海原慶次・前世の記録 ~海へ還った山椒魚~
これを15話と言っていいものかと思ったので、番外編的な括りにしようと思います。なのでこのお話は飛ばしてもストーリーにさほど関係ありません。
でも是非読んでね!
潮風が頬を撫で、日差しが肌に刺さる。
「……さて」
軽く身体をほぐした後、助走をつけて青い海に飛び込む。
やはり、海は良い。
「っぷは! ははっ! やっぱ気持ち良い!」
高校二年生の夏休みに入って数日が経った。課題は最初の3日くらいで済ませたので、後は思いっきり駆け回るだけ。
そういえば、去年もこんな過ごし方だったような気がする。いや、それより前、中学の時も。
曇りの日も、雨の日も、びゅんびゅん風が吹く日も。俺はこの海に来たいと思う欲求を止める事は無く、変わらない日々の中を、俺は泳いでいた。
別に退屈というわけではなかった。泳いで、釣りをして、おいしいものを食べて、友達と遊んだりして。
でも、ほんのちょっとだけ、何かが足りなかったような気がして。
そんな時だった。俺の世界がひっくり返ったのは。
「……あ」
「ん?」
海から上がり、そろそろ昼食にするべくパラソルを立てると、鬱蒼とした森の中から、女の子の声が聞こえてくる。
その声の主はパラソルの下で涼んでいる俺を見て固まっており、何も言わないでいる。
「えっと……どうしたんですか?」
そんな少女を見て、俺も困惑を隠せないでいた。
この砂浜は昔偶然見つけた穴場であり、人里離れた林道をどんどん分け入ってやっとたどり着くような場所だ。何年も通っているが、覚えている限りでは俺の友達意外がこの場所に来たことは一度もない。
初めての身内以外の来訪者。更にこの少女は誰が見ても華奢で小柄と言うような容姿で、履物こそサンダルだが、まるで人形が着ているかのような、高級感のあるフリルのあしらわれた黒と白のワンピースを着ており、到底ここへ来るような身なりには見えない。
何か訳ありなのだろうかと思い、その子の返答を待つ。
「あ、えっと、道に迷ってしまって……気が付いたらここに」
「道に……って、大変じゃないですか。荷物も持っていないようだし、どれぐらい歩き回ったんですか?」
「1時間ほど……です」
「そんな! 水分補給はしましたか? スポーツドリンクで良ければ持ってきてますので、飲んでください」
「! あ、ありがとうございます!」
急ぎ足で駆け寄って来る彼女に渡すべく、クーラーボックスから冷えた飲み物を取り出し、蓋を開けてパラソルの下まで来た少女に渡す。
「んぐっ……ん……ぷは…………本当に、ありがとうございます!」
「いえいえ、あぁでも、ゆっくり飲まないと、お腹壊しちゃうかもですよ」
よほど喉が渇いていたのだろう。500mlペットボトルの半分まで一気飲みした少女が、改めて礼を言う。
その顔をよく見ると、額には汗が滲んでいて、艶のある明るい茶髪は、所々が乱れている。
今日の最高気温は40℃。水分を持たず出歩いていては命に関わるほどの猛暑日だ。
そんな中1時間も歩いていたこの子は、一刻も早く水分を摂らなければならない状況だっただろう。
「それで……道に迷ったって言ってましたけど、俺で良ければ町まで案内しましょうか」
「ほ、本当ですか!? ぜひ! お願いします!」
既に飲み干し、空になったペットボトルを握り締めながら、前のめりになって詰め寄って来る少女に困惑しつつ、荷物を片付けて撤収の準備を済ませる。
「とりあえず、道に出ましょうか。えっと……」
「あ、そう言えば自己紹介がまだでした。私は岩沖笑流と申します。この度は助けていただき、本当にありがとうございます」
そう言い、軽くお辞儀をする彼女の姿は、その気品を感じる服装も相まって、どこか高貴なお家柄のお嬢様然としたものだった。
「どういたしまして。俺は海原慶次。備瀬西高の二年生です」
「ま、備瀬西なら、私の後輩じゃないですか」
「え? 先輩!?」
ずっと年下だと思ってた。この子……いや、この人の背丈は下手したら俺の妹より低いのではないだろうか。妹中三なんだけど……えぇ?
