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恋せずにいられない --こゝろによせて  作者: あくた咲希
吸血鬼の恋愛事情
8/10

 夏休みに入ってから、日に二度の吸血を確保できていた。

 腹は満たされ、でも、いつもどことなくダルさがつきまとっていて妙に眠い。ため息まじりのあくびをして、ベッドにころがる。安物でギシギシと鳴るが、奈々のベッドよりずっと落ち着く。

 枕元には、くたびれた文庫が一冊ころがっていた。悪友の遺品の『こゝろ』だ。

 一人のお嬢さんを二人の男が想い、恋に破れたKが命を絶つ。その死を引きずる先生もやがて、妻となったお嬢さんを残し死んでゆく。太一のやつは、どういうつもりで俺にこんなものを遺したのか。

 俺は、Kと同化していた。もちろんみい子がお嬢さんだ。俺は、みい子を失わざるを得なかった。

 作中でKが死んでからは、俺が先生だ。奈々がお嬢さんで、みい子が――死んだK、だった。俺は、みい子と決別できずに、死を選ぶのだ。

 言い知れぬ冷たい何かが、俺の中を通り過ぎていった気がした。

 Kも先生も、どちらとも自ら死んでしまう。それはたぶん、どうにもならない自分の無力さに絶望したり、逃れられない罪悪感に押しつぶされたりが一因だと思う。そして、あの時代を生きた人間の魂のあり方……。

 一方――俺は、無力さに絶望したか? 罪悪感に押しつぶされたか?

 答えはNOだ。

 みい子を失ったのではなく彼女から逃げたのであり、彼女に思いを残しつつも、奈々を相手にのうのうと日々を過ごしている。

 俺は、Kにも先生にもなれないのだ。彼らの死にあったはずの苦悩を放棄して逃げている。

 なのに、Kや先生でありたいと思っている。二人を美しいとさえ思っている。まさか俺は、「死」に憧れていやしないか?

 いつか、夢を語るみい子を甘いと評したことがあった。だが今の俺は、彼女よりずっと甘いのではないか。少なくとも彼女は夢に向かって努力して、実習をきちんと終えて、あとは教員試験に合格して勤務先を得るのみだ。

 しかしどうだ、俺は何に向かっている?

 悲劇に酔いしれて、現実の自分からは目をそらして。

「でも、だからって――どうしたらいいんだ! ちくしょう!」

 ベッドから起き上がり、思わず叫んでしまった。枕に八つ当たりだ。低反発のウレタンはこぶしをやんわりと包み込み、ゆるゆると凹みをリセットする。俺の苛立ちなどいくらでも吸収してやると言わんばかりに、もう元通りだ。俺はしおれた植物のようにうなだれた。

 そこではじめて、コマルの姿が見えないことに気がついた。

 さっき水をやったときはテーブルの上にいたのだ。ベッドの下を覗いたり、タンスの引き出しをあけてみるがどこにも見当たらない。

 そういえばコマルのやつ、ここ数日なんだか元気がなかったかもしれない。空調がないから夏バテかと思っていた。

 あいつらの生態って謎に包まれているけれど、死ぬなんて話は聞いたことがなかったし。吸血鬼でいう餓死の例はあるかもしれないが(枯死?)、水はちゃんと飲んでいたし、ほかに食べ物をほしがる素振りは見せなかったはず。

 さっきはつい大声を上げてしまったが、夜も遅いので声のトーンを落としてコマルを呼んだ。しかし一向に返事はなく、ちょっと焦ってきた。小さいとはいえ、同居人は同居人である。いなくなるのは、やはり淋しい。名前を連呼しながら、さっきより慎重にさがす。

 とつぜん、玄関からガサッと音がした。デリヘルのチラシでも突っ込まれたのだろう――あ、そうだ。

 うちの郵便受けには、ドアの内側にプラスチックのカバーがくっついている。ガコガコと音をさせてカバーを外すと、コマルがいかがわしいチラシにうもれて、かすかな寝息を立てていた。

 毛玉を見おろして苦笑する。すると。

「……ボクでもいなくなると淋しいのでそ。みーちゃん、もっともっと淋しがってるとオモウ」

 小豆みたいな目がぐりんとこっちを向いて、恨みがましい声が言った。

「な……んだよ、たぬき寝入りかよ」

「佐久也は、あほでそ!」

 コマルは、俺の頭に飛び乗って騒いだ。痛くなどないが、胸のあたりがぞわりとする。

「佐久也のあほー。みーちゃんもかわいそだし、ななちゃんもかわいそ。佐久也は勝手でそ。自分がいなくなるのは平気なのに、相手がいなくなるのは淋しい悲しい、許せナイ!」

「コマル!」 

 俺は怒鳴った。コマルがぽとりと落ちてきて、足元にころがる。大声に驚いて硬直してしまったらしい。

 拾い上げて、郵便受けカバーはそのままにベッドに戻る。

「俺だって平気なわけないだろうが」

 天井を仰いで寝ころび、胸の上にコマルを乗せて、片手でやわらかい毛を撫でた。

「でもな。俺は吸血鬼で、みい子たちは人間で。人間は俺たちの食料で、いずれ必ず死んでしまうものなんだ。人間だって生き物をくうだろ、割りきらなきゃ」

 コマルはウトウトと目を細めながらも、反論するのはやめなかった。

「みーちゃんたちは佐久也が吸血鬼だってことしらないんでそ? だったら、佐久也がどうしていなくなったのか気になるでそ」

「そりゃあ、そうだろうけど」

 時間がたてば、そのうち、みい子だって忘れるのだ。奈々ともやがて別れるけれど、彼女だってやはり忘れてゆくのだ。

 忘れずとも……人間の人生は短いけれど、ちゃんと時間が解決してくれるって言葉がある。年老いてしまえば脳が衰えて、記憶自体するりと抜け落ちてしまう。俺の存在すらなかったことになってしまう。体は焼かれて骨と灰になる。

 コマルは、いくらかすねた口調で言った。

「でもぉ、みんな生きてるかぎり、忘れると思い出すはいっしょなの。ともかく、みーちゃんにちゃんとお別れしたほうがいいと思うの。嘘の理由でもいいから、ちゃんとお別れしなヨ」

 痛いところを突かれて、撫でる手が止まってしまった。

 奈々とは、次の三月に適当な理由をつけて別れるつもりでいた。男子高に三年通うのも酷なので、女の子の割合が多い共学に入り直そうと思案していたところだ。

 でも、みい子とは……もう、会わない。会えるもんか。

 あの顔を見たら、いや思い出すだけでも、どうしようもない吸血欲求が沸き起こる。いやおうなしに喉が乾く。やわらかな唇が欲しくなる。細い体を抱きしめたくなる。髪を、撫でたくなる……。

 危険だと頭のどこかで警鐘が鳴っている。俺がみい子に、ほかの女の子へとは違う感情を抱いているのは確かだった。

 でも、もし吸血鬼が人間と同じように年をくい、死ねるとしてもきっと、みい子への恋に没頭することはできなかったのではないかと思う。吸血鬼と人間の間に、子はなせない。それは、カタチが残らないということだ。

 おやじとおふくろが結婚したのは、きっと愛し合った証がほしかったからだ。吸血鬼には縁遠い「家族」というものに焦がれる両親を見て、俺は「食料」である以上に人間に興味を持った。人間に恋した。証を手に入れられないことを……悔んだ。

 親の影響、受けまくりだな。自嘲しながら、目を閉じた。

 いい夢は見れそうにないなと思っていると、とつぜん玄関のチャイムが鳴った。

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