第十二話 初めての打ち込み
木刀は、思っていたより重かった。
山本勘助は、両手でそれを握った瞬間、まずそう思った。
ただの木である。
鉄ではない。
刃もない。
人を斬ることはできない。
だが、鹿島の庭で手渡されたその木刀は、今まで旅の途中で拾った棒とも、父から渡された古い木刀とも、まるで違う重みを持っていた。
目方の重さではない。
これを持つことを許された、という重さだった。
朝の庭には、薄い霧が残っていた。
竹林の向こうから差す光はまだ弱く、地面は夜露で湿っている。弥平が早くから掃いた庭の一角だけが、わずかに乾いていた。
勘助はそこで木刀を握っている。
門前で三日待った。
立つことを命じられた。
庭を見た。
目隠しをして打たれた。
門弟たちの侮りの中で、己の足と怒りを見た。
そして今日、初めて木刀を持った。
たったそれだけのことが、喉の奥を熱くする。
思わず木刀を握る手に力が入った。
その瞬間、卜伝の声が飛んだ。
「握りすぎだ」
勘助は肩を震わせた。
「はい」
「返事で力を抜くな。手で抜け」
「……はい」
勘助は慌てて指の力を緩めた。
緩めすぎて、木刀の先が下がる。
「抜きすぎだ」
「はい」
「だから返事ではなく、手で直せ」
「はい」
弥平が庭の端で口元を押さえていた。
笑っている。
いや、笑いをこらえている。
勘助がちらりと見ると、弥平は急に真顔になった。
「笑ってないぞ」
「何も言っておらぬ」
「顔で言った」
「拙者の顔でそこまで分かるか」
「最近、分かるようになってきた」
少し離れたところで、新九郎が木刀を肩に担ぎながら言った。
「弥平。山本の顔を読む稽古は後にしろ」
「そんな稽古ありませんよ」
「なら作るな」
庄左が静かに水桶を置いた。
「山本の顔を読むより、足を見る方が先だな」
「足も顔も見られるのか」
勘助が言うと、新九郎が面倒そうに顔をしかめた。
「お前は今日、木刀を持つことだけ考えろ」
「持っている」
「持っているだけなら猿でもできる」
「猿は木刀を持つのか」
「例えだ!」
弥平が今度こそ吹き出した。
新九郎が睨む。
弥平は咳払いをして誤魔化した。
卜伝は、そのやり取りを止めなかった。
ただ庭の中央に立ち、勘助の手元、足元、息の流れを見ていた。
やがて静かに言う。
「山本」
「はい」
「今日、打ち込みを行う」
勘助は木刀を握り直した。
「はい」
「相手は新九郎」
新九郎が一歩前へ出る。
その動きだけで、勘助の胸が少し縮んだ。
新九郎は強い。
それはもう分かっている。
目隠しの稽古で打たれた時も、加減されていることは分かっていた。
それでも痛かった。
今度は、勘助も木刀を持つ。
木刀を持つということは、ただ打たれるだけではなく、受ける、避ける、返す、そのすべてを求められるということだ。
卜伝は続けた。
「山本は打ち込め」
勘助は顔を上げた。
「拙者が、でございますか」
「そうだ」
「新九郎殿が打つのではなく」
「お前が打つ」
勘助は新九郎を見た。
新九郎は木刀を軽く下げている。
受ける構えだ。
だが、その姿に隙はない。
ただ立っているだけなのに、どこへ打ち込んでも届かない気がする。
卜伝が言う。
「まず、正面へ打て」
「はい」
「力むな」
「はい」
「速く振ろうとするな」
「はい」
「当てようとするな」
勘助は思わず問い返した。
「当てぬのでございますか」
「当てようとするなと言った。当たるなとは言っておらぬ」
分かるようで、分からない。
勘助が黙ると、新九郎が小さく息を吐いた。
「先生はそういう言い方をなさる」
「新九郎殿は、分かるのか」
「分かった気になると叱られる」
「では」
「分からないままやれ」
庄左が横から言う。
「ただし、考えるのを捨てるな」
弥平が続ける。
「でも考えすぎると遅いって言われるぞ」
勘助は三人を順に見た。
「難しいな」
「だから稽古だ」
新九郎が言った。
勘助はゆっくり息を吸った。
木刀を構える。
