界が狭くなっていた。
「ごめん、西ちゃん」息を切らしながら、丸田川が言った。「社長見失っちゃった」
「え、そんな急に?」
丸田川が歩道だったらしい場所で足を止めた。
そこは駐停車スペースを確保する為に車道と、歩道の境目が蛇行していた。押し上げられた石畳が激しく起伏していたけど、瑞々しい青葉の堆積によって、地面を踏む感覚は柔らかかった。何かから逃げたり、追われたりしている事実を、だから少しだけ忘れそうになった。
丸田川がおれを背後に隠し、両手で銃を構えて警戒した。「何か見つけたら言って」
「何も、来てないっぽいです」
「無い時は言わなくていいから」冷たく言い放つと、彼女は考え事に没頭しながら、口元に持っていった左手の爪を噛もうとしたり、しないように耐えたりしていた。おれを誘導して、道が広い方へ出たと思えば、すぐに引き返した。道が広い、それはつまり森が深いという事でしかなく、目印としても遮蔽物としても、建物が密集していた方がまだしも都合が良いのだ。
「連絡する手段とかは? 社長とか、大鳥とか、誰でもいいから」と聞いてみた。
「無いのよ、外部とも出来ない。せめて警察の車両がある所まで戻らないと」
魔人会の退魔師は、個人で通信機器を持つ事を許されていなかっただろうか。
そんな調子で、こんな現場に立ち入る事を許されていても大丈夫なのだろうか。
大丈夫では、なかったからこうなっているのだけど。「あの……」
いきなり空気が破裂した。
音は頭ではなく、耳を直接殴り付けるように横に吹き抜けていった。
更に二発、三発と木の幹に立て続けに穴が穿たれた。木の仮面が割れて、それはただの木片でしかなくなり、彼女は遠くから「核は、見えてる?」とおれに聞いて来た。仮面が付いていた場所には、弾痕が二つと、不自然に下を向いて伸びた太い枝があった。他には怪しい物はない。木だ。全て木の妖魔だ。ちょうど円形に開けたような空間を、木々が取り囲んでいる。
数メートル先を格子に囲われるのが、森の中で認識できる範囲の限界なのだ。
逃げられないほどじゃない、どこに逃げればいいのかが分からなくなる。
「何も見えない」振り返ると、誰も居ない。正面にも、どこにも丸田川の姿が無い。
『その目、さばくとらの目だ。これを探してたんだ、ずっと。ずっと。ずっと。ずっと』
飛び退いたその場所にも新たな木が生えて、不気味な笑みを浮かべる仮面が、真後ろに迫っていた。それはどこにでもある。幹の高い位置にあるとは限らないのだ。『さあ、たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ。たたかえ』
仮面の奥にある素顔が、どんな顔をしているか分からないし、そんな物は存在しない。
「もしかして、めんぼっこ?」
それは仮面木子という、森の中で道に迷った者の前に現れる妖魔の名前だ。
そして何者かがおれの家の玄関に張り出した、果たし状の相手の名前だった。
激しい駆動音が聴こえた。獣が唸るような音だった。
その下に固い物が潰れるような甲高い音が混ざっていた。
音は一瞬で最高潮に達し、短い余韻を経て静寂が訪れると、切り離された太い枝が地面に落下して、葉の群れがざわざわと騒ぎ立てた。そこから黄色い人影が、のっそりと枝を跨いで、おれの半円の空間に姿を現した。奇妙な恰好だ。頭頂から足先まで隙間なく覆っているスーツの胸部や腹部、恐らく背部にも硬い装甲を纏っていて、黒いバイザーによって、その奥の表情どころか、そいつの面相さえ分からなかった。ただただ怒りに満ちているように見えた。
肩に掛けたベルトは、背中に矢筒か何か背負っているようだった。
腰に巻いたベルトは、右手側に短銃身のリボルバーを吊っていた。
右手には電動工具をもっている。ガードの付いたグリップに、重そうな基部からは太く長いブレードが伸びていた。その前面には鋸状の刃が並んで、その側面から見た形状は、処刑用の剣のような角のない長方形だ。セーバーソー、ただしそれは、鋸型の刀剣という意味ではないのだ。彼は足を止め、彼は走り出し、彼の背後の地面が激しく隆起して木が生えて来た。
