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幻影


『親愛なるリリアンへ』


 そう始められた手紙は、手本のように美しい字が並べられていた。

 体調を気遣う言葉、夜会で会えなくて残念だったという旨。それに近況になるのだろうか。王城の中庭に植えられたコスモスが見頃だと書かれていた。

 そして最後に締めの言葉として『会える日を楽しみにしている』と。

 長くない手紙を上から下までじっくりと読み、テーブルに置いた。


「アデル、お返事を書くわ。レターセットはどこかしら?」

「こちらにご用意しております」


 アデルが手に持った箱には便箋と封筒、それに羽ペンとインク壺が入っている。テーブルの端に箱が置かれ、便箋とインクをつけたペンを手渡された。


「お返事で気をつけなければならないことはあるのかしら」

「そうですね……、王太子殿下からのお手紙を拝見してもよろしいですか?」


 アデルの問いにひとつ頷き、リリアンは王太子からの手紙を渡す。伸ばした背筋を崩さないままサッと流し読んだアデルは、リリアンに手紙を返しながら小さく首を振った。


「公式に送られたお手紙であれば季節に則した挨拶などを書かなければならないのですが、殿下からのお手紙はかなり簡単に書かれたものですので特に気にすることはないかと。普段の会話でお返事するのと同じように書けばよろしいかと思います」


 スラスラと述べるアデルにリリアンはふんふんと頷き紙に向き合う。

 手紙というものを、今回貰うまで全く意に介したことがなかったから学びもしなかったが、返事の勉強は急務のようだ。


『親愛なる王太子殿下へ』


 格上である王太子相手に「親愛なる」などとつけていいのかと思いつつも、しかし向こうはそう書いているのだからと、送られてきた手紙に則しつつ、筆を動かす。一文字一文字頭を悩ませながら書くものだからそのスピードは牛より遅い。

 まず気遣いへの感謝、次に夜会に出られなくて申し訳ないという謝罪。王城の庭園に咲くコスモスにはなんと返そうと悩んだけれど、『きっと圧巻の景色なのでしょうね』と当たり障りのない返事。ただそれでは少し短いような気がして我が家にはダリアが咲き始めたと付け足した。

 そして締めの言葉を書いた時、紙の引っ掛かりにあたり筆が止まってインクが滲む。


「これは、きっと駄目ね」


 インクだまりに目を落として、拗ねた子供がするように口を真一文字に結んだ。そして箱の中にある新しい紙を取り出そうと手を伸ばした。


 その時。


 自分の手が陽炎みたいにゆらりと揺れて二重になる。それはリリアンの脳みそが見せる幻影なのか、理解が追いつかずそれをじっと見つめると、リリアンが今からそうしようとしたのと同じように箱から便箋を取り出し、筆を走らせた。


『親愛なるフェリクス様』


 書き損じた手紙に滲んだ文字が重なる。

 それは先ほど義兄から聞いた王太子の名。まるで先見のようなその光景にパチクリと目を瞬かせると、だんだんと熱が収束するように消えていった。


「……なに、今の」


 小さな声で呟くと、壁際に控えていたアデルが「どうかされましたか」と声を掛ける。それになんと答えたものか、リリアンは軽く首を振った。


「ううん、なんでもないわ」


 幻を見たなどと言えば、きっとまたベッドに突っ込まれ、あれやこれや検査だなんだと屋敷内を大騒ぎさせてしまう。

 それにきっとまた義兄に大きな心配をかけることになるだろう。それは避けたい。


「アデル、紅茶を入れてくれる?」


 悟らせまいと笑みを浮かべる。これは脳裏に閉まっておくべきことだ。

 なんでか分からないけれどそう思った。

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