【20・ばんしょう】
若人町駅の東口から徒歩五分で、複合商業施設『ヤングロード』が見えてくる。
片側二車線の道路が至る所で交差し、交差点では横断歩道が縦横と、斜めに交差する物まで掠れもせずに残っていた。広々とした歩道には植え込みがあって、四角く区切られた剥き出しの、乾いた土の上に、食品トレーなどのゴミが溜まっていた。道沿いには飲食店、コンビニ、何かの事務所が入っていたらしい様々な廃墟が軒を連ねていて、ガラスの残っている物は、中に人間か、人間以外の気配が感じられた。他にも、たとえば物陰、たとえば立体駐車場の奥の車の前に、若者が輪になって座り込み、得体の知れない闖入者の様子を静かに窺っていた。
直接は干渉して来ないだろうと思っていたら、我々はあっさりと道を塞がれていた。
スーツ姿の男達は、一定の距離を保ったまま、車内の人間達に、それと屋根の上に乗っていたマグに因縁を付けるような視線を向けた。マグの低い唸りは車体を震わせ、頭上からというよりは車全体から伝わって来るようだ。長身でスキンヘッドの男が車に近づいて来て、運転席の窓を叩いた。その背後では、同じスーツ姿の男が二人、車に向けて拳銃を構えていた。
「弁天乱会の真鍋いうもんです。こちらからお伺いしようと思っとりましたが」
そう話し始めた男の有無を言わせない雰囲気に従って、五人は車を降りる事になった。
意外だったのは、車内を縦に区切っていた高本の大刀を「別にお持ちいただいても構いませんが、抜いたらどうなるか、ご理解の上でよろしゅう頼みます」と言うだけで、その他にもありそうな武器に関しては触れもしなかった。真鍋が先頭に立ち、ファン社長、麾下の面々、最後にマグとおれが後に続き、その周りをスーツ姿の男達がぞろぞろと囲み、そして真鍋は、先回りして車を停めておけと言い付け、下っ端の男が一人、さっさと運転席に乗り込んだ。
大通りから大通りへ、そこから住宅地に入ると長い塀が見えてくる。
大きな門が見えてくる。
塀の上には大きなバックパックを背負った金髪の少年が座っていて、スーツ姿の奇妙な集団を白けたような目で眺めている。「我々が向かっていたのは、地元で最大級の栄南小学校だった」頭上から少年の暗い声が聴こえ、目を上げると黒い拳銃のシルエットが、二つ三つ、そちらに狙いを付けていた。「そこで我々は校庭に並べられて、一人ずつ頭を撃ち抜かれた」
「ちょっ、子供居るんじゃないですか。あ、こら。マグ、待て!」
銃口が満田の背中に吸い寄せられる。「おい、どこに行くんだ。止まれ」
十メートル以上離れてから、満田が一瞬だけ振り返り、マグもその場から吠えた。
「なんなんだあいつは」銃を構えた男が忌々しげに吐き捨てる。
「あいつは行きがかり上合流しただけだよ、うちとは関係ない」とファン社長が言った。
「なんでもええけど、連れ戻せんのんか」
「我々は退魔師への発砲を許可し、白昼堂々処刑を行う事となった」
真鍋が塀に向かう。「おいガキ。勝手な事言うとらんで、さっさと下りてどっか行け」そう言って近付こうとすると、子供は塀の上に立ち上がった。全身を見て分かる。十歳くらいだった。栄南小に通っていたのかもしれない。いや、通っているべきで、しかし学校が運営されているようには見えない。金髪で、ワイシャツに、スラックスに、ツヤのあるローファー。
そして背負っている、少年と同じくらいの大きさのバックパックが開いて、少年の両手を何かが覆った。「連れ戻す事も出来る。撃ち殺す事も……それをしないのは、偏に我々の怠惰が引き起こした事態だった」少年が言い、片手を道の先に伸ばした。「あの獣は嫌いだ」
一瞬、おれは「……なんだ、炎か?」と呟く大鳥と同じ事を考えていた。
大鳥はおれの背後に居て、高本は社長を庇って前に出た。
十人くらいの男達は、おれ達を中心とした輪を広げて、離れて様子を窺った。
その一人が手を持ち上げ、天に手の平を向けた。「雨か。真鍋さん」
