【23・まなかんおう】
暗闇の館には、昼夜を問わずに煌々と、様々な色の明かりが付いていた。
まるでそこは歓楽街のようだった。
入り組んだ建物と建物、路地と路地、階層と階層の間に、光の差さない隙間があって、そこに何が蠢いているか、何が潜んでいるかを、誰も知らない。ただし、それが暗闇の館に住まう主人であるかのように、それらは人を恐れさせ、遠ざけさせ、人は光の中に逃れて、衆目に晒されながら生きるしかなくなる。そういう場所にある病院の病室におれは寝かされていた。
天井も、床一面も、端から端まで照明パネルが、清潔な白い光を放っている。
サイドボードにもスタンド式のライト。
壁に取り付けられた人感センサーライト。
可動式のアームに取り付けられた照明器具。
ベッドを囲むように設置された電球は、一つ一つ光量を調節する事が出来て、全てを最も暗い状態にすると、真昼の屋内くらいには、居心地の悪さが軽減された。パイプベッドの白い掛け布団を跳ね除けて、おれは体を起こした。全身が重く、疲れ切っていた。白い上下のパジャマを着ていて、下着も、ソックスも、まして包帯やガーゼなど、何一つ着けていなかった。
嫌な暑さを感じて、改めて周囲を見ると、それは照明から放たれる熱線だ。
「なんか、妖魔だから治療とかいらないん、みたいな事言ってたんですけど」
満田はベッド脇の椅子に座りながら、膝の上に開いた古い週刊誌に、読むでも読まないでもない虚ろな目を落としていた。「メンタルの問題だか何だかって、俺にもよく分からないんですよ。実際寝てるだけで治ってるじゃないですか、じゃあそれでいいんじゃないですか」
なぜか腹立たしそうに捲し立てる満田の、ナイロンジャンパーがカサカサと騒いだ。
それが言い切ると途端に落ち着き、椅子に深く座り込んでまた虚ろな目をする。
「いや。でも、おれ。バラバラにされてた気がするんだけど」
「されてたなー、じゃないんですよ。普通、そんな淡々と思い返さないですから」
「それはそう」喉の渇きを覚え、近くの水差しから水を飲んだ。満田は何もしない。「確か二人とも『だいだごん』に連れられて冥府に来たんだと思うんだけど、それから……、だから何日くらい経ったの?」そう聞くと満田は、そんな事も分からないのか、とでも言いそうな、嫌な顔をして、雑誌を閉じ、また同じくらいのページを開いた。窓の外を見ると、赤かった。
肉のような質感をしている大地の中に、同じような質感を持つビル街が見渡せた。
遥か頭上、球の内部の中心にはきっと、封ら環と括る環、二つの渦が浮かんでいる。
「二週間くらいじゃないですか」
そんなに長い……「満田は、何でここに居るの?」
「俺もケガはしたんですけど。それとなんか、あの仮面の人が」
「『むじんぼう』?」とおれは言った。「マッチメイカーでもいいけど」
「その人が、マグと合体してマグ人間になってみないかって言うから。嫌なんだけど」
病室にベッドは一つしかない。個室だ。
というか、他の病室や、診察室なんかがどうなってるのかも分からない。
ドアの上には、号室の表示板と非常灯が点灯し、磨りガラスも光っている。
「一応マグの考えも聞いときたくて」と満田が言った。「逃げちゃったんで。それでそのマッチメイカーの人が、探して来てくれるって言うから、なんか戻りづらくなって、こっちで待たせて貰ってるんですけど、……別にいいでしょ、戻ったってしばらくする事ないんだから」
「依頼としては、一応『ばんしょう』は退治したんだから、その報酬とか」
「それなら家族が受け取ってるはずだから大丈夫なんで」
「か、家族」居たのか、と思った。「連絡とかしなくていいの?」
思っても口にしないけど、満田の訝しむ視線が当たり、頬に突っ張る感覚があった。
手を触れてみると、太い髭が何本も立っていて、おれは緊張しているようだった。
「何日も出かけるってなっても見送りもしないし、帰ったら鍵も閉まってるんで」
「かわいそうな人だった」と言い、かわいそうな人だ、と思った。
「な、なんでわざわざ口に出して言うんですかそんな事」
「かわいそうだからだけど」
「そう思うながら胸に留めておいてくれたっていいでしょ」
