【16・はるのうらかん】
リーが右前方に銃口を向けて警戒している間、ジクは自動小銃を肩に担いで殿を気怠そうに歩いていた。「これだけ羽毛があれば」と高本が自らに呟いた。「案内を二人も付ける必要は無かったかもしれないな」彼の底の厚い靴は、白い羽毛が疎らに散らばった地面を、音を立てずに堅く深く踏み締めていた。地面は、脂肪の無い肉塊を敷き詰めたようで、ここでは靴底に車輪があっても意味がない。心なしか彼の足取りもぎこちなく、歩きにくそうに見えた。
白い羽毛は広がったり、うねったりしながら線を繋ぎ、長い道標を描いている。
それが無くても、案内をされなくても、同じ事だ。
目的地である『寒冷の館』は前回来た時と同じように遠くの高台に見えている。
「五キロ先では大体目線の高さ、か」大鳥が言った。「あそこまで何時間掛かる?」
「問題ありません」とリーが答えた。「ここには昼夜が無く、時間も経ちませんので」
「そういう問題か。……ずいぶんと重装備だが、所属はどこなんだ?」
「連合情報軍、第四二特科連隊が日本国内にある五ヶ所の門を制圧しています」
「情報軍となると、ここは物質体ではなく情報体が支配する場所って認識なのか」
「それなら、軍という概念自体がいらなくなるでしょう」とリーが言って、自動小銃を軽く持ち上げた。「ここでは情報が少なすぎ、それもほとんど共有されて来ませんでした。通信機器も役に立たず、映像や音声もまともに記録出来ません。車輌や軌道も、設置すればすぐに地面に沈んでいきます。ここで新たな情報戦を生み出さなければ、じきに人類は敗北します」
「敗北と、部外者の前ではっきり言ってしまっていいものなんだな」
「事実なので」リーは淡々と真顔で答えた。
レトルトパックの表面には『長期保存用パンケーキ・チーズ味』とだけ書かれていて、真ん中に粘り気のある弾力があり、切れ目の付近はぴったりと吸着していた。美味しくなさそうだという初見の感想を、様々な情報が、感触が補強し、食欲を減衰させる為に作られたのではないか、とさえ思えた。右からは上手くいかず、左から開けてみると、チーズのような発酵臭がした。「神人真冬香って、あいつも軍人なのか?」と聞きながら、一欠片を取ってみた。
パンでもケーキでもない、しっとりと押し固めたグルテンの塊があった。
「いえ、『やざえもん』は……あの人は我々よりも先に冥府に来ていました」
「それ美味いのか?」横から手が伸びて、大鳥がレトルトパックを掠め取っていった。
「情報軍に、そいつがなぜ協力をしているんだ?」
「利害の一致、でしょうか」リーが首を傾げ、大鳥の蛮行に一瞥をくれると、また前方に目を向けながら、ゆっくりと後方に回った。「ただ一つだけ、あの人は『むじんぼう』を自らの手で殺したいと言って、我々に協力を申し出て来ました。現状まだ敵対はしていないというだけで、今後もこの関係が続くかは分かりませんけど」どちらでも良さそうに、彼は言った。
「情報軍の敵って……なに、ゴミだけ渡してくんなって」
押し返した大鳥の手から空のレトルトパックが落ち、地面に飲み込まれた。
「ああ、ああ、落ちた。敵ってのは『波留農羅環』か?」
「ゴミは出来るだけ残さないようにして貰えますか」とリーが言った。「七縄鬼に人類に関する事を学習されると、後々面倒になるので。この辺りですか」おれと大鳥が左右に二歩も避けると、リーは地面を手で探り、指を突っ込んで探り始め、数秒で切り上げてしまった。「見つからない分は仕方ありませんが。敵は、色々ですね。諸外国とも揉める事はあります」
「外国の門って……ミハエル?」
リーが立ち上がる。自動小銃のベルトを彼が担ぐと、ひどく重い物のように見える。
「いえ。今はもう、彼の所在を知る者はほとんど居ません。発見された門のほとんどは放置されますが、それ以外は連合情報軍か、その土地の軍隊が管理します。見ての通り、ここには国境が無いので」両手を広げ、彼の背後に冥府が広がっている。「敵の半分は同じ人類です」
当然そうなるだろう、という淡白な反応を、高本と大鳥が見せていた。