「空気が渇いている」少年が言った。「待って、それは良くない」
少年の手が、弾かれたように、背中側に振り上げられた。
男達が身を屈め、高本はファン社長を伏せさせながら正門の方へ駈け出した。
獣の咆哮は短く、瞬時に破裂し、住宅地の一画を半球状に覆うようだ。マズルフラッシュだったのだろう、閃光が少年の手から生じたと錯覚し、マグの銃口に思い当たった時には、満田もマグも姿を消していた。「ああそうか、晴れている内は遊びたいんだ」と少年が言った。
塀から飛び降りた少年が男達を掻き分け、満田が去った方向に走り出した。
「おいガキ、待て。お前のそれはなんだ?」
「お前、レッド……なんだ?」遠ざかる少年のバックパックに向けて、ファン社長が自らにも問い掛けるように問い、その答えは得られなかった。それは確か「スプラッシュ、じゃないですか?」と聞くと、ファン社長が首を振った。じゃなければ、スープとか、そういうのだ。
「ドンパチが広がる前に」神経質そうな声が言う。「さっさと始末するべきだった」
門の内側に男が立っていた。
彼もスーツ姿で、三つ揃いの地味な灰色だ。サイドを刈り上げた髪は撫で付け、顎と、口元に髭を生やしている。身長は平均を下回り、細身で、特に顔が小さく見えた。彼は鷹揚に門を潜ると、真鍋の元へ行って、その肩を軽く叩いた。身長は真鍋の方が十センチは高かった。
「千刃さん、出て来はったんですか。もうすぐ向かう所だったのに」
「沙世が遅いと文句を言っている。二人後を追うんだ、場所を知らせるだけでいい」
適当な二人が真鍋に呼ばれ、少年が走り去った方向にとぼとぼ歩いて行った。
新校舎の二階に上がり、千刃、真鍋、他数人の男に囲まれたまま廊下の最奥まで進むと、そこは机や椅子を掻き集めてバリケードが作られていた。千刃が一足先にバリケードの奥へ回って、そちらから重そうな扉が開く音がした。一人が真鍋に扁平な道具を手渡し、真鍋はおれ達を一列に並ばせた。「この先には武器になる物は持ち込ませられんので、金属探知機に引っ掛かったもんは一旦こちらで預からせて貰います」別の一人が段ボール箱を持ってきた。
まずはファン社長が前に進み出た。
「西島、ちょっとこれを持っててくれないか?」
と言ってウェストポーチを外すと、すかさず真鍋が金属探知機を翳した。
「なんで、おれですか?」
高本に背中を叩かれる。「黙って従うんだ。襟が、曲がったな」と、服を引っ張られた。
汗でじめじめと肌に張り付く上に、それが動いて気持ち悪さが倍増した。
やっと手を離したと思ったら、高本はその手で自分の左目を擦ったり揉んだりしていた。
真鍋がウェストポーチを探知機で突いている。「何が入ってる?」
「財布と、パンだったか。後で食おうと思ってな。学校は飲食物持ち込み禁止かな」
「そんなん決まっとらんが。一応、開けてもええですか」
「まあ」ファン社長がファスナーを開いて中を見せた。真鍋が頷いたのを見て、それをおれに寄越して来た。次は高本が呼ばれ、まず大刀を差し出し、ジャケットから拳銃、ナイフと、端にグリップの付いたワイヤー、釘のような物が数本、カード型の折り畳み式ナイフと、手の中に握り込める金属の棒のような物が出て来た。「よくもこんな物騒な、これで全部か?」
高本は黙って左手を差し出し、金属探知機が冷淡な機械音を鳴らした。
「チタン製防弾仕様の、腕時計で殴れば鼻くらい簡単に潰れるかな」と高本が聞いた。
「時計ですか。一応、それも入れて」もう一度、左手に金属探知機を翳して、真鍋がつまらなそうに頷いた。「次はそこのガキ。帽子の方」大鳥は、何も持っていなかった。鳴ったのはベルトのバックルで、それも引っ張る力で噛ませるだけの簡素な代物で、念の為にボディチェックが行われたけど、非金属の武具、防具さえ見つからなかった。そしておれは、荷物は車に置いて来たけど、ボタンやホックくらいは反応するかと思っていたら、何も反応しなかった。
「ほとんど丸腰だったんか。あんたら、一体何しに街に入りよったんです?」
