神樹幻想秘話 九目の赫
神樹神話体系異伝-幻想秘話-1作目
神話体系編に比べると、時代が全然違うため、神話では無く幻想秘話といたしました。神話体系との話の繋がりは特にないため、別物として読んでいただいて大丈夫です。
嗤いながら、あれは僕を見ていた。
逃げ出すしかなかった。
絶望的な光景の中で、こちらをジッと見る紅い一ツ目がひどく印象に残る。
本来は僕が行くべき場所に、まるで散歩にでも行くかのような気軽さでそれは登っていく、僕が味わった絶望を重みとも思わぬ足取りで。
ちりんっ
鈴が鳴った。
それが握る黒い杖。その先に鎖で縛られた大きな鈴がちりんちりんと音を奏でる。
山を閉める九つの門。
その門を開け放ち、どこまでも軽い足取りで、へたりこみ地に座る僕の耳に、いつまでも鈴の音が響き続けていた。
「起きたか」
耳に心地よい重低音に目が覚める。
目を向けると、朝日に目を眇める見覚えのある仏頂面が、僕を睨みつけていた。
「叔父さん」
「お前、山門の前で倒れていたらしいぞ、山に入るとは聞いていなかったが」
「クチナワさまの封印の点検だよ、いつも通り見て回るだけの予定だったんだけど」
「不備が?」
「うん、第九の結界に揺らぎが見えたから、近くまで寄ったんだ」
「それで…?」
「引きずり込まれた」
「……よく、生きていたな」
重く胸の内に残る淀みを吐き出すように、大きな息を吐き出して、叔父は頭を抱えるようなポーズを取る。
「何かが来たんだ、それに引きずり出された」
人のようでもあった、黒い霜のようでもあった、よくわからない何か。
しかし、闇の中で輝く紅い一ツ目がやけに印象に残っている。
一本一本山門を触り、懐かしむように歩くそれに襟首をつかまれ引きずり出された。それがなければ、向こう側で喰われていたか、すでに朽ちていてもおかしくない。
「何か?あの向こうに入ったというのか」
「いや、違うと思う、あれは入りに来たんじゃない」
知らず知らずのうちに、声が震えていた。
悍ましいほどの何かを纏って、それでも人のような形をしたまま、あれは気まぐれに向こう側からやってきた。
「向こう側から出て来たんだ」
「向こう側だと…、管理者、いや代行者か」
「わからない、でもまともなものじゃ無いのは確かだと思う」
「今代の代行者共がまともな連中ではないというのは、協会の総意だ。封印にかまけて外に出てこない本家連中の耳には入っていないかもしれないがな」
ただでさえ呪家は嫌われ者なのにな、と叔父さんは顔の皺を苦笑いでさらに深く刻んだ。
表の管理を司る陰陽家、裏の管理を司る呪家。
似てるように見えて果てしなく乖離している二つのあり方、当家は呪家に属する家柄であり九門と呼ばれる古き封印を管理する一族である
その陰陽家と呪家を統括する組織を協会と呼び、叔父はそこに属しているフリーの呪術士という立場になる。
「当代の代理者が結託して,協会の管理外で何を企んでいるというのは、有名な話だからな。
その領域に九門が被ったのか、下見のつもりか知らんが気まぐれにもぐりこんだのだろうさ」
叔父の言葉には一定の説得力があった。
しかし、腑に落ちない点もある、代行者と呼ばれたそれは嗤っていた。
怒り、悲しみ、驚き、郷愁、それらのありとあらゆる感情を綯交ぜにして、結果として嗤っていた。
一本一本、慈しむように山門振れ、懐かしむように歩いてきた。
―――向こう側から。
そして、僕を掴みこちらの狭間まで歩いてきた。
「もう、こちらに来てはいけないよ?」
意識を失う直前。
確かに鈴の音以外に、そんな声が聞こえた気がした。
また、眠りについた姪の姿を視界に収め、部屋を後にする。
…気が付かれた。
