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【15・はいどりゅう】

 我々にとって唯一の救いは、北の方角に断続的な落雷が続いている事だ。

 その距離では、光った、と思ったその二秒か三秒後には、轟音が耳に届いた。

 落ちた先は小さな丘の向こうの、県道のどこかだろう。どこから落ちたのかは、分厚い灰色の層に阻まれて見通す事は出来ないけど、どうせ空からなのは間違いない。そしてまた唯一の懸念は、断続的に雷が落ちている場所にこれから向かわなければならない事だ。その焦点となるのは「よりによって五行隊の連中に『らいちょう』の脚を奪われるとはな」と大鳥が言葉にした通りだった。「どうやったら奪い取れるのか、聞けるものなら是非聞いてみたいが」

 先頭を行く大鳥は、左手をポケットに突っ込んだまま、所々がヒビに沿って捲れ上がった悪路を軽々と進んでいる。高本は、靴底のタイヤが邪魔になっているようにも見えないけど、少し後ろを歩いていて、左手に握り締めている野太刀の、鐺が地面に付きそうで付かない。

 大鳥の横に追い付くと、また前方の空が光って、その後、轟音が空を揺るがした。

 静寂を待ち、おれは聞いた。「五行隊って女の人も居るんだな」

「レッドブリック、だ」大鳥は煉瓦を弄びながら、うんざりした風な声を出した。「何をビビってるんだ。駐車場の地面に穴が空いてたのを見ただろう……見てないのか。タイヤなんか真下から貫かれてたんだぞ。そういう事だろうが。材料は地面、ほぼ無限にある。特にこれから行く場所には、……お前資料も読んでないな?」と言い、彼が煉瓦を道端に放り出した。

「資料は……読んでないけど、あいつの正体なんか書いてあったのか」

「そうじゃない。これから行く場所が」

「魔人会は、誰か他に協力者を寄越しては来なかったのか?」と背後の高本が聞いた。

「一応連絡は付いたが」ふと大鳥が背後を振り返って、何かを待った。さっきよりも疎らになって、しとしと降り注ぐ羽毛は、それこそどこかの鶏舎から、風で飛ばされて来たくらいのものだった。「社長が言うには、奴が目的地に着くまでには応援は間に合わないって話だ」

「奴とは、五行隊と『らいちょう』どちらの事を言っているんだろうな」

「脚を奪った奴だ。そいつに目的地があるとすれば恐らくはそこだろうって」

 ねえ、と横から呼び掛ける。「目的地ってどこ、このまま行って川を渡るのか?」

「すぐそこの」前方に目を向けた大鳥の、視線は緑深い丘陵に遮られる。「西天座院だ」

 丘陵地帯を北に抜けると、隣県の山々から風が吹き付ける広大な平地が、川の土手まで続いている。そこには田畑と、それらを結ぶ、あるいは切り分ける数本の道が通っていて、河川敷の廃工場群の辺りまでは、ほぼ何も無いような所だった。反対に北側から見ると、丘陵地帯は小高く深い森林になっていて、その内に何が隠れ潜んでいるのかは杳として知られない。

 森の中に道があり、道の脇に森があり、そして南に抜ければ小鷹町まで続いている。

 それだけだ。

 この森自体にも、どこかの怪しい研究施設にも、そして西天座院と呼ばれる、運営母体の分からない寺院か何かの施設にも、誰も興味はないのだ。ちょうど今まで進んでいた道から、何の変哲もない砂利敷きの横道に入った。それだけで森は一気に深く、森のようになった。

「さっきの車って、片手で運転してきたのか?」おれは歩きながら大鳥に聞いた。

「出来るわけ……無くもないが、普通に危ないだろう」彼は立ち止まって答えた。

「じゃあ何でずっと左手隠してるんだよ。家でも、今もポケットに入れてるけど」

「これは奥の手だからな。お前がピンチになった時に、目と口を塞ぐ事が出来る」

「大鳥、そのうち右手もやられそうだな」砂利道の先に雷が落ちている。狭まった視界は羽毛と、曇天ばかりのせいでもなく、森の中を少し進んだ所に、高さ数メートルの塀が横切っていた。のっぺりとした灰色で、一見すると継ぎ目や段差はなく、どこまで行っても内側には折れ曲がる事はなく、それこそ小さな点になって消失するまで、塀は真っ直ぐに伸びていた。しかし地図に東西に分断されたような区画は存在しないので、どこかには終わりがあるはずだ。