もしかしたら、どこかで知っていたのかもしれない。「……あの、二人って」
「なんだ、西島。お前軍隊に興味があったのか。そんな弱そうな見た目じゃ無理だろうが」
「違うけど。二人は、あの。地上で闘った事ってあるんですか?」
「それは、妖魔と? それとも」それを言う前に、おれは頷いていた。「人類とですか?」
「地上側の、門の周りには軍人どころか一般人も、まるで人が居なかったな」
「はい、そこは我々の関知する所ではありません。その為にあなた方が居るのでしょう」
「それはそうだ」と高本が応じ、大鳥はキャップを深く被り直し、『寒冷の館』を忌々しげに見上げながら「そうだろうな」と吐き捨てた。次第に距離が近づき、高低差が減っていくにもかかわらず、『寒冷の館』から受ける威圧感はいや増していった。鱗のような白い室外機、となると体毛のように絡み合った通気管、そして赤黒い巨大な建造物が犇めき合っている。
「さっき外国から使者が来た」唐突にジクが言った。「わざわざ道内の門を通って」
「それなら、こちらが名刺になります」とリーが出して来た紙片を大鳥が受け取り、それを左右から覗き込んだ。銀の南京錠を首に掛けた、禿鷲の姿が描かれている。星縞聖名、というのが人名かもしれないし、そんな国みたいな名前はありえない。「見せても構いません。そうしないと、お三方が困るだけなので。彼女は我々より先に『寒冷の館』へと向かいました」
「先客か。入れ違いになればいいが、どういう用事で来たんだ?」
「聞いていません。が、恐らく無量無量大師に会いに来たのでしょう」
「敵じゃないよな。俺達もあっちこっちと揉めたくはないんだが」
「詳しくは本人に。さあ、見えて来ました。あれが『寒冷の館』です」
そこにあったのは、卵のような形をした、白い小さな椅子だった。
そこだけ明かりが差しているように鮮明だ。
腰掛けているのは、黒髪が腰まで伸びた、手足の長い女性だった。
芥子色のジャケットと、スラックスは一回りも二回りもサイズが大きくて、余った裾を折り返して、彼女は堂々と足を組んでいた。緩いループタイの下、シャツは二つ目までボタンが外され、ポケットには銀のボールペンが差してあった。ジャケットの前は開けていて、ベルトに締められたウェストは砲塔のように頑丈そうだった。しかし素足にサンダルを履いている。
吊り上がったキツネのような目を更に細めて、彼女は薄く笑い、口の端を上げる。
少女にも見えるし、ずっと年上にも見える、なんとも捉え難い雰囲気を纏っている。
「なあんだ、結局来ることにしたんだな」五人の内の誰かに向けて、親しげに弾ませた声で彼女は言った。「悪いけど先客が居る、二人、いや一人と……一対か、ここの主はそれを大層気に入ったらしくてね、随分と遊んでいる」そして彼女はまた、可笑しそうに笑い、つまらなそうに笑い、隠していた口元からぼそりと冷たい声を発した。「どちらが先に死ぬだろうな」
大鳥が一歩前に進み出た。「あんたが、星縞聖名か?」
「あんたが?」一語一語、ゆっくりと反復して、彼女は言った。「少なくとも、そんな舐められた扱いを認めるような、人間ではないだろうね。あんたら、が」視線がリーと、ジクの間に立っている三人の姿を、ゆっくりと往復していった。意地悪い笑みは、彼女の目を嘲笑的に歪ませたままだ。「どこの誰で、何をしに来たのかを、先に明かすべきなんじゃないかな」
「『らいちょう』を」高本が即座に答える。「退治しに来ただけだ」
「それはいい、じゃあそこの連合の二人も、さっきの腕の無い女も、そういう事かな?」
「我々は、案内をしてるだけです。聖名さんは、ここで何を?」
「そこにビルがあるだろう」と、彼女が仰け反り、天を仰ぎながら指差したのは、背後で垂直に屹立している赤黒い地面の一部だった。よくよく見れば、洞穴のような、口腔のような暗い穴が正面にあって、両脇や上の方の外壁に、白い室外機が鱗のように密集していた。それが揺らいで見えるのは、温かい空気に包まれているからだ。耳鳴りのように、自然に入って来る音は排気音のようだった。稼働している。という事は、その中では何かが冷却されている。
