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砂は水の夢を見る

赤ん坊は密林で夢を見る

作者: 遠部右喬
掲載日:2021/11/30

 大河の両岸に深く生い茂った樹々が、水量豊かな流れを濃い緑に染めている。色とりどりに咲き誇る花や果実の芳香は、南国の暑い空気に生気を主張し、それらに負けじと鮮やかな鳥が、真っ青な空を囀り飛び交う。

 勿論、強い日差しと、ねっとりとした独特の空気を堪能しているのは鳥だけではない。緑の迷路は、様々な生き物をその身に抱え育む。何世代にも亘り、土地に合わせ進化してきた独特の生命達。共存し、時に騙し合い、長い時間をかけて、大地は美しく煌めく命の綾を紡ぐ。これまでも、これからも続く営みは、瞬間を編み続け、悠久へと昇華する。

 そんな命の坩堝に、この日は珍しい客が訪れていた。

「この辺りは、樹も草も沢山生えてるな。面白そうな奴もたくさん居るだろうし、今度は、仕事抜きで来たいぞ」

 物珍し気にきょろきょろと周囲を見回し、黒犬が呟く。黒犬の名はフウガ。黒犬とは言っても、その身に実体は無く、魂だけの存在だ。

〈うん。同じ暑さでも、俺達の住んでた所と全然違うみたいだ〉

 フウガの胸の辺りから、少年の声が答える。声の主は、人間の少年クウガ。フウガと同様、実体は無い。

 魂が癒着している彼等は、普段は二魂一柱の神様見習いとして神界で暮らして居るが、今は研修の為に地上を訪れていた。

「課題は、この地域を見回り迷子を見つけること、だっけ?」

〈いや、見つけて送り届ける、までだね〉

 彼等の言う迷子とは、所謂、幽霊の事である。生き物は皆、死を迎えると実体と魂が別れ、実体は他の生き物の糧になり、魂は神界の一画にある死者の国に向かう。だが、稀に死者の国への道を見付けられず、魂が地上を彷徨うことがある。未練であったり、突発的な事故による混乱だったり、理由は様々で、時には彼等が地上に何らかの影響を及ぼしてしまうこともある。

 問題はそれだけに留まらない。肉体と言う鎧を失った魂は傷付きやすく、発見された時は、ボロボロになっていることも珍しくない。一度そうなってしまうと、元に戻るまでにかなりの年月を必要とする。地上への影響以上に根が深い問題なのだが、神々は常に忙しく、彷徨う魂専門に人手、いや、神手を割けないでいるのが現状だ。

 犬だった特性を強く残すフウガは探知能力に長けている。今回の研修は、神界にも幽霊にもフウガにとっても実に都合が良く、彼等は地上に着いて早々、幽霊を探し当てる事に成功していた。

 フウガは、横に浮かぶ大きな魚に声を掛けた。

「そうか。よし、じゃあ送ってくぞ、爺さん。安心しろ、これから逝くのは怖い処じゃないからな」

 魚の幽霊は、フウガと同じ程もある大きな体をゆったりとくねらせ、礼を言う。

『よろしくお願いしますじゃ。お手数かけますのぅ』

「大丈夫か、爺さん。疲れてないか? 俺に乗ってってもいいぞ?」

『ご親切にどうもぉ。ですが、自分で泳げますので、お気遣いなく』

〈無理はしないで下さいね〉

『ありがとうございますぅ。ところで、儂ゃあ、何で空を泳げるんですかの?』

〈えーと、肉体が、その、お亡くなりになったんです。理由までは調べないと解らないですけど、お知りになりたいなら遠慮なく言って下さい〉

 幽霊経験のあるフウガとクウガは、未練を残す辛さがよくわかる。気の良さそうなこの老魚に、気持ちよく死者の国に逝って欲しかったし、出来る限りの事をしようと意気込んでもいた。

 その気持ちが伝わったのか、老魚はあっさりと納得した。

『いや、ええよ。きっと、他の奴に食われたんじゃろ。よくある事じゃ。そうかそうか、全く気付かんかったの』

 落ち着いた彼の様子に胸を撫で下ろし、フウガは空に足を踏み出す。それに倣い、ゆっくりと動き出した老魚は後方を振り返り、不思議な事を言い出した。

『嬢ちゃん、ちゃんと付いて来られるかいのぅ? ほれ、おいちゃんの尾っぽに捕まるとええ。おお、良い子じゃ、可愛ええのぉ』

「ん?」

〈え?〉

 フウガが振り返り驚く。いつの間にか、フウガの掌の肉球よりも小さな魂が、老魚の尻尾にしがみ付いていた。

「何時から居たんだ? 爺さんのにおいに紛れて、全然気付かなかったぞ」

『えっ、儂、臭い?』

「大丈夫だ、どっちかと言うと美味そ……」

〈臭くないですよ。それにしても、お爺さん凄いですね。フウガも気付かなかった子に気付くなんて〉

 クウガが強引にフウガの言葉を遮り、話題を変える。

『儂ゃあ、ずっと此処で暮らしてましたからの。たとえ陸で暮らす子でも、なんとなーく気配は感じるもんですじゃ。まあ、嬢ちゃんがどんな子かまでは、儂にもわかりませんがのぅ』

 フウガは、うーん、と唸りながら、老魚の尾に止まる小さな魂に鼻を寄せた。

「気配が随分小さいな……ん?」

 フウガは更に鼻を寄せ、小さな魂のにおいをもう一度嗅ぐと首を傾げた。

〈どうしたの?〉

 フウガの鼻がこそばゆかったのか、小さな魂は、ぴゃぁ、とも、ぴっ、ともつかない声をあげ、転げまわった。

「課題は何だっけ?」

〈迷子を見つけ、送り届けること〉

「だよな。多分、生きてるけど、どうする?」

〈え? なんて?〉

「こいつ、多分まだ生きてるぞ」


 事の発端は、数日前の神界の定例会議だった。

 神様見習いとは、文字通り見習いであり、正式な神になる為には、神界で沢山の試験を受けなければならない。それらに合格すると仮免許が発行され、暫くの研修期間の後、最終試験が行われる。それに合格すれば初級免許が発行され、一神前(いちにんまえ)の神として、能力に合った各部署に配属される、というのが通常の流れなのだが、仮免許も無いクウガとフウガが研修を受けるのには理由があった。

 様々な奇跡を起こす神の力の中でも、クウガの能力はやや特殊で、それ故に、見習いでありながら配属先はほぼ決定している。そう言った事情もあり、彼等の上司となる神が、なら試験も研修も同時進行でいいよね、と言い出し、会議でその意見が通ってしまった。と言うか、ごり押しに反対出来る立場の神がその場には居なかった。