「あ、やっぱでもそこまでかわいそうじゃないから言ったのかも」
「はあ、なんでですか。鍵閉まってて、かわいそうでしょどう考えても」
「せっかく鍵掛けてもこの人が鍵開けて入って来るのは家族がかわいそうだな」
「もう理不尽な事言い出してる!」
「今も寝起きで横に居られてちょっと嫌だったし」
「いいじゃないですか。他に、行くとこないんですよ」
「外出たら色々ありそうだけど」
窓の外に目を向けると、眼下に様々な照明が跋扈していた。眩しいという事もないけど、それら全てが混ざった白っぽい光だけが、コップの中の空気のように、やんわりと満たされている事くらいしか分からなかった。満田も窓の外を見て、煙たそうに目を細め、歯の隙間から吐息が漏れた。「安全に動ける場所がって事に決まってるじゃないですか」と満田が言った。
「冥府ってそんなものだと思うけど」
「妖魔の人でもこの大変さ分かるでしょ」
「まあ。なんか、XIFの人とか居たらいいんだけど」正式名称が何だったかは分からないけど、リーとか、ホンとか、思い出す顔触れは、もはや懐かしかった。星縞聖名は、まだ寒冷の館に居るだろうか、居ないだろうか。無量無量大使は。あの台車でもいい。体を起こし、ベッドの縁から足を下ろすと、ちょうど床にスリッパが置かれていて、ベッドの下側にあるライトがそれを照らしていた。「起きたけど、誰か……様子とか見に来たりはしないのかな?」
「ナースコール、あるんだから押せばいいじゃないですか」
と言われ、コードの先に付いたボタンを押すと、サイドボードのパネルが明るくなった。
「あっ」と満田が情けない声を出した。「じゃあ、呼びに行くしかないですね」
満田が動く気配は無かったので、スリッパを履いて、ベッドで支えながら慎重に立った。意外と、壁沿いになら歩けそうだ。ドアを開け、振り返ると、満田は雑誌を読んでいる。廊下も明るかった。天井に並んだ蛍光灯と、足元を照らす常夜灯。壁には広告パネルが清潔な光を放って、床に埋め込まれた小型の電球が、順路を指定していた。近づくと、足元が点灯し、背後に離れると消灯される。ナースステーションは無人だった。上と下に通じる階段があって、隣にエレベーターが二基、設置されている。表示はどちらもマイナスの「-3」階だった。
読み方は知らないけど、確かBの何階とかって表記じゃないのか、地下の場合は。
消毒の臭いも、大きな建物の臭いもしない。
死の臭いも。
脱臭されているというよりは、初めから存在しないらしい。
この建物は最近、必要になって急いで建てられたかのようだった。
廊下はガラスかアクリルの、半透明のパネルを濾した人工照明に満たされ、他の一切の動きや痕跡が見当たらなかった。もしかしたら、過去の映像を見ているだけなのかと、意味のない空想を抱いてみた。もしかしたら、まだ夢の中なのかと。わざわざ頬を抓る事はしない。
下階に向かう為のボタンを押して、既に一分近く待っていた。
数字は四桁まで増えたり、消えたりして、一向に近づいている気配がない。
マイナス三階が上か下かも、自分が何階に居るのかも分からないから、階段の方に向かって壁や天井を一通り探してみたけど、階数表示のような物は無かった。天井から照らされ、足元から照らされ、壁や手すりや滑り止めや、あらゆる箇所が明かりを灯していた。光っていないのは、おれの体内くらいで、光量によっては、それさえ貫通されてしまうかもしれない。
エレベーターはまだ来ない。
病室に戻ろうかとも思ったけど、廊下を真っ直ぐに見通すと、どうやら自分が出て来た病室が分からなくなっていた。一つ一つドアを開ければ、ノックをして呼び掛ければ、満田が応えてくれるかもしれないけど、それ以外の、何かが、反応してしまったら、どうするのだ。
その部屋が暗かったら、暗闇の中に何かが居たら、どうすればいい。
次善の考えとしては、満田が様子を見に来るまで待ち続ける事も考えた。
二週間、こんな場所で何もせずに待ち呆けていた男を。
トイレはあるとして、寝る場所はベッドでも、ソファでも、ベンチでもいいとして、人間の満田は、食事はどうしてたんだろう。食堂や売店があるとか、給食や配送があるとか、そういう事なら、やっぱり待っていれば病院関係者が、七縄鬼だろうけど来るのかもしれない。
