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【13・らいちょう】

 魔人会の人間と合流するまでに、川に架かった橋を二つと、木に覆われた丘を三つも越えなければならなかった。太腿くらいの岩石を抱えたまま、崩落しかけている斜面を上って、捲れ上がった国道を渡りきると、潰れたホームセンターの駐車場では、車内や、その周辺に立っている男達が、川の向こうの森を眺めたり、缶飲料を飲んだりしていた。そこに辿り着くまでにも、丸田川は巨魚人の向かう方向に後ろ髪を引かれ、その直後には、率先しておれの腕を引っ張って先に進みもして、最終的にはほとんどお互いを引き摺り合うようにして歩いていた。

 駐車場には何台もの車が停められ、極楽商会のファン・バーラク氏もそこに居た。

 大鳥警護と、帯剣した高本小舟によって丸田川が引き剥がされ、マイクロバスに押し込まれた。おれは社長に誘導され、同じ白と黒に塗り分けられたマイクロバスで、祖母だった物と再会した。誰に何を言われる前に、おれの目は全てを明らかにした。核を持たない人間は生きられない。あるいは最新の、肉体的に死を迎える時に核を消滅させるでもいい。実際には祖母はたぶん『ぼどうがが』に核を奪われたのだ。だから肉体的にはまだ、生気が感じられた。

 退魔師の中にも、偽物の核を入れられ、操られた人物も居て、そういう人達は他の退魔師によって始末されたらしい。始末である。それ以上の表現はない。しかし警官をそうしなかった以上は、その判断の妥当性は棚上げにされているだけだ。「『ことりばこ』に至っては、あれを人間と認識もしなかったがな」という社長の弁明は、暗に怒りとも悲しみとも取れない感情をぶつけてくる。それは遅れて来た者に対する、当然の批判と言えるかもしれなかった。

 しかし家族を喪った者に対しては、冷淡に過ぎ、事務的に過ぎる気がした。

 おれらの報告を受けた魔人会は、現場からの撤退を決めたようだった。誰かが帰ると、堰を切ったように解散した。最後のマイクロバスの中で、おれらは無線の反応を探っていた。それがいよいよ出発という時に、眼鏡を掛けた、短髪の浅黒い男が駐車場に飛び込んで来た。

 祖母と家に帰り、週末を過ぎて、葬式を挙げられたのは火曜日になってからだ。

 連日の雨で肌寒く、湿った空気は家の中まで入り込んで、このままでは祖母が腐るという現実的な問題に直面して、やっと重い腰を上げた。社長と、店長と、木人町民が参列した小さな葬式を済ませ、火葬を済ませ、小さな骨壷を抱えて帰って来ると、家は一段と大きく、冷たくなっていた。おれにとっての祖父と、両親と一緒に、祖母も完全に鬼籍に入ってしまった。

 母の制服は、やっと袖を通す事が出来て、しかもその用途は不本意だった。

 帰るなり上も下も脱いで部屋に散らかしたまま、おれはベッドに飛び込んだ。

 丸田川の不在が冷たく残っている気がしたので、わざわざ押入れから毛布を引っ張り出し、いつもより小さく丸まって、気が付くと正午近くになっていた。誰かがインターホンを鳴らしている。一回、一定の間隔を置いて、一回。急かすつもりは無いという風に、それでいて、いくらでも待てるという風に鳴らしていて、応対せざるを得なかった。タンクトップとショートパンツという格好は、……まあいいか、寝起きを狙って来る方が悪いのだ。階段を下りてからは足音を潜めて、玄関の磨りガラスを睨むと、小柄な人影がいくつかと、体が縦にも横にも大きい人物が脇に立っていた。サンダルを突っ掛けて、鍵を開ける。玄関が開け放たれる。

「居るんだったらお前、さっさと出て来るんだよ」と町内会長が言った。

 いくぶん顔の大きな、少し背中を丸めた小柄な老人で、今のおれと、彼の身長はほとんど変わらなかった。総白髪の、短く切り揃えたのを横に撫で付けている。ナイロンの薄いジャンパーが、今にも降り出しそうな曇り空とはいえ、少し暑そうだった。背後にも町の老人達が十数人は連れ立っていた。祖母と仲が良かった老婆と、町内会の役員を務める老爺達だった。

