孔雀
待ちわびていた…
やっと言える。
愛しています…
私は少しだけ変わった名前で育った。雀と書いてルリと読む。
学生の頃は鳥の「雀雀」とからかわれたりもしたが私はこの名前が好きだった。大好きな孔雀の雀だからだ。幼い頃から孔雀が好きだった。
気品をかんじる佇まい。オスだけがもつ芸術作品のような羽。求愛行動で羽を広げると2メートルにもなると言う。孔雀の世界のイケメンは羽の美しさで決まるらしい。
そんな孔雀好きな少女は今年で30歳になる。結婚をして10年たったが子供を授かる事はなかった。長年勤めていた仕事も体調不良で退社したばかりだったので、いわゆる専業主婦という仕事をこなしていた。
「毎日何してるの?暇じゃない?」
と聞かれる事もあるが、生い立ちなのか私は暇を楽しむ事が得意だ。
人といるよりも1人でいる方が、楽だし楽しめる性格だった。
たまにランチをする友達もいたが
ほぼ私は1人遊びを楽しんでいる。
その日もよく通っている市民図書館に行こうと決めてバスに乗った。
バスで20分ほどで、1階建てのこじんまりとした図書館に到着する。
入り口までは30段ある階段を登っていかなければならない。少し手間がいる、お気に入りの図書館だった。
28……29……30!到着と同時に右手にある大きなイチョウの木を見た。
このイチョウは紅葉のシーズンになると黄金色に綺麗に色づく。今まさにそのシーズンだった。
イチョウの木の下には木製のベンチを置いている。本を借りてそのベンチで休憩をして帰るのが私のパターンだった。
そのベンチに人が座っていた。キャメル色のコートを品よく着こなした、くせ毛風の髪の毛をした同年代くらいの男に見えた。
タイプだった。一目惚れをしたと言っても問題ないだろう。けれど何かが起こるわけでもない。私にとってはよくある日常だった。
そのはずだった……
男の前を通り過ぎようとしたその時、なんの前触れもなく強い風が吹いた。私はなんとなしに男を見た。
風をよける為か両手でコートの襟をたてていた。くせ毛風の髪がなびいている。その男の周りを黄金色の紅葉が無数の枚数で包み込んでいた。
「あ……」涙が止まらなくなった。
何故涙が出るのか分からなかった。
ただただ見惚れていた。世界が止まっているような気がした。
この感情をどう扱っていいのか困惑していたが、男が私の視線に気づき目があった事で私は解放された。
「ごめんなさい」呟くように私は涙を拭った。急いで男の前を通り過ぎ図書館の入り口に向かった。中に入り目についた本を持ち椅子に腰を下ろすと、ようやく落ち着いてきた。
「さっきのは何だったの?」
自分の感情をもて余していた。
けれど本当は分かっていた。
今回の一目惚れは今までとは違う事。一目惚れという言葉には収まらないような感情なのだという事に。
せっかく来たのだからと2冊ほど本を借りて外にでた。
あの男がまだベンチに座って本を読んでいた。「なんて美しい男だろう」そのまま絵画になりそうな雰囲気だった。私は緊張しながら前を通り過ぎようようとした。その時
「さっきの風」
「!……」
「驚きましたね。大丈夫でしたか?」
「あ……はい。平気です。ごめんなさい」
「さっきもごめんなさいって言ってましたね。面白い方だなぁ」
私はなにがなんだか理解できなかった。何故話しかけてきたのだろう。私は会話をしている。
困惑、喜び、恥ずかしさ、今考えると、あの時の私はずいぶん
みっともない声や顔をしていたんだろうなと思う。
勇気を振り絞り、「あなたなんてなんてことないわ」のふりをしながら聞いてみた。
「ここはよく利用するのですか?」
「ええ。古本屋を経営するほど本が好きなもので」
男の微笑みは素晴らしく私を魅了した。少し憂いを帯びた微笑みが男の特徴のようだった。話しをしていくうちに、どんどんと
緊張が解れていき会話を楽しめるようになってきた。
二人ともあまり話すタイプではなかったので、質問をしては答え答えのような感じではあったが、あっという間に時間が過ぎていった。
「もうこんな時間」
「そうだね」
「そういえば不思議だけど、まだ名前を聞いてなかった。私はルリだけどあなたは?」
「トオリ」
「トオリ……」
「トオリって呼んでもいい?」
トオリとの出逢いだった。
それからは図書館で偶然会えば
話しを楽しむようになった。連絡先を知らないので必然的に偶然を期待するしかなかった。
連絡先の交換には抵抗があった。既婚者の負い目というものだろうか。彼は既婚者かどうか聞いた事はないし、彼からも何も言われていないがどうやら独身のようだった。会話の節々に独身のそれを感じていたからだ。
ある日私は彼に提案をした。
「今からあなたの仕事場に行きたいな」
「いいよ。行こう」
柔らかな笑顔だった。
なんだか幸せだった…
彼の古本屋は図書館から歩いて10分ほどで到着した。
大通りに面したお店が並んでいる場所で、花屋、古本屋、定食屋、少し離れた所には美容室があった。人通りも交通量も多いので少しだけ驚いた。彼のイメージではなかったから。
しかしお店に入って安堵した。
私がイメージしていた通りの彼の古本屋だった。落ち着いた温もりを感じる、時が止まったような雰囲気だった。
彼から珍しい本を教えてもらい「新しいジャンルに挑戦しようかな」と家路についた。