 だが、いくらお偉いさんの意見であっても、もろ手を挙げての賛成、という訳にはいかない。まだ半神前とは言え、クウガだけではなく、フウガも通常の魂とは比べ物にならない程の力を持っている。不測の事態が生じた時、力が暴走しないとは言い切れない。当然、彼等の研修には条件が与えられた。研修生として地上に居る間は、神の能力をクウガごと封じ、素の魂、つまり幽霊状態のフウガを表に出すこと。それが、彼等に与えられた条件だった。会議から帰った上司は、早速フウガとクウガを呼び出した。

 話を聞いた彼等は、預かり知らぬ内に決まった自分達の処遇にポカンとした。特に、慎重なクウガは、何かあったら困るからと、現時点での研修に乗り気ではなかったのだが、件の上司の一言は、クウガのやる気を引き出すことに成功した。

「研修生には、ちょこっとだけどお給料出るよ」

「やります」

 上司が鼻歌を歌いながら去った後、悔しそうにクウガが呟いた。

「やられた……」

〈最近のチョウキ様は、クウガの扱いが上手く成って来たな〉

 そして現在、神界から地上にとんぼ返りをするフウガの口には、小さな魂が大人しく銜えられている。

 老魚を送り届けがてら、死者の国の門番に小さな魂を見せたが、もうすぐ産まれるか、もしくは生まれたての生霊である以上の事は分からないようだった。別の部署で調べようにも、生霊は幽霊よりも稀な存在で、専門に扱っている部署など無い。勤務中の神々は皆多忙な上、彼等の上司とその眷属も、急な仕事で遠出してしまった後だった。結局、地上に行く予定があり、時間の融通も利くのは見習いの彼等だけだけで、それならばと、生霊を身体に送り届けることにしたのだ。

「せめて(かしら)が居れば、ちびのこと、もう少し判ったかもしれないんだけどな」

 魂を銜えているフウガは、声を出さずにクウガに話し掛ける。本来、彼等の会話に声は必要無い。敢えて普段声を出して会話しているのは、彼等なりの周囲の者への礼儀と配慮からだ。

〈ヨルダはチョウキ様の面倒……眷属の仕事で案外忙しいもの。申し送りはちゃんとして来たし、俺達はもっと地上を見て廻らないといけないしね〉

「まあ、生霊だって迷子みたいなもんだもんな。これも研修の内だよな」

 給料に釣られ、喰い気味に話を受けたクウガが詫びた。

〈安請け合いして、ごめん。反省してる〉

「何で謝るんだ? チョウキ様も言ってたけど、いずれやる事だったのが、早まっただけだぞ。

 それにしても、こいつ随分静かだな……ていうか、本当に何の赤ん坊なんだ? においからすると、乳飲んで大きくなる生き物なのは間違いないけど」

 神界を出発する際、救護係に生命力を注いで貰った生霊はぼんやりと輝き、色艶も良好だ。しかし、うんとも言わず黙って咥えられていることに、フウガもクウガも心配になる。

〈初めて生霊に会うから、勝手が分からないね。元から大人しいのか、生霊だからこうなのか……形もはっきりしてないのは、まだ身体に魂が馴染んでないからだろうって言われたけど、ちょっと心配になるね。

 そう言えば、魚のお爺さんは、この子を嬢ちゃんって呼んでたよ。ちびちゃんは女の子かな?〉

「爺さんの種族のことは知らないけど、魚って、途中で性別変わる奴もいるからな。もしかしたら、子供は全部〝嬢ちゃん〟って呼んでるかもしれないぞ」

 小さな魂が、ぴゃ、と鳴いた。

〈あ、良かった、元気みたい。凄いね、ちびちゃん、俺達の声聞こえてるんだね。もしかして、女の子で合ってるって返事してくれたの? ちゃんとお母さんの処に送り届けるから安心してね。

 さて、そろそろ地上だ。フウガ、いけそう?〉

「取り敢えずやってみる。ちび、ちゃんと掴まってるんだぞ」

 老魚と出会った場所近くに降り立ったフウガは、頭を一振りし、銜えていた魂を器用に放る。みっ、と小さな声をあげ、空を舞った生霊はフウガの背に着地した。

 フウガは、背に乗せたちび魂を出来るだけ揺らさない様、生い茂る樹々の間をゆっくりと歩き出した。


 密林には様々な生き物が犇めいている。それらを構成している樹木も含め、生の密度は、砂漠育ちのクウガとフウガに物理的な圧力を感じさせる程だ。

 フウガは空を嗅いでは立ち止まり、再び歩き出す。そして数歩も行かず、それを繰り返す。濃密な生の気配に翻弄され、フウガは苦戦していた。

「こっちであってると思うけど、これだけ色んなにおいが混じってると、近くに行くまで断定できない」

〈あのお爺さんは川に居たから、もっと川の近くを探した方がいいのかな?〉

「いや、もし単独で子育てする奴なら、妊娠中や乳飲み子の居る母親は、川岸に営巣しないだろう。水を飲みに来る連中に見つかりやすいし、子供が川に落ちたら危ないだろ。群れで暮らすような奴でも、母親は水場から少し離れたがるんじゃないかな。中州に巣作りしたり、川の水を堰き止めて営巣する奴もいるらしいけど、そいつらの仲間はこの辺には住んでない筈だぞ」

 クウガが驚く。

〈詳しいね。何時の間にそんな事勉強したの?〉

「クウガが寝てる間だ」

 神界の常識や世界の堅苦しい仕組み等を学ぶのは苦手だが、その分、他を磨くことにしたのだと、フウガは答えた。

 クウガが寝ている間、フウガはあれこれと書物を読んだが、中でも興味を引いたのは、まだ行ったことの無い土地や、其処に暮らす色々な生き物達の事だった。興味本位で調べてたら、知ってることが増えたんだ、とフウガは笑った。

「でも、こうやって実際の場所に来るとさ、勉強しただけじゃ分からない事もいっぱいあるんだって感じるよな。この辺は生き物がわんさか居るし、経験のない知識だけじゃ、何処を調べればいいかも決めきれない」

〈初めてのものばかりだ、仕方ないよ〉

 その時、フウガの背で、魂がぴっと鳴いた。フウガの目の前を、大蛇が横切る。

「どうした? ああそうか、蛇が怖いのか。そうだぞ、見つかったら食べられちゃうかもしれないから、ちゃんと気を付けるんだ。でも、今は大丈夫だ。俺もクウガも居るし、お前の身体は別の処にあるからな」

 フウガが背で震えるちび魂を宥めた。

〈まだ赤ちゃんなのに、蛇は怖いって判るんだね。ちびちゃんは、小さい生き物なのかな?〉

「どうだろう。俺の居た群れにも、蛇は苦手って奴が居たからなあ。そういえば頭も、昔噛まれてから蛇は好きになれないって言ってたぞ。お、こっちかな」

 ちび魂が落ち着いたのを見計らい、フウガは再び歩き出す。

 暫く進むと、前方の茂みがガサリと音を立て、一匹の獣が姿を現した。猫に似た顔立ちに、独特の斑紋をもつ毛皮と、猫よりも一回り大きくしなやかな体躯には、愛らしさと獰猛さが同居している。

