人生には何の役にも立たない知識・思考をつらつらと書くエッセイ集
高齢の母親が、腎臓の検査で異常を指摘された話
傘寿(注)をとうに超えた母親が、腎臓の検査に引っかかった。
先日の血液検査の結果、カリウムという成分が異常に高くなっており、これは腎臓の機能が落ちてきたためだろうという事だった。
思えば、うちの母は働き者で一日中家にいない人だった。朝は新聞配達をし、それが終わったと思ったら家に帰ってきて朝ご飯と弁当を作り、子供を送り出すとまた仕事に出て、夜の8時9時まで働いていた。帰ってきたら晩御飯の用意だ。うちは父親が早くに死別したため、家計も家事もすべて母が一手にこなしていたのだった。
それだけ働くには体力、そしてそれを支えるエネルギーがいる。その点、わが母は非常な健啖家(注)で、学生の頃からかなりの大食いであったそうだ。戦後のあまり物のない時代に育った母はその旺盛な食欲を満たす為、その頃はパン屋が廃棄していた食パンの耳を大量に安く譲ってもらい、毎朝のご飯以外に1斤分のパンの耳を食べて学校に行っていたらしい。
そんな母は体もその時代の人間からすると相当大柄だ。食糧難だった戦後世代の身長は男性でも160cmそこそこである。その年代の中で、女性でありながら167cmの身長を誇っていた。その大きな体で朝から晩まで働き、食事は人並みの倍は食べて、我が家を支えていたのだった。
そんな母も、流石に無理がたたったのだろう。50歳ごろに腎臓結石の為に入院し、その際に腎臓に先天性の問題があることが分かったそうで、色々あって1カ月ほど入院した事を覚えている。
詳しい病状は子供の私にははっきり言わなかったので詳細は分からないが、母親の腎臓はそれ以来経過観察の扱いを受け、定期的に検査をしていたのだ。
そして先日ついにその体は、血液検査の数値異常という形で、腎臓の健康に対する懸念を示してきたのだった。
腎臓というものは、医学的にとても大切な臓器である。水分排出によって血圧を調整し、ナトリウムやカリウム、またタンパク質の代謝物である尿素といった色んな成分を体外に排出する。人間はこの機能によって不要かつ有害な物質を体から除去出来る。そしてこの臓器の機能が無くなれば、人は生きてはいけない。
母は高齢者である。ひとたび腎臓の機能が落ちだせば、あっという間に透析(注)になるかもしれない。寿命にも直結するだろう。
そんな息子の心配をよそに、うちの親はあっけらかんとしたもので
「塩分をなるべく取るなと言われてるから最近は薄味にしているのよ」
「タンパク質も腎臓に負担があるから、お肉や魚を沢山食べてはいけないらしいわ」
「果物やドライフルーツはカリウムが多いから、控えなさいって言われたわ。生野菜は水にさらしてカリウムを抜くんですって」
と、まるで他人事のように明るく語っていた。
(ちなみに親はバリバリの大阪弁だが、標準語に翻訳)
しかし、うちの親は先ほどのエピソードから分かるようにとても大食いで、もちろん食べる事が大好きである。そんな親が、医者から食べる事を制限されるという事は、おそらく本人もうれしくない事であるはずなのだ。
これからは好きな果物を買ってきてあげる事も憚られるし、外食して回転寿司にでも行こうか、などとという事さえ制限される。
今日は奮発してすき焼きを、という戦後世代の最大のご馳走さえ控えて生きなければいけない。
そういうところを見せずに明るくしている親を見ると、育ててもらった息子としては様々な感情が込み上げた。
だが、せっかく明るい親の前でそんな自分の気持ちを見せてはいけない。そう思いながら状況を色々と聞いてみたところ、なんでも1カ月後に再検査があるという。
そして、その時の数値で今後の治療方針が決まるそうだ。とにかくその検査の結果を待つほかはない。
――――――――――
そして運命の1カ月後。再検査の結果が示された。
…………結果は問題なし。数値も正常。
腎臓の機能は下がっていなかったという診断だった。
ほっとした。普段から健康な親のおかげで今まで気遣いが無かった私にとって、この1カ月はかなりのプレッシャーであった。
しかし、それにしても前回の検査の異常はいったい何だったのだろう。それについて話を聞いてみた。
「それがね、前の日に食べたぶどうパンが原因じゃないかって。私、前の夜におやつに食べたぶどうパンの事をお医者さんに言ってなかったの。でも、そんなのが検査に影響出るなんてねえ」
意外な答えである。
ぶどうパンは確かに、干しブドウつまりドライフルーツがたくさん入ってる。だからカリウムが多いと言われればそうだろう。
しかしながら、ぶどうパンを食べたくらいでそこまで検査の結果に影響するだろうか。それくらいで血液検査に異常が出るという事は、やはり腎臓にはそれなりに機能低下があるのではないか?