彼と会話をしていくなかで私は大好きな孔雀の話しをよくした。「いつかイタリアの白孔雀を見に行くのが夢なんだ」
日本にも白孔雀を見ることが出来る場所はあったが、私は以前テレビで見てあまりの気品高さに目がはなせなくなった白孔雀。
イタリアのボッロメオ宮殿にいる
白孔雀を見たかった。
そんな話をしていると
「行こうか?イタリア」
「え……」
「どう?」
答えは決まっていた。夫は私に無関心なのかどこに行こうと何も言われた事がなかったので、考えることなどなく言った。
「いつ?」
イタリア行きが決定した。
彼と出会ってから半年たらずで、
まさか二人でイタリア旅行にいくとは思ってもなかったが私は嬉しすぎて既婚者のマナーも忘れていた。
夫以外の男性と二人で海外旅行など
世間からみればタブーなんだろう。
しかしその時の私は「孔雀に会いに行くだけだ」とタブーと勝負していた。
イタリアに旅立つ日がきた。
彼を空港で待っていると暫くしてから彼が現れた。「女性らしい格好をしてれば良かった」と自分に反省をしたがもう遅い。私は普段着で
男性の色気にみちた彼を迎えた。
イタリアは素晴らしかった。宮殿に行く前に観光もしたが、どこも素敵だった。はしゃぐと言う言葉は私の辞書にはなかったはずだが、
これが「はしゃぐということか」と理解出来た。なにより彼が眩しすぎた。
写真を撮りたかったが、例の既婚者のマナーで二人の写真を撮ることはしないようにした。
イタリア旅行二日目。部屋は別なのでホテルのロビーで待っていると
「おはよう。これプレゼント」
後ろから突然声をかけられ驚いた。「びっくりした!」
「プレゼント……」
「プレゼントってものでもないけど
昨日見つけたんだ」
彼が手渡してくれたのは、白孔雀のポストカードだった。嬉しかった。
私の為に買ってくれたと思うと、踊りたくなるくらい嬉しかった。
「有難う」
微笑む彼に私はお礼を言った。
今日は快晴で気分がいい。その上プレゼントまで用意してくれる素敵な男性と念願のボッロメオ宮殿に行けるなんて、なんて幸福なんだろう。
私は幸福を噛み締めながら彼の後を歩いた。
マッジョーレ湖についたところで遊覧船に乗りベッラ島に到着した。
さあ白孔雀に会える!!
宮殿は感想をあえて述べる必要もないほど完璧だった。私は幼い子のようにワクワク浮きだっていた。
宮殿を抜けると庭園に出る。
「!……」緑の芝生に真っ白な孔雀が優雅に座っていた。
テレビで見たよりも遥かに
気品あふれる姿だった。
いるだけで周りの全てを自分の物にしているように感じる。
私は夢中になって写真を撮った。目に焼き付けるだけでは物足りなかった。
気がつくと彼を見失っていた。
「どこ!!」
私はさっきまで夢中になっていた白孔雀の事などどうでもよくなって、広い庭園を 探して探した。
「見つけた」
彼は座っていた。ベンチにだ。
彼にベンチはよく似合っていた。
遠くからでも彼の姿ははっきり見えた。初めて会ったあの時のように又涙がでてきた。見ているだけで涙がとめどなく流れてきた。あの時よりも遥かに感情が高ぶっていた。
「なぜこんなに恋しいの……
このままこの恋しさの中で死んでいきたい。頭も身体も心も、私を作る全てがあなたを求めている。今この瞬間に命を終えたい……」
立っていられなくなり私はその場にへたりこんでしまった。
彼が気づいたのかこちらに向かって歩いてきた。
「どうかしたの?なぜ泣いてる?」
彼の胸に自分を預けてしまいたかった。この恋しさを伝えたかった。
けれど出来なかった。夫の顔がちらついた。
「大丈夫。孔雀に感激して感情が安定しないみたい」と笑った。
私は臆病者の卑怯ものだ。
帰国をしてから彼とはまだ一度も会えていなかった。図書館に行けば
偶然という奇跡が毎回おこっていたのに、それがない。
「今日もいない……」
私は不安になってきた。もしかしたらイタリアでの出来事で嫌われたのかも知れない。そんな素振りをみせないのは大人のマナーだったかもしれない。
会えないと逢いたさはどんどん募っていく。彼の悲しい微笑みを見たい。彼の声を聞きたい。本のページをめくる指を感じたい。逢いたい。
逢いたい。逢いたい……
気がつくと私は歩いていた。図書館から彼の古本屋までは10分も歩けばつくはずだったが、歩くのももどかしく走った。走るなんて何十年ぶりか分からなかった。それほど彼を求めていた。
「確かここだったよね」
彼から案内された場所のはずだった。花屋、古本屋、定食屋、少し離れた場所に美容室。それが今は少し変わっていた。花屋の隣が空き家になっていた。私は困惑した。
「古本屋がない。彼はどこにいったの」
空き家を覗くと古びた内装で私が知っている場所ではなかった。
半年もしないでこんなに朽ちるものだろうか。私は隣の花屋に聞いてみる事にした。
「すいません。お尋ねしたいのですが、隣にあった古本屋はどうなったかご存知ですか?」
「隣?隣はもう何十年も空き家ですよ。古本屋があったの?」
怪訝そうな顔つきだった。
「……間違いないですか?何十年も空き家なんですか?」
私はパニックになった。彼と古本屋はどこに行ったのだ。
今までの事は夢だったのか。私の得意の1人遊びをしていただけなのか。
私は走った。家に帰らないと。
家にはイタリア旅行の証拠がある。
私は彼とイタリアに行ったんだから!