 塀の前の一箇所に雷が落ち続けている。

 大鳥が横から腕を突き出して、おれの進行を止めようとした。そうされるまでもなく、半歩後ろで立ち止まって、おれは高本が早足で前に進み出るのを見ていた。「おいよせ、相手にしない方がいい」と大鳥が呼び止めても、高本は聞かなかった。砂利道の先、塀に突き当たった所に、切れ目が入っただけのような門があり、その脇に一際大きな針葉樹が立っていた。

 アケボノスギとか、そんなような……知らないけど。

 重要なのは、根元には吸盤の付いた無数の触手が絡み付いていて、上空からの、落雷を何度受けても動じない大樹があるという事だ。触手を辿ると、徐々に細くなって、最後に黒い人影が現れた。頭から足元に掛けて、僅かに広がってから一気に絞られたような柔らかい輪郭は、セーラー服だ。胸元に真っ赤なスカーフが映えて、その上に蒼白な容貌が載っていた。

「『ふくろつめ』の時に見た女だな」大鳥が確信を得ない声で呟いた。「名前は」

「神人真冬香。あと『やざえもん』とかミハエルとか言ってた」

 高本から数メートルは遅れて、おれも大鳥の後を追いかけた。その間にも、落雷は大樹の周辺に、神人真冬香の、頭上に差し出された方の手に何度も落ちていた。触手ではなく、ただの人間の手だ。三本の白いラインが入った袖口に、指の関節まで覆う防護服が見えている。

 真ん中に関節のある、三つの鉤爪が付いた枯れ枝のような物をその手に持っている。

「また面倒臭え物ばっか持ち込んで来ましたね、魔人会の連中は」

 彼女にしては珍しく、森閑と冷える小径に、針の先のような鋭い声が伸びてきた。

 空が光るまでの一瞬、その場に居た全員が、彼女の冷厳な挨拶をどう受け取るべきか、迷っているようだった。空が割れる音がして、高本の注意が逸れた。大樹の幹を覆う触手の、ほんの隙間からは茶色い覆面と、漆黒のバイザーが見えた。彼女の両手は隠れている。代わりに周囲の地面を確かめると、抉り取ったような穴は一つも無かった。ただその穴が、元から直方体をしているのか、そもそも一つ分がどれくらいの量を掘っているのかも分からなかった。


「このままじゃしょーがねえから一旦中に入って貰っても構わないですかね」

 神人真冬香がそう提案してきたから、おれ達は巨大な球体を転がしていた。

 背後では雷が鳴っていて、それが徐々に遠ざかっている事だけは分かるけど、その脚を持った神人真冬香が『らいちょう』をどうやって引き付けておく事が出来るのかは、知らないし確かめもしない。球体は、触手が絡まり合って出来ている。直径は身長の二倍、およそ三メートル近くあって、向こう側は見えず、中身の五行隊も見えない。表面は常に蠢いていて、そのせいで微妙に大きく、また小さくなっている。触手自体の動きか、レッドブリックが中から抗っているのか、それを抑え込む力が働いているのかもしれないが、まあ触手自体のだろう。

 少なくとも周辺の地面から煉瓦が生成される事はないので、三人とも腑抜けていた。

 真ん中に立った大鳥は両手で球体を支えていた。

 おれは左に立って球体に軽く手を添えていた。

 高本は右から刀の柄で進路を左に逸らした。

 その門は突如、塀の表面に切れ目として現れると、音もなく左右に開いていった。

 敷地内にも背の高い木が生えていた。湿った土の上には落ち葉が堆積し、奥に向かって砂利敷きの小径が伸びていた。門のすぐ脇に社務所らしい建物があった。カーテンに閉ざされた全ての窓から、冷たい視線を感じて背筋が震えた。その他には倉庫が二つと、そして縦と横に長い建物が一つ、敷地の正面奥に堂々と聳え立っているのは、まるでサイロのようだった。

 とりあえず正面の建物に入れてくれ、との事だったけど、正面にあるサイロのような建物の入り口は、両開きの鉄扉で、球体が通過できるような大きさには見えなかった。それとも建物が果てしなく遠くにあり、果てしなく大きければ、実は鉄扉も大きい可能性はあるけど、距離くらいは見れば分かる。もうすぐ、休憩を挟まなければ二分か三分で辿り着けるだろう。