湧き出す焦りを押しとどめる。
それでも、冷静さを胸にやるべきことをなさねばならない。
奴らを利用してでも、目的を果たさなければならない。
胸元を握るとごつごつと粗く削られた球体が手を押し返す、哀れな姪を救ってやろうなどと驕るつもりはないが、奴らはそれらの驕りすら己の願いとして当たり前にかなえてしまう化け物どもだ、それらを騙し欺くのだ。
己自身も、同じくらいの驕りを胸に抱かねばかなえられない願いであろう。
「なんだ、お前か、今更なんの用だ」
「別に、倒れた姪の様子を見に来ただけだ」
「…ふん。贄などに情を移すとは、お前も暇な奴だな」
血を分けた己の娘を贄としか見ることのできない人でなしには、返事を返すことなく、本家の戸を潜る。
そこで、ふと思う。
自らの娘を贄とほざくこの家と、気まぐれながらその娘をクチナワの餌にならぬように連れ帰す人外、果たしてどちらが人でなしなのかと。
「くくっ、むしろ奴らの思いに縋った方が成功するかもしれないな」
狂った化け物どもではあるが、古い者共の狂気に近い信念は時に人の情よりも重く深く奴らを突き動かす。
ならば、その信念をついてやればよい。
己のすべてをかけて。
狙うは邪神の一柱。
あのクチナワと同じ呪を持つ狂った神へ、願いを届けねばいけない。
あれから一週間が過ぎた。
準備は整い、決行の時は来た。
昨夜から、慌てたように動きが活発になった気配を感じる、奴らも存外動きが遅いのか、それとも…。
多分だが、九門を潜れば俺自身も補足される。
すでにこの一週間で、九門の結界は奴に喰い潰される様に塗りつぶされ始めている。
一歩。足を踏み出した。
速い、補足された。
奴に捕まる前に九門を潜らねばならない。
紅い目が二つこちらを睥睨していた。
奴は、結界を喰らうどころかクチナワ本体を取り込み始めているらしい。
「化け物め…」
改めて、その異常性を認識する。
周りを見れば領域内も様変わりしていた、無機質な岩場であった参道は色取り取りの花が咲き乱れ花弁を散らしていた。
「結界を壊さずに、新たな結界で塗りつぶすか、つくづく化け物だと実感するな」
規則性を持って吹きすさぶ花弁はその一つ一つが、結界の根幹を成す。
むくりむくり。
朱い単眼が、頭を上げる。
シュルシュルと瘴気を吐き出しながら単眼のクチナワが侵入者を睥睨する。
だが攻撃はしてこない。
いまだ血の盟約までは書き換えられていないようだ。
しかし、間違いなく見られた、補足された。
現に異形な九つの首がゆっくりとその身を起こしている。
単眼のへび。
九つの首を持つ大蛇。
世に謳われたヤマタノオロチとはまた違う、九つの頭を持つ単眼異形のクチナワ。
ガパリッと口が開いた。
何もない空間に人の口を思わせる唇が開いた。
盟約か、それとも結界の綻びか、思えば血族であるはずの姪も引きずり込まれたといっていた。
単眼の化け物に。
「…呼ばれたか」
しかし、今は思考する間もなく急がねばならない。
あれはすぐそばまで迫っている。
ちりん
鈴の音が聞こえた―――。
「万全の準備をしろと言づけたはずなのだがな―――」
怖気が走った。
異形を見ても感じなかった怖気が、鈴の音と共に背筋を駆け上る。
何故それは人型を保っていられるのだろうか。
闇を煮詰めたよりも黒く深く、鈴を取り付けた黒い杖を突く。
それを握る手は人のように見え、冒涜的までに悍ましい。
異形となり果てたモノを悍ましいと思ったことは何度もあるが、これだけ深みに存在しながらなおも人型を保っていることこそが何よりも悍ましいのだと、この時初めて理解した。
「ふむ、気軽に触れたか…、いや、似たような気配がするな」
