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『醜いから仕官不要と追放された俺、武田信玄だけが「その目は天下を見ている」と言った 〜隻眼の軍師・山本勘助、見下した名門武家を戦場でざまぁする〜』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第四話 剣では勝てぬ

 東へ向かう道は、思っていたよりも険しかった。


 山本勘助は、左肩に巻かれた布を時折押さえながら歩いていた。村の老婆が巻いてくれた布だ。血はもう止まっている。だが、歩くたびに傷口が熱を持つ。


 足も痛い。


 肩も痛い。


 腹も減る。


 そして何より、自分が弱いという事実が、体の痛みよりも重くのしかかっていた。


 昨夜の地蔵堂での一件は、勝ったわけではない。


 あれは逃げたのだ。


 腐った床板を使い、泥を使い、雨を使い、相手の油断を使って、命だけ拾った。


 それは悪いことではない。


 生きている。


 生きているなら、負けではない。


 そう己に言い聞かせた。


 だが、胸の奥では別の声がする。


 では、誰かを守る時はどうする。


 逃げられぬ時はどうする。


 逃げ道がない者が隣にいたら、どうする。


 その問いから、勘助は逃げられなかった。


 昼過ぎ、街道は細くなった。


 左右に雑木林が迫り、道の端には冬枯れの草が倒れている。昨夜の雨で土は柔らかくなっていた。草鞋の底に泥が絡み、一歩ごとに音が重くなる。


 勘助は足を止めた。


 鳥の声が消えていた。


 不自然だった。


 風はある。木々も揺れている。だが、鳥が鳴かない。


 代わりに、枝の折れる音がした。


 前方。


 いや、右の林の中。


 勘助はゆっくりと腰の刀へ手を添えた。


 その時、前の曲がり道から女の悲鳴が上がった。


「やめてください!」


 勘助の体が動くより先に、目が動いた。


 曲がり角の向こう。


 坂を下ったところに、小さな荷車が倒れていた。米俵と布包みが道に散らばっている。荷車のそばには、商人らしき男がうずくまり、女が子供をかばうように立っていた。


 その前に、二人の浪人がいる。


 一人は痩せて背が高い。もう一人は太く、首が短い。


 さらに、林の影にもう一人。


 三人。


 昨夜の連中ではない。


 だが、匂いは同じだった。


 飢え、苛立ち、侮り。


 勘助は木の陰に身を寄せた。


 女が声を震わせている。


「銭なら渡しました。荷も好きなだけ持っていってください。だから、この子には」


「だからさあ」


 背の高い浪人が、気怠そうに刀の鯉口を鳴らした。


「銭も荷も足りねえって言ってるんだよ」


「もう何もありません」


「あるだろ」


 浪人の目が女の着物に向いた。


 女が子供を抱き寄せる。


 子供はまだ五つか六つだろう。声も出せず、ただ母親の袖を握っている。


 うずくまっていた商人の男が、震えながら顔を上げた。


「お、お武家様。どうか、どうか妻と子だけは。わしが働いて返します。必ず返しますから」


 太い浪人が笑った。


「返す? 誰に?」


「それは」


「俺たちはな、今欲しいんだよ。明日とか来月とか、そういう話は腹が膨れてる奴の言うことだ」


 背の高い浪人が商人の頬を軽く蹴った。


「おい、女。こっちへ来い。子供を置け」


「嫌です!」


「嫌か。そりゃあ困ったな」


 浪人が刀を半ば抜いた。


 子供が小さく泣いた。


 勘助は息を止めた。


 見える。


 敵の位置が見える。


 背の高い男は右足をやや引いている。刀を抜く癖が遅い。だが腕は長く、間合いが広い。


 太い男は力がある。だが膝が硬い。足場が悪ければ崩せる。


 林の中の三人目は弓ではない。短い槍か、棒。こちらに気づいてはいないが、道を塞ぐ位置にいる。


