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【2・ひるまぼう】

 ロッカールームに入ると、普段は事務室に籠っている真藤店長が、珍しく近寄って来て背後に立った。「着替え用のカーテンなら」そう言って、背後で彼は部屋の隅にねっとりと絡み付く視線を差し向けたようだった。「あっちにあるぞ。西島……、お前何か変わったか?」

「ちょっと、体が小さくなったかもしれないけど、特には」

 振り返ると、青い人魂のような物が見える……店長の、胸の真ん中に小さく燃えている。

「そうか」と言い、長く激しい鼻息が鳴って、そこに不快な咳の音が続いた。

 店長くらいの間柄でも誰か分かるらしい。元の姿を知られてないだけかもしれない。

 実際、体がちょっと小さくなっただけで、それで着られる服は一気に少なくなった。

 多少緩い服ならベルトで締め付けて、袖や裾を捲るだけでいいのだけど、根本的な部分で寸法が余ってしまうと、着ているという感覚さえも残らないのだ。仕方がないので、痩せていた頃の服を引っ張り出し、黒いフードパーカーを羽織ってみたら、これだけで腿の辺りまで隠れてしまった。何しろ十代の頃に着ていた服で、これも誰かから貰った物だった。胸元には、白い塗料を点々と散らしたような跡と、英字で『ボストン・ストリート』と書かれている。

 それも直接というわけにはいかないので、その下に体操着を着る事にした。

 更にその下には他人が使い古した下着。

 ストラップの締め付けにも、胸にシャツが擦れない事にも、徐々に慣れた。

 靴もほとんど使っていない中学校の運動靴が残っていた。少し大きいだけだった。

 悲しい事に、別の生き物を纏って生活しているような状況にもう慣れ始めているのだ。

「だったら早く準備しろ。松音が居ないからお前が掃除やっといてくれ」

 そう言って彼が踵を返した。同時に衝撃が全身を打った。

 それは何か、動物に当たられたような感覚だった。焦点が迫って来ると、それは尻の辺りにあって、深く沈み込むような感触が蠢いていた。咄嗟に手をやって、誰かの腕に触れ、それが潮のように引き去っていった。まだ感触は残っている。「ちゃんとやれよ」などと言って、真藤店長はロッカールームを出て行って、それなのにまだ手の感触が体の中に残っていた。

 自分で触れたって何も思わなかった、深く刃物が入って捲れた皮膚と変わらない。

 そっちこそ、胸のそれをちょっと掴んだら、どうにかなってしまうのに。

 どうなるのかは分からない。そんな事が自分に出来てしまうのかも、分からない。

 やっとカバンをロッカーに押し込んで、気が重いままトイレに向かった。

 二つの部屋に男性用女性用の区別は無く、両方に大便器と小便器が設置されている。

 掃除用具も二つずつ、それぞれに入っていて、今日は便器から零れた吐瀉物が乾いて固まっていた。その淡い酸性の刺激臭は、ドアを開けた瞬間から鼻を強く打ち、思わず仰け反ってしまうほどだった。新しいゴム手袋を出しながら、臭いの発生源を目で探した。便座の根元から裏側に達していた。水を掛ける。洗剤を掛ける。ブラシで擦る。水を掛ける。あとはペーパーでまとめて拭えばいいと、やっつけ仕事の合間に、なんとなく男子用小便器を眺めていた。

 床まで達していないタイプで、水洗ボタンは沈んでいて、芳香剤が数個転がっている。

 もう使う事は無いのだと、思うまでもなく元から座りで小用を済ましていたのだった。

 何が寂しいのか分からないけど、何かを失った感覚を、小便器に対しては素直に抱く事が出来た。早朝、自然に便器へ腰掛けると、想定外の早さで溜まっていた物が出た。それこそ固く緊張していて排泄すらままならない、なんて事はなかった。そして紙を手に取って、どこを拭くべきかと一分以上も不毛な時間を悩んでいた。これがずっと続くのだと思うと辛かった。

