王太子(ルイス視点)
慌ただしく準備されたというのに、応接室の花瓶には大輪の花が咲く。
飄々とした笑みを浮かべながらも苛立ちを隠さないルイスに、彼と対面する男は呆れ笑いを浮かべた。
「こんな朝から約束もなしに。ずいぶんな用がお有りなようで、王太子殿下」
「こうでもしなければお前は何かにつけて屋敷に入れてはくれないだろう?」
「まさか、殿下にそのようなご無礼を働くわけがないでしょう」
艶やかな黒髪に黒色の瞳は全てを吸い込んでしまいそうだ。殿下、とルイスの呼ぶこの男は、昨日夜会を開催したこの国の王太子フェリクス本人である。
「はは、よく言うよ」
「それで、何用ですか」
「そう急かなくても良いじゃないか。まだお茶も出されていないじゃないか」
「これは申し訳ない。急いでいらしたので、てっきり急いでお帰りになるのかと」
「まったく、お前は」
笑みを崩さないまま執事に「紅茶を」とルイスは声をかける。主人からの許可が出ればすぐに出せるよう準備していたようで、使用人達はすぐに紅茶と茶菓子を持って部屋に入って来た。
「ありがとう。ヴィリエの使用人は相変わらず優秀だね」
「光栄です」
「彼女の輿入れの際には引き抜きたいくらいだ」
カチャン、ルイスの持つティーカップが乱暴に置かれ甲高い音を立てる。
「その話は白紙になった筈です」
「今は、ね」
「今も、これからも」
ルイスの顔からは感情が抜け落ちたようだ。まるで彫刻。美術品として高値が付けられそうだった。
彼と毎日顔を合わせている使用人達ですら無表情のルイスに恐怖で息を呑んだというのに、それを正面から受け止めるフェリクスは面白そうに「あはは」と笑い声を上げた。
「頑なだねぇ、お前は」
「当たり前でしょう。あの時とは状況が違うのです」
「しかし、私以上の好条件は他に居ないだろう?」
顔良し、性格良し、地位も良し、とフェリクスは指を折る。そんな王太子にルイスはわざとらしく息を吐き、不遜な態度で足を組んだ。
「だとしても、記憶喪失の王太子妃など外野になんと言われるか。王族のあなたが一番お分かりでしょうに」
「ああ。しかし、行き遅れの記憶喪失の令嬢とてなんと言われるか。お前が貴族なら分からないわけがない筈だ」
こてん、と首を傾げたフェリクスにルイスは苛立たしげに眉を顰め視線を落とした。
「行き遅れなければ良い話です」
「おや、お前のお眼鏡に適う人間が私の他にいるのかい?」
「……さあ」
膝の上で指を絡ませる。その中指に武骨なリングが輝いていた。
「ルイス、お前は確かにこの家の実質的な当主ではある。彼女の輿入れに関しても現在はお前の意向を汲むというのが王家の判断ではある」
「何を改まって」
「しかし、長くは待たない。我々としてはリリアン・ヴィリエが現段階では最も王太子妃に相応しいと考えている」
「ですから、その話は白紙にと」
「これは幼馴染としての忠告だ。早く決めなさい。私に嫁ぐか、或いは別のものに嫁がせるのか。……少なくともお前の手元に在るのは今だけだ」
目頭に力が籠る。熱くなった瞼の裏に愛しい少女の残像が揺れた。
「忘れてはならないよ。お前が反対したとしても、当主の許可さえあれば結婚はできる。それが形式的な当主だとしても、ね」
「……分かっています」
重ねられた指の爪が手の甲に食い込み、肌が赤く染まる。
そんなことはよく、よく分かっているのだ。
「ぼくはリリアンにとって最善の選択をします。少なくとも春までには」
「その言葉、信じているよ」
フェリクスが笑みを深める。それはまるで自分自身こそリリアンにとって最善の相手であるとでも主張するようだ。
「さて、それじゃあ本題だ」
「は……? 今までの話が本題ではなかったので?」
ぱちん! と手を叩き空気を変えるようにフェリクスが明るい声で言った。その声にルイスは宵闇の目を丸くする。
「そりゃあもちろん。あんな話どこでだって出来るだろう」
「それはそうですが」
「屋敷まで出向いたのは他でもないリリアンに会うためだ」
リリアンの部屋はどこだったかな、と立ち上がるフェリクスの肩に手を伸ばし体を下に押し込める。勢いよく椅子に尻をついたフェリクスが文句ありげにルイスを睨んだ。
「リリアンは療養中だと言った筈です!」
「ああ、その話は何度も聞いたよ。だから会えないとね。しかし昨日エルザ嬢から聞いた話だとブティックに出向けるくらいには元気らしいじゃないか」
にやり、と笑うフェリクスの顔が憎たらしくてルイスはその頬を摘み上げたい衝動に駆られる。
「……あの日はたまたま調子が良かっただけです」
「今日の調子はどうなんだい」
顰めた眉間を少しぐりぐりと指で押し、短く息を吐いたのち、分かりやすく作り笑いをした。
「ええ、今日はとても体調が優れなくて。申し訳ないですが、また後日」
「お前はそう言うと思ったよ。だから手紙を用意してきた」
ひらり、胸元から一枚の封筒を取り出した。最初から会えないのは織り込み済みだったらしい。
「会わせてくれないのだから、せめて手紙くらいは良いだろう?」
やられた、とルイスは忌々しげに顔を顰めた。差し出された手紙は受け取りたくないが、しかし跳ね除けるわけにもいかず渋々手を伸ばす。
「中身は検めさせて頂きます」
「ああ、もちろん。いくらでも見てくれて構わない」
どれもこれもこいつの手のひらの上か。心の中で舌打ちをした。
「ああ、リリアンに伝えておいてくれ。返事を待っている、と」
「……わかりました」
「はは、不服そうだね」
「別に」
明らかに不満げな顔のルイスにフェリクスは笑う。そして、少し冷めた紅茶を一口含み、立ち上がった。
「じゃあ、私はそろそろお暇しよう。昨日の事後処理が残っているからね」
「そうですか」
早く行けとばかりに手で追い払うような仕草をするルイスに「嘘でももう少し居てくださいとか言えないものかなぁ」とフェリクスが言う。
「早く行ったらどうです。忙しいのでしょう」
「ああ、じゃあまた来るよ」
執事のジャンが開いた扉をくぐったフェリクスが「ああ」と声を上げ振り返った。
「そう言えばエルザ嬢が、”リリアンは自分のことを覚えていないようだった”と吹聴していたよ。隠していないとは言え、処理するなら早いほうが良いんじゃないかな」