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【19・うんしょう】

「おまえ、何でそんな格好してんだ。先方に失礼だろうが」と大鳥に怒られた。

 彼は黒いジャケットにスラックス、ワイシャツにネクタイまで締めて、ハムエッグトーストを切り分けているところだった。「普通に外出するだけじゃないのか」改めて自分を見下ろすと、ストラップ付きのオフショルダーは、胸のぎりぎりまで襟が開いて、フレアー状のショーパンは下からパンツが見えそうだ。これ以上は出すところも無く、暑ければ、今度は冷たい物を足すしかない。庭に面した窓は朝も早くから灼熱の光線が降り注ぐ悪天候を見せている。

 大鳥はおれの全身を上から下、下から上に見返し、粗を探しているようだった。

「今日のは仕事だ、それも重要な案件だからな」と彼は言った。

「そのスーツ、おれにはまだ支給されないの?」

「そのうちな。とりあえずあれ着て行けばいいだろ、壁に掛けてあった制服」

「もう七月入ったし、葬式の時でも暑かったのに、あんなの着られるわけないって」

 パンを口に頬張り、大鳥の口の端から半熟卵が垂れている。あれは何週前の卵だろう。

 買って来たのも大鳥で、食べたのもほとんど大鳥だった。

 あと何個残っているのだろうかと、後ろを通り掛かって、おれは冷蔵庫の扉を開けた。

 あと一個だ。口も拭わずに彼が言った。「今年は冷夏だって聞いたけどな」

「冷夏って寒いわけじゃないし、むしろ冬暖かい年の特徴じゃん、それ」

「かもな。用事自体ほとんど室内で済むはずだ」と言いつつコーヒーを飲み、彼が苦すぎるという顔をした。「まあ失礼でも構わないと言うのなら、それでもいいが」嫌な言い方をされても、実際おれからしたら構わないので、この嫌なプレッシャーはちゃんと大鳥に返したい。

「一応、どういう人達と何するのかだけ」

「依頼人は『うんしょう』という妖魔で、退治して欲しい妖魔が居るとか」

「また退治か」水をコップに注いで、おれは言った。「妖魔が妖魔を?」

「何にせよ、魔人会と言ったら、そんな事しか出来ないからな。早く着替えろ」

「なんでもう?」

「来たからだよ」と言った直後、庭の方から砂利を噛む車輪の音が聴こえてきた。

 それは巨大な地盤がゆっくりと削れて行くような不吉な音で、それは直後に途切れた。

 インターホンに呼ばれて玄関に向かうと、外に社長と高本が立っていた。「大鳥の奴は、よくやってくれているかな。もし迷惑なようなら、減給して、その分で補填してやる事も出来るんだが、今は何をしてる?」恰幅のいいスーツの男が、成金のような視線を彷徨わせる。

「朝ごはん食べてますけど」

「そうか、上がってもいいか」既に靴を脱ぎかけていて、それから横目でおれを見て、口先を僅かに尖らせた。「その格好は先方に失礼だな。もう少し、身なりを考えてくれ。スーツか何か持っていないのか?」指摘されて、おれは胸元を腕で隠し、爪先を階段の方に向けた。

「お葬式の時の制服くらいしか。あの、スーツって支給されるんじゃないんですか?」

「ああ、そうだったな。忘れていたか」

「丸田川さんから預かってたりとかは。……今日は丸田川さんは来てないんですか?」

「無理に来ようとはしていたがな、危険と判断して拘束しておいた」

「『だいだごん』が、今日の現場に来ているのかもしれないな」と高本が背後で言った。

 まだ呼ばれているのか、いつか呼ばれなくなるのだろうか。たぶんなるだろう。

 こうなれば聞く事も無いので、二人をリビングに見送り、自室に向かった。

 クローゼットの中折れ式扉を薄く開けて引っ掛けてあるハンガーを手に取ると、その重さだけで季節に合わない事が分かる。夏服は見付からなかった。どれほど快適な物かも知らないけど。捨ててしまったのだろうか。スカーフを巻いたままの上衣を外し、真ん中に押し込んであったスカートも床に広げた。現金なもので、こういう体格や、容姿になってみると、わざわざスラックスを選ぶでもなく、こういう格好を選ぶ機会も少なくなかった。どうせ家の中ではシャツにハーパンで過ごしていて、下着すら付けたり付けなかったりと、適当ではあるけど。