 その中に一人、飛び抜けて若い男性が居た。

 飛び抜けて、と言っても他の人達の半分ほどしかない、という意味では若いというだけで恐らく四十代近い中年男性だった。見た事はあるかもしれない、だけど名前は「清水んとこの長男だ。寿喜也っていうんだが、覚えてないか?」と問われ、咄嗟におれは首を振っていた。何か悪い予感が、腰の辺りにちりちりと熾った。町内会長の隣に立つ中年男性を見上げる。

 状況にも相手にも関係のない、一方的な感情を押し付けて来る目があった。

 挨拶や、会釈さえしないで、物に接するように、彼はおれを品定めしていた。

 広い額の上の方まで顔色は青白く、脂っぽい髪との対比が目に痛いほどだった。

 濃い灰色のトレーナーに、色褪せたジーンズを穿いていて、スニーカーは踵を踏み潰していた。無精髭が生えていて、鼻の頭に面皰があって、上の前歯に隙間があった。そして頭の上から足下まで全身を見られていた。「なあ、筒美さんも亡くなって、この家もお前一人じゃ大変だろう」と町内会長が言った。「所帯を持つべきだと思うんだが、筒美さんが、孫が急に女になって困ってるって言ってたからな。旦那候補って言やあ、こいつくらいしか居ないんだ」

 おれには何も聞こえなかった。「いらない」と答え、首を振った。

「いるとかいらないとかじゃない」即座に彼が言い返して来た。「大体お前一人だけでこの家に住まわせるわけにもいかないんだ。それとも他に相手が居るのか、居ないよな。それに今さら訳の分からない男を連れ込まれるよりは、清水の家ならお前も付き合いがあっただろう」

 首を振り、言う。「でも、まだそういう事するつもりはないから」

「お前な、ナリはそんなだけど、そろそろ三十だろう?」目の端で清水寿喜也という男の様子を窺うと、特に何の反応も示さなかった。三十の男にも、十五くらいの女にも、興味が無いんじゃないか、とさえ思えた。町内会長が言った。「なあ、祭の準備で忙しいのにわざわざ葬式まで出してやったんだ。筒美さんの事は一区切りにして、そろそろ先の事も考えてくれや」

 後者の方が危ないんじゃないか、と考えていると、車のエンジン音が聴こえて来た。


 車のドアが開かれ、閉まる音は、頭を大きな板で殴られるような衝撃を感じさせた。

 塀の向こうを走り去る四角く黒い輪郭を、おれは横目で眺め続けていた。車を降りた男が、ボストンバッグを右肩に掛けて、体を大袈裟に傾けながら門を潜って来ると、老人達がのそのそと左右に割れ始めた。「なんだ、客が来るんだったら先に言え」と言って、町内会長も横に避けると、飛び石の上に、白いワイシャツに黒いスラックスを着た若い男が立っていた。町内会長がおれに目を向けた。「西島の親戚か? 筒美さんに線香でも上げに来たのか?」

 大鳥校歌は今日もキャップを被っていて、左手は上衣のポケットに突っ込んでいた。

「いや」と答え、大鳥がバッグを足下に落とした。「今日はビジネスの話をしに来た」

「そうかよ。お前確か、見た事があるな……魔人会か?」と聞く町内会長に、大鳥は一瞥をくれただけで、老人達が集まっている理由も、気にする様子はなかった。「ビジネスか何か知らねえけどな、この家は今、家主が居ねえんだ。それでこいつが」町内会長が中年男性を指差した。「婿入りする段取りを付けようとしてるところだから、ちょっと待っててくれないか」

 大鳥が首を傾げ、老人に向かって口の片方を上げてみせた。

「用があるのは西島信久だ。そいつは関係ないから、ちょっと待っててくれないか」

 年寄りを相手に冷酷な口振りだけど、そういえば、大鳥は年のわりにと言うよりは、十九歳にしてはいつも抑圧的で、排他的な態度を見せていた。それは丸田川にしても、大鳥警護にしても、高本小舟にしても変わらないかもしれない。おれに対しては、他の連中は十四の子供のように接して来るのに、それも良くはないけど、大鳥は二十八の大人にそうするように不躾に接して来るように感じた。そう感じたのは、おれが年上風を吹かせたいだけかもしれない。

 それは十代男が、四十男よりも、直截に自分を舐めて来る事を恐れているからだ。

 急に裾を捲られたり、詰られたり殴られたりは、いくつの誰なら良いのか……と、考えていると泡を食っていた町内会長がやっと息を整えて、中年男性を制するような素振りを見せてから、大鳥に聞き返した。「大体用があるって魔人会が西島なんかに何の用があるんだ?」

