【1・さばくとら】
膝ヶ矢地方気象台の発表によると、六月七日の天気予報は晴れのち曇り。
地震、竜巻、台風、乾燥、強風、落雷などに関する警報は無し。
妖魔に関する注意報も特に無し。
第一国営放送は実に三日振りとなる太平天下を全国に伝えていて、午前十一時、星川町三丁目のビルとビルの間に人が呑み込まれ、どこにも入り口や窓のない四角い空間から、水分を限界まで失った枯れ枝のような死体が出てきた。設計者によれば、その空間は隣の会議室の一部だったはずであり、壁で仕切ったり、戸口や窓を埋めたという記録も残っていなかった。何より完全に密閉された空間からどうやってそれが出てきたのかさえ不明という状況だ。警察庁は直ちに両ビルを封鎖し、魔人会の退魔士二名を呼んで午後から合同捜査を行う予定だった。
しかし夕方になっても続報は入らなかった。
壁が頑丈すぎて中に入る算段が付かない、もしくは権利者が壁の破壊を許可しない、もしくは退魔師が時間になっても現場に現れない、現場に現れたものの何も出来ずに妖魔に取り込まれた……は、さすがに無いだろう。現場はビルとビルの間だ。テレビを眺めながら思う、ビルが並んでいる区画が全て行動範囲なのかもしれない。あるいはどんな建物でも、隙間でも。
そういう妖魔は四体ほどもニュースで知った。見た事はない。
鉄道、電線、雨樋、側溝、日陰……様々な場所を『通る』事に特化した怪異。
テレビを眺めながら思う、自分の周囲に何かが通る場所はあるだろうか。
揚げ物屋『れもん食堂』は、低い丘陵地帯を切り通した県道沿いに建っている。
二つの業態があり、十八時半から居酒屋が開いて、二十時には弁当屋を閉める。
一番暇なのは十八時から十八時半の間だ。
準備を終え、まだ客が入らない時間には、弁当を買いに来る客も少なく、ほとんどやる事がない。レジ内に待機してはいるが、交代を押し付ける人間が来れば、脅してでも裏に戻ろうとする。そうやって店長は事務室に引っ込んだ。カービン銃を肩から下げたまま、目の前に雑誌を広げながら、痩せた長身でパイプ椅子を揺らしている。時折、あっ、あっ、と喉が引き攣ったような声が聴こえるので、まあ何か面白いらしい、本当に喉が引き攣ったのでなければ。
そうだったところで誰も気にしない。
おれは青い釣り銭用トレーの位置を直した。
爪の伸び具合を見ていた稲木玖露が「西さあ」と言った。
稲木玖露は人形のように真っ直ぐなロングヘアを金色に染めていて、それは頭頂部の分け目にまで及んでいた。飴細工のような柔らかい光沢と、しっとりとした重量感が、まるで地毛のようにも見えるし、ガラスの繊維を一本ずつ植えたようにも見える。しかし時期によって根元が黒くなったり、色が明るくなったりしているので、何かしらの拘りがあるらしいのだ。
果たして飲食店で働いていながら、ゴムで纏めもしないくらいには。
横目で姿を見ながら、答える。「なんすか?」
胸元で突っ張ったエプロンの生地が、お腹の辺りからすーっと落ちる線が見える。
小柄で肉感的なシルエットは、妙齢の女性のものだ。
ショートパンツがエプロンに隠れて、前側からは何も穿いていないように見える。
「なにって、別になんかちょっと、西って付き合ってる女の子とか居ないの?」
「いや、今は特に」
「今は」彼女が摘み上げた単語は、一つだけ異なる素材で出来ている。「じゃあ前は?」
金属の中に紛れ込んだ木材のように、それは手触りだけで容易に判別が可能な嘘だった。
「……ちょっと機会が無くて、そういうのは」
「で、聞きたいんだけど」と稲木玖露は言った。おれの些細な誤魔化しについて、ただ正したかっただけで、きっと個人的な興味などはないのだ。「男って、前に付き合った人の事ってそんなに気になるもの? 自分の彼女が。何歳の時にー、とか。何人とー、とか、そういう」