そんな驚愕の事実を踏まえつつ、二人の自己紹介がやっと完了した。
それからは特にトラブルもなく、人の作った道に出た。途中岩沖さんが派手にすっ転んでスカートがめくれ上がるという事件もあったのだが、後頭部を打ちそうになったのでそれどころじゃなかった。とっさに守れたはいいものの、この人は一体何度命の危機に瀕しているのだろうか。
「わ、この道に出てくるんですね……」
「はい、結構学校から近いですけど、以外と見つからないんですよね、あの場所」
学校の裏にある山を少し上った道路沿いの林から出て来た俺たちは、学校の方へと歩きながら会話を続ける。
「あの道を嬉々として進む人はなかなかいないんじゃないでしょうか……」
なるほど、だから俺の友達もだんだん来なくなったのか。
そんな真実に思い至り、少しメランコリックな俺だったが、肩に触れる小さな感覚で、意識が現実に引き戻される。
「海原くん、携帯電話……借してもらえませんか?」
「いいですよ。誰かに迎えに来てもらうんですか?」
「はい、学校まで迎えに来てもらおうかと。ふふ、びっくりされちゃうかもですね」
「迷った場所が結構離れてますから、そりゃあびっくりするでしょうね」
岩沖さんが覚えている場所は、ここから数キロ離れた山中の病院。
なんでも病院から帰る時に、バス停付近の道で足を滑らせて山の中に転げ落ちたのだそう。この人にとって、今日は途方もない厄日だ。こうして安全な場所に着地できて本当に良かった。
「はい……はい。ありがとうございます。急いで行く、と言っていました。あと、すっごく驚いてました」
「そりゃあ……まぁそうでしょうね」
学園の校門近くの日陰で待つこと十数分。普段見ることのないような黒い高級車が俺たちの前に停まった。
そして中から慌てて飛び出したのは、ぴしっとしたスーツを着こなした若い女性だった。
「笑流ぅぅぅううううううう!!!!」
「ちょっ! お母さ――ぐはぁっ!!!」
車から出た瞬間、涙を流しながらその女性は岩沖さんの元へと飛び込んだ。
これは所謂感動の再会と言う奴なのだろうが、どうも攻撃力が高すぎて片想いの感動の再会となっている。おそらくこの人が岩沖さんのお母さんなのだろうが、娘さんぐはぁ言うてましたけど……
「ぐずっ……うぅ…………で、あなただれぇぇ……ぐず…………」
「まず泣き止んでよお母さん! あと離して!」
その後、何とか冷静さを取り戻したお母さんに一連の流れを説明して、謝罪と感謝を受け取った後、岩沖さん達は車へと乗り込んだ。そして窓から顔を覗かせ、会った時とは似ても似つかない程元気な声で俺に言葉を投げかける。
「私の連絡先、海原くんの携帯に登録しておきましたから! このお礼はまた後日、必ず連絡しますから!!」
「え」
確認してみると、確かに『える』という連絡先が追加されていた。
さっき借した時か……全然気づかなかった。
「それでは! お元気で―!」
「そっちこそ、もう迷わないようにしてくださいねー!!」
彼女らを乗せ、去っていく車に手を振りながら、改めて彼女のことを思う。
道に迷って、彷徨って彷徨って、あの場所にたどり着いた……って、すげえ出会いだな。とか、
あの車……すごい高そうだったな……立ち振る舞いと言い服装と言い、本当にお嬢様的な人なのだろうか。とか、
病院に何をしに行ったのだろう。とか、
尽きぬ疑問と彼女への興味を抱えながら、俺は帰路についた。
これが、岩沖笑流との出会い。
そして同時に、新たな人生との出会いでもあった――。
8月12日 晴れ
岩沖さんと知り合って2週間ほど経った。もう互いの人となりはある程度把握しており、良い友人関係を築けている。口調も随分打ち解けて来て、向こうの敬語は完全に取れてしまった。
岩沖さんの母は大手企業の社長であり、若くして財政界に強い発言力を持つ人物として有名なのだそう。そしてそんな人の娘なので、岩沖さんは本物のお嬢様だったようだ。
しかしお嬢様である以前に、お転婆な性格が突き抜けており、あれから何度か俺たちの出会った場所に足を運んでいる。というか一人で泳いでたら大体来る。お弁当とかカメラとか持って来る。