背後からもう一人、奇妙な風体の人物が転げ回りながら枝の隙間を這い出て来た。
身長は二メートル近い長身で、日に焼けた頭は毛が一本もなく、深い皺が走っている。
そして彫りの深い容貌は、北欧系にも大陸系にも、青年にも壮年にも見えて、神官のような服装をしているせいで、年齢も出自も判別はまるで付かなかった。地面に倒れ込んだ巨漢を黄色スーツが助け起こし、二人は一際高い木から見下ろしている仮面と正面から対峙した。
「防衛庁・式部局・五行隊。レッドメタル参上!」
そう宣言すると共に、彼はポーズを取った。そう、ヒーロー戦隊……の一人だ。
思わず両手を握り締めて見守っている自分に気付き、おれは居心地が悪くなった。
神官はそそくさと距離を取り、カメラのような機械を通して仮面を見ながら、黄色のレッドメタルに対して忠告をした。「仮面は核とは関係ねえぞ。恐らく木のどれかが本体だ」そして半回転、四分の一回転して、こちらを見た。「もう一体は、人型。近接タイプみてえだな」
その言葉にはどことも言えない田舎の不愉快な訛りがあった。
「了解。……行くぞ、妖魔」
レッドメタルは駆け出し、一気に跳躍した。
「金相剋木だ、地の利はこちらにある」神官の野太い声がその背中を押した。
トリガーを引き、往復機構が刀身を振動させ、一撃で仮面が叩き割られた。
そのまま幹に鋸刃が深々と刺さって、その木は真っ二つに両断された。しかしそれは本体ではなかった。真後ろから現れた次の木が、仮面の上に薄気味悪い笑みを浮かべていた。横にあった枝を蹴り、空中で身を翻しながら、仮面を切り落とした。何本も、仮面を付けた木が現れては、レッドメタルがそれを叩き割った。枝が周囲にごろごろと転がり、神官はそれを避けながら、戦闘から少しずつ距離を取っていた。おれも、巻き込まれないように離れておいた。
なんとなく顔を横に向けると、木々の合間に黒いスーツ姿が見えた。
近づいて来ると、彼はキャップを上げて頭を振った。「十人も食えばこうなるか」
「あの、ビル出る時居なかったけど、どこで何を」
大鳥はスレッジハンマーを地面に立てて体重を預けた。「ビルの一階だ。この妖魔の」
「めんぼっこ。たぶんそんな名前」
「そいつの本体が居るかと思って探していた。それから」と彼は黄色い後ろ姿を見やって、つまらなそうに嘆息した。「奴が来て指揮官を木の虚から助け出した。とりあえず安全な場所まで後退させて戻って来たんだが、社長と丸田川はどうした……どうせはぐれたんだろうな」
おれは頷く事しか出来なかった。「でもなんか強そうな人来たし、なんとかなりそう」
「レッドメタルか。あの金属野郎が何の役に立つんだ」
おれよりは、なんて返す余裕も無かった。
レッドメタルは切れ味の悪くなった刀身を捨て、背中の矢筒から、鈍い光沢を放つ真新しい刀身をセーバーソーに装着した。既に何本も刀身が足元に転がったり、転がっている枝や幹に刺さったりしていて、彼はその一本を踏み付けて、新しい仮面の付いた木に刃を向けた。
突如頭上から大量の葉が降り注いで、レッドメタルの姿が見えなくなった。
「こっちに来い」大鳥に腕を引っ張られ、おれ達はビルの辺りまで後退した。辺り、というのは全面が草に覆われた四角い建造物が、さっき侵入したビルかどうか、周りの風景と合わせても判別が付かなかったという事だ。「おれ達も加勢した方がいいんじゃないの、五行隊に」
「して何になる?」
「何にって……五行隊って、なんなんですか。魔人会とは別?」
「警察はそこらじゅうで人材を勧誘して組織の拡大を図っている」蔦を素手で引き千切りながら、大鳥が答えた。「魔人会は妖魔でも何でも使うくせに組織自体が閉じられている。で、どちらも信用ならないからと、国が独自の対妖魔専門の部隊を編成してその対応に当たる事にした、というような話を警察から聞いた事がある。それが内閣特務機関、式部局の五行隊だ」
枝が剥ぎ取られるほどに、さっき見たばかりのビルの入り口が見えてくる。
やがて人一人が潜れる穴が出来ると、大鳥は身を屈めて、さっさとビル内に潜り込んでしまった。慌てて後を追うと、ライトの光が両目を殴り付けてきた。目を閉じると、瞼そのものに光が焼き付くようで、好奇心からまたすぐに目を開けたくなって、瞼が震えてしまうのだ。
