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恋せずにいられない --こゝろによせて  作者: あくた咲希
はじまりは教育実習
3/10

 教育実習も今日で終わりとなると、実習生にも生徒にも名残惜しい気持ちが生まれるらしい。

 ときおり吹く風が心地よい昼休み。校庭では男どもがサッカーで青春を謳歌中、無駄にきれいな汗をまきちらしている。

 その様子を遠目に眺めながら、紅一点のみい子は屋上で俺といた。みい子いわく、こうしてると安心する、らしい。俺的には据え膳で生殺し状態なんですけど。

 最後の手段でミネラルウォーターで喉の渇きを癒し、大きなため息をついて大の字に寝ころぶ。むりやりにでも眠ってやるぜコンチクショウ。

「石見くん? ごはんは? 忘れたの?」

「………」

「あたしのでよかったら、いかが?」

「……それ、今、問題発言だから」

 俺は右手で頭をかきむしりながら起き上がり、思わず赤面した。すぐそばにみい子の顔があったからだ。

 みい子は弁当箱からきれいな卵焼きを箸につまんで、今まさに俺の口に運ぼうとしている。

 つい口を開けてから、しまったと思った。この歯で、女の肌以外を噛む日が……!

 口中に広がるなんとも言い難いまったり加減や温もり、そのすべてがはじめての経験で。

 とたんにぐるぐると回転しはじめた世界で、俺は冷や汗をかいてうずくまった。こんな反応はみい子に悪いとわかっていながらもどうしようもなかった。

 吸血鬼の胃腸は人間の食べ物を受けつけない。体が勝手に痙攣する。卵焼きが胃の中で暴れている――

 みい子は顔面蒼白でオロオロと俺をさすり、どうしていいかわからない様子でぎこちなく抱きしめてきた。

 う、わ。

 左頬にサラサラした髪が触れ、あごに首筋が触れて。

 もう、我慢できなかった。

 ――血。血が、ほしい。

 瞬間、みい子の俺を抱きしめる腕が力をなくしたかわりに、俺が彼女を強く抱きしめる。

(すっげ、うまっ……)

 全身の細胞が歓喜に沸く。嫌な汗がひいてゆく。胃の不快感が、甘美な液体に淘汰されてゆく。実に二週間以上ぶりの人間の血は、それは美味で、極上で、まるで麻薬。

 吸血したあともしばらく肌の感触を楽しんでいると、ふと、みい子が身じろぎをした。四つついた犬歯の痕を舐めてから、彼女を離し、やや青ざめた唇に口づけた。キスを嫌がる様子はない。

 俺はといえば、なんでまたキスなんか、と自分がしておきながら戸惑っていた。でも。

 みい子の唇はやわらかい。舌先で触れた前歯はつるつるしている。……気持ちいい。

(あー。俺、年くってもいい)

 夢見心地でそんなことを考えた。思う存分キスを堪能してから、みい子をもういちど抱きしめ、うしろ頭を撫でた。

 みい子は時おり手で俺の胸を押したけれど、その力は弱々しく、大体おとなしくしていた。ぽつりと口をひらく。

「石見くん。あの、ね」

「うん」

「キスの、前ね」

「うん。……うん? 何、みい子、もしかして覚えて……る?」

 俺は愕然とした。吸血鬼ならまだしも、人間ならば吸血されるショックで意識が飛ぶはずだ。それを、みい子は覚えている?

 硬直して、次の言葉を待った。しかし。

「あの、首を……噛んだよね? 首フェチ?」

 予想外の質問が飛んできて、俺は開いた口がふさがらなかった。首フェチ。そうきたか。

「あーそうそう。首筋きれいだなーと思ってて」

 それは嘘じゃない。

「で、みい子……その、痛い?」

 傷はもう癒えているが、内側がまだ疼くかもしれない。死亡例もないではない。(そういう事件を起こした吸血鬼には、役所から厳重注意がなされる。)

「痛かったぁ。一瞬、気を失っちゃったよ」

 みい子は照れ笑いをした。そして、みるまに赤くなっていった。

「あの。この実習期間中、石見くんが優しくしてくれたの、すっごく嬉しくて」

 眉毛がくたっと下がって、目に涙がたまった。でも、まっすぐに俺を見つめている。

「お兄ちゃんにいつも妨害されてたから、男の子とこんなに打ち解けられたことってなくて。あたしには本当に、特別な二週間で。ごめんね、石見くんより年上なのに、おかしいよね?」

 言葉のひとつひとつを、大切そうに、そして申し訳なさげに、涙とともにこぼしてゆく。

「石見くんが好き。実習が終わっても、また会いたい」

 一生ぶんの勇気を使い果たすような懸命な告白を、俺は、眩しい思いで見つめていた。

 吸血鬼とは違う、短い人生を生きる人間の、さらに短い一瞬のきらめき。なんて、綺麗なんだろう。

(こっちの心まで輝きが伝染しそうな――)

 ふいに尻ポケットから文庫がころがりでた。解説を読んだだけだが、返却期限は今日だっけ。

 ……。こんな時だが、急に眠くなってきた。よく、吸ったもんな……。

 視界の中で、みい子の泣き顔が、二重にぶれた。


 気がつくと、これでもかというほどに赤い夕焼け空を黒々としたカラスが飛んでいた。

 寝入る前のことをぼんやり思い出しながら、脱いだブレザーを風の中ではたく。

「そーいや、限界突破でみい子の血を吸ったんだっけな」

 おくびをもらすと、ほのかに彼女の匂いがした。心地よい、血の匂い。

 見回すと、メモが一枚ドアのそばに残してある。重石がわりのかまぼこを指でつまんで、ちまっとした文字が五行にわたる正方形の用紙に目を通す。

「……『疲れているみたいなので、そのままにしていきます。返事を聞けずに残念だったけれど、よかったら、連絡してください。携帯の番号とアドレスです』……」

 ああ、もうこの学校にみい子はいないのか。ほかの実習生たちも明日から自分たちの大学に戻ってゆく。二週間。長いというほどでもないし、短いわけでもない。

 でも、みい子にとってはほかのどの二週間よりも重大な二週間だったのだ。

 ……、俺にとっては?

 断血に耐えた二週間。辛かった。でも、最終日には最高の血をいただけた。

 満足、だ。実に晴れやかな気分だ。空腹が満たされるというのは、なんと素晴らしいことなのだろう。

 図書室がまだ開いていたら文庫を返却していこう。俺はメモを適当に二つ折にして、ブレザーの胸ポケットに入れた。

 首をコキコキと鳴らしつつ、階段につづくドアをあける。拾い忘れた漱石のことを思い出し、立ち止まり振り返る。

 だだっぴろいコンクリートにぽつんと落ちている薄い文庫本をみとめたとき、足元を、さっとカラスでも飛んでいったような気がした。

 何やら、妙な感覚がする。

 本を回収して、暗がりに沈む鉄筋階段を降りる。

 下の階のリノリウムが目に入ったとたん、ぐわんと脳みそが大きく揺れた。強烈な目眩と吐き気と冷や汗、頭痛と腹痛と脂汗。

 十七歳以下――最低必要条件を無視したツケが、やってきた。

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