心底呆れたような声で真鍋が言い、手持ち無沙汰そうに金属探知機を振った。
「我々の用事は、交渉……いや、説得かな。とにかく、揉める気はないんだ」
「分かっとるけど。この先は元々は校長室でした」部下に金属探知機を押し付け、真鍋がバリケードの奥へ歩き出した。ファン社長から順番に、その後に続いた。分厚い鉄製のドアを開けると、奥の壁から、ブラインド越しに午後の日差しが漏れる。「うちのボスが待っとるんで、まあ無礼はせんように。預かったもんは帰る時にちゃんと返すんで、心配せんでええです」
四人の背後でドアが閉じられる。
左に書類棚、奥に樫のデスク、中央に応接用のローテーブルが置かれている。
ソファには女の子が座っていて、その背後に千刃を含む数人の男達が立っていた。
青い核の炎はどれも、人間一人分の小さな光を各々の胸の中心に灯している。
「座らないの?」と女の子が言った。「四人、……五人? まあいいわ」
「大鳥、お前は一番奥だ」とファン社長が言い、背中を押し出された大鳥が、まずソファの端に腰を下ろした。まさか罠が仕掛けられてるわけもなく、彼に続いて極楽商会の面々もぞろぞろとソファに収まった。擦り切れた合成皮革のソファは柔らかく、沈み過ぎるほどに柔らかく沈んで、戻らなかった。女の子は、その光景を白けたような目で眺めて、そして裸だった。
いや、ピンク色の浴衣のような物を羽織ってはいるけど、前が開いたままなのだ。
それがちょうど体の真ん中を晒していて、緩んだ帯の下には黒いショーツが見えた。
髪はツインテールに縛って、鞭のような長い、黒い物が両腿に沿ってソファから板張りの床に垂れ落ちていた。靴は、厚底のサンダルだ。爪も赤く塗られ、その色は唇に似ている。大きく横に開いた口から、鋭い八重歯が覗いている。気怠げな表情をして、女の子は右から左、左から右に視線を二往復させた。「辛気臭い連中って、よく言われない? 私は言うけど」
女の子の声は冷たく、肘を掻きながら、ただ目に入った文字を読み上げたみたいだった。
「お前のせい、じゃないのか。その葬式みたいな格好がだ」と、高本が言った。
片目を閉じたまま、彼はあからさまに見下すような表情を浮かべていた。
「何かある度にそっちが制服でいいだろって言うから。葬式もあったし最近」
「可愛いんだ、セーラー服。中学生の女の子が退魔師のお仕事?」
「まあ、騒がしい奴は門前で逃亡したからな」と言ってファン社長が対面の男達に寂しげな視線を送った。「あいつも、悪い奴じゃないんだ。部下に後を追わせてたが、もし捕まえてもあんまり手荒な真似はしないでくれ。あいつの犬も、きちんと飼い主の言う事を聞くしな」
「撃たれたって聞いたけど、……千刃、どうしたんだっけ?」
「はい、ボス」髭の男が半歩前に進み出て、神経質そうな嗄れ声で言った。「校門の所に子供が居て、何か不審な動きを見せたところ、退魔師の男が連れていた拳銃型の妖魔が発砲。その子供が手を撃たれ、そのまま逃亡した退魔師の後を追い、部下二名にそれを追わせました」
「そう、じゃあ。捕まえるまで報告はいらないね」
「その男の情報は必要か?」とファン社長が聞いた。
「社長」大鳥が目を見開いて呼び掛ける。高本は目を閉じて眠っているようだ。
「何を知ってるの?」
「名前は満田王士郎。満田屋という名前で登録されている退魔師で、相棒は犬の妖魔だ」
「ああ、ワンちゃんの。そんな妖魔が居るんだとしたらそれは危険だ」
「それと、あんたの名前をまだ聞いていない。ここのボスだそうだが」
「あんた、ね」と女の子が答えた。「古町沙世。ボスって、弁天乱会のって事らしいね」
古町沙世と名乗った女の子は、斜めに体を凭れさせ、胸が開けそうになっていた。
高い鼻筋に、二重の目と、作りの派手さは大人びた顔立ちに感じられ、むしろそう思うくらいには、まだ年若い実際の年齢も、たとえば甘えたような表情や、目付きに表れた丸みから見受けられた。十代後半か、前半かもしれないと思った。あるいは二十代かもしれないと。