ちりん、ちりんと音が鳴る。
理解する。
これは、深みに生きるもの、呪を扱う生業とする者たちの天敵であるモノ。
何しろ、これの存在したいが呪いそのもの、呪いと共に生きるもの。
「前に、踏み入れた者に近い匂い…、しかし、間違いなくこちら側の匂い、呪家か」
まずい。
一気に門に向かって足を踏み出した。
幸いなことに奴は視力が無いらしい、聴力もほとんど無いようだ。
多分持つのは、微かな嗅覚と最も最悪な―――。
「ふむ、いたな?」
六感だけで、すべてを掌握する化け物だ。
空間の歪み、歪。
足音ではなく揺れ動く境界を把握して、奴は杖を振るう。
ちりん
聖堂に響く鐘の音よりも軽く、しかして重く。その音は響いた。
ガラスを叩くような澄んだ音が、領域を揺らす。
音ではなく、己の感覚のままに領域の異常を察知する、最も最悪なタイプの異形。
あの音は、己の感覚器官を拡張するための小細工に過ぎない。
「―――見つけた」
ずんと空間が揺れた。
ありえない。
これだけ干渉しておきながら、奴自身は境界の向こう側から手を伸ばしていたにすぎない。
その手から迸る鎖が、領域の界を突き抜けて天から走り我が身を縛っていた。
ちりん
その先には鈴が一つ。
クチナワの頭のように揺れ、赤い組紐が単眼のようにゆらりと焔を纏った。
「けがは無いか…?」
戯れのように摘み上げ、飽きれば捨てる、それは間違いなく理の外れた、理外のモノの在り方に違いない。
今も、まるで人のように、心配するような素振りをする。
人のように嗤い、人のように哭き、人のように熾る。
人の不離をする、魔外もの。
それを決して信じてはいけない、それを決して仰いではいけない。
目を奪われるな。
語りかけるな。
耳を傾けるな。
一方的に、己の驕りのみを叩きつけて――――。
「…ふむ、あれは、息災か?」
無理であった。無謀であった。
理外のモノに己の意思だけを叩きつけよう、その思いすらも、戯れ程度の意志の欠片に飲み込まれてしまう。
それほどに、圧倒的な存在の差が、微かな抵抗すら許さず奪い取ってしまう。
目を合わせるな。微かな抵抗だ。
口を開くな。無駄な抗いだ。
きくなみるなわらうなはすなしゃべるななくなおこるな――――。
「準備は出来たか」
圧倒的な絶望が、舞い降りた。
理外のモノ、それに並ぶ、破界の人。
巫女のようにも見える白紋付、顔を隠す狐の白面。クチナワを喰らう理外のモノと並び立つ其れには、おおよそ人らしさが欠けている。
人の不離をする魔外ものと、人の為りをした人出無し。
いったいどっちがましなのであろうか―――。
ことここに至っては、出来ることは逃げる事のみ、全力で、生涯をかけて、他者を、人を世界を欺き騙し逃げるのみ。
機嫌が良かったのか、はたまた、興味が無かったのか。
全力をかけて、全精力をかけて、姪を連れ、本家の敷居を潜っても追うものなし。
なんで、どうして、と首を傾げる姪には一言。
「心配する必要は無い」
と、だけ告げた。
あの日あの場にて、九門は、その結界の役目を終えたのごとく、その在り方から砕け散り、そして、九の頭を持つクチナワはその体を消した。
一門を蝕む呪いすらも、綺麗に消え去り、ただの人のように、残りの人生を生きれとばかりに、それを知らぬ少女の目の前に、現実だけが残された。
あの日何があったのか、それをこれ以上語るすべは持たず。
二度と口を開くことも無い。
ただ、あの化け物はいつも見ている、それだけはわかる―――。
今も、目を瞑れば、瞼の裏には、あの一つ目の焔がチラチラと光を放っている。
壱ッ、弐ッ、参ッ、肆ッ、伍ッ、陸ッ、漆ッ、捌ッ――――。
『―――玖ッ』
―――九目ノ赫―――