 荷車。


 米俵。


 ぬかるみ。


 坂。


 倒れた車輪。


 逃げるなら左の沢へ下る。


 だが商人一家は逃げられない。


 子供を抱えた女が、沢へ下れば足を取られる。商人の男も腰を抜かしている。今動けば、全員が斬られる。


 勘助は刀の柄を握った。


 掌に汗が滲む。


 昨夜と同じだ。


 見えている。


 見えているのに、体が足りない。


「……くそ」


 小さく呟いた。


 母の声が聞こえた気がした。


 相手と同じ目になってはいけません。


 父の声も聞こえた気がした。


 悪い足で生きるからだ。


 旅の僧の声も。


 策は、命があってこそだ。


 勘助は静かに息を吸った。


 正面から斬り込めば死ぬ。


 ならば正面から行かない。


「おい」


 勘助は木陰から声をかけた。


 浪人たちが振り返る。


 女も商人も、同時にこちらを見た。


 背の高い浪人が眉を寄せる。


「なんだ、お前」


「通りすがりの者だ」


「見りゃ分かる。だから何だ」


「その荷車は、もう壊れている。米俵も雨を吸って重い。子連れの女を連れても足手まといになるだけだ」


 浪人たちの顔が変わった。


 勘助は続けた。


「銭と乾いた荷だけ持って去れ。そうすれば、誰も死なずに済む」


 太い浪人が、ぽかんと口を開けた。


 それから大声で笑った。


「おい、聞いたか。化け物みたいな面の奴が説教してるぞ」


 背の高い浪人も笑う。


「お前、その顔でよく人前に出てこられたな。女が余計に怖がるだろうが」


 女が反射的に勘助を見た。


 確かに、怖がっていた。


 無理もない。


 血の滲んだ肩。


 濁った片目。


 傷だらけの顔。


 泥に汚れた旅装束。


 助けに来た者には見えない。


 勘助は女の視線を受け止めた。


「怖がらせてすまぬ」


 女は驚いたように目を見開いた。


 勘助はそのまま浪人へ視線を戻す。


「だが、拙者の顔と、そなたらの悪事は別だ」


 背の高い浪人の笑みが消えた。


「何だと」


「女と子供を脅して奪うのに、顔立ちは関係あるまい」


「お前、死にたいのか」


「死にたくはない」


 勘助は正直に答えた。


「なら黙って失せろ」


「それもできぬ」


「なぜだ」


 勘助は一瞬、言葉に迷った。


 正義だから。


 武士だから。


 弱き者を助けるため。


 どれも口にすれば立派だ。


 だが、今の自分が言うには薄い。


 だから、正直に言った。


「ここで逃げれば、拙者は二度と己の紙を読めませぬ」


「紙?」


「こちらの話だ」


 背の高い浪人は、心底気味悪そうに顔を歪めた。


「頭もおかしいのか」


「否定はせぬ」


「なら死ね」


 浪人が踏み込んだ。


 速い。


 思ったより速い。


 勘助は横へ逃げた。


 刀を抜く余裕はない。抜けば間合いに飲まれる。


 背の高い浪人の刀が、勘助の袖を裂いた。


 冷たい空気が腕に触れる。


 勘助は米俵の方へ下がった。


「逃げるな!」


「逃げねば斬られる」


「なら斬られろ!」


 浪人がさらに踏み込む。


 勘助は倒れた米俵を足で押した。


 雨を吸って重い。


 だが、坂道に置かれた俵は、少しだけ転がった。


 背の高い浪人の足元へ。


「ちっ」


 浪人が避ける。


 そのわずかな遅れで、勘助はようやく刀を抜いた。


 抜いた瞬間、腕が震えた。


 肩の傷が痛む。


 太い浪人が笑った。


「おいおい、その手で戦うつもりか」


 その通りだった。


 勘助自身も分かっている。


 まともには戦えない。


 背の高い浪人が刀を構える。


「もう一度言う。失せろ」


 勘助は刀を構えた。


 格好の良い構えではない。