家につくと机にしまっておいた箱を取り出した。イタリア旅行記念ボックスと名付けているお洒落な入れ物だ。写真を見る。芝生に品よく座っている白孔雀の写真がある。イタリアの有名観光地を背に私1人がポーズをとっている写真も数枚ある。
私はイタリアには行っている。
けれど彼がいたかは写真では確かめる事は出来ない。当たり前だ……
写真を撮ってないのだから……
けれども彼がいた証拠は確かにあった。プレゼントをしてくれた白孔雀のポストカードだ。これは夢ではない。私は彼とイタリアにいた。
なのに彼は忽然と私の前から姿を消した。
あれから何度も図書館や周辺を探し回ったが見つける事はできなかった。何度も何度も……何年も何年も……
そのうち図書館よりも病院に行く回数の方が増えてきて、歩くのに杖が必要になってきた。バスに乗るのも辛くなってきたので夫の車で送迎してもらう日も増えてきた。けれどもそんな夫婦の日々も夫が先に旅立たという形で終わりをむかえた。
優しい人だった。臆病者で卑怯ものの私の人生を最後まで責任を持って勤めあげてくれた。
夫の姿を見ることがなくなってから暫くは物足りない日々だったが時間とともに慣れてきたある日のことだった。
その日は快晴で気分が良かった。昨日の夜は胸に違和感があって睡眠不足だったけれど、慢性化している膝の痛みが軽く感じる。杖なしでも歩く事ができるのは久しぶりの事だった。
「図書館に行こうかな」
ふと思い付いて外出の支度をした。支度を終えてバス停まで向かう間ワクワクした気分を味わっていた。バスに乗り図書館に着くまで外の景色を懐かしい気持ちで見ていた。
「……ご無沙汰しております。
30段の階段さん」
私は図書館入り口までの階段を見上げながら茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
最後まで登れるかの不安も少しあったが、ゆっくり登れば大丈夫だろう。一段一段ゆっくりと足元を確認しながら登っていった。
28…29…30!ようやく到着した。右手にあるイチョウの木が
黄金色に色付いていた。今まさに紅葉のシーズンだった。
イチョウの木の下には木製のベンチがある。そこに男が座っていた。キャメル色のコートを品よく着こなして、くせ毛風の髪をした美しい男。
「トオリ………」
私は老いた自分も忘れてトオリに歩み寄っていった。顔がはっきりと見えるまでの距離になるとそこから動けなくなった。
愛しい、苦しい、優しい、切ない、感情が入り交じって心の処理機能をこえた。この感情をどうしたらいいのだろう。泣き叫べばいいのか……
その気持ちとは別の所で、トオリに堕ちていく自分の幸福も味わっていた。
私が動けなくなると、トオリの方から私に向かって近づいてきてくれた。2人の間が吐息が聞こえるくらいの距離まで縮まった。
「ルリ、待ってたよ」
「待ってたってなに。今までどこにいたの」
「ずっといたよ。ここに。」
トオリはいつもの憂いを帯びた微笑みで私を見つめていた。
私はもう自分の年齢や老いた容姿も忘れていた。ただただ孔だけを感じていたかった。
「今だから言える事があるんだよ」
「なに?」
「ルリは雀って書くよね。トオリは孔って書くんだよ」
「雀と孔……_孔と雀………孔雀」
「そう。雀とは運命なんだよ」
普通の人ならこんな場合はどんな反応をするのだろうか。
意味がわからないって怒るのだろか。私はすぐに孔の言ってる意味が理解できた。そして言葉にならない幸せを身体中に浴びている気分だった。この気持ちを言葉に表せないのがもどかしい。どうトオリに伝えればいいのだろう。その時孔の手が顔に触れた。
「………」
孔と初めての口づけだった。
淡く優しく温かいシャボン玉の中にいるような気持ちだった。
私はその瞬間に、自分の人生が終わりを告げていた事に気づいた。私の冷たくなった身体を家に置いて出掛けてしまったんだなーと呑気な事を思っていた。
「さぁ行こう雀」
孔が優しく包んでくれていた。
私達はどんな孔雀になれるんだろう。孔有難う。やっと言える
。愛しています……