「西島信久は、見たら分かると思うけど、妖魔だ」と大鳥が言った瞬間に、老人達は漠然と抱えていた疑念のような物を一気に吐き出し、お互いに見せ合って頷き合っていた。それは町内会長がはっきりと声で窘めるまで一分は続いた。「最近、人型の妖魔が増えているとニュースでも発表されたはずだ。だからこいつは魔人会に協力するか、しない場合は討伐対象だ」

「妖魔だ、ってお前、こんな普通の……」

「普通の人間は、急に姿形が変わったりはしない」

「だとしても、そんな奴をなおさらこの家に一人で置いとくわけにもいかないしだな」

「そっちの事情は知らないけど」大鳥は、話を切り上げるつもりらしく、バッグを持ち上げながら肩越しに答えた。「本気で敵対すれば魔人会が対処するまでに周囲一帯の何十人も犠牲になるような物が、こうやっておとなしく生活してるだけでもありがたい話じゃないのか」

「魔人会ってのは普段そんな悠長な考え方でやってんのかよ」

「妖魔の脅威に対して言えば人類全体が悠長すぎるだけだが」

 そして大鳥は、おれの肩を押し退けて、勝手に玄関に入って来てしまった。

「あの。おれも何度か魔人会を手伝った事があって」脱いだ靴を揃えて、大鳥は奥の廊下に踏み込んでから、リビングの方へ引き返して行った。町内会長は最初おれの言葉を聞き取れなかったような顔をして、しばらく固まったままでいた。たぶんもっと、この状況を打破するような言い分が欲しかったのだろうけど、彼は結局、十五くらいの女の姿を見て、額に手を当てて項垂れてしまった。更に耳を反らし、ヒゲを垂らして、目を丸くしていたかもしれない。

 有無を言わせない他人事の顔をしていられるのは、おれが悠長で、人類だからだ。

「前にもお前、あいつと何かしてたな。……そういう相手なのかよ?」

 隣の中年男性に対して、隠しようのない距離だけど、彼は声を潜めて言った。

 違う……、違うと言っても仕方ないけど、そうだと言っても仕方ない。

 とりあえずは「まだよく分からない」と答えて「後にして貰えませんか」と聞いた。

 最初から決めていたかのように、町内会長は渋々といった態度で頷き、そこでやっと踵を返した。「先客が居たようだから、また今度にするしかないな」背後の老人達に、言い訳みたいな事を言って、彼は中年男性の背を押して歩き出した。中年男性は一度だけ振り返り、町内会長の手を振り払い、一人で歩き出した。左右に割れたままの老人達も、それぞれ不審の目を玄関に向けてから、一人ずつ町内会長の後に続いて、門を潜って行った。最後におれが門を閉めると、庭の中は一気に閑散とし、自宅は廃墟のようだ。玄関に上がると大鳥が出て来た。

「なんだったんだ?」と言い、彼は持っていたコップを口に傾けた。

「この家に一人で住ませられないから結婚しろって」

「あの横に居た、ぼやっとしたおっさんか?」

「それか大鳥と、かも」と言ってみると、彼は露骨に目を細め、眉を寄せて、狐に抓まれたような顔をした。狐狸に関する怪談の中でも、特に婚姻や恋愛に関する物は多く、如何に人間が動物に、あるいは動物的な振る舞いに、振り回されて来たかという証左がそこにはある。

「その写真」写真立てを彼の指が示した。「見せてやれば良かったんじゃないのか」

「そういう問題じゃないし、所帯を持てって話だったから、たぶん子供作れって事」

 ただし今回の場合、狐狸の類に当たるのは、実はおれの事であるらしい。

「妖魔に出来るのか?」と彼は言った。「袋みたいに分裂するのとは訳が違うだろう」

「知らないけど、子供の、核ってそもそもどうやって増えるんだ?」

「さあ。臨月の、新月の夜に冥府の門から飛んで来た、って言ってた奴は居るけどな」

「ああ、やっぱり冥府からなんだ」……やっぱり、って言うほどの事もないけど。「とりあえずリビング行ってて。なんか疲れた」サンダルを脱いで上がろうとすると、コップを持った手で体を遮られ、尻餅を付きそうになった。壁を伝いながら、ゆっくりと立ち上がる。大鳥は玄関の向こうに目を向けて、彼は言った。「ビジネスの話って言ったな。もうすぐ客が来る」