各部屋に自動で配給されるシステムなら、満田のような奴は一生出て来ないだろう。
不意に背後からベルを叩くような小さな、密かな音が短く鳴った。
ドアが横に動いて、危うく預けていた背中を飲み込まれるところだった。
廊下の真ん中から、たった今開いたエレベーターを見て、冷や汗が背中に伝うのを他人事みたいに感じていた。エレベーターは、五人も入れば窮屈になる広さで、奥に棺用の扉も、壁の左右に鏡も、手前に階数や緊急連絡のボタンも何も無くて、そもそも箱の中は、照明が何一つ設置されていないようで、手の中に閉じ込めたように暗闇が満ちているだけだった。廊下から差し込んだ光すら拒んで、ちょうどドアの位置で、黒い幕が下りているようにさえ見えた。
そして暗闇の中心に、得体の知れない何かが息を潜めて待ち構えていた。
「あの」とおれは言い掛け、廊下に動きはないかと確かめた。「起きたんですけど」
エレベーターからの、少なくとも関係者らしい存在からの返答は無かった。
「あの」と声に出しながら、廊下の方に目を泳がせて、そちらに足を出そうとした。
「暗闇は、嫌いか?」
という、その声は目の前から、暑く、乾いた、暴風のようにおれを殴り付けた。
「嫌い、なので」
「光明は、嫌いか?」
「そんな事は、ないけど」
「では、疫病は?」と暗闇が問い掛ける。長い沈黙を経て、暗闇が問い掛ける。「では、老衰は。……戦災は。……窒息は。……中毒は。……犠牲は。……忘却は」一つ一つ、ゆっくりと一方的な問いを投げて、七つを言い終え、それは八つ目の問いを発した。「……凍結は?」
それは末那環王によって地上に齎された七つの死に似ていて、しかし数が合わない。
「好きな奴、居ないと思うけど」
「では、暗闇で死ぬ事はあるか?」
「分からないけど、窒息とかよりは、無いんじゃないかと」
「地上には七つの死がある」と、それは言った。「次は凍結、暗闇はずっと先の話だ」
「それは、ええと。……大災害? っていうか、でも氷河期って前にあったような」
「そのような外から来る者に抗えるように、人類は凍結しなければならない」
「外、……中からとは、何か違うのか?」
「星々の争いは太古の昔より続いている」と、それは言った。「今や銀河の大半は金星王の勢力圏と化し、地球もその標的に含まれている。人類は、その敗北の芽を摘む為の、可能性の種に過ぎない。人類は死をもって冥府に坐する王の中の王に不死を献上しなければならない」
「そんな事の為に、何十億人も人が死んでるのか?」
「凍結で死なない人類が今後、何百億人も生まれる為に」
「そんなのは勝手にすればいいけど。帰りたいんで、エレベーター降りて貰っても」
「暗闇は、降りないか?」という、その声は、床に天井に伸び、網目状の血管のようにパネルの上を這って広がり、照明を覆って赤黒く、それから漆黒の薄膜となって、エレベーターの周囲は徐々に薄暗くなり、暗闇が近づいている気配に肌が粟立ち、毛が逆立った。おぞましさよりも、物理的な重圧の大きさに、体が反応している。床と、天井が、丸く切り取られる。
まるでそこに暗闇の球体が出来て、おれはその中に囚われているかのようだ。
思わずドアの向こうに手を伸ばし、そこに居る何かを引っ掻いていた。
手を包むように、灰色の砂が溢れた。
栓を抜いたように、砂は後から後から際限なく流れ出し、床一面を覆って、廊下から階段の方にまで流れていった。蹴り飛ばそうとして、右足のスリッパが脱げた。もう一方のスリッパは、自らの意思で脱ぎ捨てた。壁際の手すりに掴まり、足が滑らないように、階段をゆっくりと駆け下りた。砂は、暗闇は、一階、二階と下っても、いつまでも尽きる事は無かった。
窓から見下ろした感じでは、それこそ三階、四階くらいだと思っていた。
しかし踊り場と廊下を、十から十五階は回って、やっと地階に辿り着いた。
最後には、階段下にある奥まったドアにぶつかって、階段が終わった事に気づいた。設備管理室という、得体の知れない部屋のドアは、鍵穴も無いのに、回したドアノブを押しても引いても、上げても下げても全く動かなかった。その辺りでは、砂も来なくなり、もしかしたら止まったのかもしれない。戻っても、いいかもしれない。満田が居るだけだし、おれももう動けるから、意味は無いんだけど。満田に、意味は無いんだけど、なんか戻りたくはなかった。
