第六話 門前の三日
門は、沈黙していた。
山本勘助は、その前に腰を下ろしていた。
竹林の奥、質素な門構えの屋敷である。武家屋敷のように威を張る造りではない。高い塀もなければ、金具で飾られた門でもない。ただ、古い木が組まれ、そこに年月が染みている。
だが、そこには城門よりも重いものがあった。
勘助は膝の上に両手を置き、薄闇の中で門を見つめていた。
日が落ちると、鹿島の空気は急に冷えた。
昼間、茶屋のお峰とお咲に粥をもらったおかげで腹の底は少し温かかったが、それでも傷口はじくじくと痛む。肩に巻いた布は乾ききらず、夜気を吸って冷たくなっていた。
門の内側では、時折人の気配がした。
足音。
木戸の開く音。
桶を置く音。
低い話し声。
しかし、誰も勘助に声をかけない。
最初に応対した門弟は、日が暮れる前に一度だけ門の隙間から顔を出した。
「まだいるのか」
「いる」
「先生は戻らぬぞ」
「ならば、戻られるまで待つ」
「明日かもしれんし、三日後かもしれん。十日後かもしれん」
「承知している」
「承知している顔には見えん」
「拙者の顔は、たいていのことが顔に出ぬらしい」
「いや、出ている。疲れた顔だ。怪我人の顔だ。腹が減った顔だ」
「そこまで出ているなら、隠す才はないな」
門弟は一瞬きょとんとし、それから眉をひそめた。
「お前、からかっているのか」
「そのような余裕はない」
「なら、妙なことを言うな」
「生まれつきだ」
門弟は返す言葉に困ったらしい。
しばらく黙ってから、ふんと鼻を鳴らした。
「勝手にしろ。ただ、門に寄りかかるな。傷がつく」
「この門がか」
「お前がだ」
そう言うと、門弟はすぐに門を閉めた。
勘助は閉ざされた木戸を見た。
突き放されたのか、案じられたのか、分からない言葉だった。
ただ、不思議と腹は立たなかった。
門に寄りかかるな。
つまり、倒れるなということだ。
そう都合よく受け取って、勘助は道端の石に背を預けた。
その夜、眠りは浅かった。
竹が風に鳴る。
葉擦れの音が人の囁きに聞こえる。
何度か目を覚まし、そのたびに門がそこにあることを確かめた。
逃げていない。
戻っていない。
自分はまだ、門前にいる。
それだけを確認して、また目を閉じた。
翌朝。
空は白く濁っていた。
鳥の声とともに、門の内側が動き始めた。水を汲む音、薪を割る音、若い声。道場の朝は早いらしい。
勘助は立ち上がろうとした。
だが、足が痺れていた。
「……っ」
思わず片膝をつく。
そこへ、門が開いた。
昨日の門弟とは別の若者が出てきた。手に桶を持っている。勘助を見つけると、露骨に顔をしかめた。
「うわ。本当にいた」
「おはようございます」
勘助は頭を下げた。
若者はますます変な顔をした。
「お前、何で普通に挨拶するんだ」
「朝ゆえ」
「いや、そういうことじゃない。門前で一晩過ごして、まず言うのがそれか」
「では、何と言えばよかった」
「知らん。寒いとか、腹が減ったとか、先生に会わせろとか」
「寒い。腹も減った。卜伝殿に会わせていただきたい」
「言えばいいってもんじゃない」
若者は桶を持ったまま、呆れたように息を吐いた。
「名は」
「山本勘助」
「俺は弥平。門の掃除を任されている。だから邪魔だ」
「それは失礼した」
勘助は体を起こし、道端へ寄った。
弥平は門前に水を撒き、箒で掃き始めた。
勘助は邪魔にならぬよう、少し離れて立っていた。
足が痛い。
肩も痛む。
それでも、門を離れる気にはならなかった。
弥平は何度か勘助を横目で見た。
「座ればいいだろ」
「掃除の邪魔になる」
「そこなら邪魔じゃない」
「かたじけない」
勘助が腰を下ろすと、弥平はぶつぶつ言った。
「妙な奴だな。普通はもっと偉そうにするんだよ。『我こそはどこそこの兵法者である』とか、『先生にお目通り願う』とか、『このまま帰れば鹿島の名折れだ』とか」