 腰は低く、足はやや斜め。左足をかばっているのが丸わかりだ。


 太い浪人が鼻で笑う。


「素人じゃねえか」


「少しは習った」


「誰に」


「父に」


「じゃあ親父を恨め。下手だ」


 背の高い浪人が斬り込んだ。


 勘助は受けた。


 重い。


 腕に衝撃が走る。


 二撃目。


 受けきれず、刀が弾かれる。


 背の高い浪人の膝が飛んできた。


 勘助の腹に入る。


「ぐっ」


 息が詰まった。


 体が折れる。


 そこへ肩を蹴られた。


 地面に転がる。


 泥が口に入った。


 女の悲鳴が聞こえる。


「お侍様!」


 勘助は顔を上げた。


 背の高い浪人が刀を振り上げている。


 見える。


 刃の角度。


 踏み込み。


 殺気。


 見える。


 だが、体が動かない。


 勘助は必死で横へ転がった。


 刀が地面に突き刺さる。


 泥が跳ねる。


 刃が頬をかすめた。


 熱い痛み。


 太い浪人が笑う。


「しぶといな、この化け物」


 勘助は泥の中で膝をついた。


 息ができない。


 腹が痛い。


 肩が焼けるようだ。


 剣では勝てぬ。


 その言葉が、頭の中で鳴った。


 剣では勝てぬ。


 それでも、ここで倒れれば女と子供が終わる。


 勘助は周囲を見た。


 米俵。


 荷車。


 ぬかるみ。


 坂。


 沢。


 林の中の三人目は、まだ動かない。


 いや、動けないのではない。


 こちらの隙を待っている。


 勘助は大きく息を吸った。


 そして、女へ叫んだ。


「車輪を押せ!」


 女が怯えた顔をする。


「え?」


「荷車の車輪だ! そちらへ倒せ!」


「でも」


「子を守りたければ、動け!」


 その声は、自分でも驚くほど強かった。


 女ははっとしたように子供を商人へ押しつけ、倒れた荷車へ駆け寄った。


 背の高い浪人が舌打ちする。


「余計なことを!」


 浪人が女へ向かおうとする。


 勘助は泥を掴んで投げた。


 泥は浪人の顔に当たらない。


 だが、目の前を横切るだけで十分だった。


「小癪な!」


 浪人の意識が一瞬、勘助へ戻る。


 女が必死に荷車を押す。


 車輪が軋む。


 太い浪人がそれに気づいた。


「おい、何してやがる!」


 そちらへ向かおうとした瞬間、勘助は地面に落ちていた布包みを蹴った。


 中身は乾いた豆か何かだったのだろう。袋が裂け、丸い粒がぬかるんだ道に散らばる。


 太い浪人の足がそれを踏んだ。


「うおっ」


 膝が崩れる。


 同時に、女が荷車を押し倒した。


 壊れかけの荷車は、坂の上でぐらりと傾き、そのまま横倒しになって滑った。


 米俵が転がる。


 車輪が跳ねる。


 太い浪人の足元へ。


「ぐあっ!」


 浪人が巻き込まれ、泥の中へ転んだ。


 背の高い浪人が怒鳴る。


「てめえ!」


 勘助はその隙に商人へ叫んだ。


「子を抱えて沢へ走れ! 下りきったら左へ回れ!」


 商人は震えていた。


「で、でも、妻が」


「奥方は後から来る! 走れ!」


 商人は子供を抱え、転びそうになりながら沢へ向かった。


 女も後を追おうとする。


 だが、林の中の三人目が飛び出した。


 短槍を持っている。


 やはりいた。


 女の進路を塞ぐように立つ。


「逃がすかよ!」


 勘助は動いた。


 遅い。


 足がもつれる。


 それでも動いた。


 短槍の男が女へ突きを放つ。


 勘助は間に入った。


 槍先が左腕を裂いた。


 激痛。


 だが浅い。


 勘助はそのまま槍の柄を掴んだ。


「離せ!」


 男が引く。


 力では敵わない。


 だから勘助は引かず、逆に踏み込んだ。


 槍の間合いを潰す。


 顔が近づく。


 短槍の男が勘助の顔を間近で見て、わずかに怯んだ。