構えたつもりだった。
だが、途端に卜伝が言う。
「肩が上がった」
「はい」
「手で持つな」
「はい」
「腕だけで振るな」
「はい」
「足が死んだ」
「はい」
まだ一度も振っていない。
なのに、すでに何度も斬られている気分だった。
新九郎が少しだけ口元を動かした。
「俺も最初はそうだった」
「新九郎殿も?」
「何度も言わせるな。俺だけ最初からできたわけではない」
「意外だ」
「意外と言うな」
卜伝が軽く咳払いをした。
二人は同時に口を閉じる。
「山本。打て」
「はい」
勘助は一歩踏み込んだ。
いや、踏み込もうとした。
だが、左足を嫌った体は、右へ流れた。
木刀は正面ではなく、わずかに斜めへ落ちる。
新九郎はほとんど動かなかった。
木刀の先を軽く合わせただけで、勘助の打ち込みは外へ流された。
勘助の体が崩れる。
踏みとどまろうとしたが、遅い。
新九郎の木刀の柄頭が、勘助の胸元を軽く押した。
それだけで、勘助は後ろへ尻餅をついた。
庭の端で、門弟たちの笑いが起きた。
「おいおい」
「今のは打ち込みか?」
「転び込みだろ」
弥平が顔をしかめる。
庄左は黙っている。
安西左馬助も少し離れたところで見ていた。
彼は笑わなかった。
ただ、腕を組んで厳しい目を向けている。
勘助は立ち上がった。
尻が痛い。
だが、それより胸の奥が痛む。
木刀を持った。
ようやく持った。
それなのに、最初の一打で転んだ。
情けないにも程がある。
新九郎は冷たく言った。
「今のは、打つ前に負けている」
「分かっている」
「分かっているなら直せ」
「どう直せば」
「打つ前に勝とうとするな」
「勝とうとしていたか」
「していた。先生に見せようとした。俺に当てようとした。周りを黙らせようとした。その全部が木刀の先に乗っていた」
勘助は言葉を失った。
図星だった。
木刀を持った瞬間、胸の奥で何かが騒いだ。
ようやく持てた。
これで少しは示せる。
自分はただ立っているだけの男ではない。
そう思った。
その思いが、打つ前に体を崩した。
卜伝は何も言わない。
何も言わずに見ている。
その沈黙が、余計に重かった。
勘助はもう一度構えた。
今度は勝とうとしない。
見せようとしない。
ただ打つ。
そう思う。
しかし、そう思うこと自体に力が入る。
新九郎が言った。
「考えすぎだ」
「考えるなと言われても」
「考えるなとは言っていない」
「では、どうすれば」
「知らん」
「そなたは、また知らぬと言う」
「知っていても、お前の体で分からなければ意味がない」
庄左が静かに言う。
「山本。まず、打つ前に息を吐け。息を止めている」
「息を」
「そう。お前は打つ瞬間、怖くて息を詰める。詰めた息で動くから、足が固まる」
勘助は息を吐いた。
ゆっくりと。
それだけで、木刀の重みが少し変わった気がした。
卜伝が言う。
「打て」
勘助は踏み込んだ。
先ほどよりはましだった。
だが、新九郎には届かない。
木刀が受け流され、今度は肩を軽く叩かれる。
「遅い」
新九郎が言う。
「もう一度」
三度目。
腕だけで振り、木刀が弾かれる。
「腕で打つな」
四度目。
足を意識しすぎて、上体が遅れる。
「体が置いていかれている」
五度目。
新九郎の動きを見すぎ、踏み込む前に止まる。
「見るなとは言わん。だが、見て固まるな」
六度目。
怒りが混じる。
木刀が重くなる。
新九郎は簡単に横へ流し、勘助の背を軽く打った。
「怒りで打つな」
七度目。
悔しさを抑えようとして、余計に動きがぎこちなくなる。
「抑え込むな。動きが死ぬ」
八度目。
怖くて浅く踏み込む。
「届かん」
九度目。
届かせようとして深く踏み込みすぎる。
「戻れん」
十度目。
木刀が新九郎の木刀に触れる前に、勘助の足が滑った。
膝をつく。
門弟の笑い声がまた聞こえた。
今度は大きかった。
「弱いな」
「何をしに来たんだ、あれ」
「見える見えると言う割に、自分の足元が見えていない」