 立ち止まって、しっかりと体を伸ばしていくと、骨と筋から別々の音が鳴った。

 ちょうど山の向こうから放送が聴こえてきた。『こちらは南蜂山警察署です。緊急警報が発令されました。現在、南蜂山市上空に妖魔が出現し、市内を北に向かって進んでいます。落雷の危険がありますので、近隣の住民は速やかに屋根のある建物の中に避難してください』

 同じ内容が繰り返され、ほんの少しだけ三回目の放送を待った。

「今さらか」と高本が呟いた。「現場に応援が到着するのはいつになるだろうな」

「応援に来たところでこんな所に入ったら警察は手出しも出来ないだろうが」

「そういう意味で、目的地に選ばれたのなら確かにそれは人類には無い発想だな」

 そもそも高本が『使える奴』だって所をまだ見ていないけど、煉瓦と落雷が相手では仕方がないのかもしれない。大鳥が作業を再開したので、その左におれが、右に高本が付いて、前に押すような素振りだけは見せておいた。手を添えながら聞く。「人類にはない発想って?」

 大鳥は少し考えた後、前方の球体に目を向けた。「妖魔にはあるって事じゃないか?」

 球体が建物の前に着くと、大鳥が反対側に回って鉄扉を開いた。

 その瞬間に、おれは気付いた。

 まだ昼過ぎだというのに、建物の中に星の明かりが見えたのだ。

 無数の小さな光点は、奥にある巨大な円筒の、真上に沿って散らばっている。

 建物の外から改めて見上げても、光点の帯は空に伸びていない、あるいは昼だから見えていないようで、それは恐らく屋内が暗いせいだった。三人で段差の上に球体を押し上げ、鉄扉に合わせて縮んだり伸びたりする球体を、そのまま屋内に押し込んだ。中の空気は冷たく、乾いていた。そして外に居た時よりも見えにくくなったそれは、やっぱり天の川だったのだ。

「目的地ってもしかして冥府?」と大鳥に聞いた。

「らしいな」大鳥が答えて、球体を叩いた。「ここでは策が尽きたって事だろうな」

「門って開けとくのにこんな大掛かりになるものなんだな」

「場所によるけどな。一周一キロ以上の大穴が、地面に放置されている地域もある」

 確かに人類にはない発想かもしれない。しかし五行隊は、ずっと人類だ。

 目的地に着いた事を察したのか、球体は徐々に裾が広がって、真円から台形に近い形になっていった。高本は入り口の脇に立って、訝しげに門を見上げている。井戸のように、地面に突き立てた土管は、鉄骨や板で際限なく補強されていた。まず穴があって、それが閉じないようにしていると気づかなければ、ただ廃材を積み上げただけのゴミ捨て場に見えただろう。

 円筒は五メートルくらいの高さがあり、その縁に梯子段が立て掛けられていた。

 何か出て来るんじゃないかと思って見ていると、後ろから肩を叩かれた。大鳥が入り口の方を指し、そちらを見ると神人真冬香が、片手を背後に引きずりながら鉄扉を潜り、ちょうど近くに居た高本に鉄扉を閉めるように指示を出しているところだった。雷の音が……小さくなって、消えてはいない。建物の内側に入った神人真冬香の、右手がどこまでも伸びている。

 雷のような音は、雷であって、それは何かが地面を引き摺られる音に似ていた。

 数秒が経ち、永遠に近い時間が経つかと思われた瞬間、神人真冬香の右腕が弧を描いて放り出された。建物内へ。おれが居る方向へ、長大な触手が鞭のように襲い掛かり、打たれる寸前に横から黒い物が現れた。地面に叩き付けられる触手を見ているおれは地面に弾き飛ばされていた。『らいちょう』の脚が円筒の向こうに転がって、重い鉄を打ち鳴らす音が響いた。

 一時の静寂、それを破る雷の音と、次の静寂が鉄扉の外で交互に繰り返される。

 神人真冬香が立ち上がり、触手を打ち捨て、閉め切られた鉄扉に耳を付けた。

「もしかして、引き付けるってのは物理的に遠ざけただけか?」と大鳥が言った。

「結構離してやったんですけど、もう追って来やがったみたいですね」

「それってむしろ被害が広がっただけじゃないの?」とおれは聞いた。

「ここか、どこかに雷が落ちるってんなら、ここじゃねえ方が都合がいいですからね」


 神人真冬香が触れても、茶色い覆面はまるで皮膚のようにレッドブリックの頭から離れようとしなかった。「こんなに頑丈に作る必要なかったんじゃねえかと思いますけど」しかし彼女の触手が茶色い頭といい、肩といい、首といい、あらゆる所に触れて回ると、すぐに綻びが見つかったようで、まるで皮膚を溶かすように、茶色い覆面はゆっくりと脱がされていった。

