桃饅を食む。
「幽王、妾はヒマじゃ」
古めかしい言葉遣いには似合わない少女が、前触れなく幽王の室に現れ、当たり前のように長椅子に寝転がり、足をばたばたとさせる。
彼女の名は彩王。
その幼く愛らしい外見と子どもっぽい仕草からは想像できないことに、彼女はこの天界とその下に属するいくつかの世界を永劫に統べる二柱の神王のひとりである。
室の主である幽王は闖入者に一瞥も向けず、仕事机で書簡に目を通している。
「そうですか、私は暇ではありません」
彼もまた天界といくつかの属界を統べる永劫の神王の片割れである。
幼い外見と活力に満ちた彩王とは対照的に、幽王の外見はよく切れる刃物のような冴えた美貌の青年である。
伏し目がちな冷たい横顔、すらりと筆を運ぶその手つき。全身から発せられる言いようのない色気に、並の女性ならばたちまち目も心も奪われてしまうだろう。
しかし、彩王は幽王に対して色っぽい感情を持つことは無かった。数えるのも馬鹿々々しくなるほどの年月を、ともに過ごしてきたのだ。
「しかし妾はヒマなのじゃ」
彩王は長椅子の上でだらりと四肢を放り出す。袖や裾から白い肌が幽かに覗き、幽王は思わず顔をしかめた。
「貴女も本当は暇ではないはずですが」
「いつもと同じ書簡にいつもと同じ判を押すなど、寝る前に舟を漕ぎながらやるくらいでちょうど良い」
彩王はやってられるか、というように力なく顔を煽いだ。
どうしたものかと幽王が眉間を揉んでいると、ふいに扉の向こうから遠慮がちに入室を求める声がした。
幽王が入室を許可すると、主に似て生気のない女官がお茶を手にしずしずと入ってきた。
「彩王様がいらしているようでしたので、お茶をお持ちいたしました」
女官が運んできた盆には、茶器の他に桃饅がやわらかな湯気をたてていた。
「おお! 髄晶宮の女官は気が利くのう!」
目をきらきらと輝かせて、彩王は女官が長椅子脇の机に盆を置くのを見守る。 女官が茶の支度を調えるわずかな間も待てないのか、彩王はさっそく桃饅をむんずとつかむと頬張った。
満足そうに目を細め口をいっぱいにして咀嚼する彩王を見て、幽王は目を閉じ息を吐いた。
「貴女の宮の女官も、命じればお茶の用意くらいしてくれるでしょう」
「錦華宮の者達は、いささか賑やかすぎるのじゃ」
幽王の宮殿、髄晶宮の使用人達が主に似て、皆水晶か刃物のように冷たい印象の者ばかりなのと同じように、彩王の宮殿、錦華宮の使用人達は祭りの如く騒ぐのが好きな者達ばかりである。
彩王は淹れたてのお茶をずずーっと音を立てて飲み、また桃饅に手を伸ばした。一つ目をすでに食べ終えてしまったらしい。
女官はもう一膳お茶を淹れると幽王の仕事机に置き、そのまま音もなく退出していった。
「まあ、この宮はこの宮で静かすぎる気もするのう。足して二で割ったらちょうど良い」
女官が出て行った後の扉を、口をもごもごさせながらじっと見つめて彩王が言う。
「そういう訳にもいきませんよ」
さして興味もなさそうに幽王は書簡をめくる。
錦華宮と髄晶宮、二つの宮殿の雰囲気の違いは主である彩王と幽王の司るものの違いによるものである。
彩王は陰陽の陽、生死の生、そして昼を司る神であり、幽王は陰陽の陰、生死の死、そして夜を司る神である。真逆の性質を司る二柱一対の神だ。
そのため、実際に二つの宮を足して二で割ったなら、相反する性質のものがぶつかり合い、混ざり合うことが出来ずに天変地異を起こしてしまう。それは彩王もわかっていることだ。
しかし、変化を好む陽の神である彩王にとって、代わり映えのない賑やかさはやはりつまらないものだった。だから変化を求めて、あえて静かな陰の宮殿にやってくる。そして、幽王相手に一騒ぎしたら華やかな陽の宮殿に帰るのである。
幽王もそれをわかっていて、陰の神らしく静かにそれを受け入れるのだった。
しばらく長椅子の上で足をぶらぶらさせていた彩王は、おもむろに立ち上がり「帰る」と宣言すると窓から飛び出していった。どうやら満足したらしい。
「嫁入り前の娘がはしたないですよ」
元気よく雪の庭に降り立った彩王に、幽王はため息をつく。
「我らに嫁入りも婿入りもあるものか」
彩王は意に介さぬように、走り去っていった。雪の降り敷く髄晶宮の庭に、小さな足跡の列が伸びていく。
その列の先端である小さな背中を見えなくなるまで見送り、幽王はすっかり冷めてしまったお茶をすすった。それから桃饅のせいろに手を伸ばしかけて、はたと手を止めた。
「彩王……あやつ、私の分も食べたな……」
幽王はがっくりと椅子に座り、先ほどよりも少しだけしょんぼりして再び書簡に目を通し始めた。