ただし、海に入るようなことはしなかった。どうも彼女は泳ぎがてんでダメで、すぐにぶくぶくと沈んでいくのだそう。なんとも難儀な暮らしだ。ここらの学校はプールの授業が無いところがほとんどなので、泳ぎをマスターしようとしたら海に入るかスイミングスクールに行くしかない。
でも、あの場所は大きな魚も多い。釣りは楽しんでもらえた。
8月16日 晴れ
あのお転婆お嬢様め。今になって課題を始めようというのだ。それだけならまだしも、俺に手伝ってくださいと言い出す始末。下級生だぞ俺は。成績は悪くないようだし真面目に授業は受けていると聞いたが、ずいぶん面倒くさがりな性格なようだ。
ともあれ、俺は彼女の家に招待された。
それで行ってみた感想なのだが、あれは家じゃない。インターホンを押してから何分歩いたことか。ト〇ースタークが住んでいるのかと思った。
生まれて初めて入った妹以外の女の子の部屋は新鮮で、どこか落ち着かなかった。
結局、岩沖さんの宿題は全然進まず、置いてあったゲームの魔力には逆らえなかった。岩沖さん……スマブラすごい強かった……
でも、楽しかった。
友達と遊んだだけのはずなのに、今まで感じたことのない時間だった。
8月24日 晴れ
通学路に新しくできた喫茶店があるらしい。
トークアプリの通知が鳴ったかと思えば、そんな文面が彼女から送られて来ていた。全てを察した俺は、いつ行くんですか? と聞いてみた。
それと同時だった。我が家の前から俺の名前を呼ぶ声が聞こえたのは。
全く、あの人の行動力には毎回驚かされる。見習いたいとは思わないが、尊敬に値する。
玄関の扉を開けると、案の定岩沖さんが立っていた。
いつもの着飾ったワンピースとは違い、動きやすそうな服装に身を包んだ彼女は、にこやかな笑顔を浮かべながら見覚えのある自転車の荷台に跨っていた。いやそれ俺の。
どうもこのお方は二人乗りをご所望らしい。荷台にはクッションが括りつけられていて、準備は万端のようだ。
結局、俺は振り回されるままに、件の喫茶店へとペダルを漕いだ。
まぁ、喫茶店で食べた昼食はおいしかったし、二人乗りで風を切るのも楽しかった。
そして我が家に戻ると、友達の家から帰って来た妹とエンカウントした。
岩沖さんのことは妹には話していなかったので、我が妹はいきなり美少女と二人乗りで帰って来た兄に大層驚いていた。岩沖さんははじめまして! と元気に挨拶するが、妹の返答があたふたしていたことは覚えている。
案の定、恋人同士だと誤解されたが、普通に否定しておいた。俺たちはただの友達。1歳違うだけのただの友達。
ただの……友達だと。
8月30日 晴れ
夏休みももうすぐ終わるというのに、シャーペン片手に机に向かっている岩沖さんの姿を見ながら、俺はため息をついた。
結局終盤まで課題は終わらずにいたが、今解いているページで全課題が終了だ。
そしてカリカリと走らせていたペンを置いた岩沖さんが、そっとページを閉じるや否や、俺の手を取って部屋を飛び出した。
この人の行動には随分と振り回されているが、さすがにもう慣れて来た。俺が何か言う前に手を取って走り出すのは何度も経験済みだ。本当にお転婆お嬢様という言葉がよく似合う人だ。
そうして俺の家を飛び出し、すっかりクッションが定着してしまった自転車の荷台に跨った岩沖さんが、ぽんぽん、とサドルを叩いて、あそこに行こう! とうきうきしながら言った。
俺とこの人の出会った場所。あの穴場は、俺たちの中では既に集会場所として定着している。林道を突き進む岩沖さんの動きも洗練されてきて、もう俺の先導無しでもすいすい進むようになった。
二人乗りで道を進む際に聞いたが、課題が終わったら、どうしても俺とあの穴場で釣りがしたかったらしい。
あの場所は大きい魚も多い。彼女のお気に入りの釣りスポットなのだろう。
8月31日 曇り
夏休み最終日。
しかし、岩沖さんからの連絡は『また学校で会おうね』という短い文だけだった。
期待していなかったと言えば嘘になる。でも、別に約束していたわけでもない。『はい、また学校で』とだけ返して、スマホをベッドに放り投げる。
昨日あんなに遊んだじゃないか。それなのに、俺は何を悩んでいるんだ?