〈わ、可愛い!〉

 珍しくはしゃいだ声を上げたクウガと対照的に、ちび魂がぶるぶると震えだす。クウガが慌てて宥めた。

〈大丈夫だよ、あの子に俺達の姿は見えない筈だから。それに、何があっても俺達が必ず護るからね〉

 美しい大猫は、あちこちに彷徨わせていた視線をフウガの居る辺りへ向け、背中の毛を逆立てた。周囲を伺い、再び視線を定め、フウガから一定の距離を保ったままゆっくりと歩き、低く唸る。

「なんだ、見ないツラだな。なにガン付けてんだ、コラ」

 フウガは己の背後を振り返る。

 何も居ない。

 首を傾げたフウガは再び大猫に顔を向けると、大猫の視線は、完全にフウガを捉えている。念の為にと、フウガはもう一度後方を確認し、改めてその猫と目をあわせた。

「驚いたな。お前、俺が見えてるのか」

「は? 何言ってんだ。つーか、オレが話し掛けてんのに、目逸らしてんじゃねぇよ」

「見てたら怒るし、今度は目を逸らすなって、俺はどうしたらいいんだ?」

 きょとんとするフウガの態度に、大猫は苛立ちを募らせた。

「あげ足とってんじゃねえぞ、やんのかコラ、あぁ?」

「やらない。いや、やれない。ん? やれないよな? どうなんだろう?」

〈偶に幽霊や神が見える生者が居るとは聞くけど、あの子、かなりはっきりフウガが見えてるみたいだ。触れないとは言い切れないかもな。

 それにしても、あんなに可愛いのに、随分と口の悪い子だなぁ〉

 姿の見えないクウガの声も聞こえるらしく、大猫は寸の間怯んだが、直ぐに勢いを取り戻す。

「やっぱり怪しい奴だ! おい、ここはオレの縄張りだ! すぐに出てけ!」

「いや、俺も好き好んでここに居るんじゃないんだ。用が済んだらすぐ出て行くって約束するから、暫くの間見逃してくれ。あ、そうだ、お前、最近この辺に身重の雌が居るとか、聞いたことないか?」

 落ち着きはらったフウガの態度に怒りが爆発させた大猫は、咆哮すると背を撓め、フウガに向かって跳躍した。

 フウガは後方の草叢に飛びのき、背中のちび魂を柔らかな草の上に下ろすと、ぺろりと一舐めして言い聞かせた。

「すぐ終わるから、ここでじっとしてるんだぞ」

 ちび魂が、みっ、と返事をすると、フウガは大猫に顔を向けた。

「しょうがないなぁ。本当は、あんまり乱暴な所を赤ん坊に見せたくないんだ。乱暴なの、カッコワルイぞ」

「余裕ぶってんじゃねぇ!」


 数瞬後。


「サーセンでした……」

 転がった大猫が、フウガの前脚に踏まれていた。

「自分、イキってました。ここもすぐ出て行くんで、勘弁して下さい……」

「別に縄張りが欲しい訳じゃない、用が済んだら出て行くって言っただろ。お前が出て行く必要は無いぞ。でも、もう向かってくるなよ。お互い、面倒事はいやだろ?」

 フウガが前脚をどけると、大猫はゆっくりと立ち上がった。自分の身体を見回し、背を向けたフウガを見詰める。ちび魂を拾い上げ、その場を立ち去ろうとするフウガの目の前に、大猫は飛び込んだ。

 フウガはうんざりと溜息を吐く。

「えー、何だよ、もう決着つい……」

「兄貴!」

「え? なんて?」

〈兄貴?〉

 大猫は行儀よく前脚を揃え、長い尾を体に巻き付けて座ると、頭を低くした。

「自分、こんな完全に負けたの初めてっす! 是非弟分にして下さい! あ、自分、〝シダ〟っていいます。兄貴もそう呼んで下さい」

「そういうの間に合ってるんで」

 シダは、立ち去ろうとするフウガの前に再び飛び込み、服従を表しているつもりなのか、身体を伏せた。

「待って下さい! 最初に礼を欠いたのはオレなのに、怪我させないよう気遣ってくれるなんて……喧嘩が強いだけじゃない、兄貴の懐の深さに惚れたっす。お願いします、弟分にして下さい! 頷いてくれるまで離れないっす!」

「いや、立場的に怪我させたら拙いだけだぞ。お兄ちゃんが欲しいなら、他を当たってくれ」

「待って下さい、兄貴! お供します! どこに行くんすか? カチコミっすか? 任せて下さい、オレ、これでもこの辺りじゃ、結構顔なんすよ」

 フウガは何とも言えない表情で呟く。

「こっちの話を聞かない感じが、誰かを思い出すな。それと、俺の名前はフウガだ。兄貴って呼ぶな」

「わかりました、兄貴!」

「耳か? 頭か? どっちに問題あるんだ?」

〈フウガ、ちょっと待って。シダ、だっけ? この辺が縄張りなら、色々詳しいだろう? 少し話を聞かせてもらえるかな〉

 嚙み合わない二匹の会話を遮る声に、シダは耳を動かし怪訝な顔をする。

「兄貴、お連れはどこっすか? さっきから声だけで、姿が見えないっすよ」

〈あ、うん、俺、クウガって言うんだ。フウガの身体に同居してるから姿は見せられないけど、宜しくね〉

「? クウガさんは、見えないけどそこに居るって事っすか? なら、クウガさんも兄貴みたいなもんっす。ヨロシクお願いするっす。

 フウガさんとクウガさんっすか。何かこう、相棒感あるっすね! カッケーっす!」

 その時、茂みが揺れ、シダによく似た大猫が現れた。

「シダ、そこに誰か居るのか?」

 シダは慌てて大猫の首根っこを噛み、地面に伏せさせる。「何するんだ!」と憤る大猫の頭を前脚で押さえつけ、フウガに頭を下げた。

「サーセン兄貴、こいつ、弟のガラって言います。

 おい、ガラ、こちらはフウガさんだ。オレの兄貴になって頂いたんだ、きっちり挨拶しろ。あと、お連れのクウガさんだ。クウガさんは見えないけど、兄貴と一緒だから兄貴みたいなもんなんだ。兄貴、クウガさん、ガラのこともよろしくお願いしゃーす!」

