第30話
「う、うわああぁぁぁぁあぁぁっ、ぁ―――――」
ぼんやりとした意識の中、響き渡る男の悲鳴。
暗く沈むような脳裏に響くその声はぶつりと途切れ、俺の頬に生暖かい液体が降りかかる。何気なくそれを拭おうとするも、俺の手は背中で縛られて動かない。力を込めてもびくともしない。目を開くと、血に塗れた男が目の前に叩きつけられて転がった。
「……っ」
霞んでいた意識が覚醒すると同時に、押し寄せる血の匂いに顔をしかめる。
部屋を埋め尽くすそれは、血に汚れた骨の山。恐らくは俺と同じようにしてこの部屋に放り込まれたであろう何人もの人間と、その中に紛れて身を横たえるリリアの姿。
「!」
相棒の無事にほっとする間もなく、俺の視界に「それ」がぬうっと割り込む。
それは、ただ巨大な骸骨の腕。血で汚れたその指先が男の頭をつまんで持ち上げ、骨の山をがらがらと崩しながら部屋の奥へと引きずってゆく。それを目で追って部屋の奥に顔を向けた俺は、はっと息を呑んだ。
薄暗闇にぼうっと浮かび上がる巨大なドクロ。
あんぐりと開いたその口の中に座り込む黒服の少女がくすくすと笑い、その胸に抱いたツギハギのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。毛先が青白く燃えて光る黒髪がふわりと揺れた。
「ねえ。痛い……?痛いの……?」
静かな、しかしどこか楽しげな声。少女は小さく首を傾げるも、骨の指に掴まれた男は何度か咳き込み、言葉にならないうめき声を吐き出すばかり。骨の指が男の頭に食い込んでめきりと音を立てた。
「ぁ、ぁあぁ、あぁあああっ!!い、いい痛い!痛い痛い痛いぃぁあああッ!」
「そう。痛いの」
響き渡る男の悲鳴にうっとりと目を細め、ぬいぐるみに頬ずりをする少女。骨の指先が男の頭をぱっと離し、男は骨の絨毯に尻餅をついて後ずさる。
「ひ、ひぃ…………」
全身に深い傷を刻み、全身を赤く染めながらも、必死に後ずさる男。傷ついてもなお懸命に生に縋り付き、死からその身を遠ざけんとするその様をじいっと眺め、少女はくすくすと笑う。虚空に巨大な骨の指を泳がせ、自らはぬいぐるみを抱きしめて、ただ笑っている。
「つらいでしょう。苦しいでしょう。ね?」
「う、うぅ」
「うふ、ふふ。痛い?怖い?そう、そうなの……うん、うん。とってもきれいな色……ニヴルヘイムの冷たい炎とは違う、真っ赤に燃える色――――」
ほう、とため息が溢れる。
「――――生命の、輝き」
その言葉に、男の肩が震える。長大な漆黒の柄が何もない虚空から顔を出し、さまよう骨の右腕がそれを掴んで引き抜き、翻す。弧を描く巨大な刃の先端が男の首筋でぴたりと止まった。
「……っ」
「大丈夫。すぐ、楽にしてあげる……だから、それ、わたしにちょうだい……?」
飛び散る生命の雫と、吹き消される命の灯火。溢れ出す笑い声と共に、燃え尽きる肉体。乾いたドクロが俺の近くに落ちて転がり、床を埋め尽くすその一部へと加わる。ハッと顔を上げると、少女が虚空を漂う赤い光の球を掴んだ。
「はぁ、ん……とってもきれい……ぁ、んむ……」
少女は光り輝くそれを小さな口に頬張り、恍惚の表情を浮かべてその柔らかな頬の中に転がしたかとおもうと、やがてそれを吐き捨てる。骨の絨毯に跳ねて二つに分かれたそれは青白く光り、やがて先程の男が死霊となって身を起こした。
『お、おぉ』
ずたずたに刻まれたその姿のまま死霊となった男はむくりと身を起こし、足元に転がる自らの頭を抱いて感嘆の声を上げる。その表情はまるで長らく背負っていた重荷から解き放たれたかのように晴れやかで、死霊となった自らの姿に驚く様子もない。
「気分は、どう……?」
『あ、あぁ!体が軽い!何もかもが、心地よい。こんな、こんなことが……あぁ、なんていい気分だ。神よ。主よ。おぉ、我らが主よ。感謝致します』
「ふふ。よしよし……いいこ、いいこ」
自らの首を小脇に抱えたまま巨大なドクロに向かって跪く男。少女はほんの少しだけ身を乗り出して男の頭をぺたぺたと撫で回し、くすくすと笑う。俺は、その光景をただ見つめていることしか出来ない。
『ありがとうございます!ありがとうございます!はは、ははは!』
死霊となった男は高らかに笑いながら飛び上がり、天井をすり抜けてどこかへ消える。それを見送った少女はドクロの口内に座り直し、ちろりと指先を舐めてぬいぐるみを抱きしめた。
「…………」
俺は、何を見ているんだ。俺は何をしている。分からない。ただ、目を離せない。その愛らしくも美しい微笑に、揺らめく髪の輝きに、ただ目を奪われて。気を抜けば飲み込まれてしまいそうな底知れぬ魔力の渦に、やはりどこか見に覚えのあるその気配に、俺は浅く息を吐いた。
――――死神ヘル。
死と破滅を司る魔神にして、不死者の母。生命を持つ全てのものに死という名の終焉を告げ、その命の灯火を吹き消す者。生きている限り永遠につきまとう全ての苦しみから魂を解き放ち、肉体を無に帰す滅びの女神。
どうしろと。俺にどうしろというのか。死そのものを前にした恐怖に四肢が震え、体が言うことを聞かない。見開いたままの俺の視界に、骨の腕が横切る。
「次は……この子がいいかな……?」
その言葉に、さっと血の気が引く。カシカシと音を立てて擦れるその指先が掴んだのは、未だ目覚めぬリリアであった。
「――――待てッ!!」
半ば無意識のうちに、俺は叫んでいた。