 勘助はその怯みを逃さず、頭突きを入れた。


 鈍い音。


 相手がよろける。


 勘助も目の前が白くなる。


 だが、女はその隙に沢へ走った。


「ありがとうございます!」


 その声が聞こえた。


 勘助は少しだけ安堵した。


 その瞬間、背中に衝撃が走った。


 背の高い浪人に蹴られたのだ。


 勘助は前のめりに倒れた。


 泥水が跳ねる。


「よくも邪魔してくれたな」


 背の高い浪人の声は、もう笑っていなかった。


 本気で怒っていた。


 勘助は立とうとした。


 だが、足が滑った。


 膝が泥に沈む。


 浪人が刀を構える。


「終わりだ」


 その時、沢の方から商人の声が響いた。


「お侍様!」


 勘助は顔だけ向けた。


 商人が石を投げた。


 小さな石だった。


 狙いも甘い。


 石は背の高い浪人の肩に当たっただけだ。


 だが、浪人は反射的に振り向いた。


 その一瞬。


 勘助は地面の泥を蹴った。


 泥が浪人の足元を滑らせる。


 浪人の踏み込みが乱れる。


 勘助は刀を振った。


 斬るためではない。


 刀の峰で、相手の膝の横を打った。


「ぐっ!」


 浪人が膝をつく。


 勘助はすぐに退いた。


 追撃する力はない。


 倒す力もない。


 ただ、逃げる時間を作るだけで精一杯だった。


 太い浪人が立ち上がりかけている。


 短槍の男も頭を押さえながらうめいている。


 ここまでだ。


 勘助は自分に言った。


 これ以上は死ぬ。


「沢へ!」


 勘助は叫んだ。


 商人一家はすでに沢の向こうへ渡りかけている。


 勘助も足を引きずりながら沢へ下った。


 背後から罵声が飛ぶ。


「逃げるな!」


「待て、化け物!」


 勘助は振り返らなかった。


 沢の水は冷たかった。


 傷に染みた。


 だが、その冷たさで意識が戻る。


 商人の男が子供を抱え、女が手を引いて先を急いでいる。


 勘助は最後尾についた。


 追手の足音が聞こえる。


 だが、沢の石は滑る。


 背の高い浪人は膝を痛め、太い浪人は重い。短槍の男は頭を打っている。


 追いつけない。


 しばらく進んだところで、勘助は一行を左へ曲がらせた。


 藪の中に細い獣道がある。


「こちらへ」


 女が息を切らしながら言った。


「なぜ、この道が」


「草が倒れている。獣か、村人が使う道だ。人の背丈なら屈めば通れる」


 商人が震えた声で言う。


「お侍様、あなたは」


「話は後だ。今は進め」


 彼らは藪の中を進んだ。


 半刻ほどして、ようやく追手の声が聞こえなくなった。


 小さな祠の前に出たところで、女が膝をついた。


 子供は泣き疲れ、父親の胸に顔を埋めている。


 商人が深く頭を下げた。


「お侍様、何とお礼を申せばよいか」


「礼は要らぬ」


 勘助は木にもたれた。


 体が重い。


 立っているだけで精一杯だった。


 女が心配そうに近寄る。


「血が……腕も、肩も」


「浅い」


 商人が首を振った。


「先ほども、そう申されました。ですが浅くは見えません」


「見えるものが、常に正しいとは限らぬ」


 勘助がそう言うと、女は一瞬ぽかんとした。


 そして、少しだけ笑った。


「それは、あなた様が言うと不思議な言葉ですね。あれほど色々なものを見ておられたのに」


 勘助は返す言葉に困った。


 子供が父親の腕の中から、恐る恐る顔を出した。


 濡れた頬に涙の跡がある。


「おじちゃん」


 勘助は身構えた。


 子供は勘助の顔を見ていた。


 傷も。


 片目も。


 泥も。


 血も。


 すべて見ていた。


 勘助は、また泣かれるかと思った。


 だが子供は小さな声で言った。


「こわかったけど、ありがとう」