ちょうど今この時にでも強盗が入って来ればいいのに、と思った。
「……それは、どういう人か知りたいからとか? 付き合ってる人の事」
それを店長がストーム・セミオートマチック・カービンで蜂の巣にすればいいのに。
そのプラスチックによる曲線的なシルエットを持つ銃は、9ミリ口径の弾薬を二十発も装填する事が可能で、伸縮型のストックと、銃口下部のフォアグリップによって、数十から百メートルほどの距離で精密な射撃を行う、ただし店長にその技術と店を守る意思があればだ。
それも本部から一丁だけ送り付けられたもので、予備弾倉すらも無い。
「別に誰と付き合ってようとそれって昔の話だし、今さら関係なくない?」
「確かにないな。おれはそういうのは、あんまり気にしないかもしれない」
窓の外に見える、三角形の狭い駐車場には黒く光る大柄のバイクが停まっていた。
確かそれはカラスとかテングとかいう名前の、大型の二輪自動車で、ハンドルが大きく湾曲している、その横にはデニムのジャケットを羽織った男が立っていて、小さなサングラス越しに店内の様子を窺っていた。あいつが強盗だったらいいのに、襲ってくる気配はなかった。
金髪に、サイドを刈り上げて、顎髭を生やしているのに、強盗ではないようだった。
「普通気にしないから」
「今まさに聞かれたけど、おれが」
「それは、ちょっと気になっただけじゃん」
横目でおれを見た稲木玖露は、おれの視線の先に黒いバイクを見つけた。
強盗でなければ泥棒でもいい、クレーマーでもいい、何か店を脅かす存在が外に居て、おれがそれを退けたらと思いながら、おれは爪に目を戻した稲木玖露を盗み見た。稲木玖露は、幼く丸い顔立ちをしていて、肌の色は、洗い過ぎたように白かった。祖母以外では、おれが話をする唯一の女性で、機嫌が良い時は気安く肩を叩かれる事もある。機嫌が悪い時も頻繁に叩かれるし、どちらでもない時は、黙ったまま二人で居られるくらい気の置けない間柄だった。
そして彼女が窓の外に手を振ると、外の男は二重ドアを潜って店に入ってきた。
「ちょっと、何で来てんの?」機嫌の悪そうな声で、稲木玖露が男に問い掛ける。
男はレジカウンターの前まで近づいて来ると、その上に屈んで両肘を乗せた。体重が一気に伝わって、釣り銭用トレーが小さく跳ねた。「いいじゃん、玖露が働いてるところ見てみたかったんだよ」少年のような、少し高い声が耳障りだ。サングラスの奥の目は見えないが、男は店内の様子を窺いながら、稲木玖露と、おれにも注意を向けていた。「そっちの奴は何?」
「西島信久、って名札にも書いてるけど、ただのアルバイトの人」
と言われ、おれは左胸を指している指の、艶のある爪に向かって会釈を返した。
「なに、仲良いわけ」
彼女は音のない舌打ちをする。「別に、シフト同じ時は話す事もあるってくらい」
「ふうん」ゆっくりと顔の向きが変わって、気に入らないらしい、男の厚ぼったい唇が曲がった。「おっさん、いくつなんすか。ここ長いんすか。俺まだ二十歳っすけど、こいつより年下なんで、こういう店で働いた事ないんすよ」薄ら笑いを浮かべながら、彼は爪先で床を叩いていた。腕や脚、腰回りは細いけど、肩幅の広い感じからして、スポーツ経験者のようだ。
一瞬、おれの目の前に飛び出して来る腕、その手に握られたナイフまでも見えた。
「二十八」答えて、事務室を覗いてみる。「稲木さん、おれそろそろ上がるけど」
「え、じゃあ店長に」
「いい、準備は終わってる。今日、遅番松音だから」
「そうじゃなくて、養豚場の方も出てくれって店長が。解体の免許持ってるって」
「ないよ、そんなの」
「あれ、もう帰っちゃうんすか? この後デートっすか?」