 魚鱗の書。

 水心の巻、その前半に『慢心刀』と『錆血刀』という項目がある。

 その成り立ちは概ね、鰻太刀流の開祖である音町楠妓の生い立ちが元になっている。彼の生家は野盗に襲われ、臨月だった生母の腹が裂かれ、その時に楠妓が産まれた。以後、野盗に育てられ、その情婦に育てられ、警官に育てられ、そこからも出奔した楠妓は、野盗への仇討ちに半世紀近くを費やし、最後には薄板を組み合わせた小屋の中で、筵に横たわって眠る病身の老人を、血と錆に覆われた鈍らの刀で斬り、串刺しにした首を担いで自ら警察に出頭した。

 それがいつ、どの時期に、どんな理由があって道場を開くのかは誰にも分からない。

 釈放から数カ月と待たずに、彼の元には既に門下生が集まっていた。

 慢心刀とは、戦力を失った相手に対してでもそれ以上の攻撃を加える事。

 錆血刀とは、戦力を奪われた状態でも何かしらの攻撃手段を見つける事、とも言える、要するに一種の精神論だった。もちろん詳細はもっと長くなるし、長くなった部分が本題ではあるのだけど、今のおれが考えないといけないのは、慢心刀や錆血刀という思考法でも、まして白焼きや目打ちという実戦技でもなくて、その文庫本を手にしている理由そのものだった。

 房州剣武会・秘伝挿話集。

 一丁前のタイトルは『剣人泡沫』……。「これを丸田川さんがおれに渡せって?」

「退屈してるようなら渡してやれって、持たされたんだ」大鳥は漁っていたバッグから顔を上げ、膝の上に肘を置いてソファに座り直した。「お前がそんな物に興味があるとは思えないけどな、どうせ俺がやった物だから、どうなろうと構わないんだが、気に入らなかったか?」

「分からない、……まだ。丸田川さんの調子ってどうなんだ?」

「調子ってなんだ?」聞き返したまま、彼は少し考えて言った。「そうだな。聞けば何でも答えるし、言えば何でもやる。指示が無ければずっとヘラヘラ笑って人が来るのを待ってる、って感じだ。別に普通といえば普通じゃないか。お前は、核が無い、って言ってたけどな」

「偽物の核を入れられた、って話だったんですけど」

「あとあいつもだ、菊池大地。同じ事を言っていた」

「あの人も妖魔だから。……あの人は? 『ことりばこ』に食わせたりとか」

「魔人会の他の会社に協力してるよ。この家は水は出るのか? 喉が渇いたんだが」

「あ、今の時間は。冷蔵庫の横にあるの沸かして」と言い終わる前に、動き出していた大鳥が五リットルの容器を軽々と持ち上げ、台所の方に消えてしまった。電気焜炉は、悪天候が続いているとはいえ、水を沸かす電力くらいは残っているだろう。カーテン越しに、屋外には灰色の空気が漂っていて、心持ち肌寒さを感じるので、もうすぐ降り出すのかもしれない。

 この時期なら、もっと蒸し暑く感じてもいいのだけど。

 テーブルに手の平を広げて置き、伏せてある文庫本に手を重ねた。

 剣人泡沫には国際標準図書番号や販売時点情報管理や、それこそバーコードなどが一切表示されていないので、どうやら市場には流通していないらしく、定価も、内税も……は時代によって変わるけど、記載されていなかった。版元は明林書房、発行者はゼン吉田。奥付にある日付も少し古く、初版はまだおれが生まれる前に刷られていた。恐らく重版も無いだろう。

 カバーは日に焼けて縁や折り目の所が破れかけている。

 帯などはない。

 古い紙の湿っぽくて甘ったるい匂いが染み付いている。

 食心の巻、虚心の巻、石心の巻、そして魚心の巻まで、全五章で魚鱗の書は終わる。

 そこから先は別の書物が収録されている。タイトルだけでは、どれも見分けが付かないにも関わらず、どうして聞き覚えのある『鰻太刀流』を見つけられたのだろう。長く開かれて癖になっていたわけでもない。今改めて見れば、そのページを開くだけの理由は何一つない。

 ただ、何の話の流れでそれを聞いたのか。確かあれは。

 鰻太刀流の……大鳥警護だ。「なあ、鰻太刀流って知ってる?」と台所に呼び掛けると、何の反応もなく、数秒後に右手にマグカップを持った大鳥が戻って来て、おれの目の前に湯気を立てるコーヒーを置いた。嫌な癖のある匂いが鼻を抜けて、胃を締め付けられるようだ。

