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恋せずにいられない --こゝろによせて  作者: あくた咲希
吸血鬼の恋愛事情
6/10


 屋上でサボっていると、珍しいことに国語のジジイが自らやってきた。

「返却期限はとうの昔に切れとるのじゃが」

 俺を見るなり、そんなことを言う。今の今までその存在をすっかり忘れていた。むしろ、どこかで例の文庫をなくしていた。

 紛失したとは言えず、曇り空の下、あぐらをかいた足首に手をあてて左右に体を揺らした。

 ジジイはとなりに腰を落ち着け、同じようにあぐらをかくと、風に白い髭を吹かしながら大あくびをした。と思ったら、くしゃみだった。

「おぃおぃ、老体には風が障るんじゃないか」

 心配してやったのに、

「何を。まだまだ若い者にゃ負けぬわ」

 頑固ジジイだった。

 コマルが腹でごそごそしている。こそばゆくて、体が震える。

「おまえこそ痩せ我慢しておるんじゃないのか。このところ、細くなったろう」

 痩せたのは本当だった。理由は明白、吸血行為をはたらいていないからである。

 みい子と付き合うようになって、ひと月が過ぎた。間に一度だけ鳴乃と会って、彼女がまた血をくれただけで、食事をしていない。ほかの女の子をひっかけようとは考えられなかった。

 飢えて死んでいった太一のやつもこんな状態だったのだろうかと最近よく思案する。

 断血はひどく苦しい。自殺行為よ、と言った鳴乃の声がリフレインする。

 自殺――、吸血鬼社会にはない概念だ。鳴乃は昔から、ハッとすることをポンと投げかけてくることがある。

「――ときに石見よ」

 ジジイが困った顔をした。何事かと何気なく訊き返すと、ますますしわくちゃな顔になって、

「困ったことがあってな」

「だから、何があったんだよ」

 なおもきくと、ジジイは俺をじーっと見つめ、目をそらしてため息をついた。

「な・ん・だ・よっつってんだよジジイ」

「それが年長者に使う言葉かね。はぁーまさかこんなことになるとは。くわばらくわばら」

 えらくワザとらしい大仰な言い方だ。締め上げたろかと思ったが、老人相手だけに加減がわからない。人間の年寄りはすぐぽっくり逝く。

 吸血鬼は、それこそぽっくり逝くなんて芸当はできない。細々と生き延びるだけだ。腰が痛いだの入れ歯にせなならんだの、そういったジジババ吸血鬼を見ると切なくなる。

 でも、太一の奴みたいに餓死してしまえばいいのにとは思えなかった。あいつは相当、苦しそうだったし。現に俺も苦しいし。これを老人に乗り越えて逝けとはとても言えない。

 俺もジジイも沈黙した。四時限終了のチャイムが鳴る。曇天のところどころから日の光が差している。それが俺たちのところにもやってきて、ステージの主役にでもなったかのような気分になる。老人と吸血鬼。いったい、どんな物語。

(はるかに年くってる俺のほうが若いのか)

 それはあながち、外見だけのことではないかもしれない。

(俺、みい子を子どもだと笑ってられる立場じゃ、ないかもしれない)

 動物園デートでもその後の逢瀬でも、みい子の中に俺にはないものが見え隠れしている気がしてならなかった。みい子が何を持っているというのだ。俺はそれが、どうして気になるのだ。

 腹が鳴った。虚しく、血を求める声。その声を無視して、俺は空を見つづける。

 ジジイは深いため息をつき、通り過ぎていった日の光を目で追いかけた。

「笹倉くんがおらんようなったとたんに、まぁたサボりだしよって」

 俺がギクとしたのを目ざとくつかまえて、

「若いモンの惚れたハレたにとやかく言うつもりはないが、なんせ将史の奴がな。わざわざ確認にきおった。実習後の妹の様子が変なんだが、何かなかったかと」

 ジジイは俺の首に腕をまわした。目はすでに悟っている。俺は存外わかりやすい男らしい。

「将史は、おまえのことを持ち出してきおった」

「……店で会ったからな」

「うかつじゃのぅ、おまえは」

 呆れたように、腕をぱっと広げてジジイが俺を解放した。

「将史は妹思いが過ぎとるきらいがある。父親を早くに亡くして、高校を出るなり店を継いでの。妹には大学行かせてやるんだと、傾いとった家業が盛り返したのもあいつのがんばりじゃ」

 ジジイは、将史を息子のようにでも思っているようだ。ずいぶん肩入れをしている。血のつながりなど関係なく、人間はしばしばそういうことをする。

 いつだったか……この国がまだこんなにもまとまっていなかった頃、どこの馬の骨とも知れない俺を養ってくれた男がいたっけ。

「とはいえ、じゃ。妹はいつまでも兄のそばにおるもんでもなかろう。将史は『あいつはオレがいないとダメなんだ』の一点張りで、そりゃ強情での。自身モテないわけじゃないんじゃが、本人にちーともその気がない。儂は、あの店が将史の代で終わりになるのは忍びなくての」

 将来の心配か。その頃にはジジイはあの世ってやつにいて、見届けることも叶わないだろうに。

 人間は死ぬ。遅かれ早かれ、寿命は尽きる。

 だから人間は子孫をつくるんだろう。短い年月じゃ、やり残すことのほうが多いから。

 でも、吸血鬼にはそれがない。不測の事態や事故に巻き込まれない限り、餓死しない限り、永遠に生きつづける。

(なのに、家族を望むうちの両親はいったい)

 おやじとおふくろの能天気な顔がぽんと浮かんで、思考はあえなく中断された。

 ジジイは、将史と店の行く末を憂えながら、頑として俺の隣を動こうとしない。

 みい子と別れろと言うのだろうか。反抗的な態度で身構えていると、ジジイはずずっと鼻を鳴らし(憂えて涙ぐんでいたらしい)、やけに友好的に肩に手をまわしてきた。長くて白い眉毛が頬に触れる。

「のう石見、将史と仲良くなれ。そして、店の跡継ぎとなる子をもうけるんじゃ」

 潤んでキラキラしたジジイの目に、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をした俺が映った。

 ――将史と仲良くなれ。そして、子をもうけろ?