「そう言えば会えるのか」
「会えるわけないだろ。だいたい笑われて終わる」
「では言わぬ」
「言わなくても笑われるぞ」
「それは慣れている」
弥平の箒の動きが一瞬止まった。
「……慣れるものか」
「慣れたくはなかった」
勘助がそう答えると、弥平は黙った。
しばらく竹箒の音だけが続いた。
やがて弥平は、門の内側に桶を置きに戻った。すぐにまた出てきて、今度は小さな瓢を勘助の足元に置いた。
「水だ」
「よいのか」
「門前で干からびられると掃除が増える」
「掃除のためか」
「そうだ」
「ならば、掃除に感謝する」
「お前、いちいち返しが面倒だな」
弥平はそっぽを向いて門の中へ戻っていった。
勘助は瓢を手に取った。
水は冷たかった。
喉を通ると、体の奥がはっきりする。
ありがたかった。
だが同時に、ここで甘えるわけにはいかないとも思った。
自分はまだ客ではない。
弟子でもない。
ただ、門前に勝手に居座っている浪人である。
朝が進むにつれ、門弟たちが出入りし始めた。
何人かは勘助を見て笑った。
「まだいたのか」
「昨夜で逃げると思った」
「鹿島の夜は寒かったろう」
「次は腹が減って逃げるぞ」
勘助は黙っていた。
黙っていると、相手は飽きる者と、さらに苛立つ者に分かれる。
新九郎は後者だった。
昼前、稽古へ向かうらしい一団が門から出てきた。その先頭にいた新九郎は、勘助を見るなり顔を歪めた。
「おい、まだいたのか」
「いる」
「見れば分かる」
「では、なぜ聞いた」
周囲の門弟たちが吹き出した。
新九郎の額に青筋が浮かぶ。
「お前は本当に口だけは回るな」
「他に回るものが少ない」
「自分で言っていて惨めではないのか」
「惨めだ」
またしても即答だった。
新九郎は二の句を継げなかった。
勘助は新九郎を見上げた。
「だが、惨めであることと、帰ることは別だ」
「何?」
「惨めでも、ここにいる。笑われても、ここにいる。それだけだ」
新九郎の顔から笑みが消えた。
彼は木刀を肩に担ぎ、勘助の前に立った。
「なぜ、そこまでして卜伝先生に会いたい」
「剣を学びたい」
「その体でか」
「この体でしか、生きられぬ」
新九郎が舌打ちした。
「綺麗な言葉だな。誰かに教わったのか」
「父に近いことを言われた」
「なら、お前の父は無責任だ」
その言葉に、勘助の指がわずかに動いた。
新九郎はそれを見逃さなかった。
「怒ったか」
「少し」
「なら立て。怒った勢いで木刀でも振ってみろ。ここで俺に一太刀入れられたら、先生に取り次いでやる」
門弟たちがざわついた。
勘助は新九郎を見た。
右足の踏み込みが強い。
肩に力がある。
怒らせたいのではない。
相手が怒る姿を見たいのだ。
勘助が怒りに任せて立てば、新九郎は笑って打ち倒すだろう。
そして言う。
その程度か、と。
勘助はゆっくりと首を横に振った。
「やめておく」
「怖いか」
「怖い」
新九郎は一瞬、目を見開いた。
勘助は続けた。
「そなたは強い。今の拙者が木刀を持っても、三合も保たぬ」
「分かっているなら帰れ」
「だから学びに来た」
「堂々巡りだな」
「道が見つからぬ時は、同じところを回ることもある」
「腹の立つ奴だ」
新九郎は木刀を地面に打ちつけた。
「だがな、山本勘助。鹿島は、弱い者が慰めてもらう場所ではない。自分は傷ついている、自分は笑われてきた、だから誰かが認めてくれるはずだ。そんな甘えた者が来る場所ではない」
周囲が静かになった。
新九郎の言葉には、単なる侮りだけではない何かが混じっていた。
「先生は優しい方ではない。お前の傷を見て憐れんだりしない。片目だから、足が悪いから、顔が醜いからといって、特別に扱ったりもしない。むしろ、できぬならできぬと言う。向いておらぬなら向いておらぬと言う」
勘助は黙って聞いていた。
「その時、お前はどうする。今までお前を笑った連中と同じように、先生を恨むのか」