引き止める気のない声に、背中を突き飛ばされる気がして、しかし踏ん張る度胸も起こせなかった。スタッフルームで着替えを済ませて、勤怠管理アプリの退勤ボタンを押した。タブレットの電源が落ちている事が多々あるので、紙の勤怠表も隣に置かれている。三週間前に、一日だけ入った新人の名前が書かれていて、それ以降は、空欄の網目がずっと続いていた。
裏口から外に出て、自転車を押しながら駐車場を横切ると、レジカウンター越しに話し込んでいる男女が見えた。仲睦まじい様子、とも言い難いその自然な雰囲気が、ガラス越しに読み切れない事が腹立たしかった。広く取られた歩道に下り、南に向かって走り出した。道は左右から迫り出している雑木林の中を蛇行して、すぐに先が見えなくなってしまい、そこから数分に一台、大抵は後ろから車が走って来た。左手の高台の、高い塀に囲まれた森の奥に研究施設があって、門に続いているであろう細い道を、トラックが頻◯に出入りしている。あるいはバスや徒歩で集まった人々が、しかし元の姿のままで出て来たのを見た事は一度もなかった。
南蜂山市は、南北に長く伸びた地形の端を、それぞれ細い川に挟まれていた。
十五分も走れば鉄道の廃線が近づいて、木立の代わりに建物の数が増えてくる。
西の空から太陽は撤退し、残った光も橙色から藤色、藍色に塗り重ねられている。
市街地の手前で脇道に入って、まだ草深い景色が交わる街並みを、更に十五分掛けて走り抜ける。開けた傾斜に二棟の団地が見えて来たところで、今度は高台に上ると、すぐに木人町の商店街だった。神社の前を抜けて、ガス屋の錆びた看板を目印に、石畳の路地に入った。
二人の若者が道端に座り込んで、怪しげな甘い香りのする煙を燻らせていた。
その虚ろな目は石の継ぎ目をなぞっていた。
キャップの男がおれに向かって手を上げた。
もう一人が足元に緑色の液体を吐き捨てた。
道なりに進むと、和菓子屋のシャッターに突き当たる。洋品店のシャッターで曲がり、金物屋のシャッターを過ぎて、電器屋のシャッターに行き付く前に、ふと横道に目をやると人が歩いていた。次の、次の交差点も視界に収めながら、また横を向いて、おれは反射的にブレーキを引いた。警笛のような鋭い音が背後に伸びて、溝の浅い後輪が側溝の蓋の上を滑った。
引き返すほどの何かが起こっているとは、思わない。だからおれは引き返した。
薄暗い路地の奥を見ると、小さな人影がふらふらと、何かから後退っていた。
その背後には崩れたブロック塀を通して、錆びに包まれた廃車の輪郭が見えた。
壁を這う蔦は、割れた窓から室内に侵食して、根の力で支柱を傾かせていた。
ガラスの破片は半ば土に埋まって、透明な刃が突き出た地面は、まるで何かの妖魔のようだった。ニュースによれば『かまいたち』という古風な名前が付けられていた。単なる小動物が異形の力を持っただけだ。それを制御できるわけもない。狩りにも、争いにも使われない。動物は味や匂いで物を判別する。まず嗅いで、噛み付くように、ただ興味が向いた所に風の刃が生じ、そして何も得る事が出来ずに、そこには『かまいたち』という名前だけが残った。
ずっと昔に、それをガラスやワイヤーによるイタズラだと思っていた時の事だ。
その路地に面した家の、何軒に人が住んでいただろうか。
誰かがそれを見つけるだろうか。
今もう一つの人影が現れて、大きな頭を前に傾けて小さな人影に迫っていた。
「近所でも噂になってるんだから」その頭は常人の五倍ほどもあって「またウチの子がやったんじゃないかって」そこから何本も生えている触手のような物が「昨日も夜中にこっそり家から抜け出して」遂に塀に追い詰められた小さな人影に覆い被さると「もう何を言っても聞いてくれないのよ」人影は足の力を失って地面に倒れ込んでしまった。そして耳鳴りのような音がおれの頭の周りに纏わり付いていた。「りいいいいぃ……、………………、……じぃっ」
おれは、そこに憤りを感じているような気がした。
誰かに、身近な人物に。
それなのにおれはそいつの事を何も知らなかった。