 大鳥はポケットからスティックシュガーとコーヒーフレッシュを取り出した。

「鰻太刀流って、大鳥警護さんから聞いたんだけど」というおれの言葉を無視して、彼はまた台所に引き返していった。とりあえず添えられた物を全部入れ、混ぜる物が無いので、その辺に転がっていたボールペンを二周させて、冷めるのを待とうとした途端にまたインターホンが鳴らされた。大鳥が小走りで、テーブルにマグカップを叩き付け、そのまま玄関の方へ出て行ったので、おれも後を追った。もうすぐ、と言いながら、もう三十分ほども経っていた。

 大鳥の隣に立つと、横から頭を小突かれた。「ったい、なんだよ?」

「一応お前が家主だろう、客の応対くらいは自分でしろよ」

「別に誰でもいいけど」……大体、勝手に客を呼び付けたのは大鳥じゃないのか、と思いはしたけど、放っておくわけにもいかないので、降りて玄関を開ける。妙齢の女性が驚きの声を上げて、飛び上がりそうになっていた。その向こうに、体格のいい中年の男性が立っていた。

「あ、極楽商会の、人ですよね。ここって木人町三丁目の……」

「極楽商会の大鳥校歌だ」大鳥が答えた。「そいつは西島信久」

「あ、はい。兄さん、合ってました」女性が振り返りながら、さっと横に避けると、男性の方が先に玄関に入って来た。体が縦にも横にも大きく、薄緑色の作業着は筋肉ではち切れそうになっていた。その後ろの女性も、上は作業着、下はタイトなデニムパンツで、底の厚いスニーカーを履いていた。肩に掛けたトートバッグは、麻製の無地で、重そうに角張っていた。

 男性が言った。「プレジャーハウスの役員をしている。目尻穣一だ」

「あ、目尻豊香です。二十五です。役員です」男の肩の辺りから別の手が伸びた。

 その辺りまでは、俄に降り出した小糠雨の粒が直に当たっているようだった。


 とりあえず家に入れなければならない。

 リビングに移る途中、豊香がバッグからタオルを取り出して肩を拭いていた。

 案内もそこそこに、台所に引っ込んだ大鳥がもう一杯のコーヒーを持って来て、椅子に浅く腰掛けた穣一の前に置くと、そのついでみたいな動作で、おれの前にあったマグカップを豊香の方に押し出した。穣一がいきなり半分を飲み干してしまうと、湯気を吐きながら徐ろに話し出した。「本当はもう一人、弟も居るんだけどな。今日は気分が優れないんだそうだよ」

「あ、友達が死んじゃって落ち込んでるんです。左崎くんって言うんですけど」

 豊香は両手でマグカップを包み、その中身をずっと覗き込んでいる。

 二人の胸の真ん中には小さな核の青い炎だけが一つずつ、浮かんでいた。

「先日の包囲作戦は災難でした」大鳥も飲み物を口に含んだ。「ウチも一人、妖魔に何らかの攻撃を受けた社員が居て、今その詳細を調べている最中なんですが、未だに何の手立ても見つからなくて……それで今日は」と豊香を、穣一を交互に見た。「退治の依頼でしたか?」

「我々が抱えてる案件の一つに『らいちょう』という名前の妖魔が居る」

「『ふくろつめ』の」不意に閃くと、それを隣の大鳥に睨まれた。「相手の名前だ」

 それは確か、神人真冬香が確かめに来たという、マッチメイカーからの通知だった。

「何かご存知で?」

「名前だけ、聞いた事は」と、おれが何か言う前に大鳥が慎重に慎重を重ねて答えた。

「呼んで字の如く雷の鳥で『らいちょう』だ。このところ、雷雨が多発しているのも関係あるかもしれんな」コーヒーを一口、それから五厘刈りの頭を掻いた。「豊香、資料があったはずだから出してくれるか? 入れといただろう? ……降り出したばかりだが、荒れるかね」