「兄貴になった覚えはないぞ」

「またまたぁ、兄貴は照れ屋っすね!」

 地面でもがいていたガラが、動きを止め、不思議そうにシダを見上げた。

「おいシダ、さっきから誰と話してるんだ?」

「誰って、こちらの兄貴と……」

 何とかシダの前脚から逃れたガラは、気味悪そうにシダとシダの視線の先を交互に見て後退った。

「お前……とうとう本格的な馬鹿に……」

「おい、その言い方じゃ、オレが今迄もちょっとは馬鹿だったみたいだろ!」

「その通りだぜ」

「何だよ! 馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ!」

「その理屈だと、やっぱりお前は馬鹿ってことになるぜ。馬鹿って言う奴は馬鹿なんだろ?」

「あれ、本当だ……いや待て、そうじゃない。先に言った奴が馬鹿ってことだ。多分きっと、そうだと思う」

 気の抜けた兄弟喧嘩が続く前に、フウガがシダを止めた。

「多分、俺の事はガラには見えてないし、声も聞こえてないぞ。クウガの声も聞こえてないだろうな」

〈うん、シダが特別なんだよ〉

「? ちょっと、よく分からないっす?」

 フウガがシダに、改めて自分達の事情を掻い摘んで説明する。

 シダが時折相槌を打ったり、何も居ない空間に質問したりする間も、ガラは立ち去ろうとはしなかった。シダを見詰める視線には、同情めいたものが混じっていたが……。


「はあ、兄貴はオレにしか見えなくて、謎の赤ん坊を送り届けるためにここに来た、と」

 シダはすっかり感心したようだった。

「わかりました、ちびちゃんの塒探し、オレも手伝うっす!」

〈ありがたいけど、少し話を聞かせてくれるだけで充分だよ〉

 気の良い大猫の提案を、クウガはやんわりと断った。

 だが、既にその気になっているシダは、明るく続ける。

「姿が見えないと、不便なことがあるかもしれないっす。この辺りはオレの縄張りだし、お役に立つっすよ。それに、きっと、ちびちゃんも賑やかな方が寂しくないっすよ。で、そのちびちゃんはどこにいるんすか?」

「俺の背中に乗ってるぞ」

 シダは目を細め、「うーん」と唸った。

「見えないっすね」

〈そうなの? 生霊は、俺達よりシダに近い存在だから、見えるかもと思ったんだけど〉

「においもしないっす」

 シダがフウガの背を嗅ぐと、それがくすぐったいのか鬱陶しいのか、ちび魂は、びっ、と鳴いて二本の腕の様なものを伸ばすと、シダの鼻先を縦横無尽にぺちぺちと叩いた。フウガは首を廻して、「大丈夫だから落ち着け」とちび魂に声を掛け、背を軽く揺擦りシダから半歩離れた。

 ちび魂は、びっびっ、と鳴き、フウガの背にしがみ付き、フウガの首に顔……と思われるところを、ぐりぐりと押し付ける。

「お前、ちびに嫌われたんじゃないか?」

「何でっすか? ちびちゃん、お兄ちゃんと仲良くしようぜ」

「おいシダ、お前、本当にどうしたんだ?」

 それまで黙って様子をみていたガラは声に不安を滲ませ、シダに近付くことも、その場を立ち去ることも出来ずに、耳をぴくぴくと動かした。

「悪ぃ、お前の事忘れてたわ」

 シダは、フウガ達との出会いや彼等の状況を説明した。シダの説明で、どの程度伝わったかは疑わしかったが、黙って話を聞き終えたガラはシダに念を押した。

「本当なんだな?」

「母ちゃんに掛けて誓う」

 即答したシダの答えに、一瞬空を見上げたガラは視線を戻し、シダの左隣に向かって頭を下げた。

「お前の説明、下手過ぎてよく分かんねぇ。でも、まあいい。

 えーと、フウガさん、クウガさん、オレ、シダの弟でガラって言います。カミサマとかはよく分からないけど、シダだけじゃアレだろうから、オレも手伝います。宜しくお願いします」

「アレって何だ? あと、兄貴はこっちだぜ」

 シダは、己の右に鼻先を向けた。


 密林では珍しいやや拓けた草叢に、横に伏せたフウガとその腹毛に埋もれたちび魂、黄褐色に黒い斑紋の美しい毛並みの獣が二匹、顔を突き合わせている。

 その内の一匹、ガラが口火を切った。

「まず、身重や子持ちの雌ですけど、この時期、オレ等の仲間も含めて、多分そこそこ居ます」

〈多分って、どういうこと?〉

 シダが、フウガとクウガの言葉をガラに通訳する。

「どんな奴でも、雌は用心深いってことです。自分と子供を護んなきゃいけないでしょ? オレ等みたいに肉しか食わないってのは結構珍しくって、ここの連中の大半は何でも食います。つまり、姿を見られるようなドジは、ほぼ誰かの腹に収まることになるんです。

 だから、身重や子持ちの雌は中々塒を掴ませない。それに、凄く気が立ってます」

「ガラ、昨夜デカい雌ラップに追っかけられたって言ってたもんな」

「うるせーぞ」

 クウガは、成程と感心したのも束の間、慌ててちび魂に意識を向ける。フウガの腹毛と尻尾に埋もれ、安心しきった様子のちび魂に安堵し、同時に、フウガがちび魂を己の脇腹に移動させた理由に気付く。

〈話、聞こえてないみたいだね〉

「ちびがどんな生き物かまだわからないし、あんまり怖がらせたくない」

 生き物は全て、生きる為に他の生き物を必要とする。残酷に見えても変わることのない、全ての命の決まりだ。フウガはそっと呟く。

「いずれ、嫌でも知る事になるだろうけどな。まだ赤ん坊が聞くことでもないだろ」

 フウガが優しく舐めてやると、ちび魂は安心しきった声で、みぃ、と小さく鳴き、もぞもぞとフウガの腹をまさぐり始めた。

〈? お嬢ちゃん、何してるの?〉

 フウガが尻尾でちび魂を押さえつけた。

「……残念だが、乳は出ないぞ」

 ちび魂は暫くじたばたしていたが、フウガの尻尾の感触が気持ち良かったのか、直に大人しくなった。

「兄貴、何か当てはないんすか?」

 シダの問いに、フウガとクウガは少し考えた。

「そう言えば、魚の爺さん、ちびの正体はわからないって言ってたな」

〈うん。それがどうかしたの?〉

「普段から川で魚獲るような奴なら、爺さんなら知ってるんじゃないかって思ったんだ。だから、ちびが何だかわからないってことは、ちびの種族は日常的に魚を獲ったりはしないんじゃないか?」

〈そっか。えーと、他にわかること……ちびちゃんは、お母さんのお乳で大きくなる種族ってこと、蛇が怖いってこと、位かな〉

 大猫達は小さく唸った。

「うーん、絞り切れないっす」

「泳ぎが苦手な奴は結構居るし、蛇が嫌いな奴はもっと居るぜ。何か、もう少し判る事はありませんかね?」

 フウガは少し考え、条件を追加した。

「なら、ある程度手が使えて、単独の雌だけで子育てする奴はどうだ?」

〈どうして?〉

「群れる奴よりも、単独で暮らす奴の方が用心が必要だろう? 狩る側も狩られる側も、身づくろいがまめなやつが多い。ちびのにおいが薄いのは、母親が身づくろいを念入りにしてやるからかもって思ったんだ。