そして物騒な男どもを束ねるボスには到底見えない。
年相応の、不機嫌に眠そうな目で何か問い掛けようとしている。
沈黙が一分を過ぎると、千刃が物々しく口を開いた。「交渉か説得をしに来たって言ってたけどな、あんたたちの目的は何なんだ。ただ通り掛かった、というわけじゃないよな」沙世が背もたれの上を振り返り、それからファン社長に目を向けて、同意見だと訴えかけて来る。
「魔人会の仕事と言ったら、妖魔の退治だが。これを見てくれ」
ファン社長がカフスボタンを取り出し、テーブルに置いた。
沙世が手に取って、すぐに千刃に手渡してしまった。「落とし物を届けてくれたってわけじゃないんだね。殺人の証拠? もしかして死体の手に握られてたから、犯人は弁天乱会の誰かだって言いたいの?」膝に肘を置き、少し身を乗り出した沙世の、顎の下の陰に大鳥の視線が吸い寄せられる。わざとらしく逸らした着地点と、出発点を容易に線で結ぶ事が出来る。
「そうは言ってない。それを持っていたのは『ばんしょう』と呼ばれる妖魔だ」
「それがあんたらの標的か?」と聞き、千刃がカフスボタンを投げ返した。
「そうとも言える」ファン社長はカフスボタンを懐にしまい込み、腕組みをした。「正確に言うと『ばんしょう』という妖魔を、なんというか、乗っ取った人間が居て、それを退治するように依頼された。『ばんしょう』と旧知の間柄である『うんしょう』という名の妖魔から」
「妖魔から妖魔を退治するように依頼された、か。報酬は、そのカフスボタン?」
「違うよ。まあ特に出ていないが」
「それなのに、のこのこと敵地の真ん中に現れて、直接交渉を挑みに来たんだ?」
「我々の仲間が乗っ取ったと言いたいのか」と千刃が冷淡に問い掛けた。
「千刃、黙って」沙世が片手を上げる。腕に蛇のような髪の房が絡み、襟元が開いて真っ白な肌の丸みが浮かび上がる。「魔人会っていうのは、自分では何も考えないで上の連中の命令には黙って従うんだね。そのくせ自分達は危険な妖魔も手駒として従えた気になっている」
「我々の方が手駒で、妖魔に従ってるだけかもしれないさ」
「おべんちゃらはいいよ。『ばんしょう』が何って言ったっけ?」
「退治、それか、可能であれば『ばんしょう』を返してくれないか」
「その二つは、話がだいぶ違うね」背もたれに体を預け直して、沙世が腕を組み、浴衣が浮いて先端まで見えそうになる。大鳥を見ると、目を逸らせずに、代わりに妙に凛々しい目付きになっていた。「だったら逆に言うけど、こちらから……『ばんしょう』からの依頼として『うんしょう』を退治して欲しい。理由は、そちらが説明してくれた分はこちらからもするよ」
「……そうか。そう来られたら、困るか」
「社長」と大鳥が哀れっぽく呼び掛けた。「こいつら、敵じゃないのか」
「かもしれない、それも強大な、だが」
「お褒めに与って、ことに面映ゆい心持ちだね。たかが人間の愚連隊ごときに」
「ただ、ここに来て魔人会を向こうにして事を構えるような勢力が存在するとは、五行隊くらいしか居ないと思っていたが。若人町……どの辺りまで制圧したんだろう。後学の為に聞かせて貰えると嬉しいが、さすがに甲州議会にまで食い込んでいるわけではないんだろう?」
「制圧だなんて人聞きの悪いこと。我々は若人町を守ろうとしているだけだよ」
「『ばんしょう』と『うんしょう』は、この土地の守り神だったんだろう」
「まさか。三星痕に自らを縛らせたまま、何もしてはくれなかったよ」
「それが本心か。君らの力になってはくれないから、もっと有効的に使おうと」
「それだけじゃない、けどそんなものだね」沙世が前に身を乗り出し、ファン社長を正面から睨み返した。「ある意味ではこれが共存できる唯一の方法だからね。気まぐれな妖魔の脅威に晒されながら魔人会の意向に従い続けたところで、平穏に過ごせるとは限らないわけだ」
