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家出


 少女はただ走っていた。

 突然屋敷から出てきた彼女に戸惑いつつも職務を遂行しようとした守衛の制止を振り切り、ただひた走る。

 王都の中でも城に程近く貴族の家が立ち並ぶこのエリアでは馬車に乗らず移動している人など滅多におらず、走っていく少女に警備や御者達は皆目を丸くした。


「はぁ……はぁ……っ」


 ほとんど家の敷地内で過ごしていた少女の体力は無いに等しい。しかし、足は止められずドレスを引き摺った。


「きゃっ」


 土埃に塗れた裾に足がもつれ転ぶ。咄嗟についた手が赤く染まりじわじわと血が滲む。

 立ち上がろうにも足首が痛み苦痛に顔を顰めた。


「あら、あらあら」


 耐えようにも溢れてくる涙を拭い、どうにか立ち上がろうとするとどこかの屋敷の塀に手をつくと、凛とした女性の声が頭上から降ってきた。


「どうされたのですか、リリアン様」

「……え」


 リリアン、と呼ばれた名に咄嗟に顔を上げる。

 茶色の髪に透き通った空のような瞳。確か、ルイスとブティックに行った際に出会った女性。


「エルザ、さま」

「大丈夫ですか?」


 あの時には義兄の背に隠されよく見えていなかったが、目尻にかけて垂れた瞳に色付いた唇が優しげな雰囲気を醸し出す。

 どうやらリリアンが倒れ込んでいるところを馬車で通りかかりわざわざ降りてきたらしい。


「まあ、怪我をされているではありませんか」

「い、いえ、たいしたことでは」

「大したことですよ。手当をしなくては」


 エルザがスッと手を差し出した。


「我が家がすぐ近くなのです。行きましょう」


 手を取るべきか逡巡する間もなく、リリアンの手首をエルザが掴み体を起こす。足首の熱がどんどんと増していくように感じたが、ぐっと口を結びスタスタと歩いていくエルザの後ろを追った。


「行って」


 ヴィリエ家のものよりも少し質素な馬車はエルザの声掛けでゆっくりと動き出す。


「あの、ありがとうございます」

「いいえ、お気になさらず」


 にこり、笑い合い落ちた沈黙。ルイスとはずっと何か話しているから、どことなく気まずい空気に慣れなくて手をキュッと握る。


「こうしてお話しするのは久しぶりですね」

「え、あ、はい。そうですね」

「体調は如何ですか。ブティックではお会いしましたけど、それ以降もなかなかお顔を見なかったので心配していたのです」

「体調はもう良好です。ご心配ありがとうございます」

「そう、良かったですわ」


 くすりとエルザが笑う。


「ああ、着きましたね」


 本当に彼女の屋敷は近かったようで、だんだんと馬車が減速し止まった。


「降りれますか」

「あ、はい、大丈夫です」


 じくじくと脈打つように痛むけれど、押し殺して馬車を降りる。片足を引き摺るような歩き方になっていただろうが、一度リリアンの方を一瞥したエルザは何も言わなかった。









 黒壇がふんだんに使われシックな装いであるヴィリエ家の屋敷と違い、エルザの屋敷は白を基調とし、カーテンやカーペットには淡い色を使った可愛らしい印象を持つ。物語の挿絵にあったヒロインの部屋みたいでリリアンはつい部屋の中を見まわす。

 玄関横に用意された簡易的な応接室だろうか、あまり広くは無い部屋で使用人に手当をしてもらい、多少引いた痛みにほっと息を吐いた。


「咄嗟に連れてきてしまいましたが、なぜあのような場所にお一人で?」


 従者や義兄君が心配しているのでは、と机を挟み正面に座ったエルザが言った。


「えっと、その」


 何も信じられなくなりつい逃げ出しました、と言うのは憚られ言い淀む。

 彼女がリリアンの事情を知っているかも分からない。記憶を失う前にも交流はあったようだが義兄の態度を見るにとても親しいわけではなかったようであるし。しかしながら手当までしてもらい何も言わない訳にもいかないだろう。


「その、……婚約の打診があり、どうするべきか分からず悩んでいて」

「婚約、ですか」

「それでその一人になりたくて家を出たら転んでしまい」

「……そう」


 決して嘘はついていない筈だ。


「そうだったのですね。婚約に悩む気持ち、分かります。人生で最も大きな選択ですからね」


 澄んだ水色の瞳が同情するように笑った。


「ですが、お一人でお屋敷の外に出ては危ないですよ」

「そう、ですよね。軽率でした」


 本当に軽率だった。エルザが声をかけてくれなければ、道もわからないから二度と家には戻らなかったかもしれなし、さらに運が悪ければ変な人に捕まっていたかもしれない。

 エルザと会えて良かった。


「少ししたら義兄君にご連絡しておきますね。お迎えに来て頂くまでお茶をして待っていましょう」

「何から何まで申し訳ないです。お礼は後日改めて」

「いいえ、お気になさらず。困った時はお互い様ですから。ああ、お茶の準備ができたみたいですね」


 使用人が台車にティーセットと茶菓子を乗せてやってきた。エルザが立ち上がり台車を受け取ると使用人は出て行く。

 どうやらエルザが手ずから入れてくれるらしい。以前仕事をしていると言っていたし、お茶まで淹れられるとは驚きだ。リリアンは尊敬の目でエルザを見上げた。


「凄いですね、エルザ様は」

「我が家は使用人が少ないので」


 どうぞ、とテーブルに置かれたティーカップ。透き通った茶色の下方は二層になっているようで少し濃い色が揺れる。


「最近他国から仕入れたお茶なのです。この国のものと少し違った味ですが、美味しいですよ」

「そうなのですか」


 エルザが自分の分を淹れ終わり席に着いたのを確認してティーカップに手をかける。普段飲んでいるものよりも少し甘い、バニラのような匂いが鼻腔をくすぐった。

 それを飲もうと持ち上げ飲もうとしたその時、ドアの外で衝撃音が響く。肩が跳ね、ティーカップの中身が揺れてテーブルクロスを汚す。


「あ、ごめんなさい」

「いえ、騒がしいですね。何事かしら」


 純白のテーブルクロス、その上に滲む。


 赤。


 脳裏に焼き付いたその光景は現在の、否、これは。

 バクバクと心臓が嫌な音を立て、あの時、手紙を書いていた時みたいに体が二重になったような幻覚が見える。

 これは、きっと。


「リリアン!」


 歪む視界の端で義兄が叫んでいた。

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