こんな時は海に行って泳ごうか?
あぁ、今日は曇りか。
なら……やめておこうか。
9月1日 雨のち晴れ
今日は始業式。
授業は無く、早めに学校が終わった。
久々に会う友達は特に変わっておらず、強いて言えば皆肌が黒く焼けたぐらいか。
俺は「年中泳ぎまくってるからあんまり変わってないな」と言われたが、俺ほど夏休みで変わった人間もそういないだろう。
学校が終わっても、俺は帰りたくなくて、意味もなく他学年のクラスのある階を歩いてみたりもした。
既に人気の無い廊下を歩いて、一つの教室を覗いてみる。
あぁ、誰もいない。
……帰ろうか。
× × ×
「……」
何をやっているんだ、と、帰路につきながら自分を見つめ直す。
俺が帰らなかったのは、明確な目的があったからだ。夏休み、ほぼ毎日欠かさず出会っていた人と会いたかったから。かけがえのない友人に会いたかったから。
でも、それならなんで、こんなにも胸がざわつくんだ。
どんよりとした泥が心に溜まり、俺の脚を鈍らせる。
「……?」
そんな俺の耳に、スマホの通知が届く。
表示されていたメッセージの差出人は、『える』
「!」
すぐに通知をタッチし、トーク画面を開く。
まず最初に目についたのは、一枚の写真。
「………………は?」
白い背景に、真っ白なベッド。
病院のベッドに横たわる彼女の写真と共に、『学校行けなくてごめんね! あと、ちょっとだけお話したいことがあるから、今から来れる?』と、気楽な文章がくっついていた。
心の泥は、更に濁って。
その日、何日ぶりかわからない、雨が降った。
× × ×
病室の扉を開け、静かに窓の外を見る彼女が、ゆっくりと俺の方へと向き直る。
「こんにちは、海原くん。何日か会ってないだけなのに、ずいぶん久しぶりに感じるね」
「……そう、ですね」
会えない辛さよりも、今こうして会った時の辛さの方がずっと痛い。
「えっと、まず、何か怪我でもしたんですか?」
「あぁ、これね。特に怪我ってわけじゃないよ」
「じゃあ、病気……ですか?」
いつも元気で活発な彼女は、重々しく頷いた。
「うん、そうなんだ」
「話したいことって……このことですか」
「……うん」
それから岩沖さんは、ゆっくりと語り始めた。
「私ね、ずっと前から病気にかかってて……定期的にこうして入院してるんだ」
「ずっと前からって……治らないんですか?」
「うん、治らない。多分、お酒も飲めないまま死んじゃうと思う」
「……は? いや、え?」
さらっと言う彼女についていけず、困惑を帯びた言葉が口から漏れる。
ある程度予想はしていたのか、そんな俺の様子を見ても、岩沖さんは話を続ける。
「ごめんね、今まで黙ってて。私――」
「なんで……」
「え?」
考えるより先に、口が動いた。
「なんで……そんな風に笑っていられるんですか」
「……受け入れてるから、かな。海原くんと出会う前から、とっくに私は受け入れてる」
目線を落としてそう言う彼女に普段の面影はなく、ごくごく自然な口調で、弱い彼女がそこに居た。
「……でもね、あの時、君に出会ってから、私はすっごく楽しかった。今までの人生の楽しいところ束ねても足りないくらい、この夏は楽しかった」
「やめてください。これじゃまるで、お別れみたいだ」
「みたい、じゃなくて、本当にお別れすることになるかもね。私は長くは生きられない。そんな私と深くかかわるなんて、やめた方がいいよ」
「……」
「最高の思い出を、ありがとう。海原くん」
「……はは、よかった。やっぱり、あなたはあなただ」
「えっと? それはどういう……」
「俺が何か言う前に、突っ走っていく。今だってそうじゃないですか。俺の意見なんか聞きやしない。ずっと振り回されてばっかりだ」