「ただ君らに敵意があるなら……害意と言ってもいいが、退治しなければならないよ」
「できるものならね。我々は、そういう物に抗う方法を選択し、行使したまでだ」
「そうか。立派なものだ」ファン社長が深く感心した。「その若さで組織のボスとは」
「年齢や性別が関係ある?」
「どのように、かは置いといて。たとえば後ろの男達をよくも従えられるとは思うよ」
沙世が目を丸くし、声を殺して笑い出した。顔を上げると、背後を振り返って、その男の顔を注意深く観察し、彼女は言った。「どのように、かは置いとくとね。それで言えば千刃は元は女だったしね。ホルモン剤投与、胸の切除、それから外性器の形成手術と、顔面整形」
指折り数えるボスの背後で、男は後ろに手を組んだまま黙って立っていた。
「髭も生えた。声も低くなった。体も逞しくなったけど」
そして彼の支えになっている物は、たったの三本しか残っていなかった。
「それだけだ。股の間にぶら下がってるのは、生殖機能のない、ただの肉の棒だよ。排泄すらも困難になって、何の意味もない。こんなにみっともない事があるかな。骨格は女のまま。気を抜けば皮下脂肪が増え、丸みを帯びていく。ドーピングだけが千刃を支えているんだよ」
「こいつは」と大鳥がおれを指して言った。「妖魔に襲われて男から女になった」
「それを言ってどうするんだよ。……今どっちでもいいだろ、おれは」
「それはかわいそうに。狩る側から食われる側に移されたんだね」
「すまないが。その話は、我々と何の関係があるんだろう」
「お話も何も、そもそもお互いに何の関係も持たないし、持つつもりはないよ」
沙世が足を上げ、反動を付けて立ち上がった。窓際に立って行って、ブラインドの隙間を指で広げると、外の様子を顔を近づけて覗き込んだ。背後から見ると、浴衣に隠れた体型の艶めかしい肉感が強調されて、そこに黒い髪の房が沿っていると、蛇が絡み合うようだった。その気味悪さは、動作の不自然さに起因する。一人だけ、人間であり過ぎるように見えるのだ。
「ううっ、まぶし」と仰け反った沙世の頭を淡い光が包み込んだ。
青白くて、それが窓のすぐ外で光ったのか、遠くから伸びて来たのか分からない。
「これで終わりだね」と言いながら沙世が振り返った。「もういいでしょう」
大鳥がソファから飛び上がりそうになるのを、高本が目も開けずに片手で制した。
「時間でも稼いでいたみたいな口振りだな」とファン社長が言った。
「余っていたから、何の柵も無くお話でもしようかと思ったんだけどね。千刃」と呼び掛けられる前から、千刃は拳銃を取り出し、特に大鳥が動かないように警戒した。「撃つつもりはないから。色々、終わったら帰らせてあげるよ。あ、そこの子は一緒に来てもらうけどね」
男達の中から、二人が近づいて来ておれの両腕を掴んで立ち上がらせた。
抵抗するべきかと思ったけど、ファン社長が「外でやれ」と言うので、黙って従っておく事にした。廊下に引き摺り出されると、千刃と、あと二人が残って、他の男達がぞろぞろと後に続いた。沙世が出て来ると、男の内の一人が鍵を取り出して校長室のドアを施錠した。「内側からは開けられない……、鍵が無いと開けられないし、壊せないよ。三対三だから公平だとは思うけどね。まあ、極楽商会っていう連中が何して来るか分からないけど、千刃次第だね」
「あいつらの身に何かあったら魔人会の連中を帰すつもりはありません」と部下が言った。
「いい、いい。銃相手に勝つような相手怒らしたくもないし。じゃあ、行こうか」
と言って、右の男を押し退けた沙世がおれの手を取って歩き出した。
「あ、はい」とうっかり答えてしまって、抵抗する気にもなれなかった。後を追うと、左の男にも腕を引かれ、ほとんど引き摺られるように廊下を進み、階段を下り、昇降口に着いた。ガラスの向こうは、空に灰色の雲が掛かり、湿った空気は重みを増した。沙世がサンダルのまま外に出た。上履き、じゃないか。おれもサイズの余ったローファーを履いたままだった。