 勘助の胸が、変なふうに詰まった。


 怖かったけど。


 ありがとう。


 その順番が、妙に正直だった。


 勘助はどう答えればよいか分からず、ただうなずいた。


「……生きていて、よかった」


 子供は父親の胸に顔を戻した。


 女が涙を拭いながら言う。


「お侍様、本当にありがとうございました。あなた様がいなければ、私たちは」


「助かったのは、そなたが荷車を押したからだ。商人殿が石を投げたからだ。拙者一人では、何もできぬ」


 商人は慌てて首を振った。


「そんな、わしなど震えていただけで」


「震えながらでも、石を投げた」


「でも、当たりもしませんでした」


「当たった」


「肩に少しだけです」


「十分だ」


 勘助はそこで咳き込んだ。


 傷が痛む。


 女が布を出そうとした。


「手当てを」


「近くに村は」


「この先に、私どもが向かっていた村があります。親戚の家が」


「なら、そこへ行け」


「あなた様も」


「拙者は少し休む」


「ですが」


 勘助は首を横に振った。


「追手が戻るかもしれぬ。そなたらは早く行け」


 商人が迷った顔をする。


 女も同じだった。


 勘助はあえて厳しい声を出した。


「子を守るのが先だ」


 その一言で、女の顔が変わった。


 彼女は深く頭を下げた。


「このご恩は、忘れません」


「忘れてよい。忘れられるなら、その方がよい」


「なぜです」


「怖いことは、忘れられるなら忘れた方がよい」


 女はじっと勘助を見た。


 その目はもう、最初に見た時の怯えだけではなかった。


「あなた様は、お優しいのですね」


 勘助は苦笑した。


「そのように言われたことはない」


「なら、初めて言われたことにしてください」


 女はそう言って、子供の手を引いた。


 商人一家は何度も振り返りながら、村へ向かって去っていった。


 勘助は彼らの姿が見えなくなるまで立っていた。


 そして、見えなくなった瞬間、膝から崩れた。


「……っ」


 痛みが一気に襲ってきた。


 肩。


 腕。


 腹。


 背中。


 頬。


 体中が熱い。


 勘助は木の根元に座り込み、息を整えた。


 情けなかった。


 勝てなかった。


 三人の浪人相手に、まともに斬り合うことすらできなかった。


 相手を倒したわけでもない。


 追い払ったわけでもない。


 商人一家を逃がして、自分も転げるように逃げただけだ。


 だが。


 子供は生きていた。


 女も商人も、生きていた。


 それだけは確かだった。


「……剣では勝てぬ」


 勘助は声に出した。


 悔しいほどはっきりしていた。


「だが、剣がなければ守れぬ」


 刀を見る。


 泥に汚れ、刃も少し欠けている。


 己の腕も同じだ。


 欠けている。


 足りない。


 不格好だ。


 だが、捨てるわけにはいかない。


 遠くで、人の足音がした。


 勘助は身構えた。


 しかし現れたのは、蓑を着た初老の男だった。腰に刀を差しているが、浪人ではない。背筋が伸び、歩き方に無駄がない。


 男は倒れ込む勘助を見て、足を止めた。


「ひどい有様だな」


 勘助は刀へ手を伸ばした。


 男は片手を上げる。


「敵ではない。沢の向こうで、親子が泣きながら走っていくのを見た。血だらけの侍に助けられたと言っておった」


「侍と名乗るほどの者ではござらぬ」


「では何者だ」


「山本勘助と申す浪人にございます」


「浪人か」


 男は勘助の前にしゃがんだ。


 顔を見る。


 片目を見る。


 傷を見る。


 足を見る。


 だが、笑わなかった。


「刀を振ったな」


「少し」


「少しでその有様なら、だいぶ下手だ」


 勘助は思わず息を吐いた。


「返す言葉もござらぬ」