その言葉に、勘助の胸が刺された。
見える見えると言う割に。
自分の足元が見えていない。
笑いの中から放たれた言葉だった。
だが、正しかった。
勘助は膝をついたまま、地面を見た。
草鞋の下で土が崩れている。
踏み込む場所を誤った。
目は新九郎を見ていた。
木刀も見ていた。
だが、自分の足元は見ていなかった。
いや、見ているつもりだった。
つもりだけだった。
新九郎が近づいてくる。
「立て」
「……少し待て」
「待たん」
声は厳しい。
だが、焦らせる声ではなかった。
「戦場で転んで、少し待てと言うのか」
勘助は奥歯を噛んだ。
木刀を杖にして立とうとする。
その瞬間、新九郎が木刀で勘助の木刀を軽く払った。
支えを失い、勘助は再び膝をつく。
今度は笑い声より先に、弥平が声を上げた。
「新九郎さん!」
新九郎は弥平を見ない。
勘助だけを見る。
「木刀を杖にするな」
勘助は息を荒くした。
「……立てぬ時は」
「足で立て」
「足が」
「足が悪いのは知っている。だが、木刀は杖ではない。太刀を支えにして立つ者は、太刀がなくなれば倒れる」
その言葉は冷たかった。
だが、冷たいだけではない。
卜伝の言葉に似ていた。
太刀に逃げるな。
新九郎はそれを、勘助の体に叩き込んでいる。
勘助は木刀を握りながらも、支えにはしなかった。
左足に重みを置く。
痛い。
だが、そこにある。
右へ逃げすぎない。
息を吐く。
膝が震える。
それでも、立った。
弥平がほっと息を吐く。
庄左は静かにうなずいた。
新九郎は短く言う。
「もう一度」
勘助は構えた。
手が震える。
腕が重い。
肩が痛い。
それでも打つ。
踏み込む。
新九郎に届かない。
打たれる。
また立つ。
打つ。
流される。
打たれる。
立つ。
打つ。
止められる。
打たれる。
同じことの繰り返しだった。
何度も。
何度も。
庭の端で見ていた門弟たちの笑いも、だんだん小さくなっていった。
最初は滑稽だったのだろう。
だが、何度倒れても立つ姿を見続けるのは、笑う側にも体力がいる。
笑い疲れる。
飽きる。
そして、少しだけ気まずくなる。
安西は黙っていた。
腕を組んだまま、勘助の打ち込みを見ている。
勘助は何度目か分からない打ち込みで、新九郎の木刀に弾かれ、肩を打たれた。
膝が崩れる。
しかし、今度は完全には倒れなかった。
左足が痛みに耐える。
右足が逃げかけて、戻る。
木刀を支えにしない。
どうにか、立ったまま残った。
新九郎の目が少し動いた。
「今のは、倒れなかったな」
勘助は息を切らしながら答えた。
「倒れたくなかった」
「それで倒れずに済むなら、皆そうする」
「そうだな」
「だが、さっきよりましだ」
その言葉に、勘助はほんの少しだけ口元を緩めた。
「また、まし、か」
「褒め言葉だと言っただろう」
「ありがたく受け取る」
「すぐ礼を言うな」
新九郎は木刀を構え直した。
「次は、倒れぬだけではなく、打て」
「打っているつもりだ」
「つもりで敵は倒れん」
「確かに」
「返事はいい。打て」
勘助は再び構えた。
その時、卜伝が初めて声を出した。
「そこまで」
新九郎が木刀を下ろした。
勘助はすぐには動けなかった。
体が稽古の続きに備えて固まっている。
卜伝は庭の中央へ歩いてきた。
「山本」
「はい」
「何を覚えた」
また、その問いだった。
何が見えた。
何を覚えた。
勘助は肩で息をしながら考えた。
打ち込んだ。
弾かれた。
倒れた。
笑われた。
立った。
また倒れた。
木刀を杖にしてはいけないと知った。
足が逃げることを知った。
怒りで打てば重くなり、怖がれば浅くなり、見せようとすれば崩れる。
いくつも浮かんだ。
だが、一番胸に残っているものは別だった。
「負けることを」
勘助は言った。
卜伝は目を細める。
「続けろ」
「拙者は、これまでも負けてきました。笑われ、追い払われ、斬り合えば逃げ、木刀を持てば打たれる。負けには慣れていると思っておりました」