その時、入り口の奥で何かが動いたような気配がした。
高本が鯉口に手を触れ、二人の兵隊が自動小銃を両手で支えた。
台車か、リヤカー、軽自動車に見え、すぐにそれが、何でもない事に気付いた。
出て来たのは平たい台座に載せられた巨大な水槽だった。
緑色の液体に浸かっている脳髄に電極が差し込まれていて、それは台座に組み込まれた機械に配線を繋いでいた。四角い箱があり、その一面に赤みがかった皮膚が張られ、中央に切り開いた穴からは、鳶色の瞳を持つ眼球が覗いていた。カメラレンズのような物が、機械の前方と左右に三つずつ並んでいて、後ろにはクレーンのような形をしたロボットアームが突き出していた。箱の脇にスピーカーが置かれている。更にいくつかの箱が並べられ、それらは細い管によって相互に結ばれていた。そして、白い包帯を巻かれた棒状の物が前部に生えていて、その先端に、五本の、短い棒状の物が付いていた。という事は、台座の後方下部に垂れ下がっている太い筒は、それは排泄口なのかもしれないと、おれは何かによって考えさせられていた。
何によるものかを、考えたくもないし、おれはそれが何かをまだ知らない。
その前進が止まると、台座は椅子のすぐ後ろまで迫っていた。
向こう側には、七縄鬼によく似た、赤黒い地面と同じ質感の、巨人が居た。
それが、それを、押して来たのだという事だけは、とりあえず分かった。
スピーカーが雑音を立てて、すぐに加工された金属質の言葉になった。「ようこそ、みなさん。これは『波留農羅環』の使者です。『波留農羅環』は、みなさんを歓迎します。みなさんの為に作られた、これは人を使った人です」そして雑音が止むと、眼球がぐるりと回った。
そしてスピーカーが「よろしく」と言った。二回、三回……五回目で目が合った。
だからつまり……単純な話、星縞聖名は既に挨拶を済ませていたようだ。
大鳥が星縞聖名に聞いた。「なんなんだこいつは?」
椅子の上で器用に頬杖を突き、姿勢を右に傾かせたまま彼女が答えた。
「何から何まで、人に訊くものではないよ、何でも教えて貰えると思うな」
「『波留農羅環』は」高本は、それに聞いた。「直接話せる存在ではないのか?」
「それは複数であり、それは概念であり、それは象徴であり、それは非生物であり……」
「それとは『波留農羅環』の事か?」
「いいえ、人が直接話す事の出来ない存在についてこれが思う物を考えます」
大鳥に肩を叩かれる。彼は台座に歩み寄って、目のような部分を覗き込んだ。
「いやいい、用事が……なんだ、『らいちょう』という妖魔が来たと思うんだが?」
「それは今、『波留農羅環』によって氷漬けにされている妖魔です」
「退治したのか?」
「それはいつでもそれが可能な状況を見せます」
「ああその、ならいいんだ。落雷による被害が無くなれば、問題はない」
「いいえ、『らいちょう』が落雷による被害を無くせる存在をしています」
「……ん?」大鳥が声色を強くした。「雷を落としているのは『らいちょう』だろう」
「それは落ちません」スピーカーが答え、箱の中の目玉が僅かに細められた。「それを吸い寄せます。その手に雷を溜める宝珠を持っている時、避雷針として飛び回る『らいちょう』は雷を食べる為です。その脚が生えると、『らいちょう』は他の脚を取り返すのをやめます」
「避雷針?」って事は、集雷針だ。
ところで、と前置きしてから、星縞聖名が椅子の上で上体を真後ろまで捻った。
「ひとつ聞きたい事があるんだ、無量無量大師は、未だ君らの支配下にあるのかな?」
「いいえ、五つの役割を持つそれが肝臓です」とスピーカーが揺れながら答えた。
複数の管で繋がり合った五つの箱には、それぞれ漢字で解毒、生成、保持、交換、分解と書かれていて、その下に連なる、アルファベットなどの文字で書かれた単語も、恐らく同じ意味のようだった。特に細い線は電源コードのようで、五本が束ねられて、本体の台座の下側に回って、どこかに差し込まれている。「それは少量の飲酒に耐え得る文化的特性を持ちます」