 これはただ性別が変わったのではないらしい。

 大きいのが二つと、向かい合うように小さいのが二つ、首の痕もまだ残っている。

 それどころか四つの痕は何かの印を刻んだようにしっかりと赤い色を宿している。

 どういう理由で、何に変わったのか、分かっていないし、戻れるのかも分からない。

 自分がまだ戻りたいのかも分からない。

 そもそも今の段階で変わり終えているのかさえも分からない。

 それこそ頭が肥大化し、触手と羽が生えて、夜道で人間を襲い始めるかもしれない。

 石鹸、ペーパーの補充を済ませ、芳香剤を継ぎ足して、最後にチェック項目を埋めた。

 無心になって、三十分ほどが過ぎていた。もう一つの個室を掃除していると、稲木玖露がドアを開けて、中を覗き込んできた。「今日西だけ?」口の端に引っ掛かった疑問符を呑み込もうとして、彼女は微笑みと戸惑いの境目で表情を歪ませた。「どうしたの、その恰好?」

 ドアの縁の向こうに、また青色の燐光が揺らめいて、なぜか美味そうに見える。

「着れる服が無かったから」おれはすぐに目を逸らして答えた。

「なんか西……変わった? ていうか今お客さん来てて、手伝って欲しいんだけど」

「客の対応くらい一人でも」じゃなきゃ、店長を頼ればいいのに。

「そういうお客さんじゃないんだって。なんか、一人じゃどうしようもない感じの」

 掃除用具を片付けて手を洗っているおれの事を、長い髪を耳に掛け、稲木玖露はずっと目で追っていた。ドアの所でも、興味深そうにこちらを見下ろしては、目を細めたり、首を傾げて下唇を巻いたりしていた。全項目、まあ良し。ペンをポケットに入れて、トイレを出る。

 近づいてみると、強い花の香りで酔いそうになる。「ずっと見てるけど、なに?」

「別に。なんか、いいんじゃないの。早く行こ、待ってるから」稲木玖露にフードパーカーの袖を引っ張られた。ヒレのように生地が伸びて、その下の腕も簡単に取られてしまった。歩き出すと、途端に稲木玖露はおれを見なくなり、金色の幕の向こうに薄赤い頬が覗いている。


 ぎょろりと剥き出した大きな目が、油の上を滑るように忙しなく動いている。

 恰幅のいい中年の男は、薄い頭髪を手で撫で付けながら、別の手では常に腹のウェストポーチを触っていた。まるで贅肉か、子犬でも愛でているかのように、そしてメニューパネルを睨みながら、嫌に落ち着いた口調で言った。「テーブルの汚れは勝手に拭くよ、食器も厨房に下げる。昨夜そこで何かがあったとしても聞かないし、何があっても構わないよ。それで済む話じゃないか?」照明の落ちた、薄暗いホールを一瞥し、彼は言った。「こっちは弁当を店で食わせてくれって、そう言ってるだけなんだが」その胸の中心には青い燐光が浮いている。

 それだけの事でもない、片付けは済んでいるし、稲木玖露も食い下がって言った。

「だから無理なんで。昼は弁当屋で、夜が居酒屋ってだけで」

「夜は弁当を売ってないのか?」

「その日余ってたら、それだけ買って帰るって人も居るけど」

「今は昼だな。テーブル席はどうなってる?」

 薄暗いホールを稲木玖露が睨み付けた。「あれは……閉鎖中だから」

「融通が利かないな、ふん。そうか、客の素性の良し悪しで区別しているんだな」

 彼がそう言ったのも、自嘲を含んではいたけど、半分は脅しのようにも聴こえた。

 実際彼らは奇妙な集団だった。

 キャップを被った短髪の若い男は、彼もレジカウンターの前に立っていた。

 癖毛を横に分けた長身痩躯の男は、寝そべるくらい浅く椅子に腰掛けていた。

 黒いショートボブの小柄な女性は、入り口の脇から退屈そうに我々を見ていた。

 そして全員が黒いジャケットに黒いスラックスのスーツ姿で、胸に青い炎が見えた。

 更に長身の男に至っては、やたら太くて長い刀を脇に携えていた。横から盗み見ていると、彼は不意に刀を片手で掴み、鞘に収めたままのそれを顔の前に掲げて眺めたりしていた。実際の刀を見た事は無いけど、殊にそれは、片手で支えられるような大きさには見えなかった。

「ウチは、飲食店に相応しくない不衛生な方と反社会的な組織に所属している方は」

「いーや、違う」中年の男が手を差し出して遮った。その手は稲木玖露の鼻先に触れそうになって、彼女を大げさに仰け反らせた。「我々が所属している組織は、極めて社会的だよ。魔人会という名前を聞いた事はないか?」そして男は三人を振り返った。「あいつらがそうだ」