二対四枚の羽が横に広がって、それは人影ではなくトンボか、カゲロウのようになった。
更に不快な音を立てて羽が震えだした。その足が浮いて、すぐに屋根の高さをも越えてしまった。そのまま上昇していき、雲の一つと見間違えそうな小さな影になって、それは空の彼方に飛び去っていった。終わったのだと思うと、途端に全身の力が抜けた。しかし羽音だけは耳の奥に残っている。それはまだ細かく、非常に細かくて一つの巨大な金属じみた音だった。
小さな人影が路地に倒れていて、俺の前後には車も歩行者も居なかった。
あれが妖魔だったら。
襲われた人間が無事である確率は、低い。
襲われたのが妖魔である確率も、とても低い。
自転車から下りて、路地の中へ押していく事にした。
近づいてみると、中学生くらいの体格で、長い髪は肩に触れ、オーバーサイズの黄色いフードパーカーを羽織っていて、下にはズボンも、靴も、何も履いていなかった。そしてフードの下には女の子の顔があって、その頭には三角の大きな耳があった。カチューシャやヘッドホンに付いた飾りというわけでもない。猫みたいな耳が頭に直接付いて、もしくは生えている。
肩でも揺すってみようとして、おれは投げ出された手を見た。見てしまった。
手首が無く、その断面は紙が焼けたように黒く変色し、朽ちているようだった。
そしてその破壊は今も続いている。その腕が袖の中に完全に隠れると、その端から袖は平たく潰れていって、同時に両脚も瞬く間に縮んでいた。全身が薄くなって、消えていた。すぐに顔も判別できなくなったのは、空が暗くなったせいか、それが無くなったせいかも分からなかった。妖魔、だとしたら何なのだろう。どちらにしても、助けられる類の物ではなかった。
自転車を切り返し、サドルに跨って、逃げよう、と思いながら最後に振り返ってみた。
そこには何も無くて、そして肩に何か軽い物が伸し掛かった。
あまりにも軽い。
猫一匹ほどもない。生暖かい空気が漂い、膿のような匂いがした。
何かが、そこに居た。逃げなければと、咄嗟に踏み込んだ左足が空を掻いていた。両肩に鋭い物が食い込んで、転びそうになったおれの体が、その場に押さえ付けられる。振り払いたいけど、振り返りたくない、ただ体を揺らす事しか出来ないまま、今度は目が痛みだした。
砂が、入ったようだった。
しかし風なんて一つも吹いていないのだ。目を開けていられなくて、ハンドルにしがみついて固まっていると、首筋に何かが触れて、刺されたと思った瞬間、目の前が真っ暗になっていった。体重が無くなったような感覚で、このまま地面に倒れるかもしれない、と思った。
真っ暗な県道を、吸い寄せられるように南に向かって、おれは自転車を漕いでいた。
ふわふわと浮いているような感覚はまだ全身を包んでいる。
南の空には赤い天の川が見える。
星々の集まりは、空の中心で一際大きくなっていて、細い筋が放射状に広がっている。
閉塞感、まるで蜘蛛の巣の星座が全天を覆い尽くしているようだ。
それぞれの端は空の向こうまで伸びて、あるいはここで、地表に向かって落ちている。
その内の一つは、それこそ橋を一つ渡った向こうに落ちているように見えた。
おれが向かっている方角、ちょうど南の空の真下に。
足に風が当たって涼しいので、もしかしたらズボンを盗まれたのかもしれないけど、もうあと五分も掛からない距離を惜しむ気にもなれず、丸出しでも構わないと走り続けていた。体はずっと軽く、高熱が出た時のように全身の感覚が遠ざかっていた。ただペダルを漕いで、前に進んでいる感覚だけがあった。三叉路になっている所を過ぎて、やっと間違いに気付いた。
家から離れている。
このまま走ったところで、五分後も、一時間後も家に辿り着きはしない。
それでもこの浮遊感と、気怠さと、湿った風の心地よさを、止めたくはなかった。
