第一話 醜き若者、門前で笑われる
風は冷たかった。
冬が近いのか、それとも自分の懐が寒いからそう感じるのか。
山本勘助は足を引きずりながら坂道を上っていた。
目指す先には、小高い丘の上に築かれた城がある。
白壁は陽光を受けて輝き、城下には商人や農民が行き交い、門前では武士たちが槍を持って立っている。
誰が見ても立派な城だった。
だからこそ、勘助は思った。
(南の斜面が甘い)
城ではなく、まず弱点が目に入る。
石垣の継ぎ目。
見張りの立つ位置。
裏山へ続く獣道。
門前に積まれた薪。
兵糧蔵の場所。
気付けばそういうものばかり見てしまう。
子供の頃からそうだった。
人が花を見れば花を見る。
だが勘助は花を見ず、その花を踏まずに歩ける道を見た。
人が城を見れば立派な城だと言う。
だが勘助は、その城がどこから崩れるかを考えてしまう。
それが良いことなのか悪いことなのか、自分でも分からない。
ただ、それしかできなかった。
勘助は門前へ辿り着いた。
門番の武士が怪訝そうな顔を向ける。
「何用だ」
勘助は深く頭を下げた。
「拙者、山本勘助と申す浪人者にございます」
「ほう」
「兵法を学び、諸国を巡って参りました。このたびは仕官を願い参上いたしました」
門番は勘助の顔を見た。
いや。
正確には、顔の傷を見た。
次に濁った片目を見た。
最後に引きずる足を見た。
そして口元が歪んだ。
「……仕官?」
「はっ」
「お前がか?」
後ろで別の門番が吹き出した。
「おいおい、聞いたか」
「聞いた」
「仕官だそうだ」
「ははは!」
笑い声が上がる。
勘助は慣れていた。
幼い頃から何度も聞いた笑いだ。
だから怒らない。
怒ったところで顔は変わらない。
足も治らない。
片目も戻らない。
変わらぬものに怒っても仕方がない。
だが、胸の奥が少しだけ冷える。
「失礼ながら」
勘助は静かに言った。
「一度だけ、お話を聞いていただきたく」
「話?」
「兵法についてでございます」
門番たちは顔を見合わせた。
そしてまた笑う。
「兵法だと」
「お前が兵法を語るのか」
「その顔でか」
勘助は何も言わない。
すると奥から一人の侍が現れた。
年の頃は三十ほど。
身なりからして中間管理の役人らしい。
「何の騒ぎだ」
「はっ。仕官希望の浪人でございます」
「ほう」
侍は勘助を見た。
頭から足先まで。
値踏みするように。
そして一瞬で興味を失った。
「帰せ」
たった一言だった。
勘助は思わず顔を上げた。
「まだ何も申しておりませぬ」
「見れば分かる」
「何がでございましょう」
「殿の前に出せる者かどうかだ」
侍は冷淡だった。
「武士は戦うだけではない。家の顔でもある」
勘助は黙る。
「その顔で城中を歩かれては困る」
周囲から笑いが起きる。
「その足では戦にならぬ」
また笑いが起きる。
「片目で何が見える」
勘助は唇を噛んだ。
だが、それでも頭を下げる。
「一度だけ」
「しつこいな」
「兵法についてお聞きいただければ」
侍は呆れたようにため息をついた。
「よかろう」
周囲の者たちが面白そうに集まってくる。
「兵法者殿」
侍はわざとらしく言った。
「この城を見てどう思う」
勘助は城を見上げた。
白壁。
櫓。
石垣。
裏山。
兵糧蔵。
見張り。
馬屋。
井戸。
そして城下町。
勘助は答えた。
「立派な城にございます」
「当然だ」
「ですが」
侍が眉をひそめる。
「裏山が危険です」
「何?」
「南側の斜面から夜陰に紛れて火を放たれれば厄介でしょう」
周囲が静かになる。
勘助は続けた。
「兵糧蔵も近うございます」
「馬鹿を申せ」
侍が鼻で笑う。
「裏山には見張りがおる」
「おります」
「ならば問題あるまい」
「見張りは二人」
侍の顔が変わった。
「しかも一人は右足を痛めております」
「な……」
「もう一人は居眠り癖があります」
門番たちが顔を見合わせた。
図星だった。
勘助はさらに続ける。
「薪が積まれておりますゆえ、火の回りも早いでしょう」
「黙れ」
「兵糧蔵まで燃えれば――」
「黙れと言っている!」
侍が怒鳴った。
周囲が一斉に静まり返る。
勘助も口を閉じた。
しばらく沈黙が続く。
やがて侍は冷たい声で言った。
「帰れ」
「……」
「二度と来るな」
「拙者は」
「聞こえなかったか」
侍の目に苛立ちが宿る。
「仕官は認めぬ」
「理由を伺っても」
「見苦しいからだ」
周囲が再び笑う。
誰かが言った。
「兵法より鏡を学べ」
別の者が言った。
「殿が驚いて卒倒なさるわ」
笑い声が広がる。
勘助は拳を握った。
爪が掌に食い込む。
だが抜刀はしない。
ここで刀を抜けば、彼らの言う通りになる。
醜く、無礼で、価値のない男になる。
だから勘助は頭を下げた。
「失礼いたしました」
そして踵を返す。
背中に笑い声が飛ぶ。
「片目で天下を見る気か!」
「ははは!」
「まず前を見ろ!」
勘助は振り返らない。
城門を離れる。
坂道を下る。
足は痛い。
心も痛い。
だが、それ以上に腹が立った。
顔ではない。
足でもない。
兵法を聞こうともしなかったことに。
人を見ようとしなかったことに。
坂の途中で立ち止まり、振り返る。
城は夕日に染まっていた。
美しい城だった。
だが勘助には、やはり弱点しか見えなかった。
「……三刻も保たぬ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして再び歩き出した。
その時だった。
後ろから馬の蹄の音が聞こえる。
数騎の武士たちが城へ向かっていた。
その中の一人が勘助を追い越しざまに言った。
「道を開けろ」
勘助は脇へ寄る。
だが、その男は通り過ぎる際、わざと肩をぶつけてきた。
勘助はよろめいた。
笑い声が聞こえる。
「邪魔だ、化け物」
馬は去っていった。
勘助は地面に手をつく。
土が冷たい。
しばらく動けなかった。
悔しさが込み上げる。
だが涙は出ない。
昔から出なかった。
代わりに胸の奥へ積もるだけだ。
ゆっくり立ち上がる。
そして空を見た。
夕焼けの向こうに、まだ知らぬ国々がある。
まだ知らぬ人々がいる。
もしかしたら。
どこかには。
顔ではなく中身を見る者がいるかもしれない。
そんな希望を、完全には捨てられなかった。
「……次へ参るか」
勘助は再び歩き出す。
夕陽に伸びる影は長い。
その背は小さく、みすぼらしく、誰の目にも敗者にしか見えない。
だが。
その片目だけは、まだ死んでいなかった。