「瞬膜、というんだったか。……それは鳥の目か。お前のは違うみたいだな」
「なんでまたこのビル?」
「ここで最後に食われたのは『ひるまぼう』だ」大鳥は断言し、奥に進んでいった。
何の変哲もない雑居ビルだ。通路の奥には、非常口くらいしかない。突き当たった所で彼は手前にあるドアを開けて、その室内を照らした。部屋の中には葉が堆積していて、足の指くらいは埋まりそうなほどに深くて、柔らかかった。「その近くに本体があるんじゃないかと、探してただけだ。別に、逃げる時にお前を囮役に使えないかと、本気で考えたわけじゃない」
真っ先に逃げたのは、真っ先に逃げる為だったのだ。「本体は?」
「それが分かるのは社長かお前だけだ。ここに無ければ振り出しだが、どうだ」
「たぶん無い。外の木も全部違うし、一回も見てない。これだけ」と大鳥の胸の中心を指差すと、彼は胸を掻き毟り、まさに隔靴掻痒といった様相だった。「でもさっき社長が、遠くてよく見えないけどあそこにある、って……あの箱が言ってたから、あるとは思うんだけど」
「箱の中に居る分、鼻が利くからな。にしても、あそことだけ言われたところで」
と黙った瞬間、建物が軋み、地面の揺れる音が部屋いっぱいに響き渡った。「なんだ」
「うしろ」そう忠告した時には、大鳥は枝の内側に捕らわれて、彼が振るったハンマーが頑丈な繊維に弾かれると共に、彼の胴体はしっかりと拘束された。フラッシュライトが地面に転がった。もう逃げろとも言われなかった。彼の頭上に仮面があって、やっぱり笑っていた。
『いらない、いらない、いらない、いらない、やっぱりコムラサキにするんだったなー』
声は背後から聴こえた。逃げろと言われないわけだ、気付いた時にはもう、おれの体も拘束されていて、ゆっくりと太い枝で地面に引き倒されていた。鋭くて柔らかい物がおれの頬に触れた。枯れ葉だったらしい。なんとなくしか分からないけど、硬い物の擦れ合う音が大量に押し寄せて耳に触れる。焦燥感が頭から抜け出して、周囲を走り回っているみたいだった。
半分は大鳥が枝の中から抜け出そうと藻掻いている音も含まれていた。
『むじんぼうが次は逃げても隠れても上に進ませるって言ったんだ』
おれの体にも枝が何本も伸し掛かって、指先と顔くらいしか動かせなかった。
『こんなに簡単だって分かってたら最初からちゃんとやってたのに』
十人と、三人と、一人と、妖魔が一体。他にも、下手をしたら丸田川とファン氏も。
そして『ことりばこ』も……いや、何か奇妙な音が聴こえる。それは枯れ葉を踏むような軽い音で、人や獣以外の何かがおれに近づいているようだった。視界の端に、伸びきった光が触れて、遂にそれが見えた。黒い箱だ。触手のように箱の一部が伸びて、ちょうど立方体の底面を押し上げ、次の面を接地させた。それは自らの意思で、おれの目の前に転がって来た。
箱はその開いた部分から、青い色がちらちらと現れ、地面を舐め回している。
「ことりばこ、じゃん。一つ……でここまで来たのか」
食われては、いなかったのだ、だからって単体で来られても困るのだけど。
『カクがある。フれられるよ。どうしてフれないの。すぐソコにあるのに』
「お前、さっきは遠くにあるって言ってたのに、どこにあるんだよそれ」
木を見る、部屋の中は木で埋まっていて、どこを見ても木がある。
恐らくきっと、木は地面から床を突き抜けて二階にまで達している。
どれが本体か、その全てが本体だ。
核はどこなのか、本体の中心部だ。
中心はどこなのか、土の下の根だ。根っこの部分でそれらは一つであり、木も、仮面さえもそいつが伸ばした体の一部に過ぎないのだ。おれは地面に爪を立て、コンクリートだか何だか分からない硬い物を引っ掻いた。それは粒子よりも細かく砕け散り、空中に砂塵が舞った。
一掻きしただけで、腕を引き寄せる為の半月状の穴が床に開いていた。