「分からぬ」
「分からぬ?」
「その時になってみなければ分からぬ。拙者は己を立派な人間だとは思っておらぬ。言われれば傷つく。腹も立つ。恨むかもしれぬ」
「なら」
「だが」
勘助は門を見た。
「ここで帰れば、その言葉を聞くこともできぬ」
新九郎は黙った。
「向いておらぬと言われるなら、卜伝殿の口から聞きたい。できぬと言われるなら、何ができぬのか知りたい。拙者は、己が弱いことを知っているつもりで、まだ何も知らぬのかもしれぬ。だから来た」
長い沈黙が落ちた。
門弟たちの間にあった笑いが、少し薄まっていた。
新九郎は勘助を睨みつけたまま、低く言った。
「気に食わん」
「承知」
「だが、少しは分かった」
「何が」
「お前が面倒な奴だということがだ」
新九郎は背を向けた。
「行くぞ」
門弟たちは稽古へ向かった。
最後尾にいた庄左が、勘助の横を通る時に足を止めた。
「余計なことを言うが」
「はい」
「水だけでは保たん。夕刻までに何か口に入れろ」
「門を離れれば、卜伝殿が戻るかもしれぬ」
「戻らん」
「分かるのか」
「勘だ」
「その勘は当たるのか」
「半分ほど」
「では半分は外れる」
庄左は呆れた顔をした。
「お前は本当に面倒だな」
「今日、二度目に言われた」
「もっと言われるだろう」
庄左は懐から小さな包みを取り出し、勘助へ投げた。
握り飯だった。
勘助は慌てて受け取る。
「これは」
「余った」
「そうは見えぬ」
「余ったことにしておけ」
「かたじけない」
「礼はいい。食わずに倒れられると、弥平がうるさい」
「皆、理由をつけて助けるのが上手いな」
「助けていない」
「そうか」
庄左は少しだけ視線を逸らした。
「それと、新九郎の言葉は半分だけ聞け」
「半分」
「全部聞くと腹が立つ。全部聞かぬと足をすくわれる」
「よく知っているのだな」
「同門だからな」
庄左はそれだけ言うと、稽古場へ向かった。
勘助は手の中の握り飯を見た。
少し崩れている。
だが、米の匂いがする。
かぶりつくと、塩気が舌に広がった。
うまかった。
食べながら、勘助は不思議な気分になった。
ここでも笑われている。
ここでも見下されている。
だが、完全に切り捨てられてはいない。
門前にいることを許されている。
水を置かれた。
握り飯を渡された。
厳しい言葉も投げられた。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
ただ、今までの門前とは違った。
今までの門は、勘助という人間を入れる前に閉じた。
この門は、閉じている。
だが、前に立つことだけは許している。
その差は大きかった。
一日目は、そうして過ぎた。
夕方になると、竹林の影が長く伸びた。
弥平がまた門前へ出てきて、勘助を見るなり顔をしかめた。
「まだ座ってる」
「立つと邪魔になる」
「邪魔なのは座ってても同じだ」
「では、どうすれば」
「帰ればいい」
「それはできぬ」
「知ってる」
弥平はため息をついた。
そして、門の脇に古い蓑を置いた。
「捨てるやつだ」
「そうか」
「だから、勝手に使え」
「捨てるなら、門の内側に置くのでは」
「細かいな!」
弥平は怒ったように言い、門を閉めた。
勘助は蓑を手に取った。
破れている。
だが、夜露は少し防げる。
「かたじけない」
閉じた門に向かって言うと、内側から小さく「聞こえてる」と返ってきた。
その夜も、寒かった。
だが、前の夜よりはましだった。
蓑を肩にかけ、石に背を預け、勘助は浅い眠りを繰り返した。
夢を見た。
母が傘を差している。
父が木刀を置いている。
旅の僧が東を指している。
沢で助けた子供が「こわかったけど、ありがとう」と言っている。
そして、まだ見ぬ塚原卜伝が、門の向こうからこちらを見ている。
顔は見えない。
ただ、見られている気配だけがあった。
二日目の朝。