 それに、さっき、ちびがシダの鼻を器用に叩いてただろ。俺はあんな風に手を動かせない。身体の造りがそうなってないからな。きっと、ちびの身体は器用に手を動かせるんだ」

 フウガの上げた条件に、シダとガラが、鼻に皺をよせて顔を見合わせる。

〈思い当たる子が居るの?〉

「ああ、まあ……」

「もしかしたら、なんすけど。お二方は、ラップってご存じっすか? アナホリラップ」

〈ラップ? さっき、ガラが追いかけられたって言ってた子? 俺達の故郷では見た事無いな。フウガは知ってる?〉

「樹の上で暮らす草食の大人しい奴で、色んな所に仲間がいるって、この間読んだ本に書いてあった。でも、草食なのに群れを作らないのか? それに、〝アナホリ〟って言ったな? この辺りのラップって、穴掘って暮らすのか?」

 シダは頷いた。

「雄や子育てしてない雌は、単独で樹の上で暮らしてるっす。でも、腹の大きい雌は地面に穴を掘って、そこで子供を産むっす。そんで、子供が自力で木に登れる程度に育つまで、穴の中で暮らすんすよ」

「へえ、面白いな」

 フウガが感心した声を上げると、シダが顔を顰めた。

「ぜんぜん面白くないっす。

 確かに、木の実とか草しか食わないし、普段は大人しいっす。でも、母ちゃんラップになると、まあエライ凶暴で……凶暴になり過ぎるから、大昔に群れを作らなくなったんだ、って聞いたことがあるっす」

 ガラが続けた。

「オレ等より二回り位小さいくせに、攻撃力が半端ないんですよ。穴掘りするせいか手先も器用で、少しでも巣穴に近付こうもんなら、土やらそこらにある物やら投げつけて来るわ、しがみ付いて来て固い歯で齧り付くわ……でも、一番厄介なのは脚なんです。矢鱈と強くて、頭でも蹴られたら暫く起きあがれない。

 しかも、子育てが終わって出てく時に、穴を埋めたりしないから地面は柔らかいままで、そこにハマって怪我するヤツもいるんですよ」

「それに、根元を掘られた樹が倒れたりすることもあって危ないんすよ。この空き地も、そうやって出来たのかもしれないっす。

 もちろん、ラップ以外でも手先が器用なヤツはいるけど、群れで暮らしてる奴が多いっす。単独で暮らしてて手先が器用なヤツなら、アナホリラップが一番に思い付くっす」

〈ラップか。可能性ありそうだね。ガラ、案内してくれないか?〉

 シダに通訳され、ガラは首を傾げた。

「どこへですか?」

「ラップに追い掛け回されたって処にだ。近くに巣穴がある筈だろ?」

 フウガが身体を起こすと、腹にもたれ掛かっていたちび魂が草の上を転がる。足下によたよたと近寄るちび魂に、フウガが鼻を寄せてやると、みぃみぃと鳴きながらよじ登り背中に落ち着いた。

〈すっかり懐いてる、可愛いなあ。フウガの事、お母さんと勘違いしてるのかな〉

「ちびのお母さんはこんなに厳つくないだろ、きっと」

「ちびちゃん、オレに乗ってもいいんだぜ?」

 シダは努めて優しい声を出したが、ちび魂は、しゅっ、と威嚇する様な音を出し、フウガの背に張り付く。

「見えないけど、ちびちゃんにフラれたことは何となく分かるっすよ……」

「あんまり入れ込むな」

 しょんぼりとするシダに、ガラが冷静に言った。

「その赤ん坊とオレ等、食うか食われるかの関係かもしれないんだろ? あまり馴れ合うな」

「そ、そうかもしれないけどよー。でも、まだはっきりした訳じゃないんだし、赤ん坊が迷子なんて、可哀想じゃねーか。お前、ちょっと冷てーぞ」

 シダのぼやきに、ガラは鼻息を漏らしただけで反論はしなかった。ぎこちない空気が彼等の間に漂う。

 互いにそっぽを向いたシダとガラを、飄々とした声が執り成した。

「ガラは、後でシダが辛くならないか心配なんだろ。ガラも、ちょっと言い方を変えてやれ。それじゃあ、シダには伝わらないぞ」

 クウガが申し訳なさそうに続ける。

〈ガラは間違ったこと言ってない。俺達が巻き込んだせいで兄弟喧嘩なんて、神様どころか候補も失格だよ。ごめんね、シダ、ガラ。後は俺達だけで探すよ。色々教えてくれてありがとう。行こう、フウガ〉

「そうだな。取り敢えず、ラップを探してみるか。お前達ありがとな、助かったぞ。ちびを送り届けたら、改めて礼をするからな」

「待って下さい、兄貴!」

 歩き出したフウガの尾を咥えたシダが、強く引っ張った。フウガは「ふぐっ」と呻き、涙目で振り向くと、シダの頭に、凄い勢いで前脚を叩きつけた。

「い、痛いだろ! 抜けたらどうするんだ! お前達みたいな身体が無くたって、痛いのは痛いんだぞ!」

〈フウガ、大丈夫?〉

 シダは慌てて「サーセンした」と詫び、フウガに叩かれた頭を前脚でちょいちょいと擦った。

「オレ、頭あんま良くねーし、ガラの言いたいことは分かったけど、やっぱ赤ん坊を放っておけないっす。早く母ちゃんに会わせてやらないと可哀想っす。ちびちゃんとオレ等、仲良しじゃないかもしれないけど、そんなの後で考えればいいっす。それに、兄貴の役に立ちたいっす! だから、手伝いさせて下さい!」

 シダの様子で大体の事を察したガラが、すたすたと歩きだした。

「早く付いて来て下さい。のんびりしてたら、赤ん坊の身体がどうなるか分からないんでしょ?