「ここの文化は知らないが、つまりその、これは人間と同じという事か」
聞き返す大鳥も、台座の、なんとなくマイクがありそうな所に顔を寄せていた。
「個々に同じだと思う部分を見出し、そこに共感を抱くものが人間です」スピーカーは冗談を言い放ってやった風に、たっぷりと間を取ってから、フィルター状の部分から湿った空気を吐き出した。巨人が歩調を緩め、また強めた。車輪が段差に乗り上げて、台座が少し跳ねた。四列分、それが続いた。巨人は部屋の奥に向かうと、左側の壁の壁に台座を寄せて止まった。
七縄鬼に似ているが、それは問いを発さないし、角も生えていない。当然核も無い。
ビルだと思っていた物は、上から下まで繋がった四角い箱だった。頭上には井桁に組まれた足場の、中央の大きな一つ、その周囲の小さな八つの四角形がいくつも重なって、それが徐々に小さくなっていくのが見えた。階数はおよそ十階建てだ。地階の中央には、巨大な氷のオブジェが立っていて、それを見た途端、おれの全身は小さく折り畳まれたように震えだした。
肌寒さはただの錯覚で、空気があるとすれば、それは人肌程度に暖かかった。
体が震えたのは全く別の理由からだ。
大鳥が氷像に近付いて、鋭く突き出している、柱のような部分を軽く撫でた。
柱状節理、のような。
無数の杭を打ち込んだように、根元から何本も棒状の氷が生えていて、それが右に左に折れ曲がりながら、ひたすら上に積み上がっていた。高さにして三階の辺りだろうか、一際大きな氷塊が乗っかっていて、それは無限を意味するように二つの円を横に並べた形をしていた。円の中心には、それぞれ黒い点が打たれて、まるで巨大な眼球に見下ろされているようだ。
表面は透明で、むしろ氷の中は白く濁っている。
白濁して見えるのは、羽毛が大量に舞って、そのまま凍り付いているからだ。
「融けないな」自身の手の平を見つめながら、大鳥が呟いた。
ビルの内壁に沿って歩いていた高本が戻って来て、彼は入り口の方に目をやった。
その脇で見張りをしているはずの、兵隊達の姿はここからは見えない。
「無量無量大師、とは何の事だ? 妖魔かそれとも冥府の神か?」
「ここに神は居ないよ」持って来た椅子を地面に据え付けながら、星縞が答えた。「ああ、美しいな、サンダーバードは。あれこそ永久機関の一種だ、そう思わないか……まあ過不足なく存在する物などないか。で、君らの神は、君らの世界に居るのか、それとも居ないのか?」
「居るとか、居ないとかいうものじゃないな、それは」
「ところが冥府には一津之志針火目神や七津之魔刈火目神が居る……末那環王の事だよ」
神って、言ってるじゃないか。「それ、名前は聞いた事あるけど結局なに?」
「七つの死を意味する名だよ」星縞が爪先で地面を擦った。「君らの好きな概念だろう」
「し、って……死?」
「疫病、老衰、戦災、窒息、中毒、犠牲、忘却だったかな、それらは末那環王の気まぐれによって地上に齎された。近いもので言えば、三百六十一年前に、世界中のあらゆる国と地域で起こった大災害がそれだ。当時は流行病からの人身御供、それから戦争が続いた時期だな」
「大災害って二十一年前にも起こったと思うんだけど」
「ああ、そうだった、日本の暦は違うんだった、たぶんそれが最新のだ」
「暦によって、タイミングをズラす意味があるのか?」
「意味ね、規模が大きくなり過ぎないように、気遣いのつもりなんじゃないかな」
というより、複数の暦を参照すれば、それだけ全体数を増やせる、という意図があったのかもしれない。三百六十一年前、世界で起こった大災害については、おれも学校で習った事がある。西暦一六六六年だ。「六六六、悪魔の数字……って、なんだったっけ」と高本を見る。
高本は眉根に剃刀で引いたような深い皺を寄せて、おれを睨み返してきた。
「さあ、なんでも教えて貰えると思うな、だろう?」
「いや、でも」星縞を見ると、椅子の上であぐらをかいて文庫本の革の装丁を撫でていた。
懐に入れていたらしい文庫本の、タイトルは読めない、表紙に何も書かれていないのだ。