 脚に直接触れはしない、そのヒダの一本一本は水を含んだように重かった。

 滑らかな裏地は腕に背中に纏わりつくようで、生地が突っ張って窮屈だった。

 更に袖口や胸元をスナップボタンがぴったり閉じて、それを外してしまおうかとも思ったけど、やめておいた。正装の意味が無くなってしまうし、妖魔が礼儀だ、作法だと言って何になるかはさておき、マッチメイカーがネクタイを締めているのだから、心象を悪くするという事は無いだろう。折れ曲がった襟を直し、スカーフの形を整えて、広がったヒダも揃えた。

 部屋に持って来た姿見の前に立って、それらしいと思い多少は満足もしてみる。

 その背後に、ぬっと腕が現れ、おれは思わず身を竦め、心臓が一緒に縮んだ。

 襟を掴まれる。画角の外に高本が立っていた。「スカーフの、端は襟から出ていないな」

「え、あ、え、居たの」向き直ると、新しい大太刀を左手に持ち、左胸に、ジャケットの膨らみは判別できない。「スカーフ、折ってヘアピンで留めてあったから、そのまま使ってるんだけど、何で?」銃なんか、服の下に隠し持っていた方が、マナーどころの話ではないけど。

 高本は一瞬止まり、答えた。「いや。そういう奴を、見た事がある気がしただけだ」

「神人真冬香は、どうだったっけ。それか昔通ってた学校で?」

「学校は、学校だがな、妖魔によって四十数人の全校生徒が……まあ、そういう事だ」

 察しろと言うには、おれが見た中でも、そこそこに規模がでかい。

 見たのだって『だいだごん』か、他に『らいちょう』や『ぼどうがが』でも、そのくらいの範囲に影響を及ぼしたと、後から聞いただけだ。ナップザックに荷物を纏めて、鍵とタオルと飲み物くらいだけど、一階に下りると大鳥が玄関の廊下の壁に背中を預けて立っていた。

「準備、出来たんなら行くぞ。車の鍵は」と、大鳥が手を差し出して尋ねた。

 高本が靴を履きながら答えた。「不用心にも、差したままになってるはずだ」


 南蜂山を南に出る。

 旧県道を乗り越え、インターチェンジ族の襲撃を退けるのに一時間を要した。

 川を渡って、高台にある関東大学城砦を通過し、しばらく監視を付けられたまま、谷間の川に掛かった小さな橋を何本か渡った。欄干が低く、太いのは丸太にペンキを塗っただけのようで、渡りきってからほぼ断裂している部分に気付いたりもした。六三号線に合流し、今度は南に向かって黒竜、阿諏訪、毛呂の三山に沿って進んでいくと、ようやく日高村に入った。

 空が狭まっている感じはしないけど、標高は少しずつ上がっているようだ。

 ただ二階建ての一軒家が、二列ずつになって、隙間なく敷き詰められていた。

 まるでピルケースのようだ。

 まるで新興住宅地のようだ。区画整理されたのは半世紀以上も前の事で、今では大半の家屋が原型を留めていなかった。焼け焦げた壁が見えると、その周囲は開けていて、庭に瓦礫が積み上がっていた。そこにあった物ばかりではない。外から持ち込まれた廃棄物が、腐敗臭を漂わせていたり、新たな可燃物となって煙を上げている事さえもあった。「そういえばどこに向かってるんですか」と聞く気になったのは、倒れた信号機の横に白い看板が見えたからだ。

 その書かれている地名は『鉢割峠』で、正面の道は頭上を木に覆われた上り坂だ。

 不意に、その一つが人面を付けて、反響のような言葉が聞こえるかと、思った。

 助手席のファン社長が「ふむ」と唸り、首だけで右後部座席を顧みた。

「毛呂山の三星痕だ。隕石によって三つのクレーターが出来た場所だ」

「行った事ないな」

「そうだろう、行けば収蔵されるからな。おい、大鳥、そこで止まれ」

 右に曲がれば、更に一段上の住宅地に繋がる坂道になっていて、そのカーブに消える寸前の所に、小さなバス停の、屋根の付いたベンチがあって、中に人が座っているかは分からなかった。ファン社長が横から、クラクションを鳴らした。「この辺りのはずだ」おれが見ている先では、青い核の炎が動く気配があって、人と、もう少し小さい、何かが立って歩き出した。

