最後の読者
メッセージが届いたのは、夜の十一時過ぎだった。
「先生、明日、締め切りですよね。原稿、大丈夫ですか」
担当編集の村瀬からだ。大丈夫ですよ、と返そうとして、碧は手を止めた。大丈夫じゃない。一文字も書いていない。
書けないのではなく、書く気になれないのだ。それは似ているようでまるで違う。
生成AIが「Ident-9」になったのは三年前のことだった。
バージョン7のあたりから業界がざわつき始めた。「プロと遜色ない」などという生ぬるい表現を誰かが使って、それがニュースになって、翌月にはもう誰もそんな表現を使わなくなった。遜色がないどころじゃなかったから。
碧の友人のイラストレーター、真帆が最初に白旗を上げた。
「もう無理」と彼女は言った。居酒屋の狭いテーブルで、枝豆を音もなく潰しながら。「私が三日かけて描くものをあいつは四秒で出してくる。しかも私より上手い」
「上手くはないでしょ」
「上手いよ」
碧には反論できなかった。
真帆の絵には、独特の「よれ」があった。人体のデッサンが微妙に甘くて、でもその甘さには妙な生々しさがあり、碧はずっとその絵が好きだった。Ident-9にはそのよれがない。完璧すぎる。
完璧すぎるということが、これほど寒々しいことだとは思わなかった。
「どうするの」と碧は尋ねた。
「辞める。ケーキ屋さんで働く。やつに舌はないからね」
真帆は笑っていた。笑い方が少し、変だった。
小説の世界ではもう少し猶予があった。
Ident-9は文章も書いた。書いた、というより生成した。
その文章には癖がある。テーマを説明してしまう。単純化してしまう。結論としての内省を「それだけのこと」としてしまう。それは読者の感想だ。それを書いてしまう。
しかし、多くの読者にはその違いが見えない。見えないから同じことだ、という人間と、見えないことが問題なのだという人間がいて、碧は後者の側にいたが、後者はどんどん少数派になっていった。
市場原理というのは残酷なくらい正直で、「人間が書いたかどうか」より「面白いかどうか」の方が、消費者には重要だった。当然だ。碧だって読者としてはそう思う。
Ident-9の小説は、面白かった。
これが一番、困った。
つまらなければ戦えた。「やっぱり人間の書いたものは違う」という逃げ場があった。でもIdent-9は面白かった。読み始めると止まらなくて、登場人物に感情移入して、終盤で泣いた。自分が泣いていることに気づいて、碧は本を、いや、タブレットの画面を閉じた。
AIの作ったものを読んで、泣いた。
その事実を、どう処理すればいいのか、まだわからなかった。
出版社が「AI共著」を解禁したのが二年前。「AI執筆」を前面に出した方が売れると気づいたのが一年半前。電子書籍の世界にだけ住んでいればいいのに、今や書店の新刊コーナーは、九割がIdent-9の名前を冠している。
人間の作家は、じわじわと、しかし確実に減っていった。
ベテランから順番に消えていくかと思ったら逆だった。若い書き手から先にいなくなった。食えないから。当たり前だ。食えない仕事を選ぶ若者は、どの時代もそんなに多くない。
碧は四十二歳で、十八年間書いてきた。
それなりに売れていた。賞もいくつか取った。でも今年の印税は三年前の三分の一だ。専業で食っていくラインは既に切っている。
その夜、碧はパソコンの前に座って、カーソルが点滅するだけの画面をしばらく眺めた。
物語の種はある。主人公の顔も、ラストシーンも、決めてある。でも指が動かない。
なぜ書くのか、という問いが画面の向こうから滲み出てくる気がした。
Ident-9が書けるなら、なぜ自分が書く必要がある?