「高本、ちょっと来てくれ」と氷像の向こうから大鳥が呼んでいた。
高本は星縞と氷像を交互に見て、それから氷像の向こう側に消えていった。「君も、行かなくていいのかな」と星縞が言った。彼女の胸の真ん中には、青い核の炎が揺れている。会った時からずっと、彼女は核を持っていて、彼女が人間か、妖魔かは分からないままだった。
「黙示録のけものが人々に与えたしるし、その数字が六六六だよ」と彼女は言った。「だからどうしたってわけでもない。末那環王にとっては、単にインターバルを置いてやってるくらいの事で、その数字に意味なんて無いんじゃないかな。それが千年でも九百九十九年でも、ここでは大した差にはならないだろう。地上の人類にとっても、やっぱり大した差はないな」
考えるのを諦めて二人の元に行くと、大鳥がナイフの刃先で氷を削ろうとしていた。
「新しい脚が」と大鳥が言った。「生えている」それは耳川が抱えていた物よりもまだ小さくて、小さな鉤爪の中に、拳大の水晶の真球が収まっていた。放電しようとしているが、氷の外にまでは雷も電気も出ては来ない。見ていると、巨人が台座を押して来た。焦点すらも合わない眼球と、一定の間隔で呼吸し続ける給排気筒、そしてスピーカーの完全な沈黙があった。
電気を擦り合わせるような雑音を発し、そして合成された言葉を話し始める。
「五行隊の始末を、失敗した者から我々のコレクションに加える、正式な依頼とします」
建物の間を、整備された道が縦横に走っているわけではない。赤黒い地面はいきなり上り傾斜に入り、デッキから建物の壁面に沿って、そこから屋内に入ると、また別のデッキに出てしばらく歩廊が続いている。折り返しの通路を下ると十度目で広場に出て、そこでは腸壁のように左右から赤黒い高層建築が迫り出し、風景にはひどく圧迫感があった。しかも白い室外機が壁一面を鱗のようにびっしりと埋め尽くしていて、そこから吐き出される陽炎が風景を幻覚のように気味悪く歪めているのだ。まるで巨大な生物の、体内を彷徨っているようだった。
台車を押していた巨人の、体内に居るようだとは、言いたくても言えなかった。
その台車……波留農羅環の遣いは来ていない。おれ達をコレクションに加えると宣言し、その実例として『らいちょう』の醜態を見せたのであろう台車は、氷塊の前に留まって、複数の管で静かに呼吸をしているだけだった。この傾斜や、段差や、長い長い通路を巨人が押して進むのも容易ではないからか、あるいはもう……「また訳の分からない物を付けられたな」
大鳥が時間でも確かめるように左手首を見ると、皮膚が赤く腫れている。
その腫れの中心には、黄白色の線によって『五』という文字が形作られている。
おれと、高本の手首にも同じ物があった。痛くもなく……ちょっと痒い。
「なんで星縞だけ何もされなかったんだ?」大鳥が忌々しげな様相で振り返った。
「あれは我々が持ち込んだ物ではないからね、この椅子と、鷲の御旗くらいなものだ」
星縞は椅子を引き摺りながら、おれ達の後について来た。兵隊は居ない、二人とも、これ以上の案内は命じられていないので、この次は、おれ達が中継基地に戻る時まで『寒冷の館』から動けないようだった。ただし四十八時間までだ。「あの名刺、どこの所属のなんだ?」
「どこかはどうでもいい、単なる渉外部の使いっ走りだよ、君らと同じようなものだ」
「これは」と左手首を見せようとして、大鳥はなぜか手を引っ込めた。
「ちょうどいいじゃないか」と星縞が言った。「地上では彼らは不可侵領域だろう?」
「それはそうだが、別に敵対してるわけじゃない」
「それとも敵対すら、かな」数歩遅れていながら、彼女の低い声は、喉元に指を絡めて来そうな距離から響いた。息苦しくなる寸前の、かえって心地よい圧迫感がある。「君らは何も知らなすぎる、それでよくこんな所まで来れたものだ、それが組織の方針という事なのかな」
「知らない……何を知らないかなんて。興味もないな」
「そうか、せいぜい行き先くらいは、間違えないで欲しいものだね」