「右の方に、誰か近付いて来るようだな」高本がおれの視線を見ながら言った。

 坂を下りて来たのは、小柄でがっしりした体格に、薄い髪を刈り上げた坊主頭の、中年の男性だった。前のおれに近い、三十歳くらいか、嫌に凛々しい目元と、締まりのない口元が、顔の上下で鬼ごっこをしているようだ。ナイロンのパーカーに、太いジーパンを穿いていた。

 小脇に抱えたカバンは、ちょうどA4のファイルサイズくらいだった。

 小さく畳んだ腕を大きく振って歩く男の横で、獣のような物が静かに歩いていた。

 獣、でもあるし、生き物、には見えない。

 大鳥が窓を開けた。

「遅かったですよ、三十分は待ってたんですけど」男が上擦った声で言った。

「すまないな」ファン社長が首を伸ばした。「しかし分かりにくい場所で待ってたな」

「何言ってんですか、しょうがないでしょ、他に休めるような場所も無いんだから」

「ああ、うん。そちらは。前も居たかな?」

 とファン社長が視線を落とすと、ドアに妨げられて見えないようだけど、外の男はすぐに獣のような物を抱き上げた。「『いぬりんどう』のマグです、おいマグ、極楽商会さんだぞ」抱き上げた獣の顔面から伸びた銃身が車体に触れないように、彼はさりげなく後退っていた。特に滑らかな側面と上下の二面、角を落とした四面を足して、断面は不揃いな八角形だった。

 先端の上部に照星が突き出ていて、穴の内側には螺旋状の溝が見えた。

「それが君の相棒だったか、それとも君がそれの?」

「どっちでもいいでしょ、そんな事より早く乗せてくださいよ」

「もう乗れないんだ」

「なんでですか、もう一人くらい乗れるでしょ、マグだったら屋根の上でもいいし、走っても付いて来れるし」彼がマグを放すと、マグは車の周りをぐるぐる回り始めた。まるで、これについていく、という指示を既に理解したかのようだ。そこが背骨に当たるのか、銃身から真っ直ぐにフレームが伸びて、照門の溝が尻の辺りまで繋がっていた。胴体の膨れた部分は、円筒形のシリンダーで、軽量化の溝や、爪を引っ掛ける穴が、たぶん表面に五つ並んでいた。

 正面から見た時に、五発か六発かは形で分かりそうなものだけど、実際は違った。

 その辺りや、シリンダーの下半分辺りから真っ赤な肉がこびり付いていて、肉は銃身の下の軸受けの部分には鋭い歯を生やした上下の顎を、シリンダーの下の部分には屈強な四肢を形作っていた。殊にそれが、人が四つん這いになった格好に見えるのは、どうでもいい事だ。

 グリップに当たる部分は、肉と骨が交互に並んだ大きな尻尾だった。

 という事は、引き金に当たる部分では、何が反り返っているのだろう。

 と、考える意味もない。

 妖魔に生殖機能はいらない、はずで、しかも尻尾の上には踏み込んだ力を奥に伝える為にあるペダルのような、頑丈でザラザラした撃鉄が突き出ているからだ。獣にしては低い尻尾の位置からして、獣と銃が一体化したというよりは、獣の上から銃を埋め込んだような姿をしていた。左側面の後ろ足の辺りには、シリンダーを開放する為の別のレバーが突き出ていた。 

「そうじゃないよ」ファン社長が億劫そうに答える。「ここからは歩いて向かうんだ」

「社長、住民が様子を見てますが、空き家に住み着いてる浮浪者か何かが」

「そうか。満田、もう少し車を進めるから、そこで改めて合流しよう」

「何で先に行っちゃうんですかー」という叫び声を無視して、車は坂道を上り、二つのカーブを抜けたところで脇に寄せて停まった。ファン社長が言った。「あいつは満田王士郎。満田屋という名前で登録されている個人の退魔師だ。普段はライターをやっていて、事件現場の取材などをしている」その満田はもう車の背後に、リボルバーに跨った状態で追い付いてきた。


 その内の一つが毛呂山の奥深くにある三星痕は、もちろん三角形の各頂点を張るように並んでいる。でなければ一直線か、同地点に落ちるしかない。それぞれ十数キロメートルは離れていて、一番大きな物になると、道幅を超えるほどの巨大な陥没を起こし、山中で唯一の道路を分断していた。もっとも道を利用する人自体が、先に居なくなってしまったようだった。