そこも明る過ぎる廊下を少し歩くと、折れ曲がった通路の先にロビーがあった。
天井は二階部分を抜けて、エスカレーターで二階に上がる構造だ。受付のカウンターと、向かい合うように五十席くらいのソファが列になっていて、なぜか最後列にだけ、背もたれが付いていた。診察室へ向かう通路の手前に、トイレ、ATM、入り口の方には売店と理髪店が入っていて、車椅子のすぐ横にある、大きなガラスの小部屋は、二重ドアのエントランスだ。
忙しなく動き回るスタッフの姿も、順番を待ち続ける病人の姿もない。
柱の表面を埋め尽くしている大量の照明は、ただ一人だけを照らしていた。
ソファの、ちょうど真ん中の列に、男が堂々と横たわっている。
濃い眉毛、骨張った輪郭、浅黒い肌、短く切り揃えた髪を逆立て、如何にも快活な、暑苦しそうな青年が、腕を組み、横向きに寝転んで、目を閉じていた。体には赤いボディスーツを纏っていて、その引き締まった体格が強調されている。そして、右目の周囲に、金属の部品が取り付けられていて、明らかにそれは人工の、それも映像を脳内に取り込める義眼だった。
眠っているのかと思ったら、不意に彼の左目が開かれた。
「魔人会の」と彼は気怠そうな声で言った。「そうか、居たんだったな」
「レッドフレイム、だっけ。球体の中で焼け死んだんじゃ」
「そうなると思っていた。暗闇に導かれて、治療され、今は閉じ込められている」
「出られないの?」
と二重の自動ドアを指すと、彼はそちらを一瞥し、また腕の枕に頭を落とした。
「出るのは勝手だが、この建物の外の暗闇で生きていられるのは妖魔くらいだ」
「その炎は。右目がそうなのか?」
「両目で見たら、対象が二点になるだろうが」
それもそうか。「でも火が付けば明るくなるんじゃないの?」
「暗闇は燃える対象じゃねえんだ。むしろ常に冷気や凍結と近しい所にある」
「あっ……」さっきの暗闇は他人事みたいに言ってたけど、末那環王からしたら、凍結と同じくらいには、ここも重要な要素なのではないか。「じゃあ、レッド……フラッシュみたいなのが居ないとダメなのか」意味のない言葉を埋めながら、不意におれは、彼を殺してもいいんじゃないかと考えていた。彼は魔人会の敵、妖魔の敵で、今は弱り切って戦意も無さそうだ。
「五行で言えばそれは火だろう。リーダーの俺が消えたら、次はそうなるのかもな」
今後の事を考えたら、最大の好機が目の前に転がっているのかもしれない。
それと同時におれは、彼は火で死ぬ運命だ、という認識も刷り込まれている。
今、ここでやるのは、火以外の原因を用いるのは、余計な手間が掛かるという事なのではないかと、余計な尻込みをしてしまって、結局その考えは忘れる事にした。逆に燃やされても嫌なので、さっさと出口の方に向かって、ガラス越しに外を見た。夜道で、車の正面に立ったかのように、あるとすれば、何もかもが光の中に蒸発していて、何も見分けられなかった。
自動ドアは、照明の為に電気が生きているのだから、当然開いて、また開いた。
外は空気が乾いて、そして暑かった。病院以外にも、巨大なビルが林立する、摩天楼じみた光景が頭上に広がっていて、その全てに一分の隙間もなく光が灯っていた。それでも昼間だと錯覚しないのは、やっぱり空に光の届かない範囲はあって、その辺りの暗さが強調されているからだ。どこに向かえばいいかは分からず、とりあえず建物に沿って右に歩き出してみた。
何か、炎が揺らいでいる、まるで陽炎のような物が見え、瞬時に物陰に飛び込んだ。
ビルとビルの間に、マンボウのような顔が現れた。
鱗に覆われ、微かに湿っている四本の腕が現れて、醜く弛んだ腹と、膝を折り畳んだ足が現れた。地面に引き摺っている長い尾の先にナマズか、サンショウウオか、ウーパールーパーに似た生物の顔があって、それは両手で顔を覆い、泣き喚き、指の間から肉の髭が出ていた。その姿が露わになるほどに、陽炎のように見えた物が、数十メートルの体高を包み込む核の青い炎だという事が分かった。曲がり角から、おれの眼前すれすれまで、青い炎は伸びて来る。