 短い髪を首の後ろで括った妙齢の女性の顔が現れた。耳川清風だ。

 大鳥が前に進み出て、その女性を見下ろした。「さて、時間が無いから手短に行くが、お前は……お前らか、どうやって『らいちょう』から脚を奪い取った?」彼の質問に、耳川は項垂れたまま、大鳥と目を合わせようともしなかった。球体は今、二つの塊に分かれていて、耳川は両手を吊られた格好で触手に拘束されて、正座をするように地面に膝を付いていた。

「しつこく追い回して、力ずくで奪い取ったってだけの話では?」神人真冬香が言った。

「それが……こいつらなら出来るのかもしれないが、その結果がこれか?」

「だから冥府まで行けりゃ、始末する時間はいくらでもあるって思ったんでしょう」

「その道中で犠牲になった物はさておいて、な」大鳥は『らいちょう』の脚を拾い、それを耳川の頭の上で振った。爪の中に嵌った透明な球体の中を、青白い閃光が走り抜けた。「始末出来るって言うんならいいけどな、地上で逃げ回ってた奴に冥府で何が出来るって言うんだ」

「魔人会は」小さな音だった。誰も、誰が声を発したのか気づけなかった。

「なんだって?」大鳥が鳥の脚で耳川の頭頂部を指した。

「魔人会は、あれを道具にしたいんだろうけど、そんな事は出来ないよ」

「いや無理だろ。さすがにあれは話が通じるような相手には見えなかったが」

 耳川が鼻で笑った。「誰なら話が通じると思ってるんだろうね、妖魔なんかに」

「こいつがそうだ」今度は大鳥がおれに顎でしゃくって見せた。「これでも妖魔だよ」

 耳川と、更に危険な存在である神人真冬香も他人事のように、おれを見つめていた。耳川は体を揺すり、手を動かそうとしているが、触手の拘束によって何も出来ていない。球技用のネットを張るように、両手を斜め上に突っ張った状態で、その姿勢を保ち続けるのさえ辛そうだった。しかし彼女をここで逃がしたら、何をするかは火のように明らかなのだ。たとえば。

 もう一本の脚も奪い取られた『らいちょう』が、それぞれの脚を取り返す為に二つに分かれでもしたら、追跡は困難になる。三つ以上に、だとしたら、ほとんど不可能になるかもしれない。これでも拘束としては物足りないくらいだ。特に彼女の両手は、開いて、閉じると地面を抉り取って煉瓦にするから、高本はそれを、切り落とした方がいいとさえ言い放った。

 耳川の目元が僅かに弛んだ。「マッチメイカーの肝煎りだったっけ、君って」

「いや、それは……、先週会ったけど、あんまり興味は無さそうだったけど」

「そうなんだ。これほどの物なら、またすぐに回収に来ると思ったんだけどね」

「話が通じねえとしても」神人真冬香が言った。「その脚があれば、ある程度は操る事が出来るんじゃねえかと思いますけど、あとは退魔師の方が雷対策をすりゃあいいんじゃないですかね?」彼女は耳川の前にしゃがみ込んで、言った。「五行隊も雷くらいは平気でしょう?」

 答える代わりに、耳川は口を大きく開けていた。

 何かそれは、嘲りの言葉でも出て来そうな様相だった。

 次の言葉を待ちながら、四人が四人、不穏な空気を感じている。

 丸太を打ち込むように鉄扉が激しく揺さぶられ、何かが壊れるような音がしている。

 静かに、ゆっくりと耳川が口を閉じた。

 と同時に、その両腕が肘の辺りで爆ぜた。

 それと同時に無数の灰色の煉瓦ブロックに潰された神人真冬香の横を、腕の無い耳川が走り抜けた。胸に抱えるように奪い取った『らいちょう』の脚を口に咥え、そして今度は耳川の足元が爆ぜた。五メートル近い跳躍は、梯子段を丸ごと飛び越えて、彼女の全身を井戸の中、冥府の門に放り込んだ。同じく井戸に駆け寄った高本は、一段目に足を掛けて止まっていた。