 魔人会の、退魔師の話を聞いた事はないだろうか。

 ニュースによく流れている話題の一つで、彼らは妖魔専門の、民間の、主には戦闘集団であると紹介される。魔人会はその互助会のようなもので、非営利組織であるとされているが、その採用基準も組織構造も全く不明だった。なぜか妖魔関係の事件現場に呼ばれて、それなりに役に立っているらしい、という事実だけを、第一国営放送はほぼ毎日のように伝えている。

 魔人、と言うわりには、人間であるらしい。

「我が社員の中でも特に優秀で、正式に登録されている退魔師だ」

「社員って、なんの会社とかは……」稲木玖露が息を潜めて尋ねた。

「極楽商会、社長のファン・バーラクだ。果物から重機まで何でも……おい、名刺」

 横柄に差し出された手の上には、すぐに横から名刺が乗せられる。手首を返し、その名刺は音もなくカウンターに置かれ、そしてファン氏は親指で隣を指した。「こいつは大鳥校歌。会社の中では一番の若手だ。要領も悪いし、さほど仕事は出来ないが、それでも二人が……」

 その時、子供の声が聴こえ、ファン氏の説明を遮った。

『ヨウマがイるんじゃないのぉお、お、お……』どこからだろう、ファン氏の懐の辺りから声が聴こえたと思っていると、ちょうど彼は膨れたお腹の辺りを手で押さえ、興味深そうにカウンターのおれと稲木玖露を一望した。「そうかそうか」と彼は言った。「妖魔が居るか」

 何かが居るらしいのに、そこに青い人魂のような物は無い、ただ声だけが聴こえた。

『ニオいがする、ニオいかな、わからない、ナニか、ミえる。オンナのひと』

「おい、ちょっと。そっちの」大鳥校歌の指に招かれる。

 吸い寄せられるように顔を近付けると、いきなり髪を掴まれた。

 すごい腕力が、カウンターの、固い、落ちて来た板に顔を打ち付けられた。

 衝撃は後頭部から、カウンターから同時にやって来て、目の奥が真っ白に光り、真っ暗に光った。きな臭い物が鼻の奥に突き刺さる。頭皮に針のような痛みが湧いた。急に吸い込んだ息が喉に引っ掛かった。強引に顔を持ち上げられて、目の前に大鳥校歌の荒れた肌が見えた。

「いっ、てぇ。髪……、離して」

「お前、これが見えるか?」彼が自身の頭の真ん中を指して言った。「それともここか?」

 彼の鋭い視線を避けるように、おれは彼の胸元で青白く揺らめく炎を見つめ続けていた。

 すぐに届きそうな位置に「大鳥、避けろ」おれの右手が、カウンターに叩き付けられた。

「ちょ、ちょっと何やってんですか。やめてください、店長呼びますよ、店長!」

 この場を去る事も出来ずに、稲木玖露は声を上げながら事務室に呼び掛けた。最初何も反応が無かったのが、ゆっくりと腰を上げて、銃のベルトを掛け直し、ようやく店長は出て来たようだった。「こちらの店員が」ファン氏が先手を打った。「我々に協力したいとの事でね、今日一日お借りしてもいいかな。代わりに……そうだな、高本をここに残して行ってやろう」

 彼の背後で、椅子に腰掛けていた長身痩躯の男が僅かに目を上げた。

 おれは、男の手首を掴んでどうする事も出来ずに、そこに固まっていた。

 今は腕力では敵わないが、以前の体だったら、やっぱり敵わなかっただろう。

 なぜか砂が目に入って痛んだ。喉も乾燥して、わけもなく咳が出た。目の前の男が畑でも弄って来たのかもしれない。口の中にまで細かい粒が入り込んでいて、吐き出すか、飲み込んでしまうか、随分と迷った末に、そのままにしておいた。「ああ、それで本人がいいなら」

