義兄の話・後
王都で暮らし約二年、最初こそ領地との違いに四苦八苦し騒がしい日々を過ごしていたが、だんだんと慣れ日常を作り上げた。
ルイスはこれを機にと販路を広げ、リリアンは領地外の貴族との交流を深めた。金工を行う職人と直接会話をできなくなったのはいささか不便ではあったが、王都でしかできないこともあると納得をさせていた。
そんな折、王家からある打診が届いた。
曰く「リリアンと王太子の婚約を結びたい」と。
上級貴族の中でも近頃力を付けつつあり、財力もある。数代は王家と婚姻を結んでおらず権力が偏り過ぎることもない。リリアンの義兄であるルイスは幼い頃から王太子の遊び相手を務めており信用もある。
あとは多分、貴族位を持たないものの業績を伸ばし権力を持ちつつある商家への牽制の意味もあるのではないだろうか。
フェリクスと同年代の年頃の令嬢の中では確かに最も好条件だろう。
「……お前はどうしたい?」
王家からの打診はすぐに答えを出せと言うものでも、断ることを許さないと言うものでもないらしい。
「少し、時間を頂いても構いませんか?」
リリアンは困ったように笑いながらそう言った。分かったよ、なんて安心させるように頭を撫でる。
リリアンがすぐに決断しなかったことにホッとしたのを心の奥に隠して。
しかし、胸を撫で下ろしたのも束の間フェリクスからリリアンに手紙が送られてくるようになった。というよりかは、仕事だの社交だのと理由があり王宮に出向くと「リリアンに渡してくれ」と手渡されるようになったのだ。
心の内が読めない目をしていながら、ルイスを揶揄うように笑う。お前はどうするんだ、と問われているようでムカついた。
「お義兄様、お義兄様はわたくしが王太子殿下と婚約をすると言ったら、どう思いますか」
何通の手紙がルイスを介し、リリアンと王太子の間を行き来した頃だろうか。春先だったと思う。
「……お前が望むなら、僕は反対しないよ」
その時、自分がどういう顔をしていたのか、覚えていない。リリアンがどういう顔をしていたかは、知らない。
数日後、王家に婚約を受けると返事をした。
それからは慌しかった。婚約に際し、現当主であるリリアンの父親を交え王家との話し合いが行われ、婚約から婚姻までの日程があれよあれよと決められた。
暫くは婚約内定状態となり、社交シーズンの終わりに行われる王太子主催の夜会で婚約発表を行う。それから約二年で王太子妃教育を完了し、のちに結婚。
リリアンの望んだことだから。
たった一人の大切な義妹。
家族を失ったルイスに与えられた唯一の光。最初こそ煩わしく感じていたけれど、いつからかルイスに安寧と温かさをくれる存在になっていた。
彼女が幸せになるのであれば、ルイスは、なんだって。
そう思っていた。
夏真っ盛りの王宮の庭園。ひまわりが咲き誇り、圧巻の景色を見せていた。王妃が主催する茶会の一幕。
ルイス、リリアンは共に招待され、社交に勤しんでいた。
ルイスが北部の公爵と話していた時だったと思う。下級貴族や商家の生まれの子女達が多い王家の使用人の中に見慣れぬ顔が居て、何故か目が離せなかった。
今思えば虫の知らせというやつか。
その男は透明度の高い少し赤色がかったドリンクの乗ったトレーを手に王妃やリリアン達女性陣が歓談するテーブルに向かいグラスを取り替える。
その飲み物がリリアンの手元に置かれた時、光が当たったそれに紫色が滲んだように見えて息を呑んだ。
毒の証だ。
ここ最近出回るようになったという、それ。使用人から注意せよと聞いていた。
だから、止めなければと、そう思ったのに。一瞬、本当に、ほんの一瞬、脳裏に過った。
もし今リリアンが死ねば、彼女は誰のものにも……。
その躊躇いは、リリアンが毒を口にするには充分だった。
純白のテーブルクロスが赤に染まり、庭園は阿鼻叫喚のるつぼだ。ルイスが駆け寄った時にはリリアンは、意識を失いフェリクスに抱きかかえられていた。
王宮に常駐している医師の処置と、口にした毒が少量だったことが幸いし一命を取り留めた。しかし屋敷に連れ帰っても目を覚さない。もしかしたらもう、なんて思いもした。
色を失った顔、冷たい手、何度も何度も呼吸を確認し首筋に指を添えた。
一週間後目が覚めた時、リリアンは記憶を失っていた。
リリアンが記憶を失ったことにより、王太子との婚約は白紙となった。
日常生活すら危ういリリアンの負担を懸念したルイスが申し出たからだ。王家も、王城で毒を盛られてしまったという過失があった為一旦白紙にすることについて反論はしなかった。
それからは知っての通りだ。
「……聞いても、良いですか」
「なんだい」
沢山のことを話されクラクラとする頭を抑える。
「わたくしと、王太子殿下は婚約する予定だったと……」
「ああ」
「わたくしとお義兄様は」
声が掠れる。義兄の目が見れなくてドレスの皺をじっと見つめた。
「わたくしとお義兄様が恋人同士だったのですよね……?」
懇願にも近い。そうであってくれという願い。
パチパチと暖炉の火が爆ぜる音だけの空間。義兄は何も言わなくて、リリアンは視線を上にゆっくりと向けた。
見なければ、良かった。
記憶を失ったリリアンにとって唯一自分自身が何者であるか証明してくれる存在がルイスだったのだ。
義兄がリリアンを「義妹で恋人」と言った瞬間からそれが真実になったのだ。
だというのに、それが全て違うのならば、何も覚えていないリリアンは何を信じれば良い。リリアンという名すら、それが自分のものであるという確証を持てないというのに。
今聞いた話ですら。
「……すまない」
ぐらり、自分の中の支柱のようなものが倒れる。
ルイスの輪郭が歪む。
涙が溢れて、世界が崩れていく音がした。
苦しくて、息ができなくて、逃げ出した。




