第74話 嵐
* * *
僕らが客室に籠って一時間ぐらい経った時のことである。船の揺れはずいぶんと大きくなってきていた。そんな中、突如部屋の外で何かが破壊される様な音が聞こえた。
「な、何の音かしら?」
さっきまで真横に居るゼロの頭を頻繁に撫でていたネイが、その手を止めてそう言った。ロクシーもネイと同じようにベッドに座っている。
「よもや海獅子海商の船の砲撃が当たったのでござろうか?」
壁に直に据え付けられた長椅子に座っているデルファが言った。その隣にいるフェルミは炒り豆を食べている。
「部屋の外に出て様子を見てこようか?」
皆を見渡して僕は言った。僕だけが扉を背に立っている。
「邪魔しに行かない方が良いわ。彼らは今忙しいはずよ。だから此処に居た方が良いわ。」
僕の提案を止めるネイ。じっとこっちを見て何かを訴えてきている様だったが………。
「そうするよ。」
僕は続けて心の中でリダに話しかけた。
『リダ、外の様子を見てきてくれないか?』
「契約者の命令なら仕方がない、と言いたいところじゃがそれは無理じゃ。」
リダはデルファの膝に腰かけながら言った。もちろんデルファは気づいていない。
『どうしてだい?』
「妾の知覚は、ロックを通してのみ得られる。つまり、ロックが見聞きしている情報だけが妾が知りうる情報と言う訳なんじゃ。」
『なるほど。じゃあ、今僕の背後で何が起こっているかも分からないってことだな。』
「そう言うことじゃ。術式が解放されるまで待つことじゃ。」
『その言い方だと、まだ僕には使えないけどリダはそういう術式を持っているってことなんだな?』
「そうじゃ。ただし正確には喰って吸収したんじゃ。」
『え? 喰った?』
「ああ喰った。ロックが持っていた顕現魔素体ごと喰った。」
『ええ? それって僕が生まれつき持っていたというやつかい?』
「なかなか複雑で深い味わいの顕現魔素体であったぞ。」
『それって、僕が猫と意識を交換する術式を持ってたんじゃないか?』
「まぁそう慌てるな。その術式は妾の聖刻に依って利用できる。じゃが、今までの様に能力としては使えん。詠唱を介してのみ使えるのじゃ。つまりこれでロックも立派な詠唱魔法使いとなった訳じゃな。」
上目遣いで微笑むリダ。
何てこった。また僕の意見を聞かれぬまま改造された……。
「どうした? 問題あるのかの?
あ、そうじゃそうじゃ、ロックに知らせておくことが二つある。妾が喰った顕現魔素体の名は『バステト』じゃ。それからロックが今使えるバステトの術式は『意識交換・猫』と『意識交換・人』の二つじゃ。いや、元バステトの術式じゃな。今は妾の術式じゃからな。」
と言い、くっくっくと笑うリダ。
「両方とも媒介指定は要らん。術式を呼び出した時に本人が対象と目を合わせているのが対象じゃ。その対象は人の姿の時は猫に限られ、猫の姿の時は人に限られるのじゃ。まぁ、これらは能力として使っておったから知っておるじゃろ? 能力で使える術式は媒介指定は設定できぬからの。」
「ロック? どうしたの? 呆然として。」
ネイが立ち上がって僕に近づいて来た。僕はずっとリダと会話をしていたのだから、呆然としていたと思われても仕方がない。
「あんた、まさか船が大きく揺れるのが怖いんじゃないでしょうね。そんなの許さないわよ。」
え? 許さない?