崩落した箇所から高速道路に上がって、郊外を走り続けたくなった。まだ走れる車や自転車も拾えるかもしれない。徒歩でもいい。どこか遠い所に行って、そこで何をするか、何もしないかは、後で決めればいい事だ。ただ同じくらい家に帰りたいとも思っていた。汗ばんだ首元に触れる毛先が痛痒くて、それだけで色々な事が嫌になる。まだ市境も見えていないのだ。
家だったら引き返せばすぐだ。
迷いは一瞬も無かった。二車線を横切って、同じ道を、北に向かって走り出した。
北の空に天の川は見えない。帰り道でおれは何度も背後の空を振り返った。光の筋はその度に近づいたり遠ざかったりしているように見えた。三叉路を過ぎて、石畳の路地に入り、やっと自宅の門が見えて来たので、慣性でゆっくりと駐車スペースに入って、塀の内側に隠すように自転車を停めた。玄関は暗く、一階のリビングの、窓の奥だけがぼんやりと光っている。
昼間の天気が良かったからか、庭の発電機は動いていなかった。
地面に足を付いた時に、これも盗まれたらしい、靴を履いていない事に気付いた。
リュックサックを背負い、その重さに千鳥足を踏みながら、玄関の引き戸に手を掛けてみると、開かなかった。何度か引いてみる。鍵が掛かっているようだ。ポケットを探ろうと、そうだった、ポケットが無いのだ。横に手を伸ばして、そろそろインターホンに触れるかというところで、サンダルの擦れる音が聴こえた。錠が上がる音。サッシを引き摺る音が聴こえた。
祖母が隙間から顔を出した。「信ちゃん、帰ったの?」
「鍵無くした」喉が締まる。声が細くなる。「合鍵ってあったっけ?」
玄関を開け放して、祖母が外に出てきた。シャツに自殺したバンドマンの顔がプリントされていて、ズボンは足をタイトに締め付ける紫色のジャージだった。玄関に脱ぎっぱなしのサンダルは底が斜めに削れていて、履いていると少しずつ膝が内側に歪んでいきそうだった。祖母がここに移り住んだ四十数年前から、それらはずっと家に置いてあった。「どうしたの?」
「どうもしてないけど。なに……疲れてるから中入っていい?」
祖母は真っ白な髪を掻き上げて、おれの顔を覗き込んでいた。
深いシワの奥に老獪な視線が隠れていて、木人町の全ての人間がそうであるように、あらゆる物に懐疑の目を向けているようだった。胸の真ん中には、人間だから当然、心臓がある。ちょうどその位置に、青く光る炎のような物が揺らめいていた。うっかり手を伸ばしそうになって、おれは服の裾を握り締めた。なんだかそれが、簡単に奪い取れてしまいそうなのだ。
なんだかそれが、まるで人魂みたいだった。
「やっぱり信ちゃんだ。どうしたのその恰好、っていうか体……女の子?」
「体?」見下ろすと、真っ白な脛、腿、素足に尖った爪がある。
なぜかオーバーサイズの黄色いフードパーカーしか着ていない。
暗くてよく見えないが、普段よりも華奢に見える。少なくとも、百七十三センチメートルの七十九キログラムという体格には見えない。小太りの成人には見えない。「ああ、なんか猫みたいなのに噛まれたかも」ずっと喉が、痛みはしないのだけど、声が細い、というか高い。祖母が横に動いたので、おれは靴を脱ぎ散らかして家に上がった。後ろから裾を捲られた。
押さえて、祖母を見る。「なに、なに!」こんな事、された事がないのに。
「信ちゃん下何も履いてないよ。下着なんかあったかな、待って探して来るね」
祖母が階段を上がって行った。おれも後を追って階段を上ると、廊下の奥から祖母が戻って来た。「とりあえずこれ」と祖母が差し出したのは白いシャツと紺のブルマだった。「秋奈のがあるかと思ったら学校のこれしかなかったわ。制服と体操服。とりあえずこれ着てな。今ちょっと買って……お店はもう閉まってるか、近所の誰かに頼んで何枚か譲って貰うから」