「ラァアフ!」ほとんど吠えるように、神人真冬香が井戸に向かって呼び掛けた。

 返答はない。煉瓦ブロックを押し退けて、ようやく体を起こすと、彼女は二つに分かれていた触手の塊にぶら下がっている耳川の腕の断面を、腰を曲げて下から覗き込んだ。ちょうど肘のその場所に出現した煉瓦ブロックによって分かたれた腕から、赤黒い液体が少しずつ、少しずつ、少しずつ、少しずつ、滴っている。手首に至っては、未だに触手に埋まったままだ。

「拘束していたんじゃなかったのか?」呆気にとられていた大鳥が慌てて声を掛けた。

「両腕を拘束してただけですよ」と神人真冬香が答えた。「下の方は自重でほとんど潰れかけてたし、こっちは閉じる動作を封じりゃ問題はないって言われてたんですけどね」不意に飛び退いた神人真冬香の真上に、雷が落ちた。見上げると、天井の所々に穴が空いていて、いくつかは貫通して灰色の空が見えていた。しかしすぐに羽毛が詰まって暗くなってしまった。

「『らいちょう』の、脚を奪われたのは完全にそちらの落ち度だと思うがな」

「ラーフって?」

「このままだと『らいちょう』が扉を破ってこの建物に入って来るだろうが」

 神人真冬香は高本の横から飛び上がり、梯子段を上り始めていた。誰の質問にも答えず、気が付けば既に半分を過ぎている。「誰か一緒に助けに行きますか、行かないですね」振り返った神人真冬香に、光が射した。拉げた鉄扉の隙間から羽毛が飛び込み、次に猛禽のような翼が列を為し、それは大蛇のように空中をうねって、梯子段の神人真冬香に衝突した。先頭の翼は左右に展開しながら、更に巨大な一対の翼を形作った。蛾のように広げた翅の、それぞれの中心には奇怪な模様が描き出され、鋭い眼光のような模様に誰も身動きが取れなくなった。

 両翼の真ん中から伸びる、長く真っ直ぐな金属の棘は恐らく口吻だ。

 それは屋内を飛び回りながら無数の雷を放ち、そして井戸に飛び込んだ。


 その男はラーフと名乗り、右手の自動小銃を脇に挟んで握手を求めてきた。

 左手にも同じ自動小銃を、銃床の根元を引っ掴んで地面に向けて提げていた。

 大鳥と固い握手を交わし、彼はすぐに挟んでいた自動小銃を右手に持ち直した。

 彼の肌は最も肥沃な土壌よりも黒い色をして、凛々しい顔付きは、精巧に作られた演奏家や彫刻家のような風格があった。大柄な体躯を、更に長大な手足が支え、その体は茶系色や赤系色で描かれたモザイク柄の戦闘服に収まっていた。ベストに小型のポーチ、セラミックの頑丈なプレート、そして頭にはヘッドセットマイクと、光増幅型の暗視装置を装着している。

 腕の所のワッペンには『XIF』と、蛇が絡みついた黒い鏡の紋章が付いていた。

 そこでふと気付いたのだけど、袖口や襟元に肌を覆うボディスーツが覗いている。

 何とか式何とか防護服……、デビルスキンと、神人真冬香が言っていたやつだ。

 ただ本人に確かめようにも、神人真冬香はずっと気絶したままだった。

 これが人間なら安静にさせておいて、すぐに検査を受けさせたりするのだろう。

 現在、彼女は高本の背から下ろされて、部屋の隅に設置されていたベンチの上に寝かされていた。そこは地階の小さな部屋で、通信機器が置かれたテーブルと、壁際にバリケードを敷いてから銃眼を開いてあって、そこにラーフと同じ格好をした二人の兵隊が控えていた。

 第五四中継基地は、地上のサイロと同じような無機質なコンクリートの建造物だった。

 違うのは、複数の建造物に囲まれた六角形の中庭があって、そこには井戸とか、土管とかの丸い竪穴は全く無いという事だけだった。白い羽毛が散らばって、残雪のようになった中庭の真ん中に立ってみても、天の川はもう見えなかった。しかしその空間には欠落した何かの道筋が確かに存在していた。していた、という確信が否応なく頭の中に流れ込んで来たのだ。