 シダの馬鹿なんて今更です、生まれた時からの付き合いだ。こんなの、喧嘩の内にも入らないですよ」

「シダ、ガラ……」

〈……取り敢えず、シダを叩くのを止めようか、お嬢ちゃん〉

 フウガの背に乗っていたちび魂は、いつの間にかシダの頭上に移動し、丸く形の良いシダの頭頂部を、両手で激しく叩いていた。


 森の奥に進む彼等の頭上で影が躍る。それは、鳥だったり、昆虫だったり、その他の動物だったりと、実に様々だ。

「今飛んでったのは、ハナスイドリって鳥っす。つがいで飛んでることが多いっす」

「あそこで樹の間を渡ってるのはオナシホオグロザルって言って、群れる奴の代表ですね。手を使えるし、もしかしたらって思ったけど、あの群れには、身重の雌もそこまで小さい赤ん坊もいないみたいだな」

「今飛んだのって、まさかトカゲか?」

「そうっす。子供の内は、自分の身体の倍位、枝の間を飛ぶっす」

〈フウガ、見た? あの虫、凄い色だよ!〉

「うわ、ドクトンボだ。おい、シダ、気を付けろよ」

 シダの頭からフウガの背に戻ったちび魂も、時折、くっくっ、と、楽し気な声を上げている。

 大猫達は、初めて目にするそれらに興味津々の神様候補達に解説してやっていたが、次第に口数が減っていき、やがて、足取りもゆっくりと慎重なものに変わっていく。退屈になったのか、ちび魂は眠ってしまったらしく、大人しくフウガの背に揺られている。

「そろそろです」

 前を向いたまま、ガラが囁いた。

「多分、もう、いつ出くわしてもおかしくな」

 ガラが言い終える直前だった。

 かさ。

 小さな音と共に、一行からやや離れた斜め前方の茂みから、黒い塊が姿を現した。

 滑らかな体毛に覆われた身体。丸く大きめの耳。小さな顔の中で黒く濡れ光る円らな瞳と、ふんわりとした頬。

 大人しそうな顔立ちと柔らかそうな身体に、クウガが思わず叫んだ。

〈か、可愛い!〉

「確かに可愛いな。あれがラップか?」

 フウガの問いにシダが頷く。

 ラップは何かを確認するように鼻をひくつかせ、二本足で立ち上がり首を伸ばしている。

 周囲を見回していたラップが、気配を殺していた大猫達に顔を向け、動きを止めた。

「まずいな」

 ガラの声が、緊張で掠れている。

 恐らく、シダとガラの足音か匂いで、巣穴から様子を見に出て来たのだろう。ラップは、明らかに警戒しているにも拘らず、何故か、少しづつ後じさるシダとガラににじり寄って来た。

「そこにいらっしゃるのは、この間の猫さんじゃありませんこと? 今度は、二匹でいらっしゃったのね」

 ラップと彼等の距離が近付くにつれ、フウガは意外そうな顔になった。

「思ってたより大きいぞ?」

〈シダ達より、二回りは小さいって言ってなかったっけ?〉

 目の前のラップは、彼女の種族としては確かに大柄ではあるが、それでもシダやガラに比べれば小さく華奢だ。だが、〝大人しい草食獣〟というにはただならぬ気配を放っており、それが実際よりも彼女を大きく見せている。

「あれは特別っす。あんなにデカいの、見たことないっす」

 小声で律儀に答えたシダに、ガラが同じく小声で叱責した。

「静かにしろ、刺激するな!」

 ラップは、シダとガラから目を離さず動きを止めた。

「そちらの貴方、何処を見てらっしゃるの? 何もない所に話し掛けるなんて、気味の悪い方。何を仰ってるか解りませんけれど、わたくしとわたくしの赤ちゃんの家に近寄るなんて、どういうおつもり? 折角寝ている赤ちゃんが、起きてしまうじゃありませんか」

「な、何言ってるかわからないっすけど、べべべ別に、あんたを食おうって訳じゃないっす! ただ、あんたの赤ん坊は元気にしてるか、聞きたいだけっす!」

 シダは、気圧されながらも、何とか敵意がない事を伝えようとするが、当然だが通じない。ラップの目に不穏な光が宿る。

「何を唸っているのかしら、お行儀がなってませんこと。それに、そちらの貴方、この前は見逃して差し上げたのに懲りもせずやって来るなんて、まさか、わたくしの赤ちゃんを狙っているのかしら? そんな事させませんわ……可愛い赤ちゃん、母様が必ず護ってあげますからね。猫さんになんて負けませんことよ。二匹まとめて、返り討ちにして差し上げますわ。

 覚悟なさいませ、目玉をほじくり出して、手足を噛みちぎって、中身の無さそうな頭をかち割って、他の猫さんが近づかない様、見せしめに樹に吊るしてやりますわ!」

 ラップが、一直線にシダとガラとの距離を詰める。

「〈怖ぁっ!〉」

 フウガとクウガが同時に叫んだ。

 ガラ目掛けて、ラップが跳躍した。「ひっ」と息を漏らし、何とかラップを躱したガラは、直ぐ逃げられる体勢に入る。

 ラップはもう一匹の標的、シダを睨んだ。

「ぶっ殺してやりますわ……」

「なな、なんて言ってるっすか?」

〈分からなくて幸いだよ! 早く逃げて!〉

 腰の引けているシダに、ラップが躍りかかる。シダはぎりぎりでラップの蹴りを避けて転がり、慌てて起きあがる。ほぼ同時に、ラップが着地した足元でボキリと鈍い音が鳴った。そこに転がっていた木の枝が折れているのを見て、一同は目を瞠る。

「早くラップの縄張りから出ろ!」

 躊躇しているシダに、ガラが逃げながら叫ぶ。

 再びラップが跳躍した。

 同時に、シダはガラと別の方角へ逃げ出す。

 攻撃を躱されたラップは、シダの後を追い始めた。

「よ、よし、取り敢えず、あのラップの匂いは憶えたぞ。早く巣を探そう」

 フウガは、さっきまでラップが立っていた地面を嗅ぎ、匂いを辿り始めた。

〈怖かった……シダとガラには悪いけど、俺達が見えてなくて本当に良かった。言葉が解るのって、良い面ばかりじゃないんだね……シダとガラ、大丈夫かな〉

「大丈夫だろ。赤ん坊を巣穴に残してるから、ラップの縄張りから出れば深追いはしないと思うぞ。それに、シダの奴、言うだけあって結構強かったしな」

 ちび魂が、フウガの背でぴゃあぴゃあと鳴き出した。

「よしよし、もうすぐ家に着くからな。母さんも、じき帰って来るぞ」

〈やっぱり、さっきのラップはお嬢ちゃんのお母さんなの?〉

 ちび魂をあやし、フウガは頷いた。

「においが薄いから判りづらかったけど、ちびのにおいとよく似てた」

 フウガは時折立ち止まり、また地面を嗅ぎ、歩く。やがて、一本の樹の前で足を止めた。木の根や落ち葉で隠された狭い入口を探し当てると、ちび魂を背から下しそっと銜え、ラップの巣穴に潜り込んだ。

〈結構広いんだね。それに、ほんのり明るいよ〉

 巣穴の中は、フウガが伏せなくても動ける程の広さがあり、足元には柔らくならした枯れ草が敷かれ、地面の下でも、息苦しさを感じない程度に空気の出入りもある。

「根っこを支えにした天井から、明かりと空気を取り込めるようにしてあるのか。よく出来てる」

 巣穴の奥の、一際柔らかそうな枯草の山を覗き込むと、生まれて幾日も経っていない様子の赤ん坊が四匹、寄り添って眠っている。

 フウガは赤ん坊のにおいを嗅ぎ、一番身体の小さい一匹の上で動きを止めた。口元を寄せ、ちび魂を赤ん坊に乗せようとすると、それまで大人しく銜えられていたちび魂が身を捩り抵抗する。