また擦れ違って、祖母は引き止める間もなくさっさと出かけて行ってしまった。
部屋に戻って、リュックサックを床に放り投げ、シャツとズボンを床に広げてみた。
シャツは半袖で、薄くて丈夫な化繊の生地は、襟も袖口も含めて真っ白だった。
パンツは紺色で、ジャージ素材のウェストと脚口にキツくゴムが通してあった。パンツというか、ズボンというか、少なくともトランクスの上から履ける服ではない。とりあえずパーカーを脱いだ。違和感の正体は、全てだ。狭い肩幅、膨らんだ胸、細い手首。下腹部を、思わず手で探って、何も付いていない事を再確認した。どっちかなんて考えようとしなかった。
太ったり痩せたり、怪我をしたり元気だったりするくらいで、逐一確かめない。
それでも、これが自分だというラインは、良い悪いは置いといて、確かにある。
今は悪い方なのか……鏡なら、母の部屋にあったかもしれない。
段ボール箱に放り込まれていたスタンドミラーを持って来て、部屋の床に置いた。
覗き込むと、顔が全く変わっていた。
少なくとも西島信久の顔ではなくて、ちょうど巨頭の怪物に襲われていた、路地の女の子に似ていた。髪も伸びているし、声も変わるわけだ。間違った部分を暴力的に削ぎ落されたように、おれの体は別物になっていた。女みたいに。そして獣みたいに。黄色い瞳の、鋭い瞳孔と向き合うと、まるで猛獣に睨まれるような悪寒が走った。首の右側には四つの赤黒い点があって、これは噛まれた痕だったらしい。そんな事は今はいい。上から見えない物を見るには。
鏡の上に腰を下ろし、両脚を横に広げると、そこにもう一人の自分が現れるようだ。
それを見た事はない。
写真でも、映像でも、そして特に実物などは、見ようとした事さえ一度もなかった。
国数社の勉強以外は、移動図書館の本を回し読みして得た知識しかない。同級生が医学書か保健の教科書を見付けて、生々しい単語と簡素なイラストに、冗談を交えながら秘かに興奮していたものだ。そこから分かったのは、性別が違うという事は、違うという事くらいだ。
そして違っているというだけで、思いのほか不安を感じるという事だ。
毛の生えてない下腹部の、丸みと、足の付け根の腱の、内側の、襞の、内側の。
「信ちゃん、何してるの」
声を掛けられた瞬間、見られたという恐怖が湧き、おれは鏡の上に尻を落とした。
冷たい物が体の中心に触れて、限界まで細かくなった震えが脳天に這い上って来る。
「え、なに。帰って来たの」
素早く振り返ると、紙袋を抱えた祖母がやっぱりドアの所に立っていた。
人魂のような青い光を内奥に護持する、華奢で、小柄な、肉の鎧が祖母だ。
「今さっきね。はいこれ」祖母が床を滑らせた紙袋は部屋の真ん中で倒れ、中から色とりどりの下着が零れだした。光沢を抑えられた滑らかな質感は、淡い蛍光灯の下で秘密めいた存在感を放った。全てがレースで飾られ、全てが花柄であしらわれ、全てが使い込んだようにくたびれていた。「金丸の所行って、とりあえず上下三枚ずつ、ほとんど使ってないやつだって」
ほとんど。
おれが小学生の頃、金丸亜樹は、素行が良くない事で有名な近所のお姉さんだった。
それだけだ。
身長や体型については、今の自分と比べてどうだったかも、もう覚えていなかった。
「分かった。後で着るかも」
「先にお風呂入っちゃいな。あとね」と、祖母がポケットから紙片を取り出した。
広げるとA4くらいの大きさがあって、墨の文字で何か書かれている。
祖母はそれを、わざわざ部屋の壁に貼り付けて、ゆっくりと体を横にずらした。
「玄関に何か貼ってあったんだけど、これって信ちゃんの?」
「知らない。さっきは何も貼ってなかったけど」
紙にはこう書かれている。
『再戦/めんぼっこ/六月十七日・午前一時まで/残り一回』
「とにかく早く服着ちゃいな」と言って、祖母は一階に下りて行った。そう言われても。