「だが、死んでいない」


「逃げただけにございます」


「逃げて人を生かしたなら、ただの逃げではない」


 男は腰の小袋から薬草のようなものを取り出した。


「腕を出せ」


「なぜ」


「このままでは熱が出る。鹿島へ行く前に倒れるぞ」


 勘助は目を細めた。


「なぜ、拙者が鹿島へ行くと」


 男は少し笑った。


「その顔、その怪我、その目。しかも刀は下手。なのに死ぬ気はない。そういう者がこの道を東へ行くなら、たいてい鹿島だ」


「鹿島には、そういう者が集まるのですか」


「集まる。そして大半は門前で帰る」


 勘助は沈黙した。


 男は傷に薬草を当てながら言う。


「塚原卜伝に会うつもりか」


「会えるなら」


「会えぬかもしれんぞ」


「承知しております」


「門弟に笑われるぞ」


「慣れております」


「追い返されるぞ」


「それも、慣れております」


「剣の才がないと言われるかもしれん」


 勘助は、少し間を置いた。


「それは、まだ慣れておりませぬ」


 男は手を止めた。


 そして、声を出して笑った。


「正直だな」


「嘘をついても、腕は上がりませぬ」


「よい。そういう者は、鹿島で一度は立てるかもしれん」


「一度、ですか」


「二度目に立てるかは本人次第だ」


 男は布を巻き終えると、立ち上がった。


「この道をまっすぐ行くと、夕刻には小さな宿場に着く。そこで休め。明日さらに東へ進めば、鹿島の気配がしてくる」


「鹿島の気配?」


「行けば分かる。土が違う。風が違う。剣を持つ者の目が違う」


「御仁は、鹿島の方で?」


「昔、少しだけな」


 男はそれ以上語らなかった。


 勘助は頭を下げた。


「かたじけない」


「礼はいらん。ただ、ひとつ覚えておけ」


「何を」


「剣は、勝つためだけに持つものではない」


 勘助は顔を上げた。


 男は静かに言った。


「負けぬためでもある。死なぬためでもある。誰かを逃がす時、最後に一歩だけ踏みとどまるためでもある」


「最後に一歩……」


「お前は今日、それをした。だが、次もできるとは限らん。足りぬと思うなら、学べ」


 男は東の道を指した。


「鹿島へ行け」


 同じ言葉だった。


 旅の僧にも言われた。


 この男にも言われた。


 勘助は泥だらけの手で、刀を杖代わりに立ち上がった。


 全身が痛む。


 だが、もう迷いはなかった。


「行きます」


「歩けるか」


「歩きます」


「よい返事だ」


 男は勘助に小さな竹筒を投げた。


「水だ。持っていけ」


「名を伺っても」


「名を聞いてどうする」


「礼を返す時に困ります」


「出世したら、鹿島の道で怪我人を助けろ。それで返したことにしろ」


 どこかで聞いたような言い方だった。


 勘助は苦く笑った。


「皆、拙者に出世を求めますな」


「なら、出世するしかあるまい」


 男はそう言って去っていった。


 勘助はしばらくその背を見送った。


 やがて、竹筒を腰に結び、東へ歩き出す。


 剣では勝てぬ。


 その事実は変わらない。


 だが、その事実から目を逸らしている限り、勘助は何者にもなれない。


 足が悪い。


 片目が悪い。


 顔は醜い。


 剣も弱い。


 それでも、今日、誰かを逃がすことはできた。


 ならば。


 もっと学べば。


 もっと見れば。


 もっと立てれば。


 いつか、自分の弱さを地図に変えられるかもしれない。


 夕暮れが近づいていた。


 空の端が薄く赤い。


 東の道の向こうに、鹿島がある。


 剣聖がいる。


 山本勘助は、痛む足で一歩を踏み出した。


 その一歩は遅い。


 だが、もう逃げるための一歩ではなかった。


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