 持っている銃に触れようとすらしない店長は、不安そうな声で許可を下した。

「よく、ないです。店長、今日遅番も出るんですけど」店長はこちらを見ていない。

「この唐揚げ弁当っていうのは、揚げたてで出して貰えるのかな」

「ああ、十分くらい待って貰えれば。西島か、稲木、どっちか厨房手伝ってくれ」

「じゃあ、そちらの金髪のお嬢さん」ファン氏が指名し、背後に何か指示を出した。

 外に居た女が近づいて来て、おれはようやく解放され、そのまま店外に連れ出された。


 彼らの黒い軽自動車は油とショウガとニンニクと脂の匂いで充満していた。

「『ことりばこ』っていうのよ」後部座席で膝を抱え、彼女は白米を噛みながら言った。

 丸田川明日夏、という名前のこの女性は、おれより三つ四つ年下らしいけど、今のおれより十くらいは年上に見えるくらいの風貌で、その表情といい、顔色といい、性格の陰気そうなわりに初対面の三十前のおじさんに対しても淡々と話し掛けて来た。もっとも、その正体を説明する方法を、今のおれは持っていないのだけど。「事の裡の箱でことりばこ。内部の亜空間に取り込んだ子供の一部を生かしておいて、その力で移動しながら、その声で次の子供を取り込むっていう効率的な生き物なのね。妖魔というよりは古代生物みたいな、可愛さがあって」

「ヤドカリみたいな」聞き返しながら、助手席の方を覗き込んでみる。

「寄生虫みたいなものだ」前から声が返って来た。「いや、生き物を囲って餌にするという意味では、ヒトが一番近いのかもしれないな。どうだ、お前はどう思う、大鳥」尋ねながらファン氏は紙コップのコーヒーを飲み干した。「言っておくが、今この中に人は入っていない」

「それって言っちゃっていいんですか、社長」

「今後の為には必要な事だ。丸田川、説明を」

「はい、まず……」空咳をして、彼女は箸を止める。「どこから説明すれば?」

「殴りかかった非礼は詫びよう、だが。お互い様だな。お前も素性を黙っていた」

 殴りかかった男は、今は運転をしている男で、会話には全く入って来なかった。

 ルームミラーに映るキャップの男を見ていると、小さな手の甲で肩を小突かれる。

「妖魔については?」と聞きながら、丸田川が白米を口に運んだ。

 おれは首を振った。「ニュースで知った事だけ。どこから来たとかは、何も」

「それは誰も知らない事だ」ファン氏が笑った。「宇宙からの侵略者かもしれない」

 それこそこの世とあの世の狭間から来たとか、……なぜそう思うのかは分からないけど。

「妖魔には二つの特徴があるのね」丸田川が指揮棒のように振る、箸の先に米粒がいくつか付いていた。「人や妖魔が持つ核の部分を見分ける事。それと、その核の部分を取り込んで強くなる事。きみは、名前……西ちゃんだっけ。核が見えてるのよね。どんな風に見えるの?」

 ちょうど胸の真ん中、ワイシャツの第二ボタン、に置いた視線を辿られる。

 ジャケットの襟を歪ませる豊満な曲線の奥にもそれは青く揺らめいて見える。

「怖い目してるのね」と丸田川が言った。「鋭い、それに黄色い目なんて初めて見た」

 目を逸らし、答える。「青い、人魂みたいな物が胸の所で揺れてるように見えるけど」

「そっか、青い……」丸田川は自分の胸を見下ろした。「全然分かんないな」

「魔人会の人間には、もちろん見えていない。だから『ことりばこ』に判別させている」

「協力してるって事ですか、妖魔が人に」

「カナリアのようにな」とファン氏が言った。「元々妖魔は人の核を食らっていた。だが、最近は妙な事に妖魔同士で核を食らい合っているんだ。となると、ことりばこなんて物は真っ先に狩られるだろう。それを使って、代わりに核を食わせてやるわけだ。子供達のように、我々もすっかり飼われている、とも言えるが、お互いに損はしていない、だろう、……なあ?」

 ファン氏がシートベルトに締められた自分の腹を手で叩いてみても、返事はなかった。

「とにかく、話の通じなさそうな方の店員を叩いてみたら、妖魔だったわけだろう?」

「だったっていうか、元々はおれ人間なんですけど……妖魔だって自覚もなくて」

「どちらでもいい。核は見えているわけだな。だったら協力して貰うからな」

「それで、この車ってどこに向かってるんですか」

「膝ヶ谷だ。途中で降りて渡し船で川を渡る。お前、ニュースは見ていないのか?」

 星川町のビルで人が消え、その妖魔は『ひるまぼう』と名付けられていた。

「そいつはビルからビルへ逃げ回りながら、退魔師を一人、警察官を三人取り込んでいる。どうやら街からは出られないようでな、周辺の建物を潰して行動範囲を狭めてはいるが、知らない間にビルが増えていた。二棟、三棟と、このままでは鼬ごっこにしかならないわけだ」