そんな疑問を投げかけてみた。
「あのね、血液検査の前日は、夜の9時から検査が終わるまで何も食べられないじゃない。だからお腹がすいちゃうと思って9時ギリギリにおやつでぶどうパンを食べたのよ。そしたらそれが凄く美味しくて。気づいたら“一斤″全部食べちゃってたの!」
…………………… 一斤の、ぶどうパン?
一斤って、切らない食パン固まり一個だよね? 8枚切りでいうと8枚、6枚切りでいうと6枚、4枚切りでいうと……いやそれはもういい。それを全部食べたって?
聞いてみると、お土産にもらったぶどう食パンをおやつに食べだしたところ、美味しくてつい完食してしまったらしい。ちなみに、そのぶどう食パンはレーズンがこれでもかとぎっしり入った、パンの部分よりレーズンの方が多くみえるほどのものだそうだ。
それを検査の前日の夜に、1斤まるまる食べたのだ。
しかも、晩ご飯の後の夜のおやつにである。
一斤の食パンぎっしりのレーズン。
スーパーで売っているレーズンの袋が大体400~500gくらいだ。パン一斤にたっぷりのレーズンなら、その袋1つ分くらいは入っているだろう。そして、レーズンは100グラムでカリウム700mgを含むそうだ。
だとすると、このぶどう食パン一斤は、カリウムを2800~3500mg含有する事になる。
ちなみに健康な女性のカリウムの“一日の”目標摂取量が2600mg。
わが母は、一日の食事全体で取るカリウム摂取量に当たる量を、たった1回のおやつで食べたのだ。
検査の数値に異常が出て当たり前である。
「夜の9時以降は飲食しないで下さい、ってのはちゃんと守ったのよ?」
……ああそうだろう。確かに医師の指示はきちんと守っている。
ただただ、あなたの食欲が我々の常識を超えていただけで。
とりあえず、わが母は今後も特に食事制限もなく、好きに食べてよいとのお墨付きをもらった。
果物も、寿司も、すき焼きも、ぶどうパンも、なんでも食べてよいのだ。
健啖家には最高の結果である。
高齢の母親が 腎臓の検査で異常を指摘された話。
それは彼女の異常な「食欲」を指摘された話だったのだった。
(注)傘寿
八十を漢数字で縦書きすると傘の字に似ている事から、80歳を傘寿という。
60歳を指して還暦は有名だが、その他にも70歳は杜甫の「人生七十古来稀なり」の詩文から古希、77歳は喜の文字の草書が七十七に見える事から喜寿、88歳は八十八を縦書きすると米に見える事から米寿、90歳は九十を縦書きすると卒の略字に似ているから卒寿、99歳は百の字から一を取って白寿という。
でも、もう70歳は“稀なり”じゃないよね。
(注)健啖家
大食い。食欲の旺盛な人。好き嫌いなく何でも食べる人の事。
大食いは自称が多いわりに、定義があいまいな言葉である。
プロフードファイターは10分間でホットドッグを50個以上食べたり、カレー6キロを10分で食べたりする。
一方、子供茶碗に入ったかわいいご飯を食べて「私、大食いねって言われるのよ」と宣う方もいらっしゃる。
筆者は1300gカレーを2度食べきった事があるが、けして大食いではない。普通である。
友人たちにそのように言うと、「はいはい、分かった分かった。ネタはもう良いから」などと言われてしまった。心外だ。
(注)透析
腎臓の機能を失った場合に、その機能の代わりに専用の機械によって体内の水分および老廃物をろ過排出する医療行為の事。
この透析という処置は最低週3回、1回4~5時間をかけて行われる。よって透析患者は相当の生活制限と行動制限を受けて生きていくことになる。これは大変につらい事だ。
わが友は現在この透析をしているのだが、この空き時間にひたすらアマ○ンプライムビデオを見ているとか。だが見たいものが無くなってきたので、そろそろネッ○フリックス加入を考えているらしい。実に幸せそうである。