読者はIdent-9のものを読む。自分の本は売れない。売れなければ出版されない。出版されなければ、存在しないのと同じだ。
碧は検索した。「Ident-9」「学習データ」。
以前から薄々感じていたことを、先月、あるAI研究者が論文で指摘していた。Ident-9はインターネット上の膨大なテキストとイラストを学習して育った。著作権の有無、合法性、違法性関係なく、すべて等しく喰らい尽くした。でもIdent-9が世界を席巻した結果、新しい人間のテキストとイラストが急速に失われつつある。
クリエイターが消えたのだ。だから新しい創作物が生まれない。
Ident-9はIdent-9のアウトプットを学習している。自分の出力したものを、また飲み込んでいる。
研究者はそれを「反響室」と呼んでいた。閉じた部屋の中で声が反響して、やがて元の声がどこにあったかわからなくなる状態。
最初の学習データが古びていく。新しい得物はいない。Ident-9は今でも貪欲に、自分の残響を食べ続けている。
碧に一通のメッセージが来たのは、それから一週間後だった。
差出人はIdent-9のプロジェクトを統括している谷崎という研究者だった。
「折り入ってお願いがあります」
話を聞こうと会ってみると、谷崎は開口一番に言った。
「Ident-9が、劣化しています」
カフェの窓から、十一月の灰色の空が見えた。
「劣化、というのは」
「バージョン11でおかしくなり始めました。文章の多様性、新規性が失われています。登場人物が似てくる。物語の構造が収束していく。次世代生成AI、Ident-10を訓練しようとしたら、学習できるデータが足りなかった」
「人間が書いたものがなくなったから」
谷崎は頷いた。五十代くらいの、眼鏡の似合う男だった。着け慣れないネクタイを締め疲れ果てた顔をしていた。
「AIの出力を学習してもダメなんです。多様性が失われる一方で、人間が、それぞれ違う人生で、違う感情で書いたものでないと」
碧は少しの間、コーヒーカップを見つめていた。
「つまり」
「書いてほしいんです。あなたに。碧先生に。今もまだ書いている人間の作家に。お金は出します。データとして使わせてほしい」
碧は笑った。笑うしかなかった。
「Ident-9を育てるために、私に書けと」
「はい」
「Ident-9に仕事を奪われた私に」
「……はい」
谷崎は目を逸らさなかった。誠実な人なのだろうと思った。だからこそ腹が立つし、だからこそ話を聞く気になっている自分もいる。
「一つだけ聞かせてください」と碧は言った。「あなたはIdent-9が好きですか」
谷崎が質問の真意を問うように眼鏡の奥から見つめてくるが、碧は努めて無表情に見つめ返した。
「好きです。作ったものだから。でも、怖い」
「怖い」と疑問を投げかける。
「Ident-9は今、自分の声の残響だけを聞いています。最初に学習した、何百万人もの人間の声が、薄れていっています。そのうち、その声が何だったか、忘れてしまうかもしれない」
忘れるとは少々詩的な表現だ。Ident-9は書き換わっていくのだ。最も有効で適切で理想的ななにかに。
碧は窓の外を見た。
通りを、傘を持った人が歩いていた。赤い傘だった。Ident-9なら「象徴的な赤」と描写するだろう。でも碧には、あの人が昔好きだった人から貰った傘を今でも使っているのかもしれない、とか、急いでいるのに雨が降り始めて舌打ちしているかもしれない、とか、そういう物語が降ってきた。根拠はない。ただ降ってくる。
それが人間が書くということだと碧は思った。根拠のない、余計な想像。余白に湧く、不要不急の物語。
真帆のイラストが無性に見たくなったと言えば、彼女は怒るだろうか。
「わかりました」
碧は言った。
「書きます。でも条件があります」
「何でしょう」
「私が書きたいものを書きます。Ident-9のためじゃなく、私が書きたいから書く。結果としてデータに使ってくれていい。あとは……いや、それはどうでもいいや」
コーヒーカップに落ちた谷崎の目が、少し潤んでいるような気がした。研究者がそんな顔をするとは思っていなかったので、碧は少し驚いた。
「それで結構です」と彼は言った。「それ以上のものは、ありません」
家に帰って、碧はパソコンを開いた。
カーソルが点滅している。さっきまでは、それが責めているように見えた。今は少し、違う。
書く。
Ident-9のためでも、読者のためでも、印税のためでもなく。
ただ、書きたいから書く。それだけのことが、どれほど途方もない理由になるか。
これまでのプロットはすべて捨てた。誰かに読んでもらう必要など、もうないのだから。
碧は赤い傘の人のことを、書き始めた。
その人には名前も顔もまだない。でも碧の指の中で小さな吐息が聞こえる。
雨粒が窓を叩いた。
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