勘助は自分の手を見る。
木刀を握る指に、赤く擦れた跡がある。
「ですが、慣れていたのは、負けから目を逸らすことでした」
庭が静かになる。
「負けた理由を、顔や片目や足や、相手の侮りのせいにしていた時もあります。もちろん、それらが拙者を苦しめたのは事実です。ですが、今日、新九郎殿に打たれて、拙者は自分の負け方を見ていなかったと知りました」
新九郎が黙って勘助を見ている。
勘助は続けた。
「打つ前に勝とうとして負けました。怖くて浅く踏み込んで負けました。怒って重くなって負けました。見すぎて止まり、見なさすぎて崩れ、足元を忘れて負けました」
言葉にするたび、胸が痛む。
だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「拙者は、ただ弱いのではなく、どのように弱いかを知らねばならぬのだと思いました」
卜伝は静かに頷いた。
「それでよい」
短い言葉だった。
だが、庭の空気が少し変わった。
卜伝は続ける。
「負けを覚えろ」
「はい」
「負けを恥じるな」
「はい」
「だが、負けを飾るな」
勘助は顔を上げた。
「飾る、でございますか」
「負けたことで何かを得たと思いすぎるな。負けは負けだ。痛い。悔しい。情けない。まず、それを覚えろ」
「はい」
「その上で、なぜ負けたかを見ろ。見られぬ負けは、ただの傷だ。見た負けは、次の足場になる」
勘助は深く頭を下げた。
「はい」
卜伝は新九郎を見た。
「新九郎」
「はっ」
「お前も覚えたな」
新九郎は一瞬だけ戸惑った。
「拙者も、でございますか」
「山本を打つ時、お前は勝ちすぎた」
新九郎の顔がわずかに強張る。
「勝ちすぎた……」
「相手を崩すことばかり見て、立たせる間合いを見失うな。稽古で相手を潰すだけなら、ただの腕自慢だ」
新九郎は深く頭を下げた。
「はい」
卜伝は安西の方へ視線を向けた。
「安西」
安西が背を正した。
「はっ」
「笑いが途中で止まったな」
安西は表情を変えなかった。
だが、わずかに目が揺れた。
「……はい」
「なぜだ」
「笑い続けるには、山本が立ちすぎました」
その答えは正直だった。
勘助は少し驚いた。
卜伝は頷く。
「なら、それを覚えておけ。笑う側も、相手に立たれ続けると足が疲れる」
安西は頭を下げた。
「はい」
弥平が小声で庄左に言う。
「先生、全部見てるな」
庄左も小さく答えた。
「見ていない時があるのか疑わしい」
「怖いな」
「怖いな」
卜伝の目が二人へ向く。
二人は同時に背筋を伸ばした。
勘助はその様子を見て、思わず少し笑いそうになった。
だが、体が痛すぎて笑えなかった。
稽古が終わると、勘助は庭の端に座り込んだ。
木刀は膝の上にある。
手放したくなかった。
ようやく持てた木刀。
打たれ、倒れ、何もできなかった木刀。
それでも、今の勘助には大事なものだった。
弥平が水を持ってきた。
「生きてるか」
「どうにか」
「いやあ、見てるだけで痛かった」
「打たれた方はもっと痛い」
「そりゃそうだ」
弥平は水を渡しながら、少し笑った。
「でもさ」
「何だ」
「最初より、最後の方が少し侍っぽかったぞ」
勘助は水を飲みかけて止まった。
「拙者が?」
「うん。少しだけな。本当に少しだけ」
「少しでも、ありがたい」
「だからすぐ礼を言うなって」
「では、言わぬ」
「急に黙られるのも変だな」
弥平は勝手なことを言っている。
しかし、その声は温かかった。
庄左も近づいてきた。
「山本」
「はい」
「手を見せろ」
勘助は手を出した。
庄左は指の擦れを見て、眉を寄せる。
「握り方が悪い。明日は皮が剥けるぞ」
「どうすれば」
「今日はよく洗って、布を巻け。弥平、余り布は」
「あります。捨てるやつが」
「それはもう聞き飽きた」
庄左が言うと、弥平は肩をすくめた。
そこへ新九郎が来た。
木刀を持ったまま、少しだけ気まずそうな顔をしている。
「山本」
「はい」
「今日は、少し強く打ちすぎたところがある」