炎がおれの鼻先に触れる寸前で、巨魚人は道を渡り切り、曲がり角に消えていった。
少し待ってから、巨魚人が来た方向に曲がって、そこから一度振り返った。
炎の末端がビルとビルとビルとビルの間の僅かな隙間に揺れている、ようにも見える。
とにかく、早く離れなければ。
走り出したおれは、自然と路地や物陰の暗闇を避けていて、そのせいで徐々に方向を見失っていた。どこを見ても巨大な建築物が、その外壁に、溝や樋や窓や、あらゆる場所に同じ大量の照明を取り付け、人工の明かりを灯していた。違いと言えば、いつも暗闇の輪郭だけだ。
細く長く伸びる暗闇がある。
小さな隙間の奥に暗闇がある。
眩い灯火に囲まれた暗闇がある。
明るいとしか思っていなかった街路は、必ずどこかに光の届かない隙間がある。
近くを通るだけなら、出来るかもしれない。そう思っても、少しでも明るい方に行くと、更に明るい方へ、明るい方へと足が吸い寄せられ、似たような場所をぐるぐる回ってるような気がしだして、急に真っ直ぐ走り出してしまったり、そこから引き返したりして、何気なく前方に目を向けた時、どこか見覚えのある建物が見えてきた。正面入り口に通じる歩道、車で乗り付ける為のロータリー、屋根付きのバス乗り場から、向こうに行くと救急搬送口がある。
何処も彼処も、強い光がぶつかりあって白く揺れているように見える。
そして誰も居ない。
この世界で、冥府でおれは独りきりだ。
病室を見上げると、満田が触手に捕まって、空中に吊るされていた。
自分が居た病室はどの辺りだっただろうかと、なんとなく顔を上げただけなのに、先に満田と目が合ってしまって、助けを乞うような弱々しい表情をされた。俯いて、また見上げる。満田がこっちを見つめている。触手は、病室の窓から外に向かって伸び、だから室内に本体が居るようだった。「なに目逸らしてんですか」広々とした、建物と建物の空間に、満田の情けない声が反響した。「早く助けてくださいよ。どう見てもピンチでしょ、これ。この状況!」
助けるの嫌だなあ、と思わせる、何か人柄のような物が今の一言に滲み出ていた。
それにしても、あの触手。
深海生物のような、粘液を纏い、吸盤を並べ、毒々しい色をした鞭か電源コードのような長大な触手は、神人真冬香が近くに居るみたいじゃないか。あの冥府に迷い込んだ人間を助けている少女が居るのなら、満田の事は大丈夫だろう。それこそ『むじんぼう』がマグを連れて来たら、満田とは入れ違いになるだけで、そこからどうするかは満田の判断に任せればいい。
声を出すのも億劫で、おれは頭上に、これから向かう方向だけ指しておいた。
「え、ちょっと。行っちゃうんですか。どうするんですかこれ、一人で!」
引き返そうと決心したからには、すぐ背後で自動ドアの開く音が聴こえた時も、注意を向けようとは思えなかった。誰か、敵かもしれない。いつの間にかソファから姿を消していたレッドフレイムかもしれない。そう考えて、顔と体を向けてみると、一瞬鏡のように錯覚した。
実際姿は映り込んでいたけど、そこに着慣れたような衣服を目にしたのだ。
セーラー服を。
ずっと着たまま戦っていたから。
加えて、その少女は長い黒髪に赤いカチューシャを付けていた。
胸元のリボンの赤も、制服の落ち着いた紺色も、襟や袖に入っている白いラインも、首や手や足を覆うボディスーツの漆黒も、彼女の蒼白な顔色が好対照に映えていた。遺体を可能な限り着飾らせたかのように、全てにおいて物として完成されている、女子学生が立っていた。
両手は人の手ではなく、深海生物のような触手になって、屋内に向かって伸びていた。
階段を、十数階、いや。
外から見た感じでは、三階か四階分くらいの高さまで、繋がっているようだ。
「浚っても、浚っても、この掃き溜めに戻って来やがる人が居るんですね」
冷たい声が、張り上げもしないで、ちょうどおれに向けられていた。
「神人真冬香」
そう呟くと、神人真冬香は頷き、病室の窓を見上げて、言った。
「あの退魔師の男、一緒に連れて行かねえと面倒な事になるんじゃねえかな」