「おれがそこに行って、何か役に立つとは思えないけど」

「立つ立たないじゃない。人類の敵ではないと証明しなければ、お前は狩られるだけだ」

「西ちゃんって」肩に触れられ、叩かれ、聞かれる。「前はどんな人だったの?」

「二十八の、普通の人間の男だったけど。もっと体もデカくて」

「へえ。見えない。でも何で妖魔になれたんだろうね」

「噛まれたから」なんて、言ったところで信憑性の欠片も無いなと思った。


 西天座院を擁する鎮守の森を越え、崩落した立体交差の県道を潜った。

 緩やかに坂道を下ると一気に視界が開けて、車は川沿いの平地に出た。畑だった草地や、民家の残骸が埋もれた草地の中を走って数分、土手が見えて来た所で、廃工場の跡地に車を停めて四人で車を降りた。土手に上がれば、そこには草深い新戸川の河川敷が広がっていた。

 対岸には灰色の低い壁が、それぞれ隣接する橋の袂まで切れ切れに続いている。

 その橋は当然、どちらも橋脚だけを残して川の中に沈んでいた。

 点々と、カタカナの『イ』や『エ』や『ヒ』のような形が並んでいる光景は、遥か遠方に向けられたイミテーションのようで、どうしても端から順番に読んでしまうけど、結局は対岸の壁に当たって、何も求められていなかったという事実を叩きつけられる。坂を下って、踏み固められた小道を抜けると、葦のトンネルの先に緑色に光る水を湛えた川面が広がっていた。

 葦に隠された小さな桟橋には、小さなボートが括り付けられている。

 麦わら帽子を被った男がタープテントの下に椅子を置いて、傍らのオーディオ機器でスラッシュメタルを聴いていた。「予約してある、四人だ」ファン氏が先頭に立って、言った。大鳥校歌はその脇について周囲を警戒していた。丸田川明日夏は桟橋の縁に座り込んで蒼々と揺れる水面を見つめていた。おれは、手持ち無沙汰だった。何をしろとも言われていないのだ。

 昼の空に天の川は見えない、しかしその先端が落ちる場所はなんとなく分かった。

 麦わら帽子の船頭がロープを解き、全く揺れないボートに一人ずつ乗り込んだ。

 船頭が棹を差して船は走り出した。「あれ、エンジン積んでるのに」

「お金掛かる」船頭が手を動かしながら強い訛りで言った。「急ぎなら、追加料金」

「大した距離じゃないが、気に入らないなら自分も漕げばいい。そこにオールがある」

 実際川幅は五十メートルもなかった。流れも穏やかで、水の音に耳を澄ましている間に、早くも半ばを過ぎていた。丸田川がアルミホイルの包みを解いて、蒸したサツマイモを千切り取った。「食べたくなかったらいいよ」気兼ねなく断られるように彼女はおれに勧めて来た。

 対岸の土手に上がって、壁と壁の間を抜けると、すぐに住宅地が広がっていた。

 河川敷の防風林は、土手を越えて住宅地の中まで続いている。

 一軒一軒の家の庭には桃や、柿や栗や、椰子の木などが植えられ、廃墟と化した家屋をほとんど飲み込んでしまっていて、細い路地の何本かは、地下から侵食した根によって隆起し、足止めされた車があちらこちらに放置されていた。どこの廃墟も同じように概ねが緑色で、その欠けた部分は灰色や茶色だった。人の住んでいる気配はない、巧妙に隠蔽されているのだ。

 何かがあるとしたらそれは、立ち去った痕跡でしかなく、人を誘い込む為の罠だった。

 大鳥が先行して車を探しながら、三人でぞろぞろと住宅地を歩いて行った。

 高架線の下の、私鉄の線路を渡ると、涸れた水路を挟んで路地が数本ずつ並んでいる。そこから巨大な駅舎に向かって数区画が、膝ヶ谷の中心である星川町だった。二階から四階の雑居ビルが立ち並んでいる路地は、線路と県道の間を長く東西に伸びていて、そこまで行ってもまだ樹木が増え続けていた。街路樹でもない。車道や歩道にも、建物の内外にも、太い幹を突き上げ、枝葉を伸ばした木々が建物を飲み込もうとしていた。県道沿いには数棟の高層ビルが、葉に覆われた頭を突き出していた。しばらく進むと、黄色いテープが一帯を封鎖していた。

