実は色々とやっていた。
お待たせしました、
最新和……じゃない、最新話になります。
今回の内容といたしましてはほぼ内政話です。
え?戦闘関連はどうしたって?
そんなもの犬にでも喰わせておけです!
天文20年(1551年)4月某日
━━平手右京大夫政秀 齢58【見目年齢40】 山城国 国内━━
ようやく、三好家と細川家の争いが終結した。こと、コレに関しては史実通りに近かった。実父の仇である大叔父である三好政長を討ち、その原因を作った細川晴元と木沢長政も討ち取ったのである。
三好家からも書状が幾つか届き中には、『そちらが保護している細川家の陰湿な嫌がらせを止めさせて欲しい』とか、『長宗我部家が力をつけてきて油断が出来なくなってきた。』との返事が来るぐらいだ。
実はなにげに三好家との仲は、良好といって良い。なにせ爆発男経由で書状のやり取り等しておるからのw
長慶殿、何か気弱になってきていると思い、『ご相談が有れば、お聞きしますよ?儂が聞ける範囲で。洛中に三好家の屋敷は有ると思いますが、尾張様式の屋敷でも用意しておきましょうか?京の薬草園から、いくらか気の病に効く薬草送りますよ?』と認め、遣いの者に三好家と松永久秀殿に書状をもっていくように促した。
山城国の以前から気になっていた、桂川、宇治川、木津川の三川の合流地点よりの淀川水系の治水問題に取り掛かる事にした。洛中側の鴨川・桂川方面の治水は完了しているので良いのだが、宇治川、木津川方面は国人達や他の大名家の支配地なので手が出せない状態になっていた。
じゃがこの度、三好家と細川家の争いが終わった事で三好家の協力の元、三川合流点の灌漑治水を行うことになった。この灌漑治水は織田家、平手家だけでは無く、三好家に松永家、大和の筒井家、河内畠山家、摂津石山本願寺も協力するとの合力を得た。
あぁ、そうそう……各家の工事陣屋が分かりやすいように、旗指物を陣屋に建てて、互いの工事責任者の居る場所を把握しやすいようにした。
平手家は、白地に『丸に二両引』と白地に『赤の旭日』の二つを建てて、陣屋の場所を分かるようにしていた。
この灌漑治水を完了させるのに、若干の河川の移動や埋め立てが合ったので、天文23年(1554年)4月……実に3年の月日が掛かった。
【でっかい青い所が、かつて巨椋池と呼ばれたとされる場所、その他の青は河川、赤色は現在の川の流れる場所、橙の線が灌漑治水(護岸工事)を行った所になります】
【当時の山科川と宇治川は巨椋池に繋がっていたとされています。(書籍によっては差異がすごいことに……)】
【淀城のあった場所は巨椋池と三川の合流地点に浮かぶ島にあったとされます。それでも結構な大きさw】
改良銃の新たな試作等も進みだし旋条を、どの大きさの砲身ならどの程度刻み付ければ、回転数が上がるか、貫通力が上がるか等の研究も進んでいた。
もちろんそれを行うための製鉄技術も格段に上がっていた。
20.3cm砲や12,7cm砲の再現は出来たので実働情報体を伊勢湾にて蓄積していった。流石に連装砲はまだ蓄積が足りないので作ってはいないがな。42cm砲は無理でも35cm砲は最終的には載せたいよなぁ~。
あれから、またいくつかの船を作りもしたぞw
試型教導練習艦:尾張
教導練習艦:清須
初春型戦艦一番艦:初春
初春型戦艦二番艦:白鷹
伊勢型兵員輸送艦一番艦:伊勢
伊勢型兵員輸送艦二番艦:日向
熱田型輸送艦一番艦:熱田
熱田型輸送艦二番艦:津島
熱田型輸送艦三番艦:常滑
熱田型輸送艦四番艦:瀬戸
高雄型巡洋艦一番艦:高雄
高雄型巡洋艦二番艦:愛宕
金剛型戦艦一番艦:金剛
金剛型戦艦二番艦:比叡
と、再現も行なった。
あ、今まで建造されてきた、関船や安宅船にも『改良型仏郎機炮』改め、『螺旋砲』を乗せ駆逐艦の号を与え、足の速さで敵船に打撃を与え駆逐する艦に仕立て上げていった。
子砲を薬莢と言う形に置き換え、砲の後方から入れ込み固定蓋をし、撃ち込めるように改良も行っていった。
動力に関しても発展があった。
『星輪動力』や『回転水進板』【当て字だよw】の改良も進み、『星輪動力』を基本軸にした『自然吸気動力』まで作り上げておったからのwこれは腹を抱えて笑い転げたわw
設計図やその概念を書いた物はこっそり忍ばせておいたんじゃがなw失敗も相当繰り返したが、造り上げるとは思わんよw
じゃってwNA(エヌエー:Natural Aspiration〈ナチュラル アスピレーション〉)こと無過給、自然吸気エンジンにたどり着いちゃうって、笑い転げるしかないじゃろw
天文10年【1541年】10月あたりから『星輪動力』開発始めて、
天文20年【1551年】で、ここまでたどり着けるとはおもまんじゃろいwじゃない、思わんじゃろいw
だ、駄目w腹が、腹がよじれるw
洛中の方ではいずれ失われるであろう『太刀』や『短刀』、『打刀』や『槍』などの名物を私財や持てうる伝手を使い、出来うる限り集める事に務めた。集めた名物達は帝の許可を頂いた上で、船岡山にそれぞれの作風と時代を調べ上げ証書を書き、博物館なる建物に保管していくことにした。勿論、足利家にも協力させた。
一部からは宝の持ち腐れと言われるが、こちらの話を聞かずに言ってくるので、一々説明するのも面倒であるが、その度に説明を繰り返している。
鍛冶師で平手家お抱えの村正を筆頭に、美濃に大和、備前に備中、伯耆に相模、筑前に筑後といった場所からも鍛冶師招集し、寸分違わぬとまでは言わんが、集めた名物の『再現刀の制作』を依頼する仕事を振った。
その際の資料として、集めた名物の閲覧も出来るように取り計らい、鍛冶師としての腕を上げるのに、一躍を買った。
これで、天下五剣や名刀の再現刀を持ち回せるわい。
史実では我が主、織田信秀様が流行病で亡くなる年月なのだが、今もピンピンしているw
薬草園の薬草や、量産体制の入ることの出来たペニシリン、食生活の向上が効いたんじゃろうな……側室の一人に新たに子が出来ておったわい。
織田長益殿が本来は末っ子になるはずじゃったが、それが無くなったというだけじゃ。
老いて尚盛んなことで……、信秀様のような方を黄忠老とでも言うのかのぉ~。
~~この日本のどこかで叫ばれた声達~~
『『『『『『『『『『お前【アンタ】がそれを言うな!』』』』』』』』』』
今回、挿絵として挿入したのは、
吉川弘文館より出ている『日本史地図』新修版からの挿入になります。
簡単に理由書きますと……
「これが一番わかりやすく説明できる物だった!」
というのが一番の理由ですね~
巨椋池関連の物を色々と探して見て行ったのですが、
これが一番わかりやすいものだったんです。
あと私側の主人公である『平手政秀老』ですが史実だと
「死没 天文22年閏1月13日(1553年2月25日)」らしいんですよね~
刻が迫ってきましたw
さてうちの政秀老は刻々と迫る史実の死没を回避できるのかw
次話頑張って制作しておりますのでお待ちくださいませw