「なんか、待ち合わせしてるみたいで」まだ窓の外に吊るされてる満田は、暴れる気力も無くなったのか、恨みがましい様相で、触手に身を預けていた。「あの人の相棒の妖魔を連れて来て貰って、それと合体するみたいな事言ってました。『むじんぼう』にそう言われたって」
「なんだ、ここに来るわけか。そうなると下ろしてやるしかねえのかな……」
不服そうに言うわりに、触手はさっさと地面に下りて来た。
ただし拘束はされたまま、満田はロータリーの真ん中に立たされ、触手によって病院の窓と玄関に縛り付けられた。「さて、と」腕が自由になった神人真冬香が言った。「ここから帰るつもりだったら、ちょっと歩かねえといけねえんですけど、一人でも大丈夫そうですか」
「いや、ちょっとがどのくらいかにもよるけど。ここって地球の裏側……」
「はあ。いえ、表裏一体で、且つ反転している、鏡像体と言うべきですかね」
「え、でも穴に落ちて来たんだから」
「好きな所を掘ってりゃ、どこかに出られるとでも?」
「違うのか?」
「ここは、巨大な肉の中に生じた小さな気泡みてえなもんだと思ったらいいですよ」
そう考えたら、途端に窮屈な場所にも思えて来るけど、かと言って宇宙のような広さを前にして、それを実感する事さえ無意識に拒んでいる。どこかに通じていて、どこまでも通じていればいいと、漠然と思っているだけで、それは何も思っていないのと同じようなものだ。
「それで肝心の『むじんぼう』はどのぐらいで戻って来るって言ったんですか?」
そう聞かれ、満田は神人真冬香に対し、口を塞がれているので、ただ首を横に振る事しか出来なかった。耳川清風の時よりも酷くて、ほとんど顔の一部しか露出していなかった。拘束を緩めてくれるように、と訴えているようにも見えるけど、面倒だから見なかった事にした。
「あいつ、満田を連れてれば、『むじんぼう』もそっちに向かって来ないかな?」
「そうしたら、奴にとって都合のいい時間と場所で襲撃されるんじゃねえかな」
「でもさっき『だいだごん』が歩いてるの見たから、案外近くに居るのかも」
「それを先に……とはいえ、どうするか、囮でも立てんのか」言うだけ言って、神人真冬香に迷いは無かった。再び地面に手を触れ、アスファルトの歩道に、触手が伸びたと思ったら、それは病院の正面から左右に分かれた道路へ向かって『だいだごん』が来た方向と向かって行った方向と逆側の道にも広がって、暗闇の館と呼ばれる区画の、あらゆる路地と路地を侵食していった。どこまで無尽蔵に生み出せるのかと思えば、触手の近くの地面が僅かに陥没し、まるで赤黒い肉の大地そのものが、触手の素材として、消費されているのかもしれなかった。
巨魚人の手の中で、無貌の者は静かに語った。
「末期の瞬間の感覚はどんなもんだろうと、一度は想像するだろう」
彼の足元には、リボルバー型の犬のような姿をした妖魔が居た。
「体が潰れた時、頭を撃たれた時、毒を飲んだ時、海に叩き付けられた時」
マンボウのような顔は、悲嘆に暮れ、自らは何もしようとしなかった。
「首を、絞められた時。刎ねられた時。吊るされた時。つまり殺された時」
彼らは、大量の触手で彼らを包囲する神人真冬香の事を、気にも留めなかった。
「一体それが何だ、一瞬後には全て無だ、それを知ったところで何にもならない。不死になるまでは、誰も彼もその恐怖を忘れられる。だが、なんだ、カミサマってのは戯れにニンゲンを試さないといけないのか。冥府には『死』の『骸』がある。死後ではなく死中の生を、首だけで生きる者や灰だけで生きる者が居る。それは末那環王が七つの死を地上に捨てたからだ」
その中で『むじんぼう』は誰の反応も求めず、一人で淡々と語り続けている。
「死すらも、人類は冥府に奪われ、与えられ、その時を好き放題に弄ばされている」
段々と『むじんぼう』の口調に熱が入り、身振りを加えて声も大きくなっている。
「それを返してもらう? 違う、我々が赴き、我々が奪う、それの何がいけないんだ?」
「ふざけるな」対する神人真冬香も、普段の姿からは想像も付かないほど、明らかに激昂した様子で、遥か頭上の巨魚人の手の上に向かって声を張り上げた。「お前がお前の単なる気まぐれで生み出したこの『はいどりゅう』や『だいだごん』は、お前の邪悪な計画によって弄ばれた被害者じゃねえって言うつもりですか。こんな物にされて何をさせるつもりなんですか」