 だから前回と同じように、戻れる、と思えるだけで多少は落ち着いていられた。

「その五行隊なら確かに来たがね」低く篭った声でラーフは言った。「いや、引き止めようとはしたけども、何しろ急な事だったから、彼らも」と壁際の兵隊を一瞥しながら、彼は不服を顕にした。「落雷から身を守るのに必死だったって事は、分かって貰えるといいんだがね」

 表情はさして不満そうではないが、決して歓迎されているわけでもない様子だった。

「もちろん何も言う事は。冥府に逃げられてしまったのはこちらのミスなので」

「そうではない」とラーフが遮った。「みな考える事だ、冥府に落とせばいいと」

「いや、出来る事なら地上で対処するべきでした。こんな、所にまで」

 ラーフは腕を組み、二つの銃口を左右に交わした。「本当にそうかね」

 何も言えず、振り返った大鳥に対して、高本は片方の口角を上げただけだった。

「魔人会は殊更に冥府を恐れているようだがね、もっと気軽に利用するべきだ。私ならばそうするし、五行隊もそうしたまでだ。妖魔も……いや、妖魔は冥府から逃げようとしているわけだが、それでも行き来するのには抵抗はないんだよ」ベンチから呻き声が聴こえ、ラーフは一瞬だけ息を潜めた。「……もう少し気楽に考えてみては。ここは外国よりも近い場所だ」

「だといいのですが」

「いいんだ。ああ、リー」ラーフが兵隊の一人を呼ぶと、耳元で何か指示を出し、その兵隊は廊下に出ていった。「それで、君らはここに何をしに来たんだ。『やざえもん』をここまで運んでくれた事は嬉しいんだがね、わざわざ三人も付き添わなくて良かったんじゃないか」

「『らいちょう』を……追って来たんですが」

「退治するんだろう」高本が言った。「今さら捕まえて利用しようなんて思わないな」

「そうか。こちらへ来てくれ」ラーフは部屋の中央のテーブルで、自動小銃を椅子の上に寝かせてから、雪山のような資料を片手で払い除けた。その下には大きな地図があった。「部下に動きを監視させている。この二号棟方面へ出て、恐らくは『寒冷の館』に向かっている」

「方角で言うと?」と大鳥が地図を覗き込みながら聞いた。

「ない。ここの磁力はみな地底から空の中心に向かっている」

「徒歩では、どのくらいの時間が掛かる? その館に行く場合は」

「ここらは波留農羅環の支配する領地に含まれる、だからそう遠くはないがね」

「その領地にこんな……基地を建てていいの?」

「それについては『やざえもん』の」と、ラーフは急に横を向いた。さっきの兵隊と、白衣を肩に掛けた若い男が戸口に立っていた。「よし、リーは監視に戻れ。ホンは『やざえもん』の具合を診てやれ。地上で妖魔に襲われたらしい。感電したか、擬死の可能性も考えられる」

「これから向かいたい。出来れば案内をして貰えると助かるのですが」

「そもそも、何をしに行くのかね。五行隊も居るし、波留農羅環も居れば充分だろう」

「それは知らないですけど、五行隊に関しては、我々の問題とは無関係です」

「どうだかね。張り合うには分が悪い相手だが。一応、地形の見方を教えておこう」ベンチの方では、聴診器や血圧計、ペンライトなどを持ったホンが、神人真冬香の体を色々と見回していた。スナップボタンで留められた服は、捲るにも脱がすにも不便そうで、所作はどんどん雑になっていった。「大丈夫そうですか?」と聞くと、彼は頷いた。「問題はありませんが」

 襟の所から強引に引き裂く事も出来るだろうが、代えの服なんて無いだろう。

 まあでも最悪防護服になるだけだし、それでいいのに。

「そこのコンテナに」と工具で口を抉じ開けながら、彼が言った。「戦闘糧食があるので、食べたければ食べても構いませんが。バニラ味とカレー味と……ああ、便秘や抑鬱の症状がある場合は控えてください。体内活動を低下させる……いえ、味付けがそんな感じなだけです」

「お腹は空いてないので」

「はい。ただ長くなるようでしたら、お連れの方にも」ホンはいつの間にか、道具を片付け始めていた。とはいえ、神人真冬香はずっと、緩やかに緩やかに胸を上下させているだけで、本当に問題は無いようだった。雷に打たれたにしては、という補足を付けた上では、だけど。

 蒼白なのはいつもの事だし、よくよく考えたら、元から生気の感じられない人だった。

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