ネイの顔には若干の怯えが浮かんでいる。
「もしかしてネイの方が怖いんじゃないか?」
僕はネイに聞こえるぐらいの小声で聞いた。
「そ、そんなこと無いわよ。」
ネイは人差し指で僕の胸を突いて、
「することもないし暇だから寝るわ。」
といってベッドに潜り込んだ。そしてブランケットを頭から被って丸まってしまった。ゼロもその横で丸くなった。
「ワタシも寝ておきマス。」
ロクシーもネイに倣ってベッドに潜り込んだ。
「小生は起きておくでござるよ。いざとなったときにすぐ動ける様にしておきたいでござるからな。」
炒り豆を食べているフェルミは、咀嚼しながら黙って僕の方を見ていた。
「食べるのに忙しそうだな。」
「うん。」
* * *
――ネイがベッドに潜り込んで五時間は過ぎた頃である。
船は大きく揺れていた。何か掴まっていないと立っていられない程の揺れも時々あった。ネイは起きているのだろう。時々「きゃっ」と驚く声がブランケットの中から聞こえてくる。リダはネイの横に座っていた。背中をこっちに向けて寝転んでいるロクシーから声は聞こえてこない。
部屋の外では風が唸り船体が波に打たれる嫌な音が聞こえてくる。水夫たちの大声も聞こえる気がした。
「これは良くない状況でござるな。」
と、デルファ。
「まさか沈まないよな?」
「いや、正にそれでござるよ。早く嵐を抜けなければ夜になるでござるよ。そうなると波が見えなくなるので益々危険になるのでござるよ。それに、嵐を乗り越える時には波に向かって舳先を向けると思うのでござるが、それをしていない様にも感じるのでござる。あくまでも想像でござるが。」
デルファが言った。
「それは確かにまずいな。」
突然部屋の扉が開いた。そこにはずぶ濡れのアルテアが息を切らせながら立っていた。アルテアは扉を閉めて、
「大変申し訳ありません。もう手が残されていない状況です。ゲルビーツ船長からは総員退船許可が発せられました。ですが、水夫は一人も退船していません。船客であるあなた方も、ボートが一艘ありますのでそれを使って退船していただいても構いません。ですが、当然お勧めはしません。」
アルテアはまるでこの船が沈むような事を言った。
「え!? どう言うことなんだ?」
「この船は嵐に耐えられないと思われます。」
「どこか壊れたのかい?」
僕の質問に、少し息を整えながらアルテアは答える。
「かなり運の悪いことに、海獅子海商の船の砲撃が本船に当たったのです。船尾の何処かに当たったけれど最初は被害は無いと思っていたのです。しばらくして海獅子海商の船も嵐を避けるためにブラック・スノーボール号から離れていきました。我々も嵐を避けるための準備をしていたのですが……。」
「重要な部位が壊れたのでござるな。よもや舵でござるか?」
デルファが声のトーンを落として聞いた。
「どうしてそれを?」
疲弊した顔のアルテア。こめかみから一筋の滴が流れ、顎から落ちた。
「操船していない様に感じたのでござるよ。」
「……そうですか。砲弾が当たった場所は船外の舵と舵櫓の接続部分だったのです。被弾したときに傷が入ったのでしょうね。それに気づかず大きく舵を取ったときに完全に壊れてしまいました。そのため、操帆だけで嵐から離れようとしたのですが、風向きが悪く思う様に行きませんでした。」
「僕らはどうしたら良いんだ?」
「正しい答えは分かりません。ボートで退船するのであれば身体を何か浮く物にロープで縛っておいた方が良いでしょう。あのボートではこの嵐を乗り切れるはずがありません。この船に残るのであれば此処から出ないでください。開口部はしっかりと閉じて海水が入り込まない様にしてください。我々はまだあきらめていませんから! それでは。」
そう言ってアルテアは風が渦巻く部屋の外に出て行った。
「航海に慣れている筈のアルテア達も、今回は危険な状況だって言ってるわ。どうするのよ?」
いつの間にかネイが起き上がって僕にしがみついて来た。小刻みに震えている。
「僕には思いつかないな。大丈夫か? ネイ。」
デルファを見てみると何やらずっと考えている。フェルミは両手を上げてお手上げの身振りをして見せた。ロクシーはブランケットから出てこない。ゼロはロクシーの足元に座っていた。
「私もブランケットの中で記憶を検索してたんだけど、良い手は見つからなかった。船乗りであるゲルビーツ船長達が容易に思いつくような手しか出てこなかったわ。」
『リダ、何かあるかい?』
心の中でリダに聞いた。
「妾には転送系の術式は無いな。修復系も無い。舵の代わりの操作系や舵を直接操作する系統の術式も無いな。もちろん風の制御もじゃ。」