「何をと聞かれたらそれは、何も」と『むじんぼう』が言った。
既に彼らの周囲は触手の巨大な繭が形成されつつあって、もう一つ問題があった。
触手は周辺の、建物や街灯に当たり、片っ端から壊されて路地は薄暗くなっていた。
まだ暗闇とは言えないけど、暗闇の先端が少し伸びたようにも見える。
「それにこの『だいだごん』とは、我々は互いに信頼し合っている仲間だ」
憮然とした神人真冬香の、無言のまま過ぎていく時間は、あるいは彼女の嫉妬や憎悪を表していたようにも見える。『だいだごん』が『むじんぼう』を胸に引き寄せ、反対の二本の腕を振るって、触手の一部を払い除けた。触手は裂け、千切れ、そこから紫色の毒々しい液体が漏れ出して、巨魚人は見た目に反して機敏な動きで、飛び散る液体を避けようとしながら、その液体から『むじんぼう』を庇おうとしていた。蛸の妖魔は、名前を『やざえもん』と言い、たぶんどこまでも伸びる触手の事で、では『はいどりゅう』は、どんな妖魔だろう。それは『だいだごん』とは対になる存在で、毒とか、膿とかに関係している能力だったかもしれない。
地面を見ると、絡み合う血管のような物が地面を侵食し、その周囲が暗くなっていた。
巨魚人の体から巨大な核の青い炎が広がり、その中に偽物の核が生み出されていた。
そして背後、病院のロビーから、赤いボディスーツを纏った男が飛び出して来た。その姿を見た瞬間に、おれはもう、この場には居たくないという、差し迫った衝動に襲われた。寒冷の館においては、波留農羅環は闖入者を凍らせる事で、治安を維持しようとしていた。ここでは何かが暴れるほどに、照明は破壊され、暗闇は際限なく広がり、病院のエレベーターで会ったような、何かが、勢力を拡大し続けるのではないだろうか。その時は、砂にしてしまっただけで、それが何かは分からなかった。ただ、エレベーターに収まる程度の物だと思っていた。
しかし実際は屋外にでも、いくらでも暗闇は作れるのだ。
「『さばくとら』よ」と『むじんぼう』が言った。「君は勝ち続けなければならないんだ」
「西島信久」と神人真冬香に名前を呼ばれた。「あの呪縛に抗わねえなら一生道具ですよ」
「魔人会」とレッドフレイムに怒鳴りつけられる。「お前は、五行隊にとって危険すぎる」
「あの、マッチメイカー」満田が巨魚人に声を掛ける。「マグは返して貰えないんですか」
満田なんか、どうなってもいいし、他の連中は勝手にやってて欲しい。
病院のロビーに駆け込み、通路の奥に向かい、階段を駆け上がった。
十数階分、更に走って、三階、四階よりも、もっと上を目指して走った。
途中で砂に埋もれた階段を越えて、更に上へ、上へ。今だけは、息が上がっても、肺が焼かれても止まれない。そして屋上に辿り着いた時、自殺防止の為に封鎖されている鉄扉の手前に立って、ドアから、壁まで建物を引っ掻いた。次の瞬間には、足元から全てが崩れて、巨大な砂山が生まれていた。当然ながら、病院に設置されていた照明も破壊され、砂山の周囲は、ビル街の中でも特に暗い一画となっていた。誰かは援護を期待し、誰かは反撃を恐れていた。
知った事ではない。勝手に争っていればいい。
一回の跳躍で、数百メートル先に衝突し、そこはまだ眩しい光の中だった。
そこから走り、走り、やがて暗闇の館を抜けて、赤黒い大地を素足で踏んでいた。
気色悪く、単純に走りにくい弾力があって、転びそうになってからは地面に手を付いて、四足に近い走り方になって、段差や高低差で勢いをつけてまた二足に戻った。どちらでも構わなかったし、大した違いを感じなかった。これがオセロトル、という事なのかもしれない。
どこを目指せばいいのかは分からない。
寒冷の館に近ければ、ラーフの部隊の駐屯地から、西天座院に通じる門まで行ける。
白い室外機に覆われた巨大建築物なんて、どこにも見えない。どこにもって、球面の内側が地表なのだから、大体は頭上にあるはずだけど、暗すぎて、たまに明るすぎて、何があるのかもよく分からない。足を止めれば、七縄鬼に襲われそうな気がして、休む事も出来ない。
