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食事、もとい吸血をしない日が一週間ほどつづいていた。
つい先日まで付き合っていたコンビニバイトの子が十八歳になって一週間。誕生日がきたからってすぐに血が変わるとも思えなかったが、念のために別れた。
彼女は顔も血も及第点な、従順なフリーターだった。別れを告げたときも少し目をみはっただけですぐ頷いてくれた。ああいうコは都合がいいんだ。こんな言い草は失礼極まりないが、日陰で暮らす俺たちにとって正体を明かさず如何に言い訳ができるかは、かなり重要だ。このへんのことが俺は苦手なので、詮索好きや粘着質な女は困るのだ。
体は充分に動かせるが、さすがに空腹だった。腹が鳴るたび「餓死」の二文字が頭をかすめる。
電車のドアに寄りかかり食料をさがすが、目ぼしい女は見当たらない。――いた、と思ったら、あの教育実習生だった。こんな時間の電車に乗っているとは、寝坊でもしたか?
(却下却下。あーでも吸いてぇ。二日酔い覚悟でヤるか……しかし……)
生徒と先生の恋愛はご法度。実習生といえど不祥事が発覚したら、彼女の夢は潰えるかもしれない。
屋上の一件から、俺、何気に彼女をサポートしてきたのだ。彼女、度胸はあるらしく授業はちゃんとしていて、でも童顔をからかわれると泣きそうになるもんだから、そのたびに俺はちょっかいを出した生徒を体育倉庫の裏に呼び出して。そんなだから、よけいに腹が空く。
車両を変えようと踏み出したそのとき、揺れはじめた車内にイヤラシイ声がムッと充満した。
「みーちゃん、今日オレ予習してきたから指名してよ」
「みーちゃん、わかんないところあるから放課後に個人授業してくれない?」
「みーちゃん、きょうのお弁当のおかずは?」
みーちゃんみーちゃんみーちゃん、と!
俺はツカツカツカとそのチャラくてむっさい人だかりに歩み寄ると、一人の襟首をつかんで、振り向いたところを睨みつけてやった。とたんに竦みあがる生徒A。
「ひぃっ、おまえは一年D組の石見佐久也っ」
「……。みーちゃんなどと、馴れ馴れしく呼ぶな」
「はっ、はひーッ!」
男どもは悲鳴をあげて別の車両に散っていった。ついでにほかの乗客もいなくなってしまった。
おずおずと俺を見上げ、センセーがいった。
「別に、あたし、構わないんだよ?」
「構わないわけあるかよ。そんな顔して」
あーあー、また顔赤くして。涙ためて。
「がんばって化粧したんだろ。我慢だ我慢」
センセーはすーはーすーはーと呼吸をして、にこっと笑って小首を傾げた。
「ありがとうね、石見くん」
実習期間の折り返し地点にも到達していないのに、俺、センセーとずいぶん親しくなっていた。
常に彼女のことを気にしていなくてはならないので、睡眠タイムだった英語の授業をサボれず、そのぶん夜の町を徘徊する時間が減った。吸血鬼らしからぬ早寝早起き、お笑いだ。
結局、校門まで一緒に登校した。センセーは手を振ると、職員室のある棟へ走ってゆく。
(さて、午後の英語の時間まで何をするかな)
いつもの屋上を仰いだものの、
(……ジジイの授業、ちゃんと出てやるか)
サボタージュすると、彼女が使いっ走りで屋上にやってくるハメになる。貴重な時間を潰させるのも悪いし、俺はおとなしく教室に向かった。
嫌がらせのごとく国語が一限目。俺、だてに長く生きていないので成績は悪くない。居眠りせずにきちんと受け答えをしていれば、ジジイも白い髭を撫でるばかりでヒスを出さずにすむ。
穏やかなジジイの声に促されて、椅子の右に立ち教科書の小説を読み上げた。夏目漱石の『こゝろ』だ。俺には鬼門ともいえるシロモノである。なぜなら悪友が遺したのが、この本だったから。
教科書には一部分しか掲載されておらず、ページ下のあらすじによると、一人の女に二人の男が恋をし、片方は自殺し、もう片方も苦悩の末に自殺する物語。ミもフタもない。