 人員輸送車と移動指揮車が、犇めく木立の合間に、乱雑に押し込まれている。

 そこに警官が一人立っていた。「極楽商会、ファン・バーラクだ。要請を受けて来た」

「確認します」褐色の肌に濃い眉毛の、制服制帽が似合わない年若い青年は、車のボンネットに置いてあったラップトップパソコンを引き寄せ、線で繋いだ磁気読み取り装置にファン氏の右手首を翳した。たっぷり三分後、読み込みが終わると、彼は神妙に頷いた。「魔人会に三名登録されています、大鳥校歌、丸田川明日夏、間違いありませんか。あともう一人の方は」

「未登録の助手だが、中に入れても構わんだろう。責任は全てこちらで持つよ」

 警官は画面とファン氏を交互に見やって、少し画面の方に長く目を残した。

「私個人では決めかねます、指揮官に連絡しますのでしばらくお待ちください」

「変わらんと思うが」無線で連絡をするのかと思えば、彼は小さな拳銃を取り出し、空に向かって長く尾を引く煙のような物を打ち上げた。鏑矢のような高い音はビル街を抜けて、星川町自体を半球状に覆っていた。耳が、痛んだ。両耳を塞いで背を丸めると、丸田川に肩を抱き竦められた。背中を強く叩く手の感触と、一定の感覚で肺を揺さぶられる息苦しさを感じた。

 打って変わって静寂が街に降り注ぎ、路地の曲がり角からスーツ姿の男が姿を現した。

 この『ひるまぼう』討伐作戦を取り仕切る指揮官は、白髪交じりの長髪を後ろで束ねて、大きな黒縁眼鏡を掛けていた。ファン氏と握手を交わし、進捗はどうかと尋ねられると、彼は顔に苦味を走らせて、すぐに表情を戻した。「悪くはない。だが、まあ現場を見れば分かるだろうよ」と、横を見る。「そっちの三人が退魔師か。丸腰のようだが、武器は必要ないのか」

「武器はその辺で適当に拾うよ。現場は?」

「この先のビルだ。歩きながら話そう」指揮官を先頭に、ファン氏、大鳥、そしておれの背後を丸田川がついて来た。どこに隠していたのか、彼女は筒形の容器に入ったポテトチップスを齧っていて、おれが振り返ると「ごめんね、辛いやつなのよ」と言って小脇に筒を隠した。

 さっきまでおれがそこに居たのに、お菓子が、もっと大切そうに抱えられている。

「一応、三等級の妖魔災害という事で対策本部を立てたんだが、状況は悪くなる一方だ」

 等級で言えば二は不特定の人間、三は一定の範囲内、四は複数の施設や地域に及ぶ。

「たまたま廃墟が多い区画に追い込んで、やっと先日、隣接する八棟の建物を全て潰して取り囲む事が出来たんだ。こうなれば袋の鼠どころではない。重機でも発破でも持ち込んで、外側からゆっくり削って行けばいいとなったところで、問題が発生したんだ……まあ見てくれ」

 星川二番通りに入って、途中で横道に折れると、視界が開けていたはずの一画に出た。

 きっと一棟のビルを人や機械が取り囲んで、その中に妖魔が閉じ込められている、さながら墓碑を立てたような光景があったはずなのだ。しかし実際は瑞々しい緑の梢によって視界は閉ざされていた。街の中心部に生い茂った木々によって、アスファルトは激しく隆起し、亀裂が入っていて、木立の合間を縫って、一本の路地を真っ直ぐ歩く事さえ困難なほどだった。

 だから指揮官が立ち止まっても、最初そのビルが目的地だとは誰も気付けなかった。

 その、ビルというか、大樹というか、大樹で作られたビルがそこにあった。

「まるで森だな」とファン氏が言った。「この辺りはまだ人が住んでるんじゃないのか」

「そうだ、おかしいんだよ」と指揮官が答えた。「昨日は駅の方まで見渡せていたんだ」

 ……さて、やっと現場に辿り着いたところで、一つ問題があった。

 実は魔人会の標的である『ひるまぼう』は既に死んでいたのだ。

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