「そ、それとこれとは話が違うんじゃないかなぁ?」
真面目ぶった彼女の表情は崩れ、俺のよく知る岩沖笑流へと戻る。
俺は言葉を紡ぎ、思いをただ連ねる。
「病気で死ぬ? 関係ない。楽しい思い出? そんなもん、これからも作ればいい。今までさんざん振り回されて来たんだ。どんな理不尽でも受け入れられるようになったんだよ、俺は」
「え……えっと……」
「岩沖さん……いや、笑流さん。俺を、生涯あなたのそばに居させてくれ」
「っ! い、意味わかって言ってるのかなぁ! それ! こ、こここ、告白じゃないかなぁ!?」
「あぁ、一世一代の大告白だ」
「そんな! その……き、君が、そんな強引な人だとは思わなかったよ!」
「あなたに惚れてるってこと、やっと今気付いたんだ。これが人を好きになるって気持ちなんだって思うと、もういろいろ吹っ切れてさ、多少強引になっても仕方ないだろう? それに、あなたにだけは強引って言われたくないな! 何度有無を言わさず自転車漕がされたことか!!」
「うぐっ……ぐぬぬ……」
下唇を噛み、真っ赤に染まった顔をふいっと窓の方へ向ける笑流さん。
しかし窓に自分の醜態が反射してしまったのか、今度は真正面に体を戻して布団に顔をうずめる。
一連の動作に笑みがこみ上げるが、構わず彼女に言葉をかける。
「俺はさ、海が好きなんだ。何をやっても楽しくて、嫌な事なんて吹き飛ばしてくれるから。俺は、その海にあなたがいて欲しいと思った。また一緒に釣りして、おいしいものを食べて……そうやって、あなたと暮らしたい」
「~~!」
「俺を選べよ。笑流さん。また一緒に、思い出を作りに行こうよ」
「~~~!! ……ははっ、ははははは……っ」
顔を上げず、嗚咽交じりの涙ぐんだ声で笑う彼女のそばに立つと、その手が何かに縋るように、俺の腰を抱く。
そして顔を上げないまま、俺の腹に顔をうずめた。
「……嘘じゃないんだよね?」
「あぁ、嘘じゃない」
「私が死ぬまで、そばに居てくれるんだよね……?」
「最後まで、ずっと一緒にいるよ」
「……ずるいよ。君は」
「あなたこそ、こんなに好きにさせておいて、今更さよならなんて、ずる過ぎるでしょ。それとも、そんなに俺が嫌だった?」
「うぅん、嫌じゃない……嫌じゃない……! 助けてもらったあの日から、ずっと君の顔が頭から離れない……どうしようもなく……君が好き」
未だ離れない彼女をそっと抱き寄せ、その小柄な体を包むようにして抱擁を返す。
「俺の、恋人になってくれないか。笑流さん」
「――うん、慶次くん」
顔を上げた彼女の目は真っ赤に腫れていて、儚げな表情を浮かべている。
瞳を閉じて顔を寄せ、震える唇にそっと重ねる。
これは契約だ。俺はこの人を、一生分幸せにする義務がある。
いつか、死が二人を別つその日まで。
12月25日 雪 岩沖邸
全く驚いた。あのお嬢様はサンタさんの存在を信じているようだ。
明華さんと達明さん曰く、クリスマスの夜にうきうきしてサンタさんを待ち構えるものの、途中で寝落ちしてしまう笑流さんが可愛すぎて、なかなか言い出せなかったのだそう。両親としてそれはどうなのかと思うけど、その様子が気になってしまってサンタさんの正体を教えない俺は何も言えない。同類なのだ。サンタさんはいるのだ。
笑流さんの家で行われたクリスマスパーティーの後、あの人は部屋に俺を呼んで、対サンタさん迎撃部隊なるものを結成した。
さすがに達明さんを迎撃するわけにはいかない。しかしこのお嬢様は虫取り網を持って準備万端だ。どうするかと困っていた俺だったが、このお嬢様は日付が変わるまでに眠りについてしまった。
すやすやと幸せそうに眠る笑流さんは「神妙にお縄につけぇい……」と、夢の中でもサンタさんを迎え撃っているようで、思わず笑ってしまった。