 むずかるちび魂に、フウガは言い聞かせた。

「駄目だぞ。身体から長いこと離れてると、帰れなくなるかもしれないんだ。外遊びは、もっと大きくなってからだ。それに、母さんが心配するだろ?」

 途端に大人しくなったちび魂を赤ん坊にそっと乗せると、魂は鳴きながら難なく肉体に吸い込まれた。無事肉体に帰還した赤ん坊は、何かを探すようにもぞもぞと動き、ぴゃあぴゃあと鳴き出した。

 宥めようと伸ばしたフウガの舌が、赤ん坊の身体を通り抜ける。身体に戻ったちびラップとフウガは、触れ合う事が出来なくなっていた。もう、ちびラップがフウガの存在を感じる事もない。

 それでも、フウガは愛し気にちびラップに鼻を寄せ、においを嗅ぐと再び舐める仕草をした。

「もう、迷子になるなよ」

「ぴぃ」

 まるでフウガの声が聞えた様に、赤ん坊は小さく鳴く。その時、母ラップが慌てて巣穴に入って来た。

 寝床の赤ん坊を一匹一匹確かめるように顔を寄せ、鳴いているちびラップの頭を優しく舐めた。

「まあ、やっと目が覚めたのね、お寝坊さん。ずっと眠っているから、母様はとても心配しましたのよ。悪い猫さんも追い出しましたし、安心してあなた達におっぱいをあげられますわね」

 母ラップが横になると、次々と目を覚ました赤ん坊ラップ達は、早速柔らかな母の腹に顔を埋める。

 フウガとクウガは、暫くの間その様子を眺めた。繰り返される、穏やかで当たり前の、過去を未来へ繋ぐ愛しい時間が静かに流れる。

「またな」

 フウガとクウガは、そっとラップの巣穴を後にした。


 神界に戻り、事の顛末を報告し終えたフウガとクウガは、再び密林に降り立った。

〈……寂しい?〉

「いや、無事母さんに会わせてやれて、安心した」

〈俺は、ちょっと寂しいかな〉

 フウガは少し笑った。

「悪い、嘘吐いた。本当は俺も少し寂しいぞ」

〈赤ちゃん達、可愛かったね〉

「そうだな。母さんはおっかなかったけどな」

 フウガとクウガは吹き出した。

〈母は強しって言葉、まさか物理的な意味だとは思わなかった〉

「だな。ちびの奴、きっと母さん似だな」

 フウガはラップの巣穴を離れ、川沿いを歩いた。川面に反射した日差しが、周囲の樹々を光の網で捉え揺らめく。

 その内の一本の樹上に、クウガが特徴的な毛柄の獣を見付けた。

〈フウガ、あそこ!〉

「こんな所に居たのか。おい、シダ、無事か?」

 フウガとクウガの声に、ぐったりと太い枝に凭れていたシダが頭を起こした。

「あ、兄貴……。ちびちゃんは、どうなったすか?」

「巣穴に戻したぞ」

 シダは、ちび魂があの大きなラップの赤ん坊であったと聞くと、良かったっす、と、嬉しそうに呟いた。

〈こんなに早く届けてあげられたのは、シダとガラのお陰だよ。ありがとう〉

「うん、助かったぞ、ありがとうな。そう言えば、ガラはどうなったんだ?」

 シダの話によると、別の方角へ逃げたから詳しくは判らないが、あの後もずっとラップは自分を追って来ていたから、ガラは無事だろうとのことだった。

「多分、塒に戻ってると思います。オレも、もう戻るっす」

「俺達も一緒に行ってもいいか?」

「もちろんっすよ」

 シダは枝を蹴ると、殆ど音を立てず着地し、フウガと並んで歩き出した。

 フウガは、他にも迷子が居ないか周囲を確認しながら歩き、或ることに気付くとシダに訊ねた。

「お前、俺が見えるってことは、他の幽霊も見たことあるのか?」

「今更ですけど、ユーレーって、何なんすか?」

〈何らかの事情、例えば死に因って、肉体を失った精神だけの存在、かな?〉

「…………」

 真剣な顔で黙り込んだシダに、フウガが通訳する。

「死んだ奴やお前が食った奴を、その後見掛けたことはあるか?」

「あー、あるっす、あるっす! サーセン、難しくて分んなかったっす。クウガさんは、知的な雄ってヤツっすね!」

〈……何か、ごめん〉

 シダの話によると、捉えた獲物を食べた後などに、稀に見掛けることがあったらしい。

「何もしてこないし、こっちももう腹は膨れてるから無視してると、いつの間にか居なくなってて、不思議だなーとは思ってたっす。あれがユーレーなんすね」

 不都合も無かったし、特に深く考えずに過ごして来たのだろう。

 でも、と、シダは首を傾げる。

「オレ、ちびちゃんは全然見えなかったっすよ。何でなんすかね? それに、何でちびちゃんは巣の外に出たんだろう?」

 クウガも同じ疑問を抱いていたが、フウガには察するところがあるようだった。

「シダに見えなかったのは、多分、ちびの身体が生きてたからだ。なるべく気配を消して、捕食者に見つからない様にって、生まれ付き身体にそう刻み込まれてるんだと思う。死んだら、隠れる必要はないからな」

〈で、見えないのをいいことに、シダの頭を叩いたりしてた、と〉

「そこはまあ、ちびの個性ってやつだな」

「ははは、ちびちゃん、お転婆っすね」

〈シダは大物だね……ああ、そうか! 俺、ちびちゃんが外に出た理由、なんとなく解ったかも〉

 気付いたクウガに、フウガは「多分、合ってるぞ」と含み笑いをする。

 昨夜、母ラップは縄張りへの侵入者を追い出す為に巣を出た。勿論、その侵入者とはガラのことだ。ちびは母が出て行く気配に目を覚まし、後を追ったのだ。それは不安からではなく、母の行動への好奇心だったのだろう。だが、まだ目も開ききっていない身体は上手く動かない。

 自分の周りに、一体何があるのか知りたい。動きたい。見たい。冒険心がちびを突き動かす。そして成功したのだ。身体を置いて行くという方法で。

「何だ、じゃあガラが兄貴達を手伝うのは、そういうウンメーだったんすね。それにしても、身体を置いてくなんてこと出来るんすね」

〈普通は出来ないよ。強い精神力とか体質とか、運や色々な要素が絡まってる事だからね。でも、結構危ないことだし、もうちびちゃんが生霊にならないように、俺達が処置しておくよ〉

