第十二話 冥獄の王、ハーデス
辺りに緊張が走る。ヴィニールが消えた? そんなバカな?
「リナ? あいつを見てたか?」
ブンブンとかぶりを振る。リュウガの形相に驚いたのか、怯える小動物のような顔を見せた。
「フィオナは?」
フィオナは右眉を少し吊り上げ、キセルをくゆらせて見せる。
「誰か、見たヤツはいないのか?」リュウガが叫ぶ。心なしか、高圧的な口ぶりになってしまった。どこかに焦りを感じている。
「リュウガ君。もしかして、倒しちゃったんじゃ……。でも、仕方ないと思う。それは、気にしない方がいい……かも」
リナが思いを巡らせ、いかにもリュウガを気遣った。
リュウガは、その可能性については考えなかった。確かにオーバーキルで消失したのであれば、誰も気づかなかったことと辻褄が合う。消失は実に儚く、一瞬で終わるからだ。しかし、リュウガはその話には納得がいかなかった。
何かが、俺の視界に映る何かが……違うと警告している。
待て。どうして、ヤツが倒れていた場所に光が当たっている。それも、あの光は……木漏れ日のカーテン。
――憎悪の量。そんなパラメータがあれば、この男が間違いなく図抜けていただろう。
力は憎しみを生み、より強い力は周囲の憎しみを引き寄せる。そして、強すぎる力は……それを突きつけた相手を、憎しみの虜にしてしまう。
男の体は、消失寸前でその「憎悪」に助けられた。どす黒い憎しみは、霧のように消えるようとする男の体に蒸着し、液状の意識を授けた。
ズズズッ、ズズズッ。雨が山脈の土壌に染み入り、やがて川へと……、海へとつながっていくように。
男の黒い意識は地面を抜け、壁を抜け……、やがて閉ざされた部屋へと侵入した。
男が力を蓄えている間、地上にいる誰もがこの世界の平穏を信じ、これからの共闘プレイについて語り合っていた。どうすれば混迷を避けつつ、この世界を生き抜くことができるのか。そして、自分たちの行く末がどうなるかについて。
やがてマザーツリーの上部にしつらえられた釣り鐘が、過ぎたときを告げるために透明な音色を響かせた。皆の意識から、その男のことはすっかり消えていた。
ドゥンンンン! 地中で三十年過ごす火山ゼミが羽化するときのように、男は地上へ勢いよく生まれ出た。全身から得体の知れない黒煙を噴き上げている。
「フゥーン、実にすがすがしいぞ。『生き返る』とは正にこのことだな、そう思わないか? リュウガよ」
歴史的な彫刻物を連想させるその肉体美と造形美は、健在だった。だが、その姿は既に人の域を超えていた。
二本の腕では足りないのか、六本の禍々(まがまが)しい腕。引き締まった四脚の足は、競走馬の大腿筋と見まごうばかりだ。そして恐るべきことに、山のように巨大化した体を宙に舞い上げている。
背中には、悪魔から引きちぎって付けたような――漆黒の羽が見えた。
「ふははっ、貴様は、あの部屋でちんけなレベル上げをしたようだな! だがなっ! 俺はあそこで究極種への変化を望んだ。そして、極限の力を手に入れたっ! 見ろっ、この姿が冥獄の王ハーデスだ!」天を二つに割るばかりに叫ぶ。
「ハーデス……。よりによってハーデスか」リュウガの声が曇る。
「リュウガ君。どういうこと? 私にも分かるように教えて?」リナが真剣な顔つきで言う。
緊張感のない初心者の顔つきではなく、それはいっぱしの冒険者の顔だった。
「私が代わりに説明しよう、小娘」フィオナがそう言って割って入ると、リナは餌を取り上げられた金魚のように口をパクつかせた。
「ハーデスト・オンラインってのは、至難を示す『Hardest』と冥獄の王『Hades』から取った、意味論的な造語なんだ」
「そ、そうなんですか……。分かりました。でも……リュウガ君に聞いたんですけどぅ」
ふだんは大人しく、決してつっけんどんな態度は取らない彼女が、珍しく口をとがらせた。
「で、そのハーデスはこの世界におけるシンボル。まあ、公表されている情報においてはラスボスだな」と、フィオナはトレードマークのキセルを上下に動かして言う。
「らしいな。でもまさか、プレイヤーキャラが変化するとはな。やってくれるよ、この世界は、本当に。何でもありだな。つーことで、こんなに落ち着いてる訳にもいかないんだ」リュウガがリナに合図する。
周囲は再び厄災を前にして、大混乱に陥った。悲鳴を上げ、走り回る女性たち。勇敢にルーンソードを引き抜き、天に浮かぶ冥獄王に向けて構える男性プレイヤー。雑多な種族が集結して、血戦の様相を呈している。
人間、竜人族、エルフ族、長身のストゥール族や、低くがっしりとした体つきのヘブル人、古代鳥を先祖に持つコンバード族。それぞれが、それぞれのアバターに身を包み、覚悟を決めた。
だが、雲に戦いを挑むようなものだ――そのスケールが根本的に違う。
天が震えるように、雷ていを響かせた。さっきまで晴れ渡っていた空が一変する。雹が降り、雷雨が地上の民の肌を殴りつける。
「リュウガ! 残念だが、お楽しみはまだ先のようだ。どうやらこのハーデスは憎しみの感情を好み、丸ごと食らうらしい。だが、貴様のその淡々とした感情だと、何の足しにもならないんだ」ハーデスと化したヴィニールが言う。
「そうか、残念だったな。せっかくそんな化けモンになったのにな。お役に立てなくて悪いな」
「フハハッ! いいぞ、その感じ。冷静なお前が憎悪に駆られて苦しむ姿を、是非見たいものだ。じっくりと……この退屈な世界を、少しは面白みのあるものに変えてやるからな! 楽しみに待ってるがいい!」
ハーデスは、羽で身を隠すようにして高度を上げた。
「おい! 逃げるのか!」前にヴィニールに言われた言葉を、今度はリュウガが投げつけた。
恐らくあいつはまだ、強大な力の扱いが分かっていないに違いない。だとしたら、今ここでヤツを叩かなければ。
「うぬぼれるなっ! フンッ!」
ハーデスが背中の羽を、片側だけ開いた。バグン! それだけで暴風雨が巻き起こる。
レベル99を冠するリュウガは、その風圧だけで相手の潜在能力を理解した。
まともにやり合ったら、激闘になる。ここでやり合ったら、全員が巻き添えになるかもしれない。勝算もなしに戦うのはマズい。
「いいだろう、楽しみにしてるよ。お前さんとまた会うのをな。この最高の世界でな!」
リュウガはそう言うのが精一杯だった。正直、ハーデスの化け物じみた力に威圧されていた。殴りかかるどころか、足は根が生えたように動かなかった。
降りしきる雨。地獄の底まで届きそうな笑い声を残し、ハーデスは空の彼方へと飛び去った。
リュウガとリナは雨の中、呆然と立ち尽くしていた。
「少年、小娘。こんな濡れ鼠じゃ何もできんだろう。二人とも私の家にこい。茶ぐらい出してやるぞ」
「……ええっ!」二人は声を合わせて言った。
リュウガは「この人ってお茶を出すタイプなんだ」という驚き。リナは「この世界に、家を持ってるんだ」という感嘆からだった。