空は晴れていた。
勘助は体を起こした時、全身がぎしぎしと軋むのを感じた。
足が腫れている。
左腕の傷も熱を持っている。
肩の布を替えたいが、替えの布は少ない。
それでも立った。
門の前に立つ。
立ってみて、愕然とした。
まっすぐ立てない。
体がどちらかへ傾く。
足が痛むため、無意識に逃げているのだ。
勘助は歯を食いしばった。
昨日、庄左が言った。
立ち方が悪い。
今なら少し分かる。
自分は、立つことから逃げている。
痛い方へ体重をかけない。
怖い方へ足を出さない。
その癖が、すべてに出ている。
勘助はゆっくりと左足へ重みをかけた。
「……っ」
痛い。
すぐに戻したくなる。
だが、戻さなかった。
少しだけ。
ほんの少しだけ、左足に乗る。
竹林の朝風が頬を撫でた。
門の内側で、誰かがこちらを見ている気配がした。
だが、勘助は振り返らない。
ただ立つ。
それだけで汗が出た。
しばらくすると、門が開き、弥平が出てきた。
彼は勘助を見るなり、妙な顔をした。
「何してるんだ」
「立っている」
「見れば分かる」
「なら、なぜ聞いた」
「そういう返しはいらない」
弥平は眉を寄せて、勘助の足元を見た。
「足、痛むのか」
「痛む」
「座ればいい」
「痛む足で立てぬなら、剣どころではない」
「急に何か悟ったみたいなことを言うな」
「悟ってはいない。痛いだけだ」
弥平はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「先生が昔、同じようなことを言っていた」
「卜伝殿が?」
「俺は直接聞いてない。兄弟子が言ってた。『刀を持つ前に、己の足を疑え』って」
勘助は足元を見た。
「己の足を疑う」
「意味は知らん。俺はまだ掃除ばかりだからな」
「掃除も足を使う」
「屁理屈か?」
「本気で言った」
弥平は少しだけ笑いそうになり、慌てて表情を戻した。
「水、いるか」
「いただきたい」
「最初からそう言え」
弥平は水を持ってきた。
勘助は礼を言って飲んだ。
その日の午前、勘助は門前で立つことにした。
長くはできない。
痛みで膝が震える。
少し立っては座り、また立つ。
門弟たちは行き来するたびにそれを見た。
笑う者もいた。
「何だ、あれ。門前の置物か」
「いや、壊れかけの案山子だ」
「風が吹いたら倒れそうだ」
勘助は黙っていた。
ただ、彼らの言葉よりも足元に意識を向ける。
右へ逃げるな。
左を嫌うな。
痛むことを知れ。
痛みに任せるな。
昼頃、新九郎が戻ってきた。
彼は門前で立つ勘助を見て、足を止めた。
「今度は何の真似だ」
「立つ稽古だ」
「誰に命じられた」
「誰にも」
「先生の真似事か」
「真似にもなっておらぬ」
「ならやめろ。見苦しい」
勘助は少し息を整えた。
「見苦しいものを見るのは、嫌か」
「嫌だな」
「では、見なければよい」
「ここは俺たちの門だ」
「なら、見苦しい者を追い払う権利もあるのだろう」
「そうだ」
「だが、まだ追い払われてはおらぬ」
新九郎の顔が険しくなった。
「屁理屈ばかりだ」
「これしか持ち合わせがない」
「剣を持て」
「今は持たぬ」
「なぜ」
「怒って持てば、そなたの思う壺だ」
新九郎の目が細くなった。
周囲にいた門弟たちも静かになった。
「俺が何を思っていると?」
「拙者を打ち倒し、やはり無理だと言いたい」
「違うな」
「違うか」
「半分だ」
新九郎は木刀を肩に担いだ。
「もう半分は、お前がどこまで堪えるか見たい」
勘助は新九郎を見た。
初めて、彼の言葉に嘲笑以外のものが混じった気がした。
「なぜ」
「分からん」
新九郎は不機嫌そうに言った。
「分からんが、お前を見ていると腹が立つ。弱いくせに、惨めなくせに、笑われているくせに、なぜか目だけは逃げておらぬ」
「逃げている」
「どこがだ」
「足が逃げる。声も逃げる。心も逃げる。目だけ残っているなら、まだましなのだろう」