 時折、三星痕を観光したり、観光を装って侵入する人が訪れるくらいだ。

 その痕跡は、道路の真ん中に落ちた空き瓶などで、中に溜まった液体は、煤が溶け込んで焦げ茶色に濁っている。それはまだ良い方で、ガラスの斜めに割れた断面や、砕けた破片の鋭さは、裸足で歩くのが困難なほどで、何でおれは、裸足で歩く事を考えているのだろう。

 マグは元気そうに飛び跳ねている、と言っても獣のように柔軟な体躯ではなく、拳銃が脚力によって飛び跳ねるので、その光沢も相俟ってカマドウマじみた気色悪さがあった。知能はちょうど犬くらいのようだ。満田が呼びかければ、マグは足元に寄り添って、その長い銃身をデニムの硬い生地に擦り付けた。全身を上下させるので、人が土下座するような姿に見えた。

 ちなみにマグはマグナムヘッドのマグだ。

「おいマグ。くっつくな。歩きにくいだろ」満田も一緒になって飛び跳ねている。その語気はじきに荒くなり、動作も焼けた砂を踏むようになった。「やめろ、マグ。まだ遠いんだからやめろ。お前はなんでこう、おい、邪魔。邪魔だって」手でも上げそうな勢いだけど、一体シリンダーでも開放するのかと思ったら、銃身と撃鉄に腕を掛け、横から銃を抱き上げていた。

「楽しそうなもんだな、退魔師としての腕はどうなんだ」と大鳥が言った。

「まあまあ、評判は悪くない」ファン社長も訝しげだ。「暇らしいからな」

「まだ遠いの?」と聞くと、大鳥は顎に手を当てて、道の先に目を遣った。

 緩いカーブの先では、茶色い木立の柵と、緑色の葉のカーテンで道が遮られて、その中には僅かに日が漏れ落ちる程度だ。それでも初夏の陽気はじっとりと重かった。時折吹き抜ける風も生温く、薄く滲んだ汗が制服の裏地に染み込み、それ以上は蒸発もしないし、裏地は肌に張り付いて気持ち悪い。スナップボタンは既に外してある。袖は折り返して捲り上げてある。

「まだ歩くの?」水筒を取り出し、麦茶を飲んだ。

 横から奪われそうになって、おれは水筒を胸に抱え、大鳥の手から守り抜いた。

 彼は自分の手を見つめた。「もう、すぐだ。たぶん。社長、ここに来た事は?」

「満田が、あるから呼ばれたはずなんだが、よく覚えていないらしい」

「こういう時は役に立たないんだな」

 隣に居てもよく聞き取れないくらい、小声で呟いただけだ。それを満田が聞き付けて、わざわざ引き返して来て、すぐに言った。「役に立たないって何ですか!」口調が非難がましいだけで、言いたい事は思い付いていないようだ。足元ではマグが同じように吠え立てていた。

「満田、役に立たないっていうのは、道案内役として、っていう事だよ」

「な、なんでちゃんと言うんですか。意味ないでしょ。大体、極楽さんだって依頼を受けたんだから一緒じゃないですか」足元では、ばう、ばう、とか言って、リボルバー拳銃の咆哮が追従している。まさか、口が別にあるので、銃口からも何か飛び出て来る事はないだろう。

 それはそれとして、目が無い代わりなのか、銃口がこっちを見ている気はする。

「満田は前にここに来た事がある、と聞いてるよ」ファン社長が言った。

「来たって言ってもだいぶ前の事なんで」

「車が入れないから、今足があるのは満田だけだよ」ファン社長が言った。

「足っていうか、それってマグの事でしょ」

「だから、満田は何をするべきかを皆で考えてた、というだけの事だよ」

「何を、って」考えるまでもなく、彼は言い返した。「なんで俺抜きで勝手に考えてるんですか、俺の意見も聞いてくださいよ」そして、無慈悲な沈黙が一帯を支配し、満田は呆れたように長々と溜め息を吐き出して、また前方に引き返していった。途中でマグに跨って、また非難がましく振り返ってきた。「行きますよ、行けばいいんでしょう、どうせまだ先ですから」