 窓を見ていた穣一が、急にこちらを向いたので、大鳥は面食らった。「さあ」

 豊香は椅子の足下に顔を下げて、バッグの中身を引っ掻き回している。

「でもすぐ止みそうな臭いが……」

 と代わりに答えようとすると、不意に六つの瞳に捕捉され、おれは深く吸った息で胸が詰まりそうになった。大鳥に「臭いで分かるわけないだろう」と突っ込まれ、穣一が「早めに引き上げた方がいいか」と悩み始めて、その数秒間だけ、彼は豊香が書類を探している事を忘れていた。豊香がテーブルに頭をぶつけ、マグカップが揺れた。「いたっ、いい。ぶつけた」

「何してるんだ。見つかったのなら早く出せ」

「あ、はい」頭を押さえながら彼女が放り出したバインダーを穣一が開いてみせた。

 三枚の写真には、空と、翼が写っていた。

 大型の鳥類が広げたような灰色の羽翼が、二枚、六枚……更に大量に連なっている。まるで戦争を終えた天使の隊列が、天上に帰還する瞬間を捉えたかのようだった。縦横に伸び、膨れ上がり、広がる細部は小さな翼であり、全容は大きな翼を形作っていて、それは巨大な蛇であり、微細な波であった。そして前面には、孔雀の羽根のように、巨大な目の模様が二つ、横に並んでいて、だからその真ん中にある、鋭く尖った部位は、恐らく鳥の嘴のようだった。

「それは前方に翼を増殖しながら空を移動し、後方の翼は分解して地上に羽毛が降り注ぐ」と穣一は言った。「そして両の目で敵の姿を捉えると嘴の先端から雷を落とす、という風に言われている。目撃例は多くないが、こうやって長時間姿を現している間に写真を撮られたりもしている」彼は他のよりも暗い一葉を指し示した。「ここに写っている物が何か分かるか?」

「鳥の脚」だと思ったから、そう答えた。

 鱗に覆われた細い枝が三叉に分かれて、それぞれ先端に鋭い鉤爪が生えている。

「そうだ」と穣一が言った。「無いと思われていた『らいちょう』の脚が」そして彼が次に指し示した写真の、どこにも脚は写り込んでいなかった。「奪われた」と彼は言った。「ここ数日で『らいちょう』の目撃者が増え、落雷の犠牲となった事の、理由が恐らくはそれだ」

「つまり、何者かからそれを奪い返せと」

 大鳥が聞くと、穣一は肩を竦めてみせた。

「始末が可能なら、そうして貰って構わないよ。それに、その脚があれば『らいちょう』の足取りを追うのにも役立つだろう」穣一が資料を捲ると、次は地図が出て来た。「報告があった地点を繋いでみるとだな、このまま北上して一両日中に南蜂山を通過する可能性が高い」

「あ、脚を奪った人物がその通りに移動してるならですけどね」

「ああそうか。それも含めて、早急に調査を始めて貰いたい」

「分かりました。それで、そちらから協力は?」と大鳥が聞いた。

「人は出せない。先日の包囲作戦で我々も戦力を大きく削がれてしまった」

「極楽商会だけが、全く被害を受けていない。それどころか……」と、大鳥がなぜか横を向いていて、おれが次の発言を迫られているような雰囲気だった。おれは穣一を見た。穣一と豊香は、おれの様子を窺っていた。胸の真ん中に、目を向けようとはしない。二人はおれの、本物のも、偽物のも核が見えていないようだった。豊香が写真を片付け、バインダーを閉じた。

 それどころか。「菊池ってあの人結局ウチ……極楽商会に入ったの?」

「そうじゃないだろ、お前と丸田川を助けに来た奴の事忘れたのか」

「いや、それに関しては一人で行かせたのが間違いだったんだ」と穣一が言った。

「誰も行かせないのが正しい判断だったのかは分かりませんが」と大鳥が言った。

「そうかな」嘲るように呟くと、彼はマグカップを空にして立ち上がった。「話は以上だ。その資料は置いていく、好きに使ってくれていい。豊香、帰るぞ」兄の後を追いかける豊香を更に追いかけて、せめて玄関までは見送る事にした。靴を履くのも、玄関を開けるのも穣一が先で、豊香は後から一人で慌ただしく動き回った。「あ、じゃあ今日はお騒がせしました」

 大鳥が軽く手を上げ、玄関が閉め切られるまで、彼はずっと前方を睨んでいた。

 ずっと、上がり框に立っていた。「大鳥は、帰らないのか?」

「俺は泊まりだ。お前を監視しないといけないからな」と大儀そうに彼が言った。

 もっと他に誰か、と口に出しそうになって、しかし特に良い案は思い付かなかった。

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