「転送系か……。転送部屋を今ここに作るのはどうなんだ?」
僕はデルファを見ながら言った。デルファの前髪の隙間からちらりと片目が見えた。こっちを見ている。
「それは時間が掛かりすぎるのでござる。専用の部屋をつくることころから始める必要があるのでござるよ。それよりもロック殿、相談があるのでござるが。」
「なんだい?」
「このまま何もせずに運に任せて嵐を乗り切るか、あるいはもう一つの運任せの方法を取るか、どっちが良いでござるか?」
「両方とも運任せか……。」
「助かる確率はどっちが高そうなのよ?」
僕の左腕をしっかりと抱きかかえたネイが割り込んできた。
「助かるという観点ではどちらも似た様なものでござる。ただし、長い期間漂流しても食料調達手段がある我々の場合は、後者が若干有利だと思うのでござるよ。晴天であれば舵の修理も可能でござろうし。」
「フェルミのおやつの調達方法ね。シィに連絡すれば別のものも持たせてくれるわね。」
僕の左肩に自分の額を押し付けながら言うネイ。
「そうでござる。」
「それなら後者ね。」
ネイはきっぱりと言った。
「それとお願いが有るのでござる。」
「なんだい?」
僕はデルファに言った。
「後者の場合は小生が魔法を使う必要があるのでござるが、恐らく小生、ずっと眠ってしまうのでござる。であるからして、時々無理やりにでも起こして水と食料を補給して欲しいのでござる。」
「それ程恐ろしく魔力を使うのね。もちろん世話をするわよ。元魔女の知識を総動員してね。衰弱しきった人の世話ぐらいお手の物よ。ところで、何をするのよ?」
僕の左腕を離さないまま、デルファの方に顔を向けたネイが言った。
「船まるごと無作為転送するでござる。最悪陸地に乗り上げるかもしれないでござるが、それはそれで運が良いでござろ?」
「どのくらいの距離を跳ぶんだい?」
空いた右手を壁に付けバランスを取りながら僕はデルファに聞いた。
「それこそ無作為でござる。」
「跳んだ後に、時間をかけて転送部屋を作るんだな。デルファが目覚めた後に。」
大きく船が揺れた。小さな悲鳴と共にネイの腕に力が入る。
「そうでござる。早速始めるでござるよ。フェルミ殿、これを持って真ん中のマストがある甲板に居ていただけるか? 外の様子が変わったらここに戻ってきて良いでござるよ。」
そう言うとデルファは例の縁結びのお守りをフェルミに渡した。揺れる船内でも余裕でバランスを保っているフェルミ。
「フェルミ、念のためにワイヤーを準備して、移動する間はブーストしておいてくれ。」
僕はフェルミに言った。
「分かったばい。チェンジ、イエローキャット。」
一瞬のうちにフェルミが戦闘装備姿に変わる。
「これは置いてくばい。」
フェルミはクロガネをそっと床に置き、シィによって補充されている炒り豆入りの袋を僕に渡した。僕はそれを右手で受け取り、ネイがしがみついて自由が利かない左手に持ち替えた。それを確認したフェルミはフックに取り付けた投げナイフを扉の横の壁に突き立て外に出て行った。
そしてその少し後、デルファは昏倒しても良い様にベッドの上に胡坐をかいて詠唱を始めた。ゼロがデルファの正面に移動している。
「グローリアちゃんの聖刻に依りて呼び求める。来たれ転送の力、来たれ識別の力、来たれ球形空間固定の力。一つ、識別対象は縁結びのお守りなり。一つ、球形空間固定の中心は識別の仕儀なり。一つ、球形空間固定の半径は十五メートルなり。一つ、転送対象は球形空間固定の仕儀なり。一つ転送先は、……無作為なり。識別、球形空間固定、転送発動!」
その時、目の前が真っ暗になり船ごと落下する様な感覚になったがすぐに元に戻った。そして今まで激しかった船の揺れはすぐに無くなった。デルファの様子を見てみると、すでに横になって寝息を立てていた。
「どの位寝るんだろう。」
「これだけの魔法を使ったのだもの、一カ月あるいは数か月寝てもおかしくないんじゃない?」
左腕にしがみついたままのネイがその評価を改めたかの様にデルファを見ていた。
「すごい魔法使いじゃな。瞬発的に利用した魔力量が桁違いじゃ。」
いつの間にかネイとは逆側の胴にしがみついているリダも、デルファを見ていた。
「さてと、外に出て様子を見る必要があるわね。あとアルテアにも事情を説明してここがどこなのかを早く目途付けしてもらわないとね。」
揺れが収まると、何も無かった様に平然と構えたネイはそう言った。先ほどの怯え具合が嘘の様だ。
「僕も行くよ。ロクシーはどうする?」
ロクシーからの返事は無かった。まるで眠っている様だ。
……まさかな。
デルファとロクシーを置いて、僕とネイとゼロは外の様子と確かめるべく、部屋を後にした。