 カーブの向こうに走り去り、またすぐにマグが引き返して来た。

「居た、居ました!」慌ただしく言いながら、満田が犬から転がり落ちた。

「満田、居たんなら先方に挨拶でもしておいて欲しかったな」ファン社長は冷たかった。

「しましたよ、あ、どうも、って、それですぐ報告しないとって思って戻って来たのに」

「まあいい、時間には間に合ってるからな。行くぞ」と言って、これまで通り、緩いカーブに沿って歩いていくだけだ。やがて視界が開け、斜面の上の樹木がなくなって、地面が剥き出しの開けた空間があった。しばらく奥に続いていて、その先に洞穴のような場所が表れた。

 その空間にぽつんと、巨大な物体としか言えない物が鎮座していた。

 地面をのたくる太ましい物体は、表面を緑色の、柔らかそうな微細な鱗に覆われていて、それは一つの輪を描いたり、戻って来たりしながら、不意に持ち上がっていた。先端にある、やや扁平な部分は蛇の頭部だけど、違うのは下顎が最初から左右に割れていて、胸の辺りまで縦に開いた口の中には、牙のように鋭い肋骨が整列して、それらが左右に開閉している事だ。

 一つ一つが無数の足を動かして這い回る百足のような不気味な規則性を持っていた。

 そして頭部からは、鹿の物にも、枯れ木にも似た雄々しい二本の角が天を突いていた。

 核の青い炎もちゃんと、頭の奥に光っているから、人じゃないなら、たぶん妖魔だろう。

「ほら、居ましたよ」したり顔で言う満田に誰も、その妖魔さえも反応しなかった。

 マグが足元で吠えただけだ。振り返ると、温海山の稜線の向こうに甲子ヶ岳が突き出て、そのまた向こうの県境では、山々はどれも標高が千三百三十三メートルを下回らない。よくよく考えれば、三十年近く過ごした故郷は低い尾根に囲まれたお椀のような土地だったようだ。

 日高村の辺りに目を向けると、見えるのはほとんど斜面を開いた住宅地ばかりだ。

 ファン社長が一歩前に進み出る。「我々が極楽商会だ、それと満田屋も居る」

「よく来たな、退魔師よ」と妖魔が重々しい声で言い、恭しく頭を下げる。


 その妖魔は雲象角羅と言い、自らを日高村を見守る山神だと説明した。

 雲象角羅、万掌角羅は二対の蛇神だ。蛇神だった。

 その証拠に万掌とは全てを掴む手であり、雲象とは全てを生む霧だった。

 均衡が崩れたのはつい最近、ほんの数ヶ月前の事だ。「我々は互いにこの力を悪用せんように三星痕のそれぞれの頂点に身を置いていた。ある呪術によって、三つ目の頂点を通らねばお互いの元には行けないように。そして三つ目の頂点は、山を下りた先にある若人町だ」

「そこを通らずに来れたという事は、その呪術はもう無いと見ていいんだな」

「ああ、用を為さなくなった。それどころか、悪用される可能性もあった」そう言うと、雲象角羅は顎の下に開いた口の縁に並んでいる肋骨か、牙か、鋭いそれを一斉に開いた。「順を追って説明するが、一先ず依頼の内容を伝えておこう、現在の万掌角羅を退治して欲しい」

 肋骨が一斉に閉じると、蛇の鋭い瞳が真っ直ぐにファン社長を見下ろしている。

「現在の、という事は」とファン社長が言った。「以前のとは姿が変わっているな」

「その通りだ」

「『むじんぼう』が、人型に変えたという事か。元の万掌角羅は戦わなかったのか?」

「それに関しては、雲象角羅、万掌角羅は対になって効果を発揮するもの、少なくとも我々はそう信じていたし、どちらか一方を欲したり、奪ったりする事はないと思っていた。その結果がこの有様だ。そして、雲象角羅のみではもはや現在の万掌角羅をどうする事も出来ない」

 哀れっぽくならないように、蛇は淡々と事実を述べているが、それでさえ何か重大な事が起こっているのを感じずには居られなかった。頭を持ち上げれば、長身の高本ですら見上げるような位置に蛇の頭が来て、およそ三メートルはある、そのほとんどが顎の下の大きな縦長の口なのだ。これを前にして、これが恐れている物の相手をすると、はっきり言えたものか。