フードパーカーのポケットに箱を突っ込んで、更に地面を掻いた。体の下に出来た隙間に潜り込むと、すぐに頭上を太い枝で覆われた。知った事ではない。真下に、底に、おれは両手で地面を掘り続けた。『そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。なんで入って来るんだ。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない。そこじゃない』何か硬い物に触れたが、構わず爪で引き裂くと、それも砂塵となって散っていった。今やおれの全身が地下に収まっていて、枝によって頭上はしっかりと蓋をされていた。微かな光さえも見えない、完全な闇の中で、手触りと頬に感じる変化だけが頼りだった。それだって、砂塵が舞う度に微細な違和感を生じさせ、おれの手元を狂わせた。そして、やっと根の中心に手が触れたようだ。
毛糸玉のように絡み合った細い配管が、外部からのあらゆる干渉を拒んでいた。
それも爪の一◯きであっけなく砕け散り、穴の底に溜まった砂塵の中からは、青い炎の揺らめきが漏れ出していた。ポケットに手を突っ込んで、黒い箱を片手で握り締めた。一辺が十センチメートルほどの立方体は、今のおれの手には少し余るけど、それ以上でも、それ以下でも良くない気がした。取り出して、どうするか。「ほら、ここに核があるぞ。食っていいぞ」
すると音を立てて箱が開閉し、触手を伸ばして、その先端が炎に触れた。
頭上では枝が激しくのたうち回り、水道管にヒビを入れ、砂礫が転がり落ちてきた。
とはいえ、これだけの規模を制御するには、大きくならざるを得ないだろうし、なったらなったで、身動きの取りようが無くなってしまうだろう。核だけを切り離して逃げ出す手段を残しておく事も考えられたが、こんな地下深くに隠れて、逃げる事まで考えはしないだろう。
何一つ確証のある事は言えない。
今現実に起こっている出来事は、巨大な核が箱に呑み込まれる光景だ。
縁に手を掛けて穴から這い出すと、強い光に目が襲われ、咄嗟におれは目を伏せた。
木はまだ残っている。本体とは関係のない、これは現実の樹木なのだ。その根に足を掛ければ地上に上りやすかったけど、また鼻や口に砂塵が入って呼吸がしづらかった。地面に手を付いて、床に唾を吐き捨てた。頭上から声を掛けられた。「よう、お前が勝ったみたいだな」
見上げると、背に光を受けた全身が黄色い人影がおれを見下ろしていた。
「いや……、おれは」
「漁夫の利を取るようで気が進まんが、お前はここで終わりだ、覚悟しろ妖魔」
「ま、待って。それ」一瞬、おれの脳内に黒い箱が現れた。バラバラに解体され、その中からバラバラに解体された子供の死体が出て来る。箱を差し出せば、それで許されたりしないだろうか。多くの犠牲を出した『めんぼっこ』は食われ、それを食った『ことりばこ』は簡単に、とりあえず持ち運べはする。おれは、巻き込まれたようなもので、危険ではないはずだ。
とにかく立ち上がろうと思い、しかし甲高い駆動音に全身が緊張させられる。
処刑用の剣のような、四角形のシルエットを持つ電動工具の刀身が唸っている。
ポケットに手を突っ込み、箱に触れた。箱は何も言わなかった。ただの箱だった。
「おれあの、ま、魔人会の人間……あ、妖魔か、とにかく魔人会なんで」
「知らねえよ。そもそも式部局は妖魔を利用した活動全般を認めていない」
「じゃ、じゃあ」そこに音もなく、どうして近付けただろう。思わず目を伏せていた。
目で追ってしまうから、その鈍重な金属が木柄に沿って振り上げられ、黄色い頭部を目掛けて一直線に振り抜かれる光景を、おれは生々しい打撃音によって想像するに留めた。その重量と硬度においては、毛髪や皮膚や、マスクなんて誤差の範囲だ。骨を打つ、軽快で籠った音がしただけだった。彼は黄色い膝を地面に付き、素早く横に避けると、ちょうどおれが居た場所にゆっくりと倒れ込んだ。大鳥は肩で大きく息をして、スレッジハンマーを地面に置いた。
「食ったんなら、とりあえずここを出るぞ。社長と丸田川を探すから手伝え」
おれは黄色い男を指して聞いた。「いいのか。これ五行隊の人、殴って」
「知るか、自業自得だ。……そのセーバーソーも貰っとけよ。銃と替刃もな」