第40話
「……」
アクィラ神の泉から続く川沿いの道。俺は白い息を吐く。
軽い。体が軽い。良い気分だ。ぼんやりとした体は、俺の意のままに動く。ただ前へ。前へと命ずるだけで、俺の体は地を駆ける。空を目指せばふわりと舞い上がり、弧を描いて地を滑る。早く、速く。俺がそう望めば望むほどに、俺の体は加速してゆく。限界など感じない。倒れた巨木も、転がり出た岩も、関係ない。俺の行く手を遮るものは、何もない。
「は、はは」
思わず、笑みが溢れる。早い、早い。こいつはいい。億劫な上り坂も、鬱陶しい小枝も、気にならない。足元の小石に気をつける必要もない。俺の体はあらゆる障害物をすり抜け、風のごとく森を駆ける。これなら、どこへでも行けそうだ。
「……っと、はしゃいでる場合じゃないな」
ふと我に返り、一旦足を止めて深く息を吐く。
そう、はしゃいでいる場合ではない。俺にはやるべきことがある。落ち着いて、深呼吸をしよう。ゆっくりと息を吸って、吐く。霊魂の状態で深呼吸をするというのも妙な話だが、それでも少し心が落ち着く気がする。気の所為だろうが、気の持ちようは大事だ。
「(さて、どうしたものか)」
高ぶる気持ちを抑え、まずは状況を整理しよう。
目的地。目指すべき場所は、この道の先。それはわかっている。だがこのまま直行してどうにかなるという問題ではない。今の俺は霊魂、つまり死霊そのものだ。正面から訪ねていったところで、追い返されるに決まっている。ヴァレム神の使いだと言っても、取り合ってもらえるわけがない。
それ以前に、何やらピリピリしている様子だった。出来ることなら、刺激したくはない。直行するのはやめておこう。それよりもまず、確かめるべきことがあるはずだ。
「……」
ひとまずその場に座り込み、腕を組む。
そもそも、ここは何処だ。俺は今どこに居る。まずはそれを確かめておかないと。
「(と、言っても)」
当然ながら周囲の景色に見覚えはない。だが獣人の集落があるということは、少なくともヴィヴィアンの村からは遠い。あの辺りで獣人の集落を見たという話は聞いたことが無い。あの辺りの森は、隅々まで彼女の目が通っているはず。であれば、やはり間違いない。ここは恐らく俺が立ち入ったことのない北方地帯。獣人の領域であろう。
獣人の領域は、あの丘陵地帯から北へ向かっていくつか山を超えた先。ソラール様が振りまく光はここまでも届くが、彼女の暖かな温もりはあまり届かない。ゆえに気温が低く、雪と氷に覆われた極寒地帯であると聞くが……。
「(水は、流れているな)」
覗き込んだアクィラ神の川には透き通る水が常に滔々と流れ、水の飛沫が光を弾いてきらりと光る。触れてみると冷たさが伝わってはくるが、凍ってはいない。見渡した森の景色も、丘陵地帯とそう変わらない。
俺の聞いた話が正しければ、この地方には雪という白くて軽い氷の欠片が降るというが、それらしきものは見当たらない。となるとここは北方地帯ではない?であれば……いや、待て。それを確かめるすべはある。今の俺なら、すぐに確かめることが出来る。俺は頭上を見上げた。
絡み合う枝の向こうに覗く、薄い雲に覆われた灰色の空。俺は身を起こし、空めがけて跳び上がる。いつもより遥かに軽い体は安々と木々の合間をすり抜け、やがて青空へと突き抜ける。
「よっと」
そのまま身を翻して直立するような姿勢を取ると、俺の体は空に浮いたまま止まる。よしよし、やはり飛べる。この体も中々良いものだな。俺はさて、と息を吐き、森の上空から周囲の様子を伺う。と同時に、はっと目を見開いた。
「…………白い」
思わず、そう呟く。そこは、地の果てまで白く塗り潰された銀世界。
連なる山々も、広がる大地も、全てが純白に染まったその光景に、思わず頬が緩む。果てしない空の青色と、大地の白。それらが混ざりあうこと無く、互いの色を引き立てる。きらきらと輝く氷の山の遥か向こうには、ソラール神の姿が小さく見えた。
眼下を見下ろせば、アクィラ神の泉とそこから伸びる川の周りだけ、大地そのものの色が覗いている。なるほどそういうことかとため息を付き、俺は川に沿って虚空を泳ぐ。
やはりここは北方地帯。氷に覆われた極寒の土地。
今の俺はそれほど寒さを感じないが、肉体を持っていればきっと凍えるほど寒いのだろうな。
「(それにしても、綺麗だ)」
普段は様々な色が散りばめられた大地を見ているが、白く塗り潰されただけでこうも変わるか。目を凝らせば凝らすほどに、色白な大地は見慣れない表情を見せてくれる。気を抜くと、いつまでもぼうっと眺めてしまいそうだ。
しかし眺めている暇はない。俺にはやるべきことがあるのだ。
ひとまず、ここが北方地帯であることは分かった。ソラール神の姿もいつもよりずっと小さく見える。やはり丘陵地帯とはかなりの距離があると見て間違いないだろう。リリアやヴィヴィアンとの合流は難しいか。
となると、やはり現地で協力者を探したほうが良さそうだ。
この北方地帯にも魔王は何人か居たはず。こっちの連中にも、一度連絡を取るべきか。事情を話せば協力してくれるかもしれない。こちらの地理に詳しい奴が力を貸してくれれば、幾分動きやすくはなると思うが……。
「(……いや、ダメだな)」
そもそも俺は北方地帯には来たことがない。つまりは面識が無いのだ。こっちの魔王がどんな奴かもよく知らないし、連絡を取ろうにもどこに居るのか分からない。こっちの魔王との協力は、期待出来ないと考えていいだろう。
「(……どうする。どうすればいい?俺は何をすればいい?)」
虚空を泳ぎつつ、顎を擦る。今の俺は死霊だ。死んだ覚えはないが、なってしまったものは仕方ない。この身軽さを活かして、まずは情報収集でもするか。幸い、アクィラ神の川はこの白い大地の中でもいい目印になる。少しくらいは離れても、目的地を見失うということはないだろう。
よし。そうと決まれば、軽くひとっ飛びするか。
とりあえずこの辺りをぐるりと見て回って、だな。周囲の状況確認はひとまず済んだ。次は、獣人の集落に入る方法を考えないと。そしてその後は、彼らを苦しめる病を治す方法を考えなくてはならない。やれやれ、長い一日になりそうだ。ヴァレム神も中々無茶なことを言ってくれる。しかしまあ、やらないことには終わらない。出来ることから、やっていこう。
と、そんなことをぼんやりと考えながら地上に目を向けた、その時。俺の耳は静かな森に響く男の悲鳴を拾い上げる。
「……?」
声のほうへと、目を向ける。白い雪を被った木々の中に、蠢く影が見えた。