やることなすこと面白い。全く、この人といると退屈しないな。
2月14日 晴れ 通学路
登校時、笑流さんからチョコを貰った。本命と書いてある。
わーい本命だー始めてもらったーと素直にはしゃげたらよかったのだが、肝心のチョコがどう見ても市販の板チョコだ。
バレンタインは頑張って作るね! と意気込んでいたのに、この仕打ちはあんまりじゃないか。
そう思っていたのだが、なにやら笑流さんは俺の反応を見て楽しんでいるようだ。
事情を聞くと、実にこの人らしい理由だった。
なんでもこのチョコは紛うことなき手作りであり、極限まで形を市販の板チョコに似せたものなのだという。
よく見てみると微妙に模様が歪んでいるが、本当によく見てみないと気づかない。
しかし再現度はまだまだだな。
市販のチョコが、こんなに美味しいわけがないのだから。
3月15日 曇り 病院
昨日は検査のため会えなかったので、今日ホワイトデーのお返しをした。
喜んではもらえたが、心配になってしまう。
あくまで検査のための入院なので、岩沖さんはいつも通りの元気だ。
明日には退院する。また楽しい思い出を作るんだ。だから、俺はまだ目を向けない。
5月7日 曇り 出会った場所
ゴールデンウィークが終わり、お見舞いに行ける時間が減った。
学校が終わって、ここに来て、ひまわりの芽に水をやる。
そして自転車を漕いで病院まで行って、ベッドで静かに本を読む彼女の元へと還る。
変わっていく。何もかも。
足音が聞こえる。近づいている。
俺は、まだ逃げる。
7月21日 雨 病院
4月辺りに二人で植えて、立派に咲いたひまわりの写真を見せると、笑流さんは瘦せこけた顔で、優しく微笑んだ。
病室で夏休みの課題をする俺を、眠たげな瞳を揺らしながら、笑流さんはただ見つめていた。
俺が課題をする姿が見たい、と言うのは、なんとも理解しがたい願いだ。
楽しいの? と聞くと、うん。と静かに返ってくる。
今は現代文の課題を片付けている。
内容は、小説『山椒魚』についての問題だ。
いつの間にか身体が大きくなりすぎてしまった山椒魚が、住処にしていた岩屋から出られなくなってしまい、そこに入って来た蛙を閉じ込めてしまう。
慌てる蛙、痛快だと山椒魚。
二匹の口論は一年も続き、さらに一年が経ち、蛙は死にそうになる。
そして会話の後、蛙が静かに言う。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
物語を読み返して、問題文へと目を向ける。
この時の山椒魚の気持ちを答えろ、だの、この時の蛙の気持ちを答えろ、だの。
頭を捻って回答を書き込んでいく。
そして最後の問題。
『山椒魚に「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」と言った時の、蛙の心情を答えなさい』
授業でやったところなのに、ペンが止まる。
質素な病室の匂いと、隣で俺を見る笑流さんの視線が、やけに気になる。
俺はこの問題を、ただの紙の中の問題として見られなくなっていた。
死にゆく者が、残されたものにかける言葉。その意味を答えよ。そう聞かれている気がして、俺は莫迦な答えを書いてしまった。
『好きだったから』
7月23日 大雨 病院
笑流さんの小さく、冷たい手を握りしめる。
昨日、海であったことを話すと、笑流さんは何も言わず、小さく笑う。
すっかり閉じてしまった目は、もう俺を見ることは無い。
いくつも繋がれたチューブに触れないように、そっと彼女の顔に手を添える。
手にかかっていた艶やかな髪は抜け落ち、頬のふにふにと柔らかな感触は、もう感じることはできない。
楽しい話をしても、あの大笑いを見られない。