新九郎は黙った。
勘助はさらに言った。
「そなたは、強い」
「当然だ」
「だが、何かから逃げているように見える」
空気が凍った。
周囲の門弟が息を呑む。
新九郎の顔色が変わった。
「……何だと」
「失言だった」
「今さら遅い」
新九郎の声が低くなる。
「お前に何が分かる」
「分からぬ。だから、そう見えると言っただけだ」
「その目で俺を見たつもりか」
「見えたものを申した」
「なら、その目を潰されても文句は言えんな」
新九郎が一歩踏み出した。
その瞬間、庄左が横から割って入った。
「やめろ」
「退け、庄左」
「境内どころか先生の門前だ。ここで手を出せば、お前が叱られる」
「こいつが先に」
「言葉で斬られたくらいで木刀を抜くな」
新九郎は歯を食いしばった。
勘助は頭を下げた。
「すまぬ。踏み込みすぎた」
「本当にな」
庄左が鋭く言った。
「お前の目は厄介だ。だが、見えたものを何でも口にすればよいわけではない」
「肝に銘じる」
「銘じるだけで直るなら、苦労しない」
「それも肝に銘じる」
「増やすな」
庄左はため息をついた。
新九郎はまだ怒っていたが、木刀を下ろした。
「山本勘助」
「はい」
「俺はお前が嫌いだ」
「承知」
「だが、逃げずに三日立てたら、一つだけ教えてやる」
「何を」
「立ち方だ」
勘助は目を瞬いた。
新九郎は顔を背けた。
「その歪んだ立ち方を見ていると、腹が立つ」
「なら、三日立つ」
「倒れたら終わりだ」
「倒れたら、また立つ」
「そういうところが気に食わん!」
新九郎は怒鳴って去っていった。
庄左はその背を見送り、勘助を見た。
「お前、敵を作るのが上手いな」
「その才はいらぬ」
「残念だが、持っている」
庄左は懐から布を出した。
「腕の布を替えろ。血が滲んでいる」
「そこまでしてもらうわけには」
「俺のではない。弥平が持っていけと言った」
「弥平殿が」
「本人は『捨てる布だ』と言っていた」
「なるほど」
勘助は布を受け取った。
「皆、捨てるものが多い」
「お前も、そのうち何か捨てろ」
「何を」
「意地とか、余計な言葉とか、すぐ人の癖を見るところとか」
「最後のものを捨てると、拙者には何も残らぬ」
庄左は少しだけ黙った。
「なら、使い方を覚えろ」
その言葉は、父の言葉に似ていた。
勘助は深く頭を下げた。
二日目の夜は、雲が出た。
月は見えない。
風も湿っている。
勘助は門前に座り、布を替えた腕を押さえていた。
新九郎の言葉が頭に残っている。
俺はお前が嫌いだ。
だが、三日立てたら、立ち方を教えてやる。
嫌いな相手に、なぜ教えるのか。
勘助には分からない。
だが、人はそう単純ではないのだろう。
嫌いだからこそ気になることもある。
腹が立つからこそ、目が離せぬこともある。
自分もまた、見下した者たちの顔を忘れられない。
それと同じなのかもしれなかった。
夜半、雨が降り始めた。
最初は細かった。
だが、すぐに強くなった。
竹林が激しく鳴る。
蓑をかぶっても、雨は染み込んでくる。
門の軒下へ移れば少しはしのげる。
だが、門に寄りかかるなと言われていた。
勘助は道端の石のそばに座り、膝を抱えた。
雨は冷たかった。
体温が奪われる。
肩が震える。
傷が痛む。
腹も減っていた。
それでも、立ち去る気は起こらなかった。
ここで去れば、今までの門前と同じになる。
追い払われたから去ったのではない。
苦しいから自分で去ったことになる。
それだけは嫌だった。
夜の深い頃、門が少し開いた。
弥平が顔を出した。
「おい」
勘助は顔を上げた。
「はい」
「屋根の下へ来い。死ぬぞ」
「門に寄りかかるなと言われた」
「寄りかからなきゃいいだろ」
「門の内へは入れぬとも」
「内じゃない。軒下だ」
「しかし」
「面倒くさいな!」
弥平は小声で怒鳴った。