 やがて、シダが鼻先で前方を示した。

「見えてきたっす。あの樹の上がオレ等の塒っす」

 それは、密林の中でも珍しい種類の、大きく四方に太い枝を張り巡らせた、立派な樹だった。

「ガラ、帰ってるだろ?」

 シダが樹上に声を掛けると、枝の間からガラが顔を覗かせた。

「遅えよ」

 ガラは枝を蹴り、シダの目の前に優雅に着地し、ぶっきらぼうに言った。

「まったく、えらい目にあったぜ。で、ちびはどうなった? 兄貴とやらは、まだ居るのか?」

 ガラは、ちびが無事身体に帰れたと聞くと、安堵した様に小さく息を吐き、慌ててそっぽを向いた。

「お前の話に乗ってやっただけで、別に、そこまで気になってたわけじゃ無いけどな」

 フウガは苦笑した。

「シダとは別の意味で面倒くさいな」

〈だね。それより……〉

「ああ、わかってる」

 フウガが、気の良い兄弟に頭を下げる。

「シダ、ガラ、本当にありがとう。すごく助かったぞ。

 そのことについて、お前達に良い話と悪い話をしなきゃいけないんだ。まず、悪い話からだ。俺達より偉いカミサマからの提案だ。断ってもいいけど、出来れば受けてくれ。

 お前達の記憶の一部を消させてほしい。記憶を消すなんて嫌だろうけど、これからもここで暮らすなら、ちびに関する記憶は無い方がいいと俺も思う。もちろん危なくないし、消すのは最低限にするって約束する」

 シダも、シダに通訳してもらっているガラも、あっさりと了承した。

「解ったっす」

「オレ等とラップの関係じゃ当然っていうか、互いに憶えてていいことなんてないってのは、解ります」

 フウガは頷いて、続きを切り出した。

「次は、良い方の話だ。

 カミサマ達に、お前達に礼をしたいって相談したら、それぞれの願いを一つだけ叶えていいってことになったんだ。あんまり難しいことは無理だけど、幽霊を見えなくしてほしいとか、もう少し強くなりたいとか、素敵な雌と知り合いたいとかなら、すぐに叶えるぞ」

 俯き、難しい顔で考え込んだ二匹は、暫くして顔を上げた。

「なにもいらないっす。ユーレー見えても困らないし、オレ、結構強いんで!」

「オレも、別にいらないかな。雌にも不自由してないし」

〈ちなみに、〝雌と知り合う〟までがお礼で、後は自分達でどうにかして貰うことになるよ〉

「え……じゃあ、増々いらないっすよ……」

 結局、二匹の大猫は「神様(候補)からのお礼」という幸運を受け取る気は無いようだった。

 彼等からすれば、フウガ達を手伝う事になったのは気紛れの様なものであり、ちび魂が身体に帰れたのはそこに付随する出来事に過ぎず、感謝される理由が心底わからないのだ。それが、一体どれ程稀有な事なのかは思慮の外なのである。

 だが、それでは困る者がいた。

〈フウガにも感じる事があるけど、シダもガラも欲が無いね。でも、俺はちょっと困るかな。手伝ってくれてありがたかったし、嬉しかった。だからお礼がしたい。俺の気持ちを受け取って欲しいと思っちゃうんだ〉

 とは言え、感謝を押し付けるのは何か違うし、と、悩むクウガに、シダが目を輝かせた。

「だったら、これからもここに居て欲しいっす! ケンシューが終わったら、兄貴達は縄張りに帰っちゃうんすよね? 折角、兄貴になってもらったんだし、ケンシュー無くても居て欲しいっす! 稽古つけて欲しいっす!」

「兄貴になった覚えはないって、何度も言わせるな。俺もクウガも、まだ縄張りでやらなきゃいけないこと沢山あるんだ。それに、稽古なんてつけられないぞ。

 でもまあ、休みの日に友達を訪ねて、ついでに遊びながら身体を動かす、ってことならしてもいい、かな」

 シダはしょんぼりと肩を落としたが、漸くしてフウガの言葉の意味が理解出来ると小躍りし、その勢いで、興味無さげに欠伸をしているガラに頭突きした。

「何だよ、痛えな。何言われたんだかわからんけど、オレを巻き込むなよ」

「悪い悪い。そうだ、ガラは兄貴達が見える様にってお願いしろよ。そんで、一緒に遊ぼうぜ」

「興味無ぇ」

 うんざりとした顔のガラを見て、シダがはっとした。

「大丈夫だ、安心しろよ、兄貴はカッケーし、ユーレーはただ見えるだけだ。どっちも怖くねーからさ」

 本心から宥める様なシダの態度に、苛ついたガラが怒鳴った。

「別に怖く無ぇよ! 鬱陶しい顔やめろ! いいぜ、兄貴とやらを見えるようにして貰えばいいんだな?」

 その途端、ガラの目の前に大きな黒犬が姿を現した。

「本当に、こんな願い事でよかったのか? あ、俺、フウガ。よろしくな。あれ、どうした、ガラ? 見えてるよな?」

〈俺はクウガ。宜しくね、ガラ……ガラ? えーと、ちょっと、そっとしておこうか〉

 これまで見えていた世界の突然の変化に、ガラは硬直していた。が、思いの外すぐ我に返り、「しまった」と歯噛みする。

「ん、どうした?」

「折角なら、シダの馬鹿を治して貰えばよかった」

 ガラの残念そうな呟きに、フウガが首を振った。

「あんまり難しいことは無理だって言っただろ」

「ああ、じゃあ、駄目か……」

 フウガとガラの会話を機嫌よく聞いていたシダは、暫し考え、意味が呑み込めると猛抗議した。

「オレが馬鹿みたいに言うな! そこまで言うなら、証拠出せ、証拠!」

「今の間が充分な証拠だぜ」

 憤るシダを、クウガが優しく宥める。

〈シダは凄いよ。明るいし、細かいことに気を取られない。だから、治す必要なんて無いよね〉

 シダは機嫌を直し、照れ隠しの様に毛繕いを始める。

「馬鹿を否定された訳じゃないのに……」

「シダは気付いてないし、良いんじゃないか? クウガも嘘ついてないしな。

 さて、俺達は研修の続きに行くぞ。シダ、ガラ、またな」

〈ちびちゃんに関する記憶は、一眠りして起きたら無くなってるからね〉

 途端に、シダとガラは強い眠気に襲われる。彼等は大樹に登り、それぞれお気に入りの枝に寝そべって目を閉じた。

「おやすみなさい、兄貴……」

「…………」

 フウガは大猫達が寝入ったのを確かめ、そっと立ち去った。


 それから幾つもの月の満ち欠けの後の密林で、必要以上にラップに怯える大猫の兄弟と、小柄で恐れ知らずなラップが出会い、奇妙な友情を結ぶことになる。彼等は後にこう語った。

 きっと、()()()()()()()から、そうなる因縁だったのだろう、と。

 やがて、言葉も生活もまるで違う、一風変わった彼等の関係は、時折現れる幻の様な黒犬の噂と共に、密林の語り草となった。

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