すぐ外にタイルの踏み段があって、沙世はその縁で足を止めていた。
「後ろ」と沙世が背中を覗き込んで来る。「スカーフが出てるけど、彼氏募集中?」
「あ、いや。喪中……出てる?」
「喪中か。人ってすぐ死んじゃうからね。うちも、先月だけで五人は死んじゃった」
「それって、象の大群が行進して、みたいな」
「大群じゃないし、魚。ナマズか、サンショウウオか、ウーパールーパーみたいな」
だいだごん、か……。「なんで、おれ。外に連れて来られたんだろう」
「妖魔が中に居てもしょうがないからだよ。ほら、こっち」男達が遠巻きになって、おれと沙世だけが校庭の真ん中に進み出た。小さな校庭の真ん中には一周百メートルのトラック、斜めに横切るように直線百メートルのレーンが、細いロープを張って区切られている。土管を通した小高い山があって、そこから校庭の隅に沿ってたぶん桜の木が並んでいた。半分だけ埋められたタイヤ、雲梯、鉄棒、登り棒、吊り輪、回転ジャングルジムはカラフルに塗られ、その塗装の一部は禿げて錆びが露出していた。鉄棒の真下には、幅跳びに使われる砂場があった。
こんなに狭かったかと思うほどには狭くもなく、大して変わってもいなかった。
何が違うかと言えば、自分の体が変わったのだ。
てっぺんにある、あの横に張った支柱にも今なら手が届くだろうか。
「小学校の校庭って何も無くてイライラするよね」と言って、沙世がおれの視線の先にある遊具に目を向け、一つ一つ数える度に大きな黒い目を細めた。「前はね、テントとか、ブルーシートの小屋があって、ここに浮浪者が住んでたんだけど。周りの家が空き始めたから、弁天乱会が動き回って、みんなそっちに移らせたんだよ。前はトイレとか関係なかったからね」
「って事はそこらじゅうに?」
「クソもだし、動物の死骸にハエの群れが集って、ゴミの中にウジの死骸が溜まって」
そして今の校庭には、空き缶の一つもなく、当時のままの小学校の光景がある。
ただし、子供達の走り回る姿が見られない事を除いた、全てがという意味で。
「『ばんしょう』も『うんしょう』も、何もしてくれなかった」と沙世が言った。重たい空から、ぽつぽつと落ちて来る物があり、それが顔や手に触れ、髪や服に当たる感触がした。地面にも、細かい音が聴こえた。「この町の象徴である二体の竜がね。ヤングロードと、もう一つの拠点として、だからこの栄南小を、若人町と弁天乱会の象徴として守る事にしたんだよ」
辺りに目を配りながら、沙世は背後の男達に手を振って合図を出した。
「雨が降って来そうだね」
「そんな天気じゃないけど」
何かが視界を横切り、砂を巻き上げ、音を立てながら転がっていった。
「うわ、なにっ! 馬の首か何か」と狼狽える沙世の周りを、男達が素早く取り囲み、それから距離を取らせた。四肢を振り回し、転げ回る物体は、砂の上に長く引きずったような跡を残して不意に止まった。裂けたというより刺されたような、傷と血の汚れにまみれたナイロンとジーンズ、顔や、手の皮膚にも同じような汚れがこびり付いて、そして彼は笑っていた。
「うわ、満田だ」とおれは反射的に口にしていた。
「しかし我々はこの哀れな仲間を救う為に強大な敵に立ち向かう事にした」と、言った。
十歳くらいの少年の声がした方を、振り向くと奇妙な姿が目に入った。
青灰色の、全頭を覆うマスクには平らな黒いバイザー、そして全身に纏うスーツには装甲プレートを装着していて、特に両腕の肘から先、両脚の膝から下に取り付けられた分厚い樽のような装甲は、小さな子供の手足が二倍、三倍にも太ったような歪なシルエットをしていた。
「負けると分かっていても、魔人会である我々は戦いから逃げる訳にはいかなかった」
と少年が他人事を言って、差し出した手の平に、大粒の水滴が降り注いだ。
彼の胸の中心には、スーツや、雨に紛れるのではなく、核の青い炎は見えなかった。