 大鳥は蛇の尾に触れ、鱗の感触を確かめている。

 満田は胴体部に腰掛け、その足元をマグが走り回っている。

 高本は正面で話を聞いてるようだけど、彼も胴体部に背中を預けていた。

 ちゃんと蛇と向き合ってるのはファン社長と、たぶん『ことりばこ』くらいだ。ウェストポーチは相変わらず付けているようだけど、中身までは分からない。単純な反応としての子供の声は聴こえなかった。雲象角羅を脅威と感じていないか、萎縮しているのかもしれない。

「元々の人間がどのような立場だったのか、それによって対応が変わって来るのだが」

「それは分かっている」蛇が頷き、つぶらな瞳がファン社長を見つめる。「残念ながら、少なくとも若人町においては、それなりの影響力を持っている存在だという事だ」その一拍だけ置いた間に、少なくともファン社長には察する物があったらしく、深刻そうに彼が呟いた。

「弁天乱会か」

「ちょっとそれまずいじゃないですか、そんな所と揉めたくないですよ!」

「満田。まだ降りるなんて言うなよ」

「な、なんでそんな事勝手に決めるんですか、降りるなんて言ってないでしょ!」

「ん……、ああ、それならいいんだ。それで」とファン社長が蛇を見上げる。「その妖魔について、詳しく教えて貰えないか?」そして彼は今日初めて、腹部に収めた彼の兄弟のように大切な妖魔に手を触れた。「現在の万掌角羅が、弁天乱会のどのような人物だったのかを」

 突如、蛇の窄めた口から靄が噴き出し、ファン社長の顔の前に丸い何かが現れた。

「カフスボタンだな。……弁天という文字が刻まれている、悪趣味な事に」

「『ばんしょう』が最後に奪った物だ」と蛇が言った。

 まるで忌々しい言葉を吐き出すように蛇は逡巡しながらその名前を告げた。「その男の名前は石村巧。元々は武闘派グループの一員で、いわゆる鉄砲玉だ。同じような立ち位置のメンバーからは慕われているが、組織での地位は低かったようだ。身長は平均よりも高く……でいいのだろうか、百八十センチメートルは。ただ体格は目立って大きくも、逞しくもなかった」

「他に、たとえば妖魔としての特徴は?」

「枯れ木のような二本の角、それと、体の一部が常に地面に触れている」

「それは、そうだろう。蛇も人間も、空を飛べるわけではない」

「そうではなく、そうだな、正確には地中に繋がっていると言うべきか」

「なるほど、龍脈……、能力についても見当が付くな。分解と組成……破壊と再生か」

「似たようなものか。万掌角羅は、万物を虚無に取り込み、雲象角羅が虚無から取り出す」

「どちらか一方では意味を為さない能力なんだな」大鳥が聞いた。

 蛇は首を振る。

「そうではなかったんだ。少なくとも『むじんぼう』は、こちらを重要視していた」

「弁天乱会は違うのか」

「弁天乱会はさておき、聞いてくれ。『むじんぼう』は、捨てる場所はどこでもよく、世界には無限に存在すると言った。それは虚無すらも得る事が出来れば同じ事だと。取り込む方には恣意が挟まれるが、取り出す方には、そんな物は必要ないのだと『むじんぼう』は言った」

 おれは、なぜか丸田川の事が気になった。「括る環、だっけ。それって」

「創世神話か、そこまで良いものではない。所詮はただの蛇だ、簡単に奪われるような」

「それで、どうしたらいいのかな」とファン社長が聞いた。「妖魔として取り返すのか。それとも退治してしまえばいいのか。もしかしたら『むじんぼう』がそうしたように、万掌角羅の外形を取り返して、それを雲象角羅の中に取り込む事が出来るんじゃないかと思うんだが」

「分からない。ただ、悪用されるよりは消してしまって構わないと思う」

「分かった」

「報酬はどうすればいい?」

「無ければ別にいらない。勝手に見つけるさ」

「そうか。なあ、極楽商会。一つだけ訂正がある、蛇は飛べるのだ」

「そうか。良かったな」と言い、ファン社長は踵を返した。「じゃあ、行くよ」

「ああ。頼んだぞ」神と、人の約束はこんな物かと、こんなに軽い物かと思いながら、高本の後を追って、おれも山道を引き返した。満田も動き出し、大鳥は最後まで蛇の、こんな言葉を聞いていた。「ノウマク、ノウマ、アーカシャガーバヤ、オーマカリ、マウリ、ソウハ」

 何の呪文だか、経文だか分からないけど、不吉の前触れとしては十分だ。

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