それなら、左手が勝手に、そちらに引き寄せられるような感覚がある。
広場から一本の切り通しを辿ると、巨大なドームに入った。その中で、更に上階に向かう傾斜があって、それは上部を覆われて隧道のようになっていた。「あの台車みたいな奴は」と大鳥が歩きながら言った。「『らいちょう』が雷を落としているわけじゃないと言ってたな」
誰も、何も言わず、微かに荒くなった息遣いは、否定を一つも返さなかった。
大鳥は話し続けた。「少なくとも嘴や体からではなく脚の方だとな。その脚が新たに生えて来るとすれば、じゃあ古い方の脚はどうなるんだ」歩を進める度に、問いは彼の背後で大きくなり、彼を引き止めようとする。「現状『らいちょう』がそれの回収を諦める事があるとしたら、五行隊の手元に残されたそれは、雷を操る杖という強力な武器になるんじゃないのか」
「だろうね、ちなみに地上にあの脚が何本くらい保管されてるか、想像できるかな?」
「考えたくもないが、それがもし妖魔が死んだ後にさえ残る物だとしたら……」
膝ヶ谷に出現した『ひるまぼう』のビルや『めんぼっこ』の森。
木人町に発生した『ふくろつめ』の袋や、そもそも妖魔の死体もだ。
それこそ偽物の核で存在だけを残せれば、人に取り憑かせる事も出来る。
ただし今の『らいちょう』には逃げる手段もなく、氷の中に閉じ込められている。
「『らいちょう』も、あいつらのコレクションの一部だとすれば死ぬ事はないだろうな」
「それも同じ事だが」大鳥が足を止めた。「今となっては古い脚の所在の方が重大事だ」
「回収を諦める、って本当にあり得るのか」
「少なくともあの使者はそう言っていたが」大鳥の声に額を打たれた。彼は片目を細め、おれの背後の壁を睨んでいた。振り返ると、そこは赤黒いだけで、ひどく陰鬱な気持ちにさせられる。「どうせまた生えて来るなら、こうやって奪われる度に、わざわざ追い掛けはしないだろう。確かに悪用されても困るが、まず何をもって悪用とするんだ。お前のそれだって……」
「おれは別に」砂にした場所は全て放置されたままだ。「言われたらやるけど」
大鳥に頭頂部を掴まれ、左右に動かされる。「だったら、やれ」
「話が通じないのは」と高本は言った。「人型ではない妖魔の恐ろしい所だな」
明かりも無いのに、壁や床の赤黒く鮮明な通路を、ゆっくりと上っていった。ドームの壁に到達すると、壁沿いを進んで、大きな窓からドームの外に出た。通路などはなく、傾斜のきつい壁面を大鳥が滑り降りていた。星縞も、椅子を抱えながら、ほとんど転がるように滑り降りて、おれは縁に掴まったまま、竦んだ足を折って、少しずつ重心を下ろして座り込んだ。
「担ぐか?」隣に立っていた高本がおれの頭に手を置いた。「なんだその耳、髭も」
「ゆっくりなら、降りられるので」
「持ってろ、そんな暇はないからな」と言って、彼が刀を差し出して来た。思わず両手で掴んでしまうと、その腕を引っ張られた。ファイアーマンズキャリー、なんて良いものじゃない、グレイブディガーズ……いや、見合った単語はないが、おれは頭と足を下に垂らして、彼の右肩に腹を載せた体勢で、片手だけで支えられていた。彼が一歩前に踏み出すと、足側に向かって滑り出す。大柄な上背に遮られて前は見えない。一瞬後に、小さな衝撃の上に着地した。
白い室外機の上に彼は立っていて、直後また次の室外機に向かって滑り出した。
どちらかと言えば、鼻先を通過していく壁面との、摩擦への予感が恐ろしかった。
再びデッキに降り立って、通路の一つを先に進むと、前方で建物の一部が爆発した。
およそ十五階から、大型の猛禽が瓦礫と共に投げ出され、星縞が真っ先に駈け出した。
「あ、おい」大鳥が彼女を呼び止めようとし、振り返る。「爆発だな」と彼は言った。
少し遅れて落下地点に向かうと、妖魔だろうか、そこに奇妙な生物が倒れていた。
星縞が背を屈め、それの背中に張り付いた甲冑に向けて囁くように語り掛ける。
「無量無量大師、どうか我々の為に協力していただきたい、じきに金星王が戻ります」