楽しいことをしようとしても、ここから出られない。
俺は、ただ泣くことしかできない。
ずっと目を背けて来た。
いつかはわかっていたことなのに、こんな時が来るなんて、わかりきっていたはずなのに。
日に日に弱っていき、笑顔が減っていく彼女を前にして、まだ覚悟ができていなかった。
逃げてばかりで、いざとなったら覚悟さえできない。
あの夏の海に、俺は閉じ込められたままだ。
この人がいない海に、広い広い海に、俺は出られない。
俺の海に飛び込んできたこの人を、閉じ込めてしまっているかのようで、
あなたも辛いはずなのに、とっくに決めていた覚悟を引っ張り出したあなたのその辛さも考えず、ただ時間が過ぎていくのに怯える俺は……手遅れなことにやっと気づいた俺は……
まるで、のろまな山椒魚だ。
7月30日 天気は知らない 俺の家
笑流さんが死んだ。
俺は結局、最後まであの人にさよならと言えなかった。
幸せだったのだろうか、幸せにできたのだろうか。
そんな台風が渦巻いて、俺の身体は動かない。
部屋のベッドで一人泣いていた俺の元に、妹がやって来た。
話す気はないと言うと、妹は何かを机において、部屋を後にした。
それからしばらく泣いた後、妹の置いていった何かを見た。
そこにあるのは二枚に折られた小さな紙だけで、俺はなんだと思った。
のろのろと立ち上がり、その紙を見る。
表には笑流さんの細い字で『ゆいごんじょー』と書かれている。
慶次くんへ。
これを見ている頃には、私は多分死んでるんじゃないかなー。
っていうそれっぽい書き出しだよ! どうかな?
なんとなくわかる。私はきっと、君の覚悟が決まらないうちに死んじゃうと思う。
それで君は悲しんでしまう。
君が悲しむと、私も悲しい。でも、私が死んでも悲しまないでなんて、無茶なお願いはできない。
だから、一つだけできそうなお願いをします。
私を、ずっと忘れないで。
もし君が他の女の子のことを好きになっても、できれば私のことを覚えていて欲しいな。
私も、ずっと君を忘れないから。
君と過ごした時間は、世界で一番楽しい時間だった。
だから、その楽しい時間を思い出して、どうか元気で過ごしてね。
大好きだよ、笑流より。
……はは。本当に、なんで遺言状でまで明るいんだよ、あなたは。
あの、お転婆お嬢様め。
3月1日 晴れ あなたと一緒に居られる所
卒業式の後、俺は笑流さんと出会った場所へと足を運んでいた。
笑流さんがいなくなってからしばらく来てなかったなぁと思いつつ、懐かしむように辺りを見渡す。
特に何も変わってない。少し草の背が伸びたくらいだろうか。
二人で植えたひまわりは、とうに枯れ果ててしまった。
でも、やっぱりここに来て良かった。
笑流さんのお墓には何度も行った。笑ってもらいたいと、色んなことを話した。
でも、あそこに笑流さんはいないような気がした。
やっぱり、ここだ。
どこか懐かしい磯の香りに包まれながら、あなたがいなくなってからの日々を思い出す。
忘れたりしないさ。そう誓って、ずっと過ごして来た。
あなたが悲しむから、ずっとあなたのことを覚えていたいと、そう思っていた。
でも、だんだんと、俺はあなたを悲しませていた。
あんなに楽しかった思い出が、だんだんと薄れていく。
美しかった夏の記憶に、靄がかかっていく。
忘れたくないのに、俺の記憶力は言うことを聞いちゃくれない。
思い出せていたことが、日に日に思い出せなくなる。あなたとの記憶が、だんだん零れ落ちていってしまう。
だから、俺は決めたよ。
手遅れにならないように、あなたをこれ以上悲しませないように。
俺は――この海に還るよ。
× × ×
いつも二人で遊んでいた海から、少し離れた茂みに入り、急勾配の雑木林を進んで行く。