勘助は新九郎を見た。
「卜伝殿に言われたことか」
「そうだ」
「なら、拙者から言うことはない」
「いや」
新九郎は少し言葉を探した。
彼が言葉に詰まるのは珍しい。
「痛かったか」
弥平が目を丸くする。
庄左も少し驚いた顔をした。
勘助は真面目に答えた。
「痛かった」
「そうか」
「だが、加減されていたのも分かる」
「……そうか」
「拙者は、今日、何度も倒れた。新九郎殿が本気なら、倒れる前に壊れていた」
新九郎は目を逸らした。
「壊すつもりはない」
「それは分かる」
「俺は、お前が嫌いだ」
「それも分かる」
「だが、稽古相手を壊す趣味はない」
「それも分かった」
「分かりすぎだ」
新九郎は不機嫌そうに言ったが、その声に棘は少なかった。
勘助は少し考え、言った。
「新九郎殿」
「何だ」
「今日、拙者を打ってくれて、かたじけない」
「礼を言うなと言っている」
「これは言わせてほしい」
「……勝手にしろ」
「かたじけない」
「二度言うな」
弥平が横で笑った。
庄左も小さく笑っている。
新九郎は顔をしかめたが、以前のように怒鳴りはしなかった。
少し離れた場所で、安西がその様子を見ていた。
彼は何も言わない。
しかし、昨日までの侮りだけの目ではなかった。
認めたわけではない。
好意でもない。
ただ、勘助が倒れても立ったことだけは、見た。
その程度の変化だった。
だが、今の勘助にはそれで十分だった。
夕方。
稽古場が片づけられ、門弟たちがそれぞれ去っていく中、勘助は一人で庭に残った。
木刀を両手で持ち、ゆっくりと構えてみる。
肩が痛む。
手の皮が熱い。
足も重い。
それでも構える。
打とうとすると、今日の失敗が一つずつ蘇る。
打つ前に勝とうとした。
見せようとした。
怖がった。
怒った。
足元を忘れた。
木刀を杖にしようとした。
どれも情けない。
どれも痛い。
だが、それらは今、ただの恥ではなかった。
次に立つための印だった。
卜伝が庭の奥から現れた。
勘助は慌てて頭を下げる。
「卜伝殿」
「まだ持っていたか」
「はい」
「手放したくないか」
「はい」
「なら、明日はもっと打たれる」
勘助は思わず苦笑した。
「やはり、そうなりますか」
「木刀は、持てば重い。振れば崩れる。打たれれば痛い。それでも持ちたいなら、持て」
卜伝は勘助の手元を見た。
「だが、忘れるな」
「はい」
「木刀を持ったから、門の内に入ったわけではない」
「承知しております」
「弟子になったわけでもない」
「はい」
「剣が少しできた気になるには、早すぎる」
「痛いほど分かりました」
「痛みで分かるうちはよい」
卜伝は少しだけ目を細めた。
「人は、慣れると痛みを忘れる。痛みを忘れた時、負けも忘れる」
勘助は木刀を見た。
「忘れぬようにいたします」
「忘れる」
卜伝はあっさり言った。
勘助は顔を上げた。
「忘れるのでございますか」
「人は忘れる。だから稽古する」
それだけ言って、卜伝は去っていった。
勘助はしばらくその背を見送った。
人は忘れる。
だから稽古する。
また一つ、重い言葉が増えた。
その夜。
勘助は軒下で横になった。
手に布を巻き、痛む体を休める。
眠ろうとすると、今日の木刀の音が耳に戻ってくる。
打つ音。
受け流される音。
自分が倒れる音。
門弟たちの笑い。
卜伝の声。
負けを覚えろ。
負けを恥じるな。
だが、負けを飾るな。
勘助は目を閉じた。
「母上」
小さく呟く。
「今日は、たくさん負けました」
風が竹を鳴らす。
「ですが、捨てずに持っておきます」
手の中には、木刀の感触がまだ残っている。
痛みも。
悔しさも。
情けなさも。
それらすべてを抱えたまま、山本勘助は眠りに落ちた。
戦場で名を馳せる日は、まだ遠い。
武田信玄の名すら、まだ物語の向こうにある。
だが鹿島の庭で、勘助は初めて負け方を覚えた。
それは、軍師になる男にとって、最初の小さな勝利でもあった。