「俺が掃除する場所に死体を出したくないんだよ。分かったら来い」
勘助は少し迷い、立ち上がった。
足が痺れている。
ふらつきながら軒下へ移ると、弥平が古い布を投げてきた。
「これも捨てるやつだ」
「捨てるものが多いな」
「うるさい」
弥平は門を閉めようとして、ふと口を開いた。
「先生が戻られるのは、たぶん明け方だ」
勘助は顔を上げた。
「本当か」
「たぶんだ」
「なぜ教える」
「お前が明け方前に死んだら、三日待った意味がなくなるだろ」
「三日は、まだ経っておらぬ」
「細かいな。夜が明ければ三日目だ」
弥平はそれだけ言って、門を閉じた。
勘助は軒下に腰を下ろした。
雨音が近い。
だが、さっきより少しだけ楽だった。
布を肩にかけ、目を閉じる。
眠ってはならないと思った。
だが、体は限界に近かった。
うとうとするたび、雨音が母の声に聞こえた。
嫌いでも、捨てないで。
痛みに目を背けるたび、父の声が聞こえた。
悪い足で生きるからだ。
門の向こうでは、誰かが静かに歩く気配がした。
弥平ではない。
庄左でも、新九郎でもない。
もっと静かな足音だった。
勘助は目を開けようとした。
だが、瞼が重い。
足音は門の内側で止まった。
誰かが、こちらを見ている。
勘助はその気配だけを感じた。
やがて足音は遠ざかった。
何だったのか。
分からない。
だが、不思議と背筋が伸びた。
三日目の朝。
雨は、夜明け前に上がった。
空はまだ灰色だったが、竹の葉から落ちる雫が、朝の光を受けて細く光っている。
勘助は軒下で目を覚ました。
体は冷えきっていた。
手足は重い。
傷は熱い。
それでも、意識ははっきりしていた。
門前に戻ろうと立ち上がる。
その時、道の向こうから足音が聞こえた。
ゆっくりとした足音だった。
急がず、乱れず、ただ一定の間合いで近づいてくる。
勘助は顔を上げた。
朝靄の向こうに、一人の老人がいた。
老人、と言うには背筋が伸びている。
武士、と言うには気配が静かすぎる。
粗末な旅装束に、刀を帯びている。
顔には深い皺があるが、目は濁っていない。
その目が、勘助を見た。
顔を見た。
片目を見た。
足を見た。
傷を見た。
だが、そこに嘲笑はなかった。
哀れみもなかった。
ただ、見ていた。
勘助は息を呑んだ。
老人は門の前まで来て、勘助のすぐ横で足を止めた。
そして、低く静かな声で言った。
「そこは、客が眠る場所ではない」
勘助は慌てて頭を下げた。
「失礼つかまつりました」
「名は」
「山本勘助にございます」
「何をしに来た」
「塚原卜伝殿に、お目通り願いたく参りました」
老人は少しだけ目を細めた。
「何ゆえ」
勘助は答えようとした。
剣を学びたい。
強くなりたい。
笑った者を見返したい。
人を守れるようになりたい。
言葉はいくつも浮かんだ。
だが、どれも口にすると軽くなりそうだった。
雨上がりの朝、鹿島の門前で、勘助は初めて言葉を選ばなかった。
沈黙した。
老人は待っていた。
勘助も、沈黙の中に立っていた。
やがて、老人はわずかに口元を動かした。
「答えを急がぬ者は、まだ見込みがある」
その声を聞いた瞬間、門の内側がざわついた。
弥平が門を開け、目を丸くする。
「先生……」
勘助は、もう一度老人を見た。
塚原卜伝。
その名が、朝靄の中でようやく形を持った。
勘助は深く、深く頭を下げた。
額が濡れた地面に触れそうになる。
卜伝は、ただ静かに言った。
「入れとは言っておらぬ」
勘助の動きが止まった。
弥平が小さく息を呑む。
卜伝は門の中へ入らず、勘助の前に立ったまま続けた。
「まず、そこに立て」
勘助は顔を上げた。
「立つ、でございますか」
「そうだ」
卜伝の目は、勘助の足元に向いていた。
「剣を学びに来たと言う前に、己がどう立っているかを知れ」
朝の雫が、竹の葉から落ちた。
鹿島の門前で、山本勘助の最初の稽古が始まろうとしていた。