(っあぁ、みい子とか)

 一瞬とはいえエゲツナイ勘違いをした自分に冷や汗が出た。……なるほど。

「兄貴に認められろ、ってことね。俺とみい子のこどもに跡を継がせりゃ万事OK」

 普段はヒス気味の国語教師であり、将史を息子のように思うその老翁はウムと頷いた。

(ふむ、そういうのもアリかも)

 俺も頷きかけて、重大なことを思い出した。

(吸血鬼と人間じゃ、子はできねぇ)

 将史に認められるために努力することはできる。いけすかないヤロウだが、そんなあいつと友情を芽生えさせるってのも(非常に前向きに考えれば)熱くていいかもしれない。

 ただし、俺にできるのはそこまでだ。ジジイの願いは叶えられそうもない。

 第一、みい子と一緒にいれる時間には限界がある。人間は当たり前のように年を取っていって、いずれ死んでしまう。成長しない俺を不審に思わない人間はいないだろう。吸血鬼であることを隠したまま、人とともに生きてゆくのは難しい。

 俺の正体を受け入れてくれたとしても、みい子は、先に老いてゆくその身を嘆くことになるかもしれなくて。俺を置いて逝くことを心苦しく感じるかもしれなくて。永遠の若さを羨むかもしれず妬むかもしれず、恐ろしがるかもしれない。人間同士の恋愛よりも、心を煩わせる機会は多い。

 俺はみい子が好きだ。みい子にはなんの気がかりもなく穏やかに暮らしてほしいと思う。

 何より俺が、みい子の悩む姿を見たくない。長くは一緒にいられない。……いつかは、別れなければ。

「なぁ、ジジイ。今ならまだ、引き返せると思う?」

 口から漏れた声はひどくかすれていた。視界の隅で、グレーの膝がガクンと震える。

「まだ……みい子を傷つけないですむ?」

 全身の血の気が引いた。背筋と腹の底が寒くなり、心臓がドクドクと脈打った。息苦しさを感じ、酸素を吸おうとするがうまくいかない。

 あぐらでいられず、たまらず両膝を立てた。下半身が重苦しく、コンクリの屋上に溶け込んでゆくような感覚に怯えた。

「俺、無理だ。みい子と一緒にいられない。恋なんてするつもりなかったんだ、ほんとは。……そうだ、身にしみてわかってたことじゃないか」

 吸血鬼は寿命が長い。楽しかったことも辛いことも、数え切れないほど経験しても、悠久の時の中で忘れることができる。傷は跡形もなく時が塗りつぶしてくれる。

 だから――くり返してしまう。

 何度でも同じことを。

 人間への恋を。恋をして、ようやく前の恋を思い出す。

 人間が何かを切望する様は美しいと思う。儚さに、つい手を差し伸べたくなってしまう。吸血鬼にはない儚さだから……。

 俺たちは急がなくても、生きているうちにできることは多い。言い換えれば、願いが叶うまで生きつづけていればいのだ。うちの両親だって嫁をもらえと催促はしてくるが、呑気なもの。それが俺たちの当たり前だ。

 吸血鬼が人間の血を吸うのは、単に食料だからという理由だけではないと思う。無味乾燥だけれど吸血鬼の血のほうがずっと効率よく摂取できるのだ。なのにわざわざ、ときに危険を冒してまでも人間を選ぶ。

 なぜ。旨いから?

 それならば、旨いと感じるのはなぜ?

 みい子が人間でなければよかった。でも、人間じゃなかったらここまで惹かれるわけも、きっとなくて。

 恋をするのは楽しい。恋をしている最中はとても幸せだ。旨い血を吸えるなら、なおのこと嬉しい。

 ただ、人間との恋の終わりはひどく辛い。身体的に恋をしつづけるのが無理になるだけで、好きな気持ちは残るのだ。相手を好きなのに、首筋に歯を当てられない。これはどうしようもなく情けなくて、はがゆくて、相手が人間であることが悔やまれて、吸血鬼である自分を呪いたくなって……悲しくて。

 それに、人間は必ず先に死んでゆく。

 だから俺は、逃げるようにして恋人の前から姿を消すのが常だった。俺がいなくなったあと、恋人がどんな気持ちでいるかを考えるといたたまれなかった。

 でも、逃げるしかなかった。そして、時の流れの中で――忘れた。

 いや、忘れたわけじゃない。ただ、上に別の色を塗って隠していただけ。

(みい子とは別れよう。深入りする前に)

 それが俺にとっても、みい子にとっても最善の策のように思えた。

 俺たちが付き合って一カ月。キス以上のことはしていない。別れるのなら、今のうち――

 ジジイが何か言おうと口を開けたのを振り切って、俺は梅雨明けの屋上をあとにした。

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