授業終了のチャイムが鳴り、屋上へ向かった。あいにくの雨で、出入り口のドアに背中をぴったりつけ、コンクリートの庇にギリギリ収まって低い空を見上げる。
センセー、もとい笹倉みい子のことを思い浮かべると、決まって空腹を強く感じるようになっていた。
いっそのこと吸血しちゃえば、とも思う。二日酔いをする上に老化が進むといっても、餓死するよりはよっぽどマシだ。
都合のいいことにみい子は俺に気を許しているフシがある。生徒だけでなく先生陣にもからかわれるらしいこの学校で、味方は俺だけだと思っているのだろう。少し甘い言葉と態度でもって誘惑すれば、存外かんたんに落とせるんじゃないか。そうなったらあとは人目につかないところでコトに及べばいいだけだ。
唇を這わすなら、やっぱり首筋がいいな。あいつの首、色白で見るからに美味しそうで。毎日手作り弁当で、健康に気を遣ってるようだからきっとサラサラ血だろうし。
昔は、一週間の断血程度でここまで切羽詰まることはなかった。でも、同族の死を知ってからというもの、空腹に一種の強迫観念をおぼえるようになった。
死を意識すると、得体の知れない感情が俺をとりまく。
吸血してぇ。でも、そういう関係が露呈して彼女の夢を壊すわけにはいかない。でも死にたくない。吸血してぇ。堂々めぐり。
二限開始を告げるチャイムが鳴った。
俺は階段を二段ほど降り、腰を降ろした。空腹すぎて睡眠どころではない。
話し相手でもいればいいが、と思っていると、国語のジジイが階段の下を通り過ぎていった。この先の図書室にでも用があるのだろう。俺はこっそりとあとを追った。
自分の授業には出席していたもんだから、ジジイは鷹揚に俺を招き入れた。定年間近という以上に老けて窪んだ目を動かし、棚の上を物色している。
俺はにわかに親切心を発揮し、さがし物を手伝ってやることにした。埃をかぶった分厚い本を取ってやると、ジジイは律儀に礼をいって受け取った。しかし、枯れ木のごとき腕では本の重みに耐えられなかったらしく、倒れこむようにして傍らの机にドサリと置く。そしてそのままページを繰り、調べ物をはじめた。
邪魔にならないように足音も息もひそめ、本棚を見てまわった。漱石だって当然ある。薄っぺらい文庫を片手にジジイを振り返ると、ちょうどこちらに視線をよこしたところだった。
「それ、漱石のだろ。何も全集を持ち出さなくても、これで事足りるんじゃないか」
「ああ、こっちの解説を読みたかったんじゃ。物忘れがひどくての」
なるほどと思いつつ、こっちの文庫のほうは俺が借りることにした。うちにもあるんだけど、出版社が別だから解説とやらも違っているのだろう。
ちっぽけなカウンターで鉛筆を拝借し、貸出日と名前を記入する。カードは、クラスごとに分かれたプラスチックのケースに入れた。
「ほぅ、全文を読むか。結構、結構」
ジジイは肩を揺らして笑った。……もう、何十回と読んでるんだけどな。
「ときに、石見よ」
文庫を尻のポケットにねじ込んでいると、ジジイが急に神妙な顔になって言った。
「某実習生と、仲がよろしいようじゃが?」
「なっなな仲っていうか、……その。彼女、見かけとか性格とかああだから、ほっとけないっていうか……つつがなく実習を終えられるようにと、見守ってやりたいなー、とか……」
このテの言い訳って機転が利かないな、俺。
ジジイは俺をじーっと俺を見ている。
「ほぅほぅ。石見は優しいんじゃのー」
「へっ?」
「笹倉くんの兄さんは儂の教え子でな。妹思いのいい兄さんじゃ、このたびも『妹をよろしく』と頼みにきおったわぃ。彼女の教科が国語でないのが残念じゃわ」
「あぁ、はぁ……」
「石見がついとるなら、誰もちょっかいを出せんじゃろうし安心じゃな」
ジジイは俺の背中をぐいぐい押しながら、図書室から出た。愉快そうに笑い、施錠する。
「しかし、おまえも手は出せんぞ。将史はそれこそ、妹思いの極致にいる男じゃて」
そんなことを言い置いて、ジジイは別棟へつづく渡り廊下に姿を消した。