どれだけ走ったのかも分からない。
疲れきって、朦朧としながら、倒れないように足だけを前に押し出していた。
こんなペースでは神人真冬香や、マグナムヘッドなんかには簡単に追い付かれるな、と思っていた。それは嫌だな、と思っていた。とにかく前へ、遠くへ。立ちはだかる物は、爪で引っ掻いて砂に変えた。見覚えのある景色を見た気がした。建物、明かり、人影。椅子が置かれていて、その上にオーバーサイズのスーツを纏った、小柄で不遜な人物が座っているようだ。
「我々の帝国の繁栄に協力すると誓うなら、三方楽大師の力を貸してやってもいい」
なんでもいいから、早く家に帰らせて欲しい、と思った。
玄関を開けると、車椅子に乗った大鳥がリビングから出て来た。
「もう帰って来ないと思ってたが、猫にしては律儀な習性なんだな」
「いや、なんで家に」靴を脱ごうとして、ずっと裸足だった事に気づくと、大鳥にタオルを投げ付けられた。水を絞ってあって、軽く拭いただけでタオルは真っ黒になった。「車椅子なんか座ってるけど、足、っていうか体は大丈夫なのか?」上がり框に座り、大鳥に聞いた。
「また『せんかせん』の世話になったけどな、仕方ない。少しなら歩けるよ」
「なに、その『せんかせん』って……名前は聞いた事あるかも」
「つむじ、ひ、ふねで旋火船。魔人会の長で、趣味は人間改造、治療も出来る」
「そうか」もうなんでもいい。
洗面所にタオルを持って行く間、大鳥が後ろから付いて来て、洗剤の残りだの、溜まった洗濯物だの、小うるさい事を言ってきた。全部無視してリビングに入り、ソファに体を投げ出すと、やっと人心地が付いて、少し眠くなってきた。「なあ、おれってどうやって帰って来たんだっけ」おれは、誰に言うでもなく、なんとなく思い付いた事が口から外に漏れていた。
大鳥はテーブルに戻って、ハンバーガーを一つ、ソファに持ってきた。
もう一つの包み紙を開いて、大鳥が齧り付いた瞬間、ソースと油の耐え難い匂いに胃が狂乱を起こし、腹が捻じれそうになった。それはそれとして、眠くて動く気が起きなかった。「知らねえけど」と大鳥が言った。「それこそ三週間近くもお前、どこで何をやってたんだ」
「『むじんぼう』とか色々、冥府で大喧嘩始めそうになって、逃げて来た」
「ああ、冥府か。よく無事だったな。俺らじゃ絶対助けに行かないからな」
「そうかよ、あと。なんでウチに居るんだよ」
「今はここが俺の家だからだ」
おかしな事を言っている。「なんでだよ」
「空き家になるくらいなら住んでいいってよ、前来たジジイが」
「それは、良かったな。でも元の住人が帰って来たんだから、返せよ」
「そんなに突っ張るなよ。お前一人くらいは一緒に住ませてやるって」
「偉そうに」
「この家で一番偉いからな」と大鳥が胸を張った。
ハンバーガーを完食した大鳥は、ソファを空けて欲しいようで、端に座っておれの足首を引っ張り始めた。それが動かないと分かると、彼はテーブルに手を伸ばし、その下から、何か文字が掛かれた四角い張り紙を引っ張り出した。「マッチメイカーから次の日程が来てた。一週間切ってるから、早めに動いた方がいいんじゃないか。何なら手伝ってやってもいいけど」
『五回戦/ほむらうし/八月八日・午前一時まで/残り二回』
テーブルに戻し、クッションを頭の下に敷いて、おれは目を閉じた。
「一回くらい飛ばしても大丈夫だと思うけど、一応相手探しといて」
「分かった。社長に連絡して頼んでおく、たぶん魔人会とは関係ない」
起きた時に誰も居なくて、食事が用意されてたらいいのにな、と思った。
※※復讐モノを考えてたら半年何も進まなくて別のメモにはTSとしか書かれていなくて途中でまた半年放置してたけど意外と最初のメモ通りに進んだ気がする。ほぼアレのパクリ。真の4のFの。五文字縛りなんかしててもポケットにモンスターを集めるやつの模倣みたいになるから続かないよ。次こそは「ダニッチケース」でもこれはヨグ信仰とは関係ない。やり返すのは三人までって話。もしくはまた半年の無駄。※※
※※この内容は実在の物とはまるで無関係、全ての権利は地元の行政に丸投げするよ※※