開けた場所に出ると、あの場所を見渡せるほどに見晴らしのいい、切り立った崖に出た。
笑流さんには話していなかったけど、ちょくちょく俺はここに来て、海を見て、歌を歌っていた。
この下には尖った岩礁が剥き出しになっており、もちろん柵なんかはついていない。危険な場所だ。
腰を据え、潮風を感じる。
まだ太陽は真上にあり、日照りを受けた遠くの海が、ぎらぎらと眩しく光っている。
「知らなかったでしょ。教えなかったんだよ。ここは危ないから」
俺は、光る海に語り掛ける。
眩しい光だ。あの日、あなたの身体を灰にしてしまった炎のように、瞼に焼き付く眩しい光。
ぎらぎらと光る海が、蠢く陽炎が、なんだかあの時の炎みたいで、俺はずっと語り掛ける。
「俺は、もう疲れてしまったよ。あなたがいない海は……冷たい」
俺は海が好きだった。何のとりえのない俺が、ずっと輝ける場所だったから。
泳げば誰よりも速く、釣りをすれば、誰よりも多く釣れる。
サーフィンだって、皆の中じゃ一番上手かった。
だから、海が好きだった。
「皆に言われた。あなたのことはもう忘れろって。苦しむ俺を見たく無いって、何度も言われたさ。その度に、ありがとう、でも大丈夫だよと言った。誰になんと言われようと、俺はあなたを偲んで生きて来た!」
一歩、前に出る。びゅうっと強い風が吹き、俺の身体を揺らす。
「俺はあなたを忘れない! 美しい思い出を抱えて、あなたのいる海へと還りたい!」
二歩、前に出る。崖の下が見える。
「俺は淋しい。あなたがいないから! 海が広く感じてしまうから!」
三歩、つま先が浮いて、海が近い。
「ああ、俺は今! 寒いほど独りぼっちだ!」
涙が崖下に落ちる。
それは俺の行く末。今から進む道。
「――愛しているよ。笑流さん」
四歩、
× × ×
………………
…………
……
俺は……?
確かに、飛び降りた。
でも、ここはどこだ?
「やぁ、未練ある若人よ、こんにちは」
目の前に座っているのは、真っ黒な服に身を包んだ青年。
そして今やっと、自分が座っていることに気付く。
「ここは?」
「魂の保管所……簡単に言うと、あの世かな」
「あの世……」
黒い青年はアルと名乗り、説明を始めた。
三途の雲、それを食べると、俺は生き返ることができるらしい。
今更、生き返る意味なんて無い。
そう言うと、アルはふっと笑ってこう言った。
「ここへ来る人間は、皆現世に強い未練を持っている。君も例に漏れず、強い未練がある」
「そんなはずはない! 俺は自分の意志で飛び降りたんだ! 未練なんかあるものか!」
「本当さ。僕に嘘はつけない」
アルは強引に俺の口に雲をねじ込み、にやりと笑ってみせる。
「やれやれ、君は死と言うものを勘違いしている。死は道ではない。楽になれる死なんて、どこにもないんだよ」
雲を食べた瞬間から走る耐え難い激痛の中、アルは確かにそう言った。
「どういう……ことだ……?」
「君は彼女のことを忘れたくないのさ。死とは、それ即ち消滅なのだから」
「俺は……俺は…………」
何も、言い返せなかった。
あぁ、そうか。俺は、本当にのろまな莫迦だ。
忘れないまま死ぬ。だなんて、できるはずがないのだから。
「……聞かれなかったから、説明は向こうで受けてもらうよ。さぁ、行っておいで。海原慶次くん。愛を忘れないための戦いに」
雲は消え、青空の中に投げ出される。
意識が消えていくのがわかる。俺の行く末は、どうなってしまうんだ……?
そんな思考の中、視界の真ん中に文字が浮き上がった。
『ようこそ、イセカイゲームへ』
薄れゆく意識の中、俺の脳に映るのは、誰よりも愛しい人の笑顔だった。
あぁ、なるほど確かに。
あなたは……俺の未練だ。
俺はあなたの